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馬山東城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1135.JPG←主郭跡とされる米山寺
 馬山東城は、国峰城主小幡憲重の持城と伝えられている。この地は、東の小幡氏に対して北から高田氏、西から武田氏の勢力を背景に市川氏が進出し、その接壌地帯となっていたことから、小幡氏にとって重要な拠点であったと考えられている。尚、南方の山上に馬山西城があり、東城を居館とし、西城を詰城とした別城一郭の構えであった。
 馬山東城は、道の駅しもにたの東の比高35m程の台地上に築かれていた。平坦地が延々と広がるかなり広大な台地であるが、米山寺の位置に主郭があったらしく、周囲より一段高くなっている。そこから北に向かって舌状台地が伸びているが、畑や墓地に変貌しており、段差や腰曲輪状の地形が確認できるが、改変が激しく遺構かどうかはわからない。結局明確な遺構は無いが、米山寺に建つ城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.223045/138.804102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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吉崎城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1117.JPG←北東尾根の堀切の一つ
 吉崎城は、桜井丹後守の出城で、その家老桜井右近将監が居城していたと伝えられている。桜井丹後守は、鷹ノ巣城の城代であったらしい。鷹ノ巣城主小幡三河守貞政は、関東管領兼上野守護の山内上杉氏に仕えてほとんど鷹ノ巣城を留守にしており、城代桜井丹後守が鷹ノ巣城を守り、吉崎城には家老の桜井右近将監が置かれたと推測されている。吉崎城は、鷹ノ巣城築城後にその防衛力強化のために築かれた様である。桜井丹後守は、山内上杉氏没落後、武田氏・滝川氏・北条氏とこの地域の支配者の変遷に伴ってこれに従い存続を図っていたが、1590年の小田原の役では、上杉景勝軍の別働隊、藤田能登守信吉の軍勢によって西牧城根小屋城と共に攻略され、同年徳川領になると廃城となったと考えられている。

 吉崎城は、標高453m、比高213m程の富士山に築かれている。この富士山は、遠目に見ても峻険な山で、最初に山容が見えてきた時、まさかあの山に登るんじゃないだろうなと思ったほど厳しい山容である。一応、富士山への登山道が南西麓の民家の奥から付いているのだが、登山道は消えかかっている上、砂礫と枯れ葉で滑るし木が少なく捕まるところがない、なかなか大変な登城となった。登山道は最初は東方向に斜面を登っていくが、途中から北方向に折れ、尾根と平行に西斜面をトラバースするルートとなる。この西斜面に、西に突き出した物見台らしい平場が3ヶ所確認できる。綺麗に削平されているので、間違いなく遺構であろう。この物見台遺構は『境目の山城と館 上野編』の縄張図には記載がない。これらを通過して進むと、城の北西中腹の腰曲輪に至り、ここには赤い鳥居が建っている。ここから途中腰曲輪を1段経由して登りきった山頂部が主郭で、小祠が鎮座している。主郭は土塁もない狭小な曲輪で居住性はなく、詰城という以上のものではない。主郭の北東の尾根には合計5本の急峻な堀切が執拗に穿たれている。しかしこの尾根は斜度が急な上、砂礫で滑りやすく、捕まることのできる木も少なく、登り降りできる尾根ではない。何でここまで執拗に堀切を作る必要があるのかと思ってしまう。また主郭背後に当たる南尾根は峻険な岩の細尾根で、2本堀切を穿って防御しているが、ほとんど人が通れる場所のない滑落必至の岩塊の堀切で、ここも堀切を穿つ必要があるのか、よく理解できない。『境目の山城と館 上野編』の著者の宮坂先生はこの危険な尾根の堀切まで測量しているが、何歳でここを踏査したのか、驚くばかりである。この他、北西の遥か下方に中段曲輪群があるらしが、体力を予想外に消耗したため未踏査である。
 吉崎城は、遺構はよく残っているが、峻険で危険なちょーヤバい山城である。下仁田・南牧地域の城にはこうした例が多いが、その中でもかなり危険な部類に入る。従って、普通の人でも滑落しかねない城なので、特に高齢者には訪城はお勧めできない。
南尾根のちょー危険な堀切→IMG_1099.JPG
この堀切は極めて危険なので、行かない方が良いです。自己責任で判断して下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(但し、非常に危険!)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.207066/138.801677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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羽沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1037.JPG←腰曲輪の石積み跡
