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内出城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8529.JPG←宅地の中にわずかに残る堀跡
 内出城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では秋間地域城の核堡とし、吉良氏・飽間氏の居城であったとしている。即ち、奥州探題であった吉良治家は、鎌倉公方足利基氏に召還されて関東に入り、1356~65年頃に上野国碓氷郡飽間郷に移って、内出城に拠ったとされる。これは、飽間郷には新田義宗の挙兵に応じた南朝方の飽間三郎が勢力を持っていたため、基氏は飽間氏に対抗させるため吉良氏を内出城に入れたというものである。治家の孫の頼氏が世田谷城を築いて飽間を去るまで内出城が吉良氏の本拠で、その後は茶臼山城の飽間氏が内出城に移って居城とし、明応年間(1492~1501年)に飽間氏が讃岐国丸亀城に移ると廃城になったとされる。しかし、足利一門の中でも家格の高い吉良氏の居城としては内出城はあまりに小さすぎ、『安中市史』の伝承には無理があるように思う。又、「地域城」と言う概念にも私は懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。

 内出城は、久保川北岸の比高30m程の段丘上に築かれている。この付近に長野新幹線の安中榛名駅ができたため、大々的に宅地造成され、城址一帯は住宅地に変貌してしまっている。従って遺構はほとんど残っていないが、地勢は往時のままで、各所の段差や腰曲輪状の平場など、城の雰囲気が良く残っている。北東部にはわずかに堀跡も残っている。また南斜面の切岸と畑になった腰曲輪も遺構の様である。ささやかではあるが城の名残が感じられるのは良かった。解説板でもあれば更に良かったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355150/138.850772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=v


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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後閑城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8473.JPG←主郭北側の二重堀切
 後閑城は、信濃出身の依田忠政によって、嘉吉・文安年間(1441~49年)に築かれたと言われている。以後、約90年に渡って依田氏が城主であったが、1538年、孫の光慶の時に板鼻の鷹ノ巣城に移ったとされる。その後、北条政時が入城したが、1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略した。1559年、景純は武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。信純には3人の男子がいたらしく、1578年に長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去すると次男重政が後閑氏を継ぎ、3男信久は信玄の命で上条家を継いだ。1582年に武田氏が滅び、そのわずか3ヶ月後に織田信長の横死によって上野を支配していた滝川一益が没落すると、上野の大半は小田原北条氏の支配下に入り、信重は厩橋城主北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は北条氏に服属し、信久も後閑の姓に戻り、両後閑と称された。1584年、高広が北条氏直に降って大胡城に移ると、氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。1590年の小田原の役の際には、両後閑氏は小田原城に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の守将大道寺政繁の指揮下に入った。北条氏が滅亡すると、後閑氏も没落し、後閑城は廃城となった。
 尚、後閑信純・信久については、1569年の武田氏による駿河攻撃の際、信純・信久共に今川勢との戦いで討死し、信久の子真純が後閑氏を継いだと言う説もある様だ。いずれにしても後閑氏については、その出自も含めて謎が多い。

