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古城めぐり(長野) ブログトップ
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替佐城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5575.JPG←堀切から落ちる大竪堀
 替佐城は、1564年頃に武田氏によって築かれたと推測される城である。川中島をめぐる甲越両軍の抗争の中で、上杉方の拠点飯山城に対して、壁田城と共に武田方の最前線の拠点として築かれたと考えられている。城主は壁田城と共に小幡上総介であったと言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。尚、千曲川対岸にそびえる壁田城との連絡は、びわ島地籍からの渡し船であったと考えられている。

 替佐城は、標高460m、比高110m程の丘陵上に築かれた城である。城内は公園化されているので、主要な部分の遺構は見やすいが、城の背後の北西尾根の搦手筋や斜面は未整備となっている。また今年の春は雑草が伸びるのが早かったので、5月初旬の長野なのに、もう薮で遺構が見辛くなり始めていた。大きく3つの曲輪群から成り、北西から順に主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群が連なっている。それぞれ数段の腰曲輪が付随し、曲輪群の間は堀切で分断されている。北西の搦手には合計3本の比較的大きな堀切が穿たれその間に櫓台を備えた小郭を置いている。主郭から北西尾根にかけての北斜面には、畝状竪堀や横堀が穿たれ、また竪堀と横堀が交錯するなど、厳重に防御を固めている。また搦手最後の堀切には土橋が架かり、いざという時の退路確保にも余念がない。また三ノ郭群の南斜面には、やはり竪堀と横堀がクロスして構築され、ここの横堀では山上にもかかわらず水堀となっている。この他、ニノ郭群から北東に張り出した尾根にも堀切を挟んで小郭があり、その東側下方にも腰曲輪群が築かれている。かなり手の混んだ造りの城で、全体的にちょっと薮っていて残念だったが、もっと薮の少ない時期に行けば、もっとその技巧的な構造を堪能できるだろう。
北斜面の畝状竪堀→IMG_5568.JPG
IMG_5677.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭群
南斜面の水堀→IMG_5639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771171/138.314888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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三日城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5455.JPG←主郭から見た前面の堀切
 三日城は、北信濃をめぐる武田信玄との抗争の際に、上杉謙信が築かせた城と伝えられる。弘治・永禄年間(1555~69年)に川中島をめぐって甲越両軍は5度に渡って戦いを繰り広げたが、その中で謙信は元取山(髻山)に在陣し、家臣甘粕近江守数直に命じてこの砦を築かせ、わずか3日で落成したことから、三日城と呼ばれる様になったと言う。髻山城の普請が完成するまでの仮の砦であったとされる。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、上杉軍は髻山城・三日城・手子塚城大倉城のラインを大事な防衛線としていたと推測している。

 三日城は、髻山城の南東1.6kmの位置にある、標高450m、比高70m程の丘陵上に築かれている。山の東側の谷戸に畑の中を登っていく道があり、その奥左手に小学生が作った案内板があり、登山道が南西へと伸びている。傍から見るとただの山林だが、一応城跡は「三念沢自然公園」という公園になっている様で、展望台も建てられている。非常に小規模な城で、低土塁で囲まれた方形の主郭と、その南東側にコの字型の土塁が付随し、主郭前面(北東側)と左方(北西側)を堀切・横堀で防御した縄張りとなっている。コの字の土塁は、南側で土橋状に主郭に連結しているが、土橋の西側に竪堀が穿たれている。よく見ると、この土橋から主郭土塁の脇を武者走りがすり抜けて、主郭の虎口らしい土塁の切れ目につながっているので、一見しただけではわかりにくいが枡形虎口になっていたことがわかる。そうすると、前述の土橋脇の竪堀は動線制約の竪堀であったことも判明する。その他では、主郭の北東の丘陵地は自然地形のままで、明確な普請の跡は見られない。一方、主郭の南東には小ピークがあり、物見台になっていたらしく、東側に竪堀が穿たれている。しかし主郭以外はほとんど自然地形に近い。結局、臨時の陣城であり、たしかにこの程度の砦なら3日で完成したであろう。だが主郭の普請はしっかりしており、主将が主郭に陣取ったほかは、なだらかな丘陵全体に軍団を駐屯させていたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.711624/138.257554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

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安源寺城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5352.JPG←主郭南の堀切
 安源寺城は、高梨氏が築いたとされる城である。創築にはいくつかの伝承があるが、武田氏の侵攻によってこの地を逐われた高梨政頼の子頼親が、1582年の武田氏滅亡・織田信長の横死による織田領国の崩壊後に上杉景勝の命でこの地に戻り、安源寺城を築城したとされる。しかし、築城開始後間もなく、元の本拠地であった中野小館に戻ることができたため、築城途中で放棄されたと言う。或いは武田氏侵攻以前から高梨氏の一族がこの城にいたともされ、いずれが正しいかは不明である。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、遺構を見る限り築城途中で放棄されたと言うのも案外当たっているかもしれないと書いている。

 安源寺城は、標高410m、比高50m程の丘陵上に築かれている。ここは中野市街地と千曲川の間に横たわる丘陵地の南端部に位置している。北西から南東に延びる長い丘陵上に、曲輪を直線状に連ねた連郭式の縄張りとなっている。南端の曲輪は墓地となっていて改変されているが、その他の曲輪は概ね良く残っている。しかし耕作放棄地らしく雑草の繁茂や倒木で曲輪内の踏査は困難である。この城に行ったのは5月の初めであったが、今年は暖かくなるのが早かったので雑草の伸びが早かったせいもあって、もう進入が困難になっていた。南の二ノ郭はただの方形の平場で、主郭との間に堀切が穿たれている。主郭は土塁で囲繞されたほぼ方形の曲輪で、主殿が置ける様な広さを有している。やはり雑草と倒木が凄いが、ここでは立派なカモシカを見かけた。また主郭の西側塁線はわずかに曲がり、横矢掛かりが見られる。主郭の北にも堀切が穿たれ、主郭の土塁は北辺と南辺の堀切沿いは高く盛られている。主郭の北は三ノ郭で、ただの広い平場が長く伸びている。主郭と三ノ郭との間の堀切東端・西端にはそれぞれ土橋が架かっているが、東のものは薮で全くわからない。三ノ郭は薮が少なく進入可能である。三ノ郭の北端に土塁と堀切が築かれ、その北にも平場が広がっている。所々に土塁が見られるが、途中で切れている部分が多く断片的であるが、一部はL字状となっている。しかし全体の形状ははっきりしない。この他、各曲輪の西側には帯曲輪が延々伸び、一部は横堀状となっている。東側にも帯曲輪がある様だが、三ノ郭の東以外は薮が多くて確認できない。
 安源寺城は、広大な城で居住性を持たせており、確かに伝承の通り居館的な性格の城だった様である。一方でしっかり土塁が築かれた主郭以外は防御が不十分で普請途中で放棄されたと言うのも首肯できる状態である。
主郭北辺の土塁→IMG_5378.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743011/138.334951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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タグ:中世平山城
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壁田城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5191.JPG←中間阻塞型の二重堀切
 壁田城は、北信濃に侵攻した武田氏が、替佐城と共に北方の上杉氏の拠点飯山城に対峙する最前線の拠点として築いた城である。替佐城と共に、小幡上総介が城将となったとも言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。1566年に武田信玄が山田飛騨守・同左衛門尉にこの地を宛行なっていることから、山田氏が壁田城の守備に付いていたものと推測されている。

 壁田城は、千曲川の曲流部に突き出た独立峰である、標高480m、比高145mの城山に築かれている。城内は公園として整備されており、城域のすぐ北の尾根まで車道が付いているので、訪城はたやすい。公園化されている分、やや遺構が破壊を受けているが、概ねの遺構は残っている。南北に伸びる尾根上に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断した連郭式の縄張りを基本としている。山頂の主郭を中心に、北尾根に3つ、南尾根にも3つの曲輪を築いている。ほとんどの曲輪間は堀切で分断されており、特に北の3郭と4郭の間は中央に低い畝状の土塁が築かれた中間阻塞型の二重堀切になっており、青森や山形で見られるものと同形である。また主郭等には腰曲輪も築かれ、北の3郭の東斜面には畝状竪堀があるとされるが、熊笹藪でよくわからない。主郭の西尾根にも細尾根の曲輪と堀切が築かれているが、薮が多くて形状が分かりにくい。この他、南の尾根の先に腰曲輪群が築かれ、南東中腹には籠池と呼ばれる池があり、水の手曲輪になっていたらしい。この周辺にも櫓台状の土壇や堀切が見られる。壁田城は、縄張り的には少々面白味に欠け、技巧性も他の武田氏系城郭と比べると見劣りするが、堀切はいずれもそこそこの規模があり、見て損はない遺構である。
水の手曲輪の籠池→IMG_5312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/138.343492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