 羽沢城は、砥沢の砦とも呼ばれる。歴史については不明確な部分が多いが、現地では市川五郎兵衛屋敷と表記され、羽沢城の5代目城主として市川五郎兵衛真親の名が伝わっている。真親の前の城主(おそらく真親の父)が右馬介真治で、市川氏本家の砥沢城主市川右近介真乗の弟で、1536年に真乗が25歳で若死にすると、その嫡子久乗が5歳という幼少であったので、その後見を務めて市川氏本家を支えた。真治は、砥沢の関守も兼ね、1588年に73歳で没したと言う。その次の城主真親は1571年頃の生まれと言われ、武田氏・北条氏が滅んで主家を失った後、関東に入部した徳川家康からの仕官の誘いを断り、代わりに1593年12月に家康から鉱山開発・新田開発許可の朱印状を勝ち取った。そして砥沢村(現・南牧村)で砥石山の経営を行うと共に、信州佐久地方へ進出し、私財を投じて用水路を開削、新田開発で多大な功績を挙げた。その名は、今でも五郎兵衛新田や五郎兵衛用水として伝わっており、その功績を伝えるため、佐久市には五郎兵衛記念館が建てられている。
 一方、話が戦国時代に戻るが、国峰城を奪われて武田信玄を頼った小幡憲重・信貞父子は、武田氏の支援によって南牧の砥沢に砦を築いて、国峰城奪還の橋頭堡としたが、その砦が羽沢城ではなかったかとする説もある。しかし現在残る遺構から考えれば、胡桃城裡山砦を含めた砥沢城の方が拠点として相応しいように考えられる。

 羽沢城は、市川氏の本城砥沢城より更に1.3km程奥地にあり、南牧川と星尾川の合流点に築かれている。ここは佐久方面に通じる間道を押さえる交通の要地で、麓の城館と背後の詰城で構成された城であったと推測される。南牧村民俗資料館(旧尾沢小学校)の場所が周囲より一段高い台地となっており、ここに屋敷が置かれていた様だ。校地にした際に大きく改変されているので、どの様な屋敷地だったのかは現状からでは明確にはわからない。一方、その背後の尾根上の詰城は、虎口を兼ねた小堀切とその背後の数段の小郭から構成されただけの小城で、大した兵力を籠めることもできない、ほとんど物見程度のレベルである。それでも一部に石積み跡が見られる。城郭遺構としては見るべきものは少ないが、南牧の歴史を語る上では重要である。尚、城の北東にやや離れて市川五郎兵衛真親の墓が残る他、詰城の登り口に法輪塔が残る。
小堀切→IMG_1031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.161066/138.659005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
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タグ:中世平山城
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砥沢城・胡桃城裡山砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0940.JPG←二重竪堀
 砥沢城は、南牧衆の筆頭であった市川氏宗家の居城である。市川氏は、1567年に信州生島足島神社に奉納した起請文に、南牧6人衆として市川氏の兄弟3人が名を連ねている。即ち市川一族だけで6人衆の半分を占めていた。甲斐国八代郡市川を出自とする一族で、市河氏とも表記され、甲斐武田氏と同様に新羅三郎源義光を祖とする。その後、甲斐・信濃に一族が盤踞し、武田氏に従っていた。南牧の上州市川氏もその庶流と推測され、いつの頃か南牧に来住したらしい。武田信玄が信濃に進出すると、上州諸族の中ではかなり早い時期に武田氏に従った。一方、1553年に国峰城主小幡憲重は、留守中に箕輪城主長野業政の支援を受けた同族の宇田城主小幡景定に城を奪われた。憲重は武田信玄を頼り、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入った。これは、元々市川氏の城があったものを、若干の手を加えて小幡憲重・信貞父子が拠り、上州攻略の橋頭堡にしたと考えられている。その後、小幡父子は国峰城の奪還に成功した。
 胡桃城裡山砦は、歴史不詳であるが砥沢城の尾根続きにあることから、武田氏の意向を受けて市川氏或いは小幡氏が改修強化した詰城と考えられている。

 砥沢城は、南牧川と渋沢川に挟まれた標高510m、比高70m程の山上に築かれている。南東麓には市川氏の末裔の屋敷があり、往時のものかはわからないが石垣が確認できる。山上の要害部は細尾根上の狭小な城砦で、一部改変を受けているが、小堀切・小郭が残り、一部に石垣も残存している。
 胡桃城裡山砦は、砥沢城から更に140m程登った、標高650mの西の尾根続きに築かれている。砥沢城同様に細尾根の小城砦で居住性はほとんど無いが、段曲輪群などがしっかりと残っていて普請の規模はより本格的かつ広範囲である。山頂の主郭は東西に細長く、背後に2本の小堀切を穿ち、西端に物見台を備えている。主郭側方には帯曲輪が築かれ、北東端には明確な桝形虎口が築かれている。この枡形虎口は、小城砦には不釣り合いなほどしっかり築かれた大型のものである。主郭の東尾根には数段の段曲輪があって、断崖に接している。これらの山上部から北東に降ると、尾根の北斜面には大型の二重竪堀とL字型の竪堀・横堀の連結構造が見られる。また尾根東の窪地状の部分には2段程の平場が広がり、石垣が明確に残っている。この石垣は耕地化による可能性もあるが、『境目の山城と館 上野編』では遺構と見做している。ここ以外にも数箇所に石積み跡が散見される。更に砥沢城に至る北東下方の尾根にも明確な段曲輪群が所々に築かれている。