 後閑城は、後閑川の東岸に張り出した、標高277m、比高87mの山上に築かれている。城跡は大半が城址公園となっているが、適度な公園化で改変は限定的で、全体に遺構がよく残っている。山頂の主郭を中心に、西・南・南東・東・北の各尾根に曲輪群を配して防御を固めている。まず主郭の東直下には東郭が築かれ、そこから南東に大堀切を挟んで南東尾根に配された二ノ郭群がある。ニノ郭は大型の櫓台があり、ニノ郭先端には小堀切が穿たれ、更に曲輪群が数段続いている。一方、主郭の西側には大型の3段の曲輪で構成された西郭群が築かれ、更にその下方の竹薮の中にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群には残念ながら、軽のバンやたくさんのタイヤが不法投棄されている。西第3郭から南尾根に向かって腰曲輪が伸び、南郭の大堀切に繋がっている。南郭も最上段の平場の他に、西から南にかけて広い平場が広がっている。主郭の北には大きな二重堀切が穿たれ、その北に北郭が築かれている。北郭の西斜面には5段程の曲輪が段々に築かれ、両側を堀切から落ちる大竪堀で分断している。また前述の二重堀切の中間土塁からは、竪堀に沿って竪土塁が落ちている。北郭の北に堀切を介して北尾根の外郭があり、先端に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、東郭の下方に東郭群があり、段曲輪が数段築かれている。
 以上が後閑城の縄張りで、西郭群の下段部と北尾根の外郭以外は全体的に隅々まで薮が伐採されてきれいに整備されている。城址公園と言うと得てして整備しすぎて返って遺構を損壊してしまうことが少なくないが、ここでは節度を持った公園化により、先端の段曲輪群などは薮払いされているが、歩道を無理に作っていないので遺構がよく残っている。妙義山や浅間山などの眺望も素晴らしく、良好で見やすい遺構と相まって素晴らしい城である。
3段の広大な西郭群→IMG_8508.JPG
IMG_8411.JPG←東郭群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329717/138.841760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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小日向城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8292.JPG←べんしょう山と呼ばれる帯曲輪
 小日向城は、小日向の砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。武田氏支配時代に松井田城の北東の出城として築かれたのではないかとの説が提起されている。尚、主郭には倉屋敷の名が残っているが、1786年に幕令により城跡に郷倉が建てられたからと言う。

 小日向城は、九十九川北側の微高地に築かれている。現在はほとんどが宅地となり、ソーラーパネルも敷地内に多数設置されており、城跡の雰囲気は乏しくなっている。しかし周囲よりは高くなっており、主郭に当たる民家の北側には空堀を挟んで「べんしょう山」と呼ばれる大土塁の様な帯曲輪が東西に長く築かれている。但しものすごい竹薮で踏査が大変である。べんしょう山の東端には虎口を兼ねたと思われる堀切が穿たれ、帯曲輪を分断している。城の中心部は倉屋敷の名の残る主郭と、水路を挟んで東側に三角形に張り出したニノ郭であるが、主郭の西側にあった土塁はソーラーパネル設置でほとんど削られ、ニノ郭もほぼ大半がソーラーパネルで埋め尽くされている。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.320710/138.829186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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名山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8217.JPG←主郭の土塁
 名山城は、歴史不詳の城である。安中忠政が松井田城を改修した後に、安中・松井田両城の繋ぎの城として築かれたのではないかと推測されている。
 名山城は、碓氷川と九十九川に挟まれた標高290m、比高50mの山上に築かれている。登道はないので、西側を通る小道の脇から薮をかき分けて登城した。低土塁で囲まれた方形の主郭を山頂に置き、南から東にかけて2段の腰曲輪が廻らされている。その東斜面に更に2段の腰曲輪が築かれている。北側には段曲輪と堀切があり、その北側は自然地形の尾根となっている。堀切の西側には腰曲輪がある。一方、主郭周囲の腰曲輪から堀切を挟んで南東に大手の尾根があり、細長い大手郭群が築かれている。大手先端には段曲輪群が築かれて登り口を防衛しているが、この段曲輪群は『日本城郭大系』『境目の山城と館 上野編』のいずれの縄張図にも描かれていない。名山城は、遺構は比較的ささやかなもので、全体に薮も多く、この地域の城の中では少々見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310197/138.821955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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人見城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8135.JPG←互違いになった堀の十字路
 人見城は、南北朝期に足利方の武将であった人見四郎恩和の館であったものを、戦国期に改修したものと考えられている。但し、人見四郎恩和の伝承については検討を要する。おそらく人見四郎恩阿のことを言っているのだと思うが、恩阿は武蔵七党猪俣党の一流で、武蔵国の住人であった。その事績は人見氏館の項に記載する。本拠が武蔵であった土豪なので、西上野に館を構えていたとは考えにくい。おそらく人見の郷名に基づく仮託であろう。