[新装版]戦国武田の城

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  • 作者: 中田 正光
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菅の山城(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5151.JPG←二ノ郭の櫓台
 菅の山城は、菅城とも呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏が拠った城と伝えられている。しかし別説もあり、高梨某が築いてその家臣時田甲斐守の居城となり、後に時田氏の家臣竹腰次郎の居城となったとも言われている。小島氏は、南北朝期頃に須毛郷に入部したらしいが、その後1513年に小島高盛は本家の高梨氏へ反乱を企てたが鎮圧され、滅亡した。しかしその分家が下之郷に居て残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。

 菅の山城は、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城の南の尾根続きの、標高700m、比高100m程の山上に築かれている。すぐ南には更科峠を通る古道がある。更科峠からも小道があるし、南東尾根の麓からも鴨ヶ嶽林内歩道という登山道が整備されているので、訪城は容易である。南東麓から高さ70m程登ると平坦な尾根となり、周囲に腰曲輪が築かれているので、既に城域に入ったことがわかる。更に登ると、数段の段曲輪を経て電波塔やテレビアンテナが建てられた曲輪に至る。かなり長さがある曲輪で、小屋掛けぐらいはあったと思われる。ここも周囲に帯曲輪が確認できる。そこから段曲輪を3段ほど経て、城の中心部に至る。中心部は堀切で分断された3つの曲輪で構成されている。中央が主郭で、その背後に二ノ郭、主郭の前面に三ノ郭が築かれている。まず前面の三ノ郭は小さな方形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らし、北東側に小郭を築き、その両側に竪堀を落としている。三ノ郭から堀切を挟んで縦長の主郭がある。主郭には祠が祀られ、後部に土塁が築かれている。主郭の両側には腰曲輪が築かれ、主郭前後の堀切と連絡している。主郭背後は城内でも最も大きな堀切が穿たれ、その西側に二ノ郭が築かれている。ニノ郭は後部に大きな櫓台を築き、曲輪の外周に土塁を廻らしている。二ノ郭の西側にも堀切が穿たれて城域が終わっている。それぞれの堀切は、両側に竪堀となって落ち、その側方には竪土塁も築かれている。
 菅の山城は、それほど大きな城ではないが、普請はかなりしっかりしており、堀切も最大のもので深さ3~4m程もあって、このサイズの城としては規模が大きく、なかなか見応えがある。
主郭背後の堀切→IMG_5132.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733553/138.395913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
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タグ:中世山城
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箱山城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5006.JPG←山頂の主郭
 箱山城は、歴史不詳の城である。南の箱山峠を挟んで鴨ヶ嶽城と隣接していることから、高梨氏が永正年間に中野に進出して中野小館を築き、鴨が嶽城を本城にしていく中で、本拠地防衛のために支城として築かれたものと推測されている。

 箱山城は、標高695.1mの箱山山頂に築かれている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。この城へは三方の尾根に登山道が伸びている様だが、最も近いルートは箱山峠からアクセスする南尾根のルートである。現在箱山峠には車道が通っているが、箱山トンネルの西端の脇から南に登る古道が残っており、それを登っていくと切り通しの峠に至る。大きな切り通しだが、これは江戸時代に切り開かれたものらしい。この切り通し脇から北側の尾根に登る道があり、尾根上で堀切状になっている。どうもこれが元からの中世の峠道だったようである。ここから尾根を北へ進んでいくと、途中に小ピークと細尾根に曲輪があり、更に北東に尾根を登っていくと2郭群に至る(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』による)。2郭群は、尾根上の曲輪とその西側の数段の小郭群から成っている。更に尾根を登ると、2つの小郭と堀切があり、山頂の主郭に到達する。主郭は、祠などが祀られ、北辺に低土塁が築かれている。西側の切岸には石積み跡らしいものも見られる。主郭の北には腰曲輪が一段あり、尾根の先に浅間社が祀られた5郭がある。その北側に数段の小郭が築かれている。また主郭の東側には堀切を挟んで2段の舌状曲輪があり、東尾根に通じている。この舌状曲輪も東尾根も岩場が多く、居住性は殆ど無い。また尾根上の岩には矢穴の跡が散見され、石切り場になっていたらしい。その先に竪堀があり、東の物見台らしき8郭に至る。8郭の東にも腰曲輪が一段築かれている。遺構としては以上で、大堀切で防御された鴨ヶ嶽城と比べると、随分と古色蒼然とした城で、堀切も規模が小さい。傾斜のきつい急峻な尾根で囲まれているので、大きな堀切を必要としなかったのかもしれない。峠を押さえる城かと思ったが、鴨ヶ嶽城から独立した物見の出城として築かれていた様である。
東尾根の矢穴のある岩→IMG_5035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.750559/138.390634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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タグ:中世山城
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鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_4945.JPG←鎌ヶ嶽城の石垣
 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、この地に勢力を振るった高梨氏の詰城である。高梨氏は、平時は西麓の居館(中野小館)に居たが、戦時の要害としてこの城を取り立て本城とした。元々この地は鎌倉幕府の重臣中野氏が支配しており、鴨ヶ嶽城も中野氏によって創築されたのではないかと推測されている。戦国前期の1507年、越後で守護上杉氏と守護代長尾氏との間に争いが起こり、高梨政盛は長尾氏を支援して越後に攻め入り、1510年7月長者森で前関東管領上杉顕定を討ち取った(永正の乱)。この乱の頃に高梨氏は中野に入部して、中野小館を築いて居館としたと考えられている。そしてこの時、鴨ヶ嶽城も現在残る大規模なものに改修されたと思われる。しかし弘治年間(1555~58年)に武田信玄がこの地に侵攻すると、高梨政頼は中野の地にわずかの守備兵を置いて、自身は飯山城まで退き、泉氏と共に飯山城を守った。その後、武田氏支配時代は武田氏に降った一族の小島氏が中野小館に入った様である。高梨氏は旧領を離れたまま上杉氏に仕えたが、1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、高梨氏は信濃の旧領に復帰した。しかし1598年に上杉氏が豊臣秀吉の命で会津に移封となると、高梨氏もこの地を離れた。

 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、標高688.3m、比高308mの鴨ヶ嶽の稜線に築かれている。2つの城は一つの稜線上に連続して築かれているので、あえて城名を分ける必要もない様に思うが、現地表記や城郭文献に従って、2つの城として記載する。尚、以下の曲輪等の表記は『信濃の山城と館8』に従った。
 まず鴨ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽の山頂に主郭を置いている。南北に延びる稜線上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、要所を堀切で分断している。それらの堀切の中では、主郭背後のものと4郭背後のものが規模が大きく、深さ8~10mにも達する大堀切である。その他の堀切は、形状は明瞭であるが、それほど大きなものではない。主郭の前面には堀切が穿たれ、主郭の手前に3郭、更に小堀切を挟んで北尾根に段曲輪群が築かれ、先の方は細尾根上の細長い曲輪群が連なり、先端が物見の曲輪となって終わっている。一方、主郭の後部に櫓台が築かれ、背後は大堀切を挟んで二ノ郭が築かれている。二ノ郭には井戸があったらしい。二ノ郭の南には段曲輪が数段築かれ、鞍部に堀切を穿った後、4郭に至る。4郭は主郭の次に大きな曲輪で、東側と南側に土塁が築かれている。その南には二重堀切が穿たれているが、内堀は前述の通り大堀切となっている。4郭から大堀切に通じる城道上に虎口郭が置かれている。二重堀切の南にも段曲輪群が築かれ、堀切を挟んで鎌ヶ嶽城に至る。
 鎌ヶ嶽城は単郭の城で、内部が僅かな段差で10段程に分かれた広大な曲輪(主郭)となっている。南と南西部に土塁が築かれ、この土塁の外側には石垣が残っている。土塁上にも石が散乱しているので、ここだけしっかりした石垣が築かれていたらしい。鎌ヶ嶽城の主郭の南にも大堀切が穿たれ、幅広の尾根を長く貫通し、東西両端でやや湾曲して竪堀となって落ちている。大堀切の外側にもしっかりした土塁が築かれている。この南は自然地形となるが、小堀切が1本穿たれて城域が終わっている。また主郭の南西下方に腰曲輪と横堀が穿たれ、横堀両端は折れ曲げて竪堀にして落としている。
 以上の2つの城の他に、西から登る登山道の脇に七面山砦という出城が築かれている。段曲輪群だけで構成された小規模な城砦で、『信濃の山城と館8』の縄張図では5つの小郭が記載されているが、実際には更に3つの曲輪が西側に確認できた。また七面山砦から登山道を登った先にも細尾根上の平場(7郭)が見られ、登山道からやや北に突出した場所に物見台があり、眼下の高梨氏館がよく見える。