 遺構を見る限り、砥沢城と胡桃城裡山砦は一体運用されていたと考えられ、小さな城砦ながら武田氏による改修の痕跡を見いだせる。
枡形虎口→IMG_1013.JPG
IMG_0922.JPG←尾根上土塁の石積み跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【砥沢城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156961/138.669412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【胡桃城裡山砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155661/138.663876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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城之腰砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0854.JPG←主郭の大穴
 城之腰砦は、歴史不詳の城である。しかし目の前には市川氏の居城砥沢城があり、その支城であったことは疑いないとされる。
 城之腰砦は、中道院背後の標高535mの山上に築かれている。中道院の墓地裏から登れるが、なかなか険しい細尾根で、滑落しないよう注意が必要である。小規模な城砦で、山頂に主郭を置き、急崖の南西斜面以外の三方に腰曲輪群を築いた単純な構造をしている。腰曲輪群は西尾根・北東尾根・南東尾根の3つに分かれるが、それぞれ武者走りで接続されていて、兵員の横移動を意識している。主郭には大穴があり、そこから溝が北東の腰曲輪に向かって落ちている。『境目の山城と館 上野編』では竪穴式の小屋掛けの跡と推測しているが、その通りであろう。南東の尾根鞍部には小堀切が穿たれているが、ささやかなものでほとんど防御効果を期待できない。この他に北麓に居館跡らしい平場があるらしいが、存在を知らず見逃してしまった。いずれにしても、山間の小土豪の築いた小さな山塞である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.153651/138.673468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世山城
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真下城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0697.JPG←三ノ郭のL字状土橋
 真下城は、譲原城とも言い、関東管領山内上杉氏に属した真下氏の居城である。真下氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・五郎大夫基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。真下氏は、南北朝期に真下春行が南朝方の北畠顕家に従ったが、討死して没落し、残った一族がこの地に移住したらしい。そして天文年間(1532~55年)の頃に、真下伊豆守吉行が真下城を築城したと伝えられている。山内上杉氏に属していたことから、山内上杉氏の居城平井城の支城として機能したと考えられる。1551年、真下吉清が城主の時、河越夜戦の後に関東南半の覇権を握った北条氏康が上州に進撃し、真下城は北条氏に攻略された。その後の歴史は不明であるが、遺構を見る限り、北条氏の下で改修された可能性がある。

 真下城は、神流川西岸にそびえる標高310m、比高160mの山上に築かれている。登道は南東麓にあるらしいが、あまり整備されていないという情報だったため、私は東の尾根先端にある給水施設から登った。斜度の緩やかな尾根筋で、藪も少なく、こちらからの登城がお勧めである。広い緩斜面が続くが、途中から登道が土塁状の城道となり、北側に平場が広がるようになる。城に近づくと、眼の前の斜面に腰曲輪群が現れ、城道は坂土橋となって四ノ郭に至る。坂土橋の北側は短い横堀が穿たれ、土橋の動線を制約している。城は、東から順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭と連ねた連郭式の縄張りとなっている。広い三角形状の四ノ郭の奥には三ノ郭があるが、その前面に横堀と土塁が築かれている。土塁の中央は切れていて、横堀に通じる通路となっている。横堀の北側は三ノ郭北側の帯曲輪に通じ、途中で北斜面に竪堀(城道兼用か?)が落ちつつ、三ノ郭背後の堀切まで通じている。一方、横堀の南側では土塁がL字状土橋となって三ノ郭に繋がっている。