 人見城は、柳瀬川南岸の比高40m程の段丘の縁に築かれている。少々変わった縄張りで、ほぼ方形に区画された曲輪を横一線に連ね、北側斜面にそれらより低く長方形の曲輪を並べている。曲輪はいずれも空堀で分断され、段丘上の曲輪と斜面の曲輪とはまるで碁盤の目の様に整然と配置されているので、空堀の十字路ができている。しかし堀のクロス部は僅かに互違いになって横矢を掛けている。縦の空堀は斜面を竪堀となって落ちている。曲輪には土塁も築かれ、特に北斜面に横一線に並んだ曲輪群は背後が大土塁となっている。また主郭だけ、北側に堀を挟んだ小さな出曲輪と、その右方に張り出した塁線があり、より防御を固めていた様である。主郭を始めとする段丘上の曲輪群は、北側の遺構は残っているが、南半分は宅地などになって改変されており、空堀も湮滅している。この他、曲輪群の東に馬出しとされる独立堡塁が築かれている。その東側は斜面となっており、腰曲輪らしい平場があり、その東に細流が落ちている。ここには鶯井戸と呼ばれる湧水点がある。
 人見城は、北側遺構は完存し、少々薮っぽいものの地主さんと地元の方たちの努力で一応の散策路が整備されている。尚、解説板にある城のイラストで、馬出しに馬が描かれているのには笑った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.292645/138.830838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 文庫



タグ:中世崖端城
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丹生東城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8070.JPG←東側の腰曲輪跡らしい平場
 丹生東城は、丹生城の出城である。しかし城の歴史ははっきりせず、いつの時代のどの城主によって築かれたのか、詳細は不明である。
 丹生東城は、丹生湖の西側にある標高245m、比高35m程の丘陵上に築かれている。残念ながら、10数年前の耕地整理で破壊され、現在は地勢以外に遺構を留めていない。この地は城山と呼ばれ、畑となった丘陵の東と北に、一段低く帯状に平場が廻っているが、これがかつての堀や腰曲輪の跡であるらしい。耕地整理前の発掘調査では、ここに畝堀が見つかっているというので、小田原北条氏の上州進出後に関連する勢力によって改修された可能性も考えられる。いずれにしても現在では、現地に標柱も何もなく、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266248/138.824165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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丹生城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7902.JPG←主郭背後の二重堀切
 丹生城は、岩松氏が築いたと推測されている。後閑氏の系図では、新田義貞の末弟に新田四郎義重なる人物がいて、足利方として戦功を挙げて丹生を与えられたと言うが、そもそも新田四郎義重の実在が確認できない。しかも新田一族の多くが敵対し続けた足利氏に、義重だけが属したと言うのも奇異である。後閑氏による系図の創作であろう。実際には岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を与えられて丹生城を築いたと考えられている。岩松氏は、新田氏と足利氏の両方の流れを汲み、足利氏に従って軍功を挙げ、新田嫡流家が南北朝内乱で滅亡すると、新田氏に変わって新田荘を支配し、後には新田姓を称した。1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略し、59年には武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。以後は後閑城が本拠となり、丹生城の帰趨は不明である。

 丹生城は、標高290m、比高90mの山上に築かれている。北尾根の先に車道が通っており、案内板が出ているので、訪城は容易である。城内は一部の曲輪が整備されているものの、少々薮が多い。広い城域の城で、山頂に主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪を廻らし、南・南南東・南東の3つの尾根に曲輪群を築いている。ところどころ堀切が穿たれているが、規模は大きくなく、全面に土塁を盛ってちょっとした障壁の様な形で築かれているものもある。南東の先端のピークには物見曲輪が築かれている。主郭の北側腰曲輪から東に伸びる尾根が大手筋で、切り通し状の坂虎口や曲輪の先の長い尾根に、4~5本の堀切が穿たれている。この尾根は、一部が墓地などに改変されているが、堀切はよく残っている。この他、主郭の背後には二重堀切が穿たれ、その先に二ノ郭群、三ノ郭が続き、また小さな二重堀切を挟んで四ノ郭があり、その先を北端の堀切が穿って城域が終わっている。全体に多数かつ比較的大きな腰曲輪群が築かれているが、横矢掛かりはほとんど無く、あまり技巧性は感じさせず、面白みにはやや欠ける。ただ二重堀切が多用されているところなどは、武田氏勢力による普請の可能性を感じさせる(静岡などは、二重堀切と言うとほとんど武田氏の専売特許の様になっていたので)。
大手尾根に残る堀切→IMG_8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264380/138.815260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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烏山城 その2(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_7304.JPG←古本丸周囲の横堀
 烏山城は、昨年築城600年を迎え、それを記念して市を上げて各種のイベントを開催した。そして薮に埋もれていた城跡も、だいぶ整備されたと聞いていたので、今年の1月に12年ぶりに再訪した。整備したと言っても、どうせ主要部だけだろうとタカをくくっていたら、案に相違してほぼ全域に渡って薮が伐採されて、遺構がよく分かる様になっていた。ここでは薮伐採によって見事な姿を現した遺構群を概観していきたいと思う。