 城の遺構は以上で、鴨ヶ嶽城の方は主郭・4郭だけが多少広いが、その他の曲輪はいずれも大した広さがなく、あくまで詰城の位置付けだったことがわかる。一方で4郭と鎌ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽城の主要部と比べると普請の規模と質が異なり、より新しい時代の構築であった可能性が考えられ、武田氏支配時代に増強された可能性も考えられる。鎌ヶ嶽城に至っては、主郭が広く居住性があるので、高梨氏一族の避難所として築かれたものかもしれない。城に関する案内は少ないが、登山道が整備され、城内も比較的整備されているので、訪城しやすいのが助かる。
4郭南の大堀切→IMG_4888.JPG
IMG_4850.JPG←主郭と後部の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【鴨ヶ嶽城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743372/138.388510/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【鎌ヶ嶽城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.740243/138.388875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【七面山砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.744318/138.383553/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
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タグ:中世山城
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立ヶ花城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_4791.JPG←二ノ郭の堀切
 立ヶ花城は、歴史不詳の城である。一説にはこの地に居館を構えた土豪草間氏が築いた城とも言われる。草間氏も出自が不明で、高梨氏の一族とも佐久方面から来住した一族とも言われる。対岸には手子塚城があるので、手子塚城と対峙しつつ、千曲川の渡し場を押さえていたものと推測される。尚「立ヶ花」は、「館ヶ端」の転訛かもしれない。
 立ヶ花城は、千曲川と篠井川の合流点に突き出した丘陵先端部に築かれている。城内には高圧鉄塔が建つ他、北東の外郭に当たる部分は大きく土取りされてしまっており、やや改変を受けている。先端に主郭を置き、堀切を挟んで後部に二ノ郭、更に堀切があって外側に外郭を築いていた様だ。前述の通り外郭は消滅しているが、2つの曲輪と堀切はよく残っている。堀切は一直線状で横矢掛かりがないので、武田・上杉抗争期にはあまり重要視されていなかった様に思われる。遺構は残っているが、全体的に大薮に覆われ、堀切を越えて主郭に行くのも大変である。主郭の先にも段曲輪が2段あるらしいが、薮で確認できなかった。物見を主務とした簡素な城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.724748/138.310554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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小曽崖城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_4734.JPG←主郭手前の堀切
 小曽崖城は、この地の土豪新野氏が築いたとされる城である。しかし1463年に、新野氏は上杉氏の支援を受けて大熊氏と共に高梨氏と戦ったが敗れ、小曽崖城には高梨氏の家臣が入った。高梨氏の支配時代には、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城・二十端城などと共に高梨氏の本拠防衛の一翼を担っていたと推測されている。

 小曽崖城は、標高590mの山上に築かれている。城を巻くように山道が付いているが、未舗装路なので安全を見て南東麓の動物除けの電撃柵の付近に車を駐めて延々と歩いたが、普通に走れる道だった。小曽崖城は590mの峰から北東に伸びる尾根が城の主部で、北西に伸びた尾根の先にも出城が築かれている。
 まず北西の出城は、細尾根上の曲輪の周囲に数段の腰曲輪を廻らした簡素な城砦で、後部に狼煙台とされる塚の様な土壇がある。また北斜面には上下の腰曲輪を繋ぐ竪堀状の城道も築かれている。アクセスは、前述の山道が鋭角に折れ曲がる所の電撃柵が取り外せるようになっており、そこから尾根筋を辿ればよい。
 主城部は、北東尾根の西側に堀之内No.5鉄塔の保守道があり、この道を使って取り付くことができる。鉄塔の建っている曲輪の先に小堀切があり、更に尾根の平場が広がっている。先端付近には数段の小郭群が築かれている。この付近に旗塚と言う塚があるらしいのだが、形が崩れてしまっているのか、よくわからなかった。一方、鉄塔から南西に尾根を辿ると、多数の段曲輪群が続き、3本の小堀切の先に頂部の主郭がある。主郭は後部に低土塁を築き、背後に堀切が穿たれている。その先にも小堀切があって城域が終わっている。
 小曽崖城は、城域は広いが基本的には細尾根城郭で、曲輪も堀切もいずれも規模が小さい。全体的に普請が小規模で大した防御性がなく、まるで村の城(村人の逃げ込み用の城のこと)の様である。おまけに尾根筋はほとんど未整備で、しかも今春は暖かかったために草木の生い茂るのが早く、踏査がなかなか大変だった。主城から更に南に尾根を登ったところに砦の遺構もあるらしいのだが、藪尾根で踏破が難しいと判断し、行くのは諦めた。
北西の出城の曲輪→IMG_4672.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【本城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.713654/138.369005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【北西の出城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.716165/138.365014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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雁田城(長野県小布施町) [古城めぐり(長野)]

IMG_4550.JPG←小城の多段石垣
 雁田城は、苅田城とも表記され、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。正確な歴史は不明で、一説には古代アイヌの築いたチャシであるとか、3~4世紀頃(古墳時代)の大和朝廷の東征時の柵から始まったとも言われる。中世には、鎌倉時代に苅田式部太夫繁雅の居城であったとする伝承や、室町時代に荻野備後守常倫が城主であったと言う伝承も残るが、裏付けられる史料がなく苅田氏・萩野氏の実在は不明である。比較的史実に近いと思われるのは高梨氏との関係で、1489年以降この地域は高梨氏の支配下となり、1561年に武田信玄が高井地方を支配下に置くまでの間、高梨氏による支配が続いた。その間、雁田城・二十端城・滝の入城がこの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。

 雁田城は、その根古屋があったと推測されている岩松院の背後にそびえる標高530m、比高190m程の山上に築かれている。山上の大城と西端のピークに築かれた小城の2つの城で構成されている。岩松院の北側の高台からハイキングコースが整備されており、そこからだと比高わずか40m程で小城に至る。
 小城はほぼ単郭の小城砦であるが、主郭周囲には石垣多数築かれている。ほぼ方形の主郭を取り巻くように石垣が築かれ、南西には主郭に登る石段も見られる。石垣は、高石垣を築く石積み技術がなかったものと見え、南側では低いものが4段築かれている。そのせいもあって、石垣の規模は川中島城砦群の霞城鷲尾城ほどではない。主郭背後には小さな土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれているが、その堀切に沿っても主郭側に石垣が積まれている。また、主郭の北西尾根にも堀切と小郭らしいものがあるが、あまり明瞭ではない。
 一方、小城からかなり急峻な東の尾根を登っていくと、何段かの小郭を経て大城に至る。大城は東西に伸びる尾根に曲輪を連ね、堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。頂部に長方形の主郭を置き、その前面に1.5m程の段差でニノ郭を設け、その前面には堀切を穿って大手の尾根を分断している。主郭背後には小城と同じく土塁が築かれ、背後には深さ4~5mの堀切が穿たれている。その東側に三ノ郭があり、後部にわずかに石塁が築かれている。三ノ郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれている。ただ三重とは言っても、しっかり穿たれているのは内堀のみで、中堀・外堀は浅いので、実態を見ると畝状阻塞に近い。その東の4郭にも、中程に小堀切が穿たれている。更に背後に堀切があって5郭に至り、城域が終わっている。大城にも石垣はあるが部分的で、主郭の北東部や主郭の前面に小規模なものがあるだけである。
 雁田城は、大城と小城でかなり様相を異にしており、築城思想やそれぞれの役割、築城時期の違いなどを想起させる。
大城の畝状阻塞(三重堀切)→IMG_4633.JPG
IMG_4622.JPG←大城主郭の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.698705/138.338020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【小城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.699789/138.334994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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タグ:中世山城
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岩松院館(長野県小布施町) [古城めぐり(長野)]