ここでは前述の横堀に、更に土橋側方に竪堀を穿って土橋の動線を制約した構造となっている。この横堀・竪堀を連携させたL字状土橋の構造は北条氏関係の勢力の城(武蔵天神山城の東出郭・下野唐沢山城の南東遺構群・下野諏訪山城など)によく見られ、真下城も北条氏によって改修された可能性がある。三ノ郭は正方形の曲輪で、後部に低土塁を築き、南西隅に張り出しを設けてL字状土橋へ横矢を掛けている。主郭との間には堀切を穿ち、三ノ郭から土橋を架けて主郭南側の腰曲輪に繋げている。その上の主郭は、やはり後部に低土塁を築き、背後に堀切を穿って、西の二ノ郭と分断している。この堀切は、主郭・二ノ郭の南側の腰曲輪・北側の帯曲輪まで分断している。二ノ郭には土塁がなく、背後の西尾根との間を堀切で分断している。南西には虎口郭を張り出させて、西尾根に通じる土橋を架けている。西尾根は少し先で南東に降る尾根と分岐し、その分岐付近に平場を設けている。『日本城郭大系』ではこれを水の手曲輪としている。この他、主郭の北東尾根にも2段程の段曲輪が築かれるほか、前述の東尾根の城道南側にも何段かの広い曲輪が広がり、その南端に虎口と城道が築かれている。城の形態を見る限り、大手は東尾根だった様である。真下城は、大きな城ではないが、一部に技巧的構造が見られ、神流川流域の山城としては出色である。
堀切と二ノ郭→IMG_0740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.153097/139.041574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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諸城(群馬県上野村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0630.JPG←櫓台から見た堀切と主郭
 諸城(もろしろ)は、歴史不詳の城である。勝山・乙母両集落を繋ぐ桧峠の南の尾根に位置し、武州街道の峠の押さえのために築かれたと推測されるが、詳細は不明。地元の伝承では今井某の居城と言い、木曽義仲の側近今井兼平の伝説も伝わるが、ただの伝説に過ぎないだろう。尚、『日本城郭大系』では「神流川流域最奥の城」とある。
 諸城は、前述の通り桧峠の南の尾根の標高600m付近に築かれている。この尾根にはハイキングコースが整備されていて、いくつかの登り口があるようだが、私は東麓から勝山神社を経由して桧峠に至り、そこから浄水場の脇をすり抜けて尾根伝いに南下するルートを選択した。林道・ハイキングコースの敷設で破壊されている部分が多く、残っているのは城の中心部のみで、尾根筋の曲輪や櫓台などはかなり削られて改変されてしまっている。城の中心部は、北側に櫓台を設け、その南に堀切と主郭、主郭の南辺に土塁と堀切が確認できる。この他に、『境目の山城と館 上野編』の縄張図にある、櫓台北側の尾根上の縦長の曲輪跡とその先端の堀切脇の竪堀が、辛うじて残っている。峠からやや離れて存在するのが不思議であるが、遺構を見る限り、峠の番所と街道の物見を兼ねた性格の城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.082237/138.779812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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尾附城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0593.JPG←東尾根の堀切
 尾附城は、歴史不詳の城である。『境目の山城と館 上野編』では、登戸から尾附に移り、戦国期には武田氏に属した山中衆の土屋山城守高久の城と推測している。
 尾附城は、神流川の湾曲部に突き出た標高556m、比高66mの諏訪山と呼ばれる山上に築かれている。北側の山地との間は谷状地形となり、尾附集落が広がっているため、独立丘となっている。山頂の主郭に諏訪社の小祠があり、そこへの参道が北麓から付いているが、一部で石段が崩れており、気を付けないと滑落の危険がある。途中、2~3段の帯曲輪・腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭を中心に東西に伸びた尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の城であるが、いずれの曲輪も大した広さではなく、主郭も含めて居住性はほとんど無い。西尾根は、腰曲輪と繋がった二ノ郭的な段曲輪の先を小堀切で分断している。この堀切は、規模は小さいが鋭く穿たれ、両斜面に竪堀となって落ちている。堀切の先は自然地形の尾根となっている。一方、主郭の東尾根には2段の段曲輪の先にやはり堀切が穿たれている。『日本城郭大系』の縄張図では「大堀切」と記載されているが、実際の規模は西尾根のものと大差ない小堀切である。その先の尾根の高台に石尊社の小祠が祀られ、その下にやや広い東曲輪があり、北東に降る尾根上にも小郭が築かれている。遺構としては以上で、小平城などと同様、山間の小土豪が築いた詰城の形態を良く留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.090335/138.804789/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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小平城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0532.JPG←ニノ郭から見た主郭