 南北に伸びる尾根上に、北から順に北城・中城・古本丸・本丸を配置し、それらの周囲にも常盤曲輪・若狭曲輪等の名称の付いた大型の曲輪や腰曲輪群を築いて防御している。古本丸の北西から西面にかけて大きな二重横堀が穿たれている。また北城の西側にも二重横堀を穿ち、間の土塁には虎口の切れ目があって、西に展開する大野曲輪へと城道が繋がっている。大野曲輪は扇形に広がった形で、先端に横堀を穿って、外郭を遮断している。古本丸の西側には、前述の二重横堀の西尾根に、西城という曲輪がある。西城は付け根に虎口を設けた土塁を築き、内部が3段程の平場に分かれている。北側には横堀が穿たれ、先端の堀切まで繋がっている。南斜面には腰曲輪が2段築かれている。西城の先端は大きな二重堀切で分断されており、中間土塁は外堀に対して張り出し、横矢を掛けている。更に2つの堀切を挟みながら西へ曲輪群が展開している。本丸の西側にも横堀が穿たれ、その下方に若狭曲輪があり、その下には西城まで繋がる大きな腰曲輪が築かれている。本丸の東側にも大手を守る常盤曲輪(上段・下段)があり、それぞれに石垣が残っている。古本丸の東にも厩跡という曲輪が展開し、北城の東斜面にも腰曲輪群が築かれている。この他、本丸は近世の改修を受けたため、石垣を築いた枡形虎口があり、北城の北端や大野曲輪の付け根にも桝形虎口が築かれている。
 近世に改修を受けた部分もあるとは思うが、戦国期の姿を色濃く残し、かなり技巧性を持たせた規模の大きな縄張りで素晴らしい。薮払いの整備が進められて、かなりの部分がよく確認できるようになったので、この機会に評価を四ツ星から五ツ星に改訂したいと思う。
大野曲輪付け根の堀切(横堀)→IMG_7399.JPG
IMG_7227.JPG←常盤曲輪下段の外周の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.663703/140.147974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※過去の訪城記はこちら


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 那須 義定
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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長井坂城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7035.JPG←主郭・二ノ郭間を通る沼田街道
 長井坂城は、沼田城攻略の拠点となった城である。1560年、関東に出陣した上杉謙信は、沼田城攻略に当たり、沼田を迂回して長井坂に布陣したとされる。この当時、小田原北条氏が関東管領山内上杉氏を関東から駆逐したことで、上野の国衆の多くが北条氏に降っていた。沼田氏では家中で内訌があり、これに北条氏が介入して前当主の沼田顕泰を越後に逐い、北条綱成の次男が入嗣して沼田康元となって沼田城を守備していた。しかし謙信の出馬によって形勢不利と判断した康元は沼田城から退去し、沼田城は謙信に攻略された。謙信死後の1580年、沼田城を攻略した武田氏の部将真田昌幸は赤城西麓を南進し、長井坂城を守備していた白井長尾氏の家臣牧弥六郎・須賀加賀守を駆逐し、これを占領した。1582年10月、武田氏滅亡・本能寺の変後に鉢形城主北条氏邦が5000余騎で長井坂城を囲み、真田方守将の恩田越前守・下沼田豊前守は奮戦の後脱出した。その後、長井坂城は北条氏の属城となり、氏邦の家臣猪俣邦憲が在城して、沼田城攻撃の拠点としたと言う。