IMG_4655.JPG←岩松院の北側に広がる平場
 岩松院館は、雁田城の根古屋(居館)である。現在館跡付近に建っている岩松院は、1430年に荻野備後守常倫が開基したとされているが、雁田城主と伝えられる荻野氏の居館もこの付近にあったとされ、往時の居館と寺との位置関係は不明である。『信濃の山城と館8』では、寺より1段高い、寺の北側一帯の平場に根古屋があった可能性を指摘している。或いは他の居館によくある様に、居館跡に寺ができた可能性もあるが、その場合は寺の創建の伝承が合わなくなる。寺が館跡に移転してきたのであろうか?今後の考究が待たれるところである。

 岩松院館は、前述の通り現在は岩松院が建っている。私は5月連休に行ったのだが、岩松院には観光客がいっぱい来ていて賑わっているので驚いた。境内に、賤ヶ岳七本槍で有名な福島正則の霊廟があるが、それを見に来ているわけでもない様である。葛飾北斎の八方睨鳳凰図という天井画を見に来ているのだろうか?そんなわけで落ち着いて見学するという訳にもいかなかったが、土塁などの明確な遺構は確認できない。結局のところ、位置的に雁田城の大手に当たることから、この付近に根古屋があったことは間違いないと推測されるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.698395/138.334029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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タグ:居館
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桝形城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4466.JPG←二ノ郭、奥が主郭
 桝形城は、山田城とも言い、当初は仁科氏の庶流山田氏の居城、後に高梨氏の持ち城となった城である。里俗伝によれば応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が築いて居城としたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、桝形城を居城としたと言う。その後、高梨氏の持ち城となり、文明年間(1469~86年)には高梨氏の一族日向守高朝(山田高梨氏)が城主であったが、1484年、高野仏詣で留守中に本家の高梨刑部大輔政盛に城を奪われた。戦国後期になると、武田信玄の北信濃侵攻によって、高梨氏は敗れて越後の上杉謙信の元に逃れた。1557年には、川中島に出兵した上杉勢によって桝形城は一時的に奪還されたが、後にはまた武田氏の有に帰したと思われる。その後の城の歴史は不明である。

 桝形城は、標高711m、比高170m程の山上に築かれている。山頂に主郭を置き、その南側に広いニノ郭を築いている。主郭には後部に土塁を築き、主郭の切岸全周におびただしい数の崩落した石垣跡が見られる。この石垣は残存部がほとんど無いので、おそらく破却の跡だろう。かなり徹底して破壊されている様である。また主城部周辺はかなり傾斜がきつく、4方向の尾根にそれぞれ曲輪群が築かれているのだが、城の後部に当たる北東・北西尾根の曲輪群は、主郭からきつい傾斜をかなり下った所にあり、主城部との連絡路が完全に途絶している。体力温存のため北東尾根の踏査は諦めたが、北西尾根を降り、3本の小堀切を確認した。主郭からこの堀切まで40m以上の高低差がある。また主郭背後の斜面には放射状竪堀群が穿たれているとされるが、見た限り竪堀群はほとんどわからない。ちなみに放射状竪堀は武田氏の山城によく見られるので、武田氏による改修の可能性もあるだろう。この他、登り口となっている東尾根・南尾根にも多数の曲輪群が築かれており、東尾根は馬蹄段で構成され、南尾根は横長の帯曲輪群で構成されている。これらの尾根途中にも石が散乱しており、石垣があった可能性がある。尚、東尾根曲輪群は、ニノ郭まであと少しというところで生い茂った薮と岩塊に阻まれ、迂回しながらの強行突破が必要なので、登る人は注意してほしい。
 桝形城は、主郭・二ノ郭には建物を建てられるだけの広さがあるが、それ以外は小郭群だけで構成されている。山容が峻険であるためか、堀切も規模が小さく、縄張り的にはやや物足りなさを感じる。
主郭切岸の石垣跡→IMG_4487.JPG
IMG_4456.JPG←東尾根の段曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.692924/138.361580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
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タグ:中世山城
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福井城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4393.JPG←主郭~二ノ郭間の空堀
 福井城は、天文年間に大岩城主須田氏の家臣牧伊賀守の居城であったと言われている。1553年に武田信玄の侵攻により、須田満親が越後の上杉謙信を頼って逃れると、牧氏もこれに従ったと伝えられる。その後、福井城は廃城になった。

 福井城は、大平山の北西に広がる福井原と呼ばれる緩やかな斜面の縁に築かれている。居館から発達したと考えられる城で、南に方形の主郭を置き、その北にやはり方形の二ノ郭、その北に台形状の三ノ郭を直線的に配置し、更に南西側に広く外郭を置いた縄張りとなっている。一部山道で改変されているが、遺構は概ね良好に残っているが、城内はほぼ全域山林となっており、比較的薮が多い。いずれの曲輪も空堀で囲繞され、曲輪全体が北東に向かって傾斜している。空堀はいずれも直線状で、横矢掛かりは見られない。また土塁は、各曲輪の西側にだけ集中して築かれている。主郭では、北西角に虎口らしい土塁の切れ目があり、外側に向かって斜めに土橋が架かっている。こうした虎口・土橋形状は非常に珍しいが、後世の改変であろうか?また主郭内には段差があり、南東部の段差部には石垣も残っている。これも後世の耕地化による改変の可能性があるだろう。福井城は、林の中に堀が明瞭に残るが、縄張り的には単純で横矢掛かりもなく、面白みにはやや欠ける。また堀の規模もあまり大きくなく、あまり戦闘を意識した城ではなかった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.663892/138.395505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
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タグ:中世崖端城
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雨引城(長野県須坂市・高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4222.JPG←土塁のある6郭
 雨引城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の事績は須田城の項に記載する。須田氏の本城は大岩城で、雨引城はその背後にそびえる明覚山に築かれていることから、大岩城の背後を防衛する支城として大岩城と一体となって機能していたと考えられている。尚、雨引城のある明覚山には灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。雨引城はこの灰野峠のすぐ西に築かれているので、灰野峠を押さえ、物見の砦を兼ねた詰城となって須田郷・大岩郷全体を俯瞰して、背後を守る防衛線となっていたと思われる。

 雨引城は、大岩城と月生城の背後にそびえる標高982mの明覚山に築かれている。最短で登れるのは東側の灰野峠からである。そこまで綺麗に整備された車道が通っており、車で城の間近まで登ることができる上、峠からはハイキングコースが整備されているので、楽に訪城できる。城自体は東西に長い細尾根上に曲輪を散発的に築いており、普請の規模は小さいが、明覚山山頂を中心に城域は東西750m程に及ぶ。尾根を東から登っていくと、最初に現れるのが6郭(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』に従う)で、城内で最も広い面積を持ち、北と東に土塁を築いている。この6郭が最も普請がきちんとされており、灰野峠を押さえることがこの城の最大の役目であったことがわかる。その先は尾根の途中途中に細尾根上の曲輪と背後の堀切がセットで2ヶ所現れ、山頂の主城部に至る。主郭も細尾根状の曲輪で、西端が一段高くなっている。居住性はなく、主郭と言っても物見の曲輪である。北側に腰曲輪があり、その東に鞍部のやや広い曲輪があり、二ノ郭となっている。小屋が置ける広さがあるのはこの二ノ郭だけである。北に腰曲輪を築き、東は小堀切を穿っている。その東のピークに3郭がある。3郭は北側に傾斜した曲輪で、南側は風除け土塁のようになっており、現在はそこに祠が祀られている。3郭の東側には規模は小さいが二重堀切が穿たれている。一方、主郭の西尾根にも散発的に細尾根の曲輪が4つあり、10郭には切岸にわずかな石積みが見られる。その先に二重堀切を挟んでピークがあり、物見状の11郭がある。11郭は円形の平場で、外周に腰曲輪や武者走りが付いていて、南側に小堀切があって城域が終わっている。以上が雨引城の縄張りで、6郭以外は普請が大雑把であり、灰野峠の確保と背後の防衛線に特化した城だった様である。
3郭東の二重堀切→IMG_4249.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.648245/138.347139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
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タグ:中世山城
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月生城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4129.JPG←西の腰曲輪を刻む畝状竪堀
 月生城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の本城は月生城の西側に隣接する大岩城で、月生城はその支城であった可能性がある。須田氏の事績は須田城の項に記載する。一方、月生城の背後には、明覚山を抜ける灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。そのため月生城は、上杉氏にとっても川中島への軍道を確保する為に重要な城であったと思われる。