 小平城は、この地の土豪黒澤氏の城と伝えられている。黒澤氏の事績については黒田城の項に記載する。
 小平城は、古田集落の背後に突き出た標高459m、比高90m程の山上に築かれている。古田集落の家の脇をすり抜けて南の谷戸に入る林道があり、その道の奥まで行けばすぐ右手に城の腰曲輪群が見える。西上州南西部の山間地の土豪の城に多い小規模な城砦で、遺構は完存しているものの居城性はほぼ無い、有事の際の詰城といった感じの城である。山頂に主郭を置き、南東と北側に腰曲輪群を連ねており、これら2つの腰曲輪群を連絡する武者走りが確認できるが、武者走りは途中で竪堀によって分断され、動線遮断を意識していることがわかる。千軒山城でも竪堀による分断が意識されていたので、同じ築城思想であった様である。また主郭の北側下方の腰曲輪には大手道が北麓から通じているが、虎口は横堀状となっている。主郭の南東の曲輪群では、最上段の曲輪はある程度の広さを持っているので、二ノ郭に相当するのだろう。ニノ郭から下の曲輪群は西辺または東辺に削り残しの土塁(というか削り残しの岩盤)を設けている。途中に小堀切が穿たれ、南東尾根の末端の鞍部にも峠道を兼ねたと思われる小堀切がある。この城は、藪が少なく動物には格好の住み家らしく、主郭も腰曲輪も鹿の糞だらけで足の踏み場もないほどである。小平城は、山間の小土豪の城の形態がよく分かる城である。
南東尾根の小堀切→IMG_0564.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.100565/138.887143/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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千軒山城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0415.JPG←主郭
 千軒山城は、一夜ヶ城とも言い、歴史不詳の城である。この地域の土豪であった黒澤氏、土屋氏に関連した城と考えられている。なお歴史不詳とは言いながら、一夜ヶ城と言う名から想像すれば、一夜にしての築城伝説か何かがあったのではないだろうか?一夜にしての築城は在地土豪レベルの小勢力には相応しくない伝説なので、佐久方面より侵攻してきた甲斐武田氏の後援による構築であったかもしれない。あくまで個人の勝手な推測であるが。尚、千軒山城の尾根続きの遥か下方には黒田城があり、関連のあった城であったことも想定される。

 千軒山城は、標高772m、比高432mの千軒山に築かれている。黒田城の尾根続きで、黒田城の西側からハイキングコース(トレイルランのコース)が整備されている。長い尾根筋の途中に広い平場があり(標高630m付近)、小屋や倉庫が置かれた曲輪と考えられる。山頂の城は、東西に伸びる尾根上に4つの曲輪を連ね、各曲輪を堀切で分断した小規模な城砦である。主郭前面の尾根筋に数段の腰曲輪を築いて前衛としている。主郭直下の腰曲輪は、尾根筋で堀切状となり、わずかだが遮断効果を持たせている。この腰曲輪は主郭の南側を帯曲輪状に延々と伸び、主郭背後の堀切まで通じている。途中に竪堀が穿たれ、この竪堀によって腰曲輪を分断している。山頂の曲輪は、東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と配置され、主郭が最も規模が大きいが、それでも居住性はほとんど無い。主郭の北辺だけ土塁が築かれている。二ノ郭・三ノ郭は数人しか入れない程の小規模なものである。堀切はいずれも小規模だが、三ノ郭背後のものは円弧状に掘り切っており、形状として横堀に近い。その先を降った先にある四ノ郭はやや広いが、ほとんど自然地形に近く普請は不徹底である。四ノ郭の西から南には広い平坦地が広がっている。この平坦地は、城の南中腹全体に広がっており、東の尾根まで伸びている。これが居館などの城郭遺構かどうかは微妙で、一見すると植林地か耕作地にしか見えないのだが、平場内部の仕切り土塁に石塁があり、その一部は耕作などで築いたものにしては石のサイズが大きく、しかも虎口状の通路もあるので、この大きい石垣は城の遺構かもしれない。
主郭背後の堀切→IMG_0428.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.119356/138.895340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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