 長井坂城は、利根川と永井川に刻まれた比高210mの急崖の上に築かれた城である。棚下砦と同じ段丘が、北端に突き出た部分に当たる。崖端城の通例と異なり、方形郭を並立させた珍しい縄張りとなっている。しかも城の中央部を沼田街道が貫通しており、街道を城内に取り込んだ形態も有している。崖に面した街道西側に主郭を置き、街道東側には二ノ郭を配置している。街道はちょうど2つの曲輪の間の堀底道となっている。主郭も二ノ郭も、基本は方形郭であるが、主郭は街道に向かって横矢の張り出しを設け、二ノ郭も南東角に横矢の張り出しを設けている。また主郭は崖側以外の三方に土塁を築き、南東部に空堀に繋がる大型の虎口を設けている。二ノ郭も街道側以外の三方に土塁を築いており、いずれの曲輪も東に広がる平地からの攻撃に対する防御を強く意識している。主郭・二ノ郭の外周には空堀が廻らされ(但し、二ノ郭北側のみ湮滅)、主郭北側には角馬出が配置され、その周囲にも空堀が穿たれている。主郭・二ノ郭の南側には三ノ郭が置かれ、その南側も土塁と空堀で防御している。三ノ郭は中央を街道が貫通しているので、東西で別郭となっているが、相対する虎口が確認できるので、三ノ郭東西は木橋で連結していたと考えられる。木橋を街道上に架けることによって、防衛線にもなるわけである。東三ノ郭の土塁は高さ5m程もある大土塁で、しかも横矢掛かりを持ち、重厚な防衛陣地となっている。三ノ郭の東にも空堀が伸びて台地東端まで掘り切っており、城の中枢部の東から北にかけて四ノ郭を設けている(現地標柱では三の丸だが、四ノ郭が正しいと思う)。この他、北側は断崖なのに腰曲輪も築かれている。以上が長井坂城の縄張りで、畑となっている二ノ郭以外は史跡として整備されているので、薮も少なく遺構が見やすい。横矢掛かりを多数設けた、戦国末期の築城技術を堪能できる。
 尚、縄張図に関しては、『日本城郭大系』のものより『中世城郭事典』のものがより正確である。
主郭南側の空堀→IMG_7120.JPG
IMG_7048.JPG←二ノ郭の横矢掛かりの土塁・空堀
三ノ郭の大土塁→IMG_7063.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585157/139.065220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫


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棚下砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6983.JPG←丸馬出
 棚下砦は、棚下御殿砦とも南雲御殿遺跡とも呼ばれ、上杉謙信に関連する城砦と考えられている。長井坂城津久田城との間に位置し、沼田城から厩橋城に至る要路中間を押さえる砦であったとされる。永禄年間(1558~70年)の北条景広宛上杉輝虎書状に「棚下之寄居」の表記があり、それが棚下砦のことであろうと推測されている。

 棚下砦は、利根川東岸の比高170mの断崖上に築かれている。北と南に深い谷が刻まれた天険の要害そのものの地形にある。遺構も見事で、先がすぼまった防弾形の主郭と、土橋で連結された細長の丸馬出で構成されている。東の車道から歩いていくと、空堀で区画された丸馬出が前面に見えてくる。丸馬出は、北面から東の先端部まで土塁を築き、独立堡塁として機能するように構築されている。馬出外周の空堀は、主郭との間を分断する堀切に接続し、更に主郭北側に回り込む横堀にも屈曲しながら繋がっていて、横矢を掛けている。主郭は東に土塁を築き、中央南寄りに櫓台らしい土壇を設けている。前述の主郭北側の横堀は、途中で竪堀となって落ち、その西側は帯曲輪となって主郭先端まで伸びている。主郭の先端(西端)には物見台があり、眼下には利根川の曲流部が一望できる。この他、丸馬出の東側の平場は、『日本城郭大系』の縄張図によればニノ郭で、東端に土橋の架かった堀切があった様だが、現在は車道が建設されて堀切が破壊されている。棚下砦は小規模な城砦であるが、丸馬出や大きな空堀が見事で、一見の価値がある。
馬出し・主郭周囲の空堀→IMG_6954.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572630/139.060650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名の山城を歩く

戦国大名の山城を歩く

  • 作者: 小和田 泰経
  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2019/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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