 月生城は、明覚山の北東に伸びる支尾根先端の標高710mのピークに築かれている。城への登り口は東尾根の麓にある。柵を入ると、明確な道はないが登りやすい尾根筋となる。ここを登っていくと僅かな小堀切があり、その先は東尾根曲輪群となっており、多数の小郭が連なっている。登り切ると城の中心部に至る。山頂に縦長の主郭があり、東面以外は土塁が築かれている。主郭内は2段の平場に分かれており、『信濃の山城と館8』では1郭・2郭と分けて認識しているが、段差も小さく一つの曲輪と見るべきである。主郭の先端には小さな囲郭があり、珍しい形態である。主郭の周囲にはコの字に腰曲輪が取り巻いている。主郭背後は堀切が穿たれており、そこから落ちる竪堀と連携して、東西の斜面にそれぞれ畝状竪堀が穿たれている。特に西斜面のものは腰曲輪を刻むように穿たれており、長野方面の城では珍しい形だと思う。主郭周囲の腰曲輪から北尾根と西尾根に曲輪群が伸びており、各々曲輪群の付け根と先端付近に堀切が穿たれている。東尾根曲輪群より北尾根曲輪群の方が曲輪のサイズが大きいので、こちらが大手だったことがわかる。主郭の南には、前述の堀切を介して二ノ郭があるが、郭内に岩がゴロゴロしていて居住性は悪い。後部に小さな土塁と堀切が築かれている。南尾根の先には小ピークがあり、堡塁であったとされている。月生城は、おびただしい数の曲輪を支尾根に築いて防御を固めた城で、軍道確保の重要性がその縄張りから窺われる。またこの地域では珍しい形の畝状竪堀や囲郭など、もしこれが上杉氏による構築だとしたら縄張り面でも興味深い。
土塁のある主郭→IMG_4154.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.655320/138.351495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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タグ:中世山城
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覆盆子城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6132.JPG←二ノ郭と主郭堀切
 覆盆子(いちご)城は、召田城とも呼ばれ、この地の豪族会田氏の最期の地となった城である。会田氏は海野氏の一族で、峻険な虚空蔵山に虚空蔵山城・中ノ陣城等の城砦群(会田城)を築いて本拠としていた。1553年に武田信玄が小笠原長時を駆逐して北筑地方に侵攻すると、会田氏は武田氏に降ってその配下となった。そして会田小次郎が領主の時、一族の岩下監物(召田監物とも言われる)が覆盆子城を築いて城主となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、信濃府中を制圧した小笠原貞慶がこの地に侵攻し、かつて父の小笠原長時に反旗を翻し、甲斐武田氏に鞍替えした諸豪を相次いで討伐し、会田氏もその標的となった。会田氏は、本城の会田城を捨て、覆盆子城に立て籠もって最後まで抵抗した。これは小県方面への連絡路と退路を確保するためと推測されている。当主会田小次郎広忠が幼少だったため、家老の堀内越前守が戦ったが、間もなく越前守は討死して城は攻め落とされた。広忠は逃れて青木村の十観山で自害し、会田氏は滅亡した。会田氏最後の「一期の城」ということで、いつしか覆盆子城と呼ばれるようになった。

 覆盆子城は、標高892m、比高200m程の山上に築かれている。明確な道はなく、北西の尾根に適当に取り付いて直答した。削平の甘い主郭を中心に北東・北西に数段の腰曲輪、主郭背後には浅い堀切を介して二ノ郭があるが、いずれの曲輪も普請はわずかで、ニノ郭などほとんどまともに削平されていない。その背後の曲輪も同様である。一方、大手筋と思われる北西の尾根にもそれと言われなければ分からない程度の浅い堀切が2条穿たれている。いかにも急造の城と言う感じで、普請は不完全・不徹底で、会田氏滅亡の城という歴史がなければ、ほとんど顧みられることはないだろう。尚、この地域の目の前には、本城のあった虚空蔵山がその威容を見せている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.345100/138.017528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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掻揚城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6044.JPG←主郭土壇付近の石垣
 掻揚城は、保福寺城とも言い、1502年に信濃守護小笠原長棟が築いて、小笠原信益斎を置いて守らせたと伝えられている。その後、1513年には小沢縫殿助が在番し、小笠原氏の直轄の城として度々城将が変わったらしい。後に苅谷原城主太田弥助の持ち城となって在番を置いたが、1553年に武田信玄によって北筑地方一円が支配されるようになると、その役目を終えた様である。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に織田信長も本能寺で横死すると、小笠原貞慶が信濃府中を制圧し、1590年にかつての在番の後裔小沢縫殿介に山麓の屋敷を与えて住まわせたと言う。

 掻揚城は、標高900m、比高100m程の山稜先端に築かれている。登り道は無いので、北東の斜面から適当に直登するほかはない。登っていくと斜面上に段々に築かれた帯曲輪群が現れる。主郭の前衛となる曲輪群で、数えたところ17段確認できた。多数の帯曲輪群が築かれるのは、苅谷原城や青柳城と同じである。尾根上の先端部に主郭を置き、堀切を挟んで南に二ノ郭を置いた小規模な城砦である。主郭後部には土壇があり、その周りや主郭の外周に石垣が僅かに残っている。往時は全周を石垣で防御していたようだが、現在はかなり崩れてしまっている。主郭は綺麗に削平されているが、二ノ郭は自然地形に近い。二ノ郭背後にも堀切があり、更に背後の尾根の先にもう1本堀切が穿たれて城域が終わっている。堀切はいずれも小規模だが、東斜面に長大な竪堀となって落ちており、特に主郭背後・二ノ郭背後の2本は、山麓まで至っている。また竪堀脇にも帯曲輪が多数築かれている。小城砦ながらも、長い竪堀や石垣は見応えがある。
山腹を貫通する長い竪堀→IMG_6087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.310353/138.028364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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荒神尾城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5879.JPG←Ⅳ郭から見た主郭までの曲輪群
 荒神尾城は、歴史不詳の城である。一説には、1553年に武田勢が攻め落とした苅谷原城とは、この城のことではないかとも言われている。

 荒神尾城は、苅谷原城の東南東1.4kmの位置にある標高950mのピーク上に築かれている。東の谷戸を登る車道脇に案内表示と登り道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。山頂の主郭から東のやや広い尾根上に4段の曲輪を設けているのが基本構造である。主郭自体の広さは苅谷原城と大差ないが、周囲の切岸にわずかに石垣が残存している。また前述の4段の曲輪は、きれいに削平されたある程度の広さを持った曲輪になっており、特にⅢ郭は背後に堀切を設けた、前面防衛の櫓台となっている。一方、主郭から伸びる北東尾根と南尾根にも堀切や小郭が設けられている。この二つの尾根筋は非常な細尾根で、小郭があることはあるがほとんど物見程度のレベルで多数の兵を籠めることはできない。堀切もほとんどは小規模のものだが、南尾根の1本だけは比較的大きい。また北西尾根の城域先端近くには四重堀切が穿たれ、更にその下方に続く尾根にも堀切が穿たれており、この尾根筋からの接近を警戒していることがわかる。城域の広さは苅谷原城には及ばないが、曲輪などの普請のレベルは苅谷原城よりしっかりしている。とは言うものの、基本的な城の規模・築城技術は苅谷原城と同等程度で、これが筑北の土豪の築城規模ということかと推測させられる。
北西尾根の四重堀切→IMG_5945.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.309385/137.995877/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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苅谷原城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5739.JPG←南東尾根の堀切と曲輪群
 苅谷原城は、鷹巣根城とも呼ばれ、海野氏の一族苅谷原五郎が築いた城と伝えられる。苅谷原氏が数代で断絶すると、太田道灌の一族とも言われる太田弥助という武士の居城となったとされる。戦国中期の1550年から松本平に侵攻を開始した甲斐の武田信玄は、小笠原長時の諸城を連年攻略し、1553年には深志城を拠点に筑北まで侵攻し、3日間の攻撃で苅谷原城を攻め落とし、塔ノ原城は自落、会田虚空蔵山城を放火した。その後、苅谷原城の城割りと鍬立てを行い、家臣の今福石見守を城主とした。これにより、苅谷原城は武田軍による筑北進出の橋頭堡となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、筑北地方は小笠原貞慶と上杉景勝の間で激しい争奪の場となった。この時、苅谷原城は小笠原方によって制圧され、貞慶は一族の赤沢式部少輔を城代とした。しかし翌年、赤沢氏が塔ノ原城主海野三河守・小岩岳城主古厩因幡守らと共に謀叛を企てたことが発覚し、赤沢氏は切腹させられた。その後、苅谷原城には小笠原頼貞が入って守りを固めたことが知られる。その後の歴史は不明だが、1590年に小笠原貞慶が讃岐に移封となった頃に廃城になったと推測される。

 苅谷原城は、標高896.6mの城山に築かれている。南の尾根より登山道があるので、迷わず登ることができる。山頂の主郭を中心に、三方に伸びる尾根に堀切と尾根上の小郭群を連ねた縄張りで、あくまで詰城と言った趣の城砦である。主郭は小規模で多数の兵を籠めることはできない。また堀切もいずれも比較的小規模であるが、大手と思われる北東尾根には厳重に配置され、堀切から落ちる竪堀も長く伸びている。しかしその他の尾根の堀切はやや防備が貧弱である。この城は、斜面に多数の帯曲輪群が配置されているのが特徴的で、特に竪堀の左右に多数並んでいる。また城の中心からかなり離れた部分の尾根も、側方斜面に帯曲輪が配置されていることから、尾根上はほとんど自然地形ながらも馬場や外郭として機能していた可能性があり、それなりに広範囲に防備は固められていたことが伺われる。とは言え、全体的には少数の兵しか籠められない小城砦で、諸勢力の筑北制圧の橋頭堡となった城にしては、貧弱に感じられる。その縄張りの貧弱さ故に、武田勢が攻め落とした苅谷原城はここではなく、荒神尾城ではないかとする説も存在することを付記しておく。
竪堀沿いの帯曲輪群→IMG_5791.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.316111/137.982252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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平瀬北城(長野県安曇野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5606.JPG←上部曲輪群の横堀
 平瀬北城は、平瀬城の北の出城である。平瀬城の項に記載した通り、中央の尾根に平瀬城の本城があり、その南北に張り出した尾根に北城・南城の出城が築かれており、この左右両翼の出城によって本城の防御力を高めた、3城一体の城であったと考えられる。

 平瀬北城は、大きく2つのブロックに分かれて築かれている。主城部は標高730mのピークに築かれており、一方東に上る尾根上にも曲輪群が設けられている。この城へ行くには、東の豊科カントリークラブ脇の町道からアクセスするのが、最も楽で手っ取り早い。このルートで最初に現れるのが、上方の曲輪群である。平瀬本城に繋がる南斜面に、馬場のような緩斜面の平場が数段広がり、南西部を大きな横堀で防御している。この横堀は下方で二重横堀に変化している。この上方の曲輪群から西の尾根を辿ると、堀切状の通路や多重枡形の遺構が現れる。多重枡形の下に両側を土塁で防御した曲輪が広がっている。その先はしばらく細尾根となり、小掘切が穿たれている。出城主城部は、ピーク上に主郭を置き、背後に堀切と尾根小郭の下に二ノ郭を置いている。主郭の前面にも堀切や小郭群が築かれている。
 遺構を見ると、平瀬北城の構造は2つのブロックで大きく異なっており、主城部は小規模な出城そのもの。一方で上部曲輪群は複雑な多重枡形や大きな横堀を有した、大名系城郭の造りとなっている。元々出城の小城砦があったところに、平瀬城を攻略した武田氏が平瀬本城の背後を警戒する曲輪群を拡張したもののように思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.289964/137.947812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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平瀬南城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5529.JPG←主郭東側の横堀
 平瀬南城は、平瀬城の南の出城である。平瀬城の項に記載した通り、中央の尾根に平瀬城の本城があり、その南北に張り出した尾根に北城・南城の出城が築かれており、この左右両翼の出城によって本城の防御力を高めた、3城一体の城であったと考えられる。

 平瀬南城は、標高680mの尾根上に築かれている。本城からは急峻な谷戸を挟んでおり、登り道も明確には残っていないので、尾根先端の北東筋を適当に直登する他はない。基本的には単純な連郭式の城で、西側だけを低土塁で防御した長円形の主郭を頂部に置き、そこから北に伸びる尾根上に切岸だけで区画した数個の曲輪群を配置している。先端の曲輪の北東斜面には何段かの腰曲輪が築かれている。主郭の東側は横堀で防御され、その外側に土塁と腰曲輪が築かれている。この横堀は主郭背後の堀切と繋がっており、最初は腰曲輪状であるが、先端に近づくに連れて深さを増して横堀に変化し、先端部はそのまま竪堀となって斜面を落ちている。また主郭背後の尾根には、前述の堀切に続いて4本連続する五重堀切が穿たれている。中でも2本目が規模が大きい。しかもこれらの堀切は、東斜面を長い竪堀となって降っていて、下方で集合している。また下方の竪堀同士に挟まれた部分に独立堡塁が築かれていて、谷底からの接近を阻止する防衛陣地となっている。
 城自体は小規模であるが、大規模な堀切と竪堀群を有し、横堀を備えるなど、普請は念入りに行われていることが伺われ、見応えがある。山も手入れされているので、遺構が見やすいのもありがたい。
五重堀切から落ちる竪堀群→IMG_5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.283184/137.948155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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西条城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5469.JPG←標柱・解説板の立つ主郭
 西条城は、青柳城の支城である。城主は、青柳氏の重臣鬼熊左衛門尉康長で、剛勇な武士であったという。康長は、天文年間(1532~55年)に小笠原氏の軍勢と立峠で戦い敗れて、自刃したと伝えられている。その後の歴史は伝わっていないが、青柳城が武田氏・織田氏の滅亡後に小笠原貞慶の支配下に入ると、西条城も小笠原氏の支配下に置かれたものと考えられる。

 西条城は、小仁熊地区の西側にそびえる標高790mの山稜上に築かれている。山稜上を縦走するハイキングコースが整備されており、長野自動車道の側道脇から登道もついているので、あまり迷わずに登ることができる。連郭式の比較的小規模な城で、頂部に四阿と解説板・標柱の建った主郭を置き、南に一段下がって二ノ郭、更に南下方に三ノ郭と前衛の腰曲輪を置いている。三ノ郭は側方に高台が置かれており、櫓台などとして機能した様である。更に南尾根の鞍部は堀切となっており、一方主郭の北尾根にも堀切が穿たれ、その先の北の物見台の北西にも3条の片堀切状の地形が確認できる。しかしいずれの堀切も規模は小さく鋭さに欠け、どれほどの防御性を発揮したのかは不明である。この他に主郭の西斜面にも腰曲輪群があるらしいが、藪が深く踏査できない。そもそもハイキングコースがあるものの、いずれの曲輪も藪だらけでほとんど未整備の状態である。竹場城より訪城も楽だし、遺構もしっかりしているが、規模・縄張り的に物足りなさは残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.403358/137.998710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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竹場城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5412.JPG←西尾根の堀切
 竹場城は、青柳城の支城と伝えられている。伝承では、青柳伊勢守頼長の築いた要害で、城主は頼長の家臣竹場源之丞定友であったという。1587年、頼長が小笠原貞慶に深志城で誘殺されると、城主不在の青柳城は小笠原氏によって攻め落とされ、竹場城も同じく落城したと伝えられている。

 竹場城は、麻績川と東条川の合流点の西にそびえる、標高734m、比高159mの山上に築かれている。中心に主郭があり、三方に派生する尾根に堀切を介して曲輪群を配した縄張りとなっている。非常に小規模、かつ普請もささやかなレベルの城で、中心となる主郭は猫の額ほどの狭小な曲輪である。各所の堀切も規模が小さい。曲輪はある程度きれいに普請されているが、いずれも規模は小さい。このような感じで、パッとしない城である。『信濃の山城と館』に、「青柳氏本拠の西口を守る重要な支城であったことが伺える」とあったので期待して行ったが、全く裏切られてしまった。なお、私は北麓から登ったが、途中の山道がわかりにくく、結局斜面直登になってしまった。キノコ山なので、秋の訪城は厳禁である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.433834/138.001435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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青柳城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5205.JPG←大きな二重堀切
 青柳城は、この地の国人領主青柳氏の居城である。青柳氏は、麻績城主麻績氏の一族と言われ、伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に居館を構え、守護小笠原氏に属していた。戦国中期に武田信玄が信濃に侵攻して小笠原長時を追い落とし、更に1553年に北信の雄村上義清をも葛尾城から逐うと、青柳清長・頼長父子は武田氏に降伏した。青柳城には信玄やその弟典厩信繁が入城して青柳城を改修し、以後青柳城は、武田氏が松本平から善光寺平へ進出する為の前衛拠点となった。一方この時、麻績城主服部(麻績)氏が義清と共に越後に逃れた為、青柳氏は麻績城を与えられて麻績氏を称した。同年9月の第1次川中島合戦では、来攻した上杉謙信が荒砥城を落とした後、青柳城を攻撃している。こうして武田氏の支配は続いたが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、青柳頼長は織田氏の支配下に入った。しかしその3ヶ月後に、本能寺で信長が横死すると、上杉景勝が北信に進出し、頼長は上杉氏に服属した。間もなく、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が府中を回復すると、筑北地域は上杉氏・小笠原氏の争奪の場となり、青柳城は麻績城と共に4回に渡って攻防が繰り返された。1587年、頼長は小笠原氏に招かれて、深志城で長子長迪と共に謀殺されると、青柳城は小笠原氏によって没収され、小笠原氏麾下の溝口貞秀が青柳城主に任じられた。その後も上杉・小笠原両勢力の境目の城として機能したが、慶長年間(1596~1615年)に廃城になったと思われる。

 青柳城は、標高904.9m、比高255mの山上に築かれている。城の背後の尾根の付け根まで車道が延びており、また城址公園として整備されているので、訪城は容易である。尾根の先端に主郭を置き、土塁や切岸で区画された二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を連ね、堀切を介して五ノ郭、更に数本の堀切を穿って背後の尾根を遮断し、最後に大きな二重堀切を穿って、城域を分断した連郭式を基本とした縄張りとなっている。三ノ郭は、ちょうど尾根上の曲輪の鞍部に当たり、大手道がここに至っていることから、虎口郭の機能を持たせていた様である。五ノ郭や主郭には石垣が残っており、特に主郭周囲に集中し、高石垣も残っている。現地解説板によればこの高石垣は、武田氏時代のものではなく、戦国最末期の小笠原貞慶時代の構築と見られている。この他、主郭の北尾根と北西尾根に小掘切があり、小郭が置かれている。また城の主要部の南西斜面には帯曲輪群が延々と連なっており、大手道を防御している。また山麓の清長寺は、青柳氏の平時の居館である。
 青柳城は、石垣や大堀切があるものの基本的にはシンプルな縄張りの山城である。遠目にも主郭に立つ松の古木が目立つ城なので、もう8年も前から行こう行こうと思っていた念願の城だったが、期待が大きすぎたのか、少々物足りなく感じられた。
主郭周囲の石垣→IMG_5317.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.431089/138.033407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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矢倉城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5144.JPG←主郭~二ノ郭間の切岸
 矢倉城は、歴史不詳の城である。一説には、麻績城主服部伊賀守の次男大倉佐渡守が築いたとも伝えられるが、定かではない。麻績川を挟んで麻績古城に相対する位置にあり、また青柳城の方が直線距離で1.7km程と近く、しかも背後の丘陵が繋がっているので、青柳城の支城であった可能性も大いに考えられる。
 矢倉城は、室沢ダムのすぐ西側にそびえる標高728.7mの山稜上に築かれている。長野自動車道下のガードを抜けると、すぐに標柱があり登道が付いているので簡単に登ることができる。城の中心は2段に分かれた平場で、上段が主郭、手前の一段低いのが二ノ郭とされる。主郭は背後に円丘状の櫓台を備え、虚空蔵菩薩が祀られ、三角点が置かれている。主郭と二ノ郭は東半分は切岸のみで区画されるが、西半分は堀切となっている。中央は虎口で、単純な坂虎口となっている。この他、ニノ郭前面の北斜面に数段の腰曲輪群が築かれ、一方、主郭背後の南尾根には3本の堀切が見られる。堀切は、1本目だけがしっかり穿たれているが、他の2本は自然地形にちょっと手を加えた程度のささやかなものである。矢倉城は、小規模かつ普請も不徹底で、堀切は小さく曲輪の削平も全体的に甘い。物見を主眼とした小城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.444416/138.042698/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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安坂城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5015.JPG←竪堀沿いの登り石垣
 安坂城は、麻績城の支城とされる城である。明確な歴史は必ずしも明確ではないが、麻績長親の次男安坂長国が築いて、以後安坂氏歴代の居城となったが、安坂筑後守の時に武田信玄に攻められて落城。筑後守は、信濃守護小笠原長時に従って中塔城に籠もり、1555年に長時と共に越後の上杉謙信を頼って落ち延びたと言われる。その後、武田氏の部将安藤加賀守が城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長もわずか3ヶ月後に本能寺で横死すると、信濃遺領を巡って小笠原貞慶が奪還に動き、1584年に安坂城は貞慶によって攻め落とされた様である。その後ははっきりしないが、筑北において上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦が続いていることから、使用され続けたものと推測されている。

 安坂城は、標高851m、比高200m程の山上に築かれている。東麓の安坂神社裏から登山道が伸びており、迷うことなく登ることができる。但し、長野に多いキノコ山なので、無用なトラブルを避けるため秋の訪城は避けた方が良い。尾根筋を登っていくと、途中に鳥居の先に大手の曲輪がある。桝形状になっているが、らんまるさんが指摘している通り古墳を切り崩した跡らしく、石室をそのまま枡形に改変している様である。その上に小さな段曲輪と細尾根上の5郭がある。更に登っていくと、岩盤を削って堀切を穿つと共に、岩盤を障壁にした遺構が現れる。ここからが主城部で、山頂の主郭から北東に二ノ郭・三ノ郭を連ね、南東斜面に腰曲輪(4郭)を築いた連郭式の縄張りとなっている。この主城部には石垣が多用されており、特に南面の切岸に集中して築かれている。二ノ郭には南東に枡形虎口が築かれ、虎口付近も石垣で固められている。二ノ郭から主郭に入る枡形虎口も石列で区画されている。ここのちょうど門に当たる位置に建っている石の上面には溝が切ってあり、おそらく「かんぬき」の様なものがあったらしく、極めて珍しい遺構である。主郭背後には低土塁が築かれ、その裏には大きな堀切が穿たれている。ここからは竪堀が長く落ちているが、南東斜面では竪堀沿いに登り石垣まで残っている。これらの石垣群は、おそらく武田氏支配時代の構築であろう。また背後の尾根には更に4つの堀切がほぼ連続して穿たれ、主郭背後のものと合わせて五重堀切となっているが、後の4つは規模が小さい。この他、北西尾根にも幾つかの小郭群と堀切が構築されている。安坂城は、重厚な石垣が多数あり、虎口も総石垣となっていたらしく、小規模な城であるが長野の山城の素晴らしさを堪能できる。本城の麻績古城より、断然オススメである。
主郭門石の溝切り遺構→IMG_5064.JPG
IMG_5030.JPG←主郭・二ノ郭周囲の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.444813/138.061903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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麻績城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4904.JPG←主郭背後の堀切
 麻績城は、この地の豪族服部氏が築いた城である。戦国時代の領主は服部清信で、山麓の古屋敷に居館を構え、その西側に麻績古城(虚空蔵山城)を構え、その守備を補強するために麻績城を築いたと推測されている。1553年、甲斐の武田信玄は苅谷原城、会田氏の虚空蔵山城(中ノ陣城)を破って筑摩北部地方に侵攻し、青柳城の青柳清長を降し、敵対する葛尾城主村上義清に属していた服部清正(清信の子)を麻績より追い払い、その後の麻績には青柳氏を入れて麻績氏を称させた。清正は、塩田城に立て籠もった村上氏の元に奔ったが、塩田城が落城すると村上氏と共に上杉謙信を頼って越後に逃れた。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃は小田原北条氏・三河徳川氏・越後上杉氏による争奪の場となり(天正壬午の乱)、筑北地方は上杉景勝の領有となって、景勝は旧領主の服部清正を麻績城に復帰させた。しかし信濃府中を奪還した小笠原貞慶が筑北に勢力を伸ばすと、上杉・小笠原両氏の争奪の地となり、服部氏は上杉氏に背いて小笠原氏に内応した。これを知った景勝は麻績城を攻め落として、清正を捕らえて処刑した。その後も抗争は続き、結局小笠原氏の支配下となった。

 麻績城は、麻績宿北方にそびえる標高943mの山稜上に築かれている。登山ルートは2つあるようだが、北西麓の搦手ルートが登頂比高も低く、早く登ることができる。直線上に配置された大きく4つの曲輪から成る連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪を堀切で分断している。しかし三ノ郭も四ノ郭も、細尾根上の狭小な曲輪に過ぎない。二ノ郭に至ってようやく多少の広さを持つ。主郭は城内最大の面積を持つが、せいぜい小屋掛けが数棟あった程度の広さである。主郭の前面・側方には腰曲輪・帯曲輪が数段廻らされ、一部には小竪堀が落ちている。堀切については、主郭背後のものはしっかり普請されているが、それ以外のものは整形があまりしっかりしておらず、特に四ノ郭手前のものはわずかな窪地のようにしか見えない。しかしそれでも、全体としてははっきり城跡と分かる程度に普請はしっかりしている。一部の城郭関連サイトで「遺構にがっかり」と記載されていたのであまり期待していなかったが、これだけしっかりしていれば私的には十分である。これで不満足なようだと、秩父の小さな山城などとても行けないだろう。天険の浦山城など、比高400mも登ってささやかな遺構だけである。
 尚、この麻績城を新城とし、麻績古城を古い形態の城のように『日本城郭大系』では記載しているが、遺構を見ると戦国後期に主城であったのは麻績古城の方であるのは明らかである。あくまで麻績城は、天険に頼った最後の逃げ込み城の位置付けだったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467767/138.044350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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麻績古城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4792.JPG←主郭背後の大堀切
 麻績古城は、虚空蔵山城とも呼ばれ、この地の地頭服部氏の居城であったと言われている。『市河文書』によれば、南北朝期の1335年に生起した中先代の乱が足利尊氏によって鎮圧された後、翌年2月に府中の在庁官人の深志介知光が、北条泰家(時興とも。最後の得宗北条高時の弟)に味方して挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗、村上信貞らと麻績十日市場・麻績御厨で戦っているが、この時拠点としたのがこの城のことであろうと推測されている様である(『日本城郭大系』)。ちなみにこの時期は、既に第1回目の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州へ落ち延びる時に当たり、国内の政治情勢が極めて複雑・流動的であったことを物語る。その後の城の歴史ははっきりしないが、戦国期には武田氏・小笠原氏・上杉氏の争奪の場となっているが、それが麻績城のことなのか、麻績古城のことなのか、はっきりしない。

 麻績古城は、法善寺背後の標高780m、比高145mのピーク上に築かれている。背後の山稜には麻績城がそびえている。基本的には主郭・二ノ郭2つの曲輪で構成されており、主郭の南東・南西と二ノ郭の東に伸びる支尾根に段曲輪群を築いた、比較的簡素な構造となっている。特筆すべきは石垣と堀切で、まず主郭の虎口付近と南西の切岸に小規模だが石垣が築かれている。腰曲輪の一部にも石が散乱しているので、もっと石垣は多かったのだろう。堀切は、長野の山城らしく規模が大きいもので、主郭背後のものは特に切岸が高くそびえており、雄大である。二ノ郭背後には変則的な二重堀切があり、中間土塁は東側にだけ築かれている。その下方は平場となっている。この他、二ノ郭側方には帯曲輪が築かれ、主郭堀切の堀底と繋がっている。主郭には比較的規模の大きな土塁が背面に築かれている。決して規模の大きな城ではないが、大堀切や石垣などを考えると武田氏あたりによる戦国期の改修が推測されることから、新城とされる麻績城よりもこの麻績古城の方が戦国期には本城として使用されたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.463643/138.044565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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大倉城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3594.JPG←五重堀切の一部
 大倉城は、織田軍による善光寺一揆弾圧の舞台となった城である。元々は鎌倉時代の寛元年間(1243~46年)に小笠原信濃守長清が築城し、その9男長澄がこの地に分封されて大倉氏を称したと伝えられるが詳細は不明。確実なのは戦国時代からで、1513年頃には築城されていたらしい。上杉・武田両軍が争った川中島合戦の頃には、長沼島津氏の持ち城で、島津氏は長沼館(後の長沼城)を本拠とし、詰城の大倉城、大倉城の出城として手子塚城を領有して千曲川西岸一帯を支配していたと考えられている。1557年に葛山城が武田勢に攻め落とされると、上杉方の島津月下斎(貞忠)らは大倉城に撤退した。その後、善光寺平が武田氏の支配下となり、長沼城を奪われると、逐われた島津氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、大倉城は一旦廃城となった。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡すると、川中島4郡は海津城に入った森長可の支配下となったが、その翌月にはその支配に反対する土豪・地侍層が、上杉景勝と手を結んだ芋川親正を大将として北信濃一向一揆を組織して蜂起した。一揆勢は、飯山城を囲む織田勢を包囲した後、大倉古城を再築して立て籠もる一方、親正ら兵8000は長沼城へ向けて進撃した。しかし一揆勢は森長可の織田勢に大敗を喫して四散し、残軍掃討戦を展開した長可の軍勢は大倉城を攻撃し、激戦の末に短時日で落城させた。この時、城兵はもちろん、女子供1000人余まで撫で斬りにし、更に逃亡した百姓は人質を取って還住させ、労働力の確保を図ったと『信長公記』に記載されている。

 大倉城は、鳥居川北岸にそびえる標高450m、比高95mの丘陵先端部に築かれている。連郭式を基本とした、比較的シンプルな縄張りの城で、山頂の主郭とその北側に土塁状の土橋で接続された井戸曲輪を有し、主郭前面には堀切を挟んで二ノ郭・三ノ郭を連ねている。二ノ郭は4段程に分かれ、最上段は物見台であったと考えられる。2段目には石積みも見られる。主郭や二ノ郭の側方部も石垣があるようだが、藪ではっきりしない。三ノ郭の前面も堀切を挟んで小郭があり、その前にも堀切が穿たれている。その先は採土によって失われているが、以前は段曲輪群があったらしい。この城の見所は、前述の井戸曲輪の西尾根に穿たれた五重堀切で、殊に1本目と5本目は圧巻の巨大堀切となっている。5本目の堀切は長い竪堀となって落ちており、見応えがある。更に西の尾根を辿ると、細尾根の曲輪の先にやはり大堀切が穿たれて背後を分断している。大倉城は、石積みは少ないが、尾根筋の分断を強く意識しており、臨戦的な縄張りである。
三ノ郭から見た曲輪群→IMG_3522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733657/138.282831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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髻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3352.JPG←腰曲輪に残る石垣
 髻山城は、戦国時代に上杉甲越両軍の抗争の場となった善光寺平の北端の要害である。上杉謙信による築城と伝えられ、城の東側には中世の主要道路(神代坂)が通っており、野尻城・飯山城から横山城への進軍ルートを結ぶ中継点であった。1561年の第4次川中島合戦では、上杉方の武将宇佐美定行が立て籠もって武田勢と戦ったとも伝えられているが、定行自体の実在が疑わしいので(一般的には、宇佐美定満をモデルにした架空の武将とされる)何とも言い難いが、上杉勢が後方支援部隊或いは予備兵力を控えとして置いていたぐらいはあったであろう。第4次川中島合戦の後は、武田氏が善光寺平をほぼ手中に収め、髻山城も武田方の持ち城となったらしい。これは1564年9月、謙信の重臣直江実綱が堀江宗親・岩船長忠両氏に宛てた書状の中に「敵もとどり山へ小旗4・5本にて、毎日武具致すよし候」とあり、武田方の利用が確認されている事による。長沼城が築城されて以降、髻山城は特に重視されたものと考えられ、1582年の武田氏滅亡後に川中島4郡を支配した上杉景勝にも利用されたと推測されている。

 髻山城は、北国街道の西側にそびえる標高744.4mの山上に築かれている。城は大きく3つの区域から成っている。中心は山頂の主郭を含む主城部で、楕円形をした土塁で囲まれた主郭と東面から北面・西面にかけて廻らされた数段の腰曲輪で構成されている。主郭には東西に虎口があるが、東虎口は腰曲輪に繋がっているが、その先は藪が多く、腰曲輪の形状をはっきり捉えることができない。西虎口は石垣を備えて防御しており、大手と推測される。北に降って2段目の腰曲輪はカタクリの群生地になっており、踏み荒らさないよう注意が必要である。この腰曲輪を奥に行くと、北東角の切岸にもわずかに石垣が確認できる。一方、主郭から西に降っていくと、独立した物見台が屹立している。ここから更に降ったところに2つ目の区域の遺構が現れる。扇状に緩斜面に帯曲輪群を連ね、その外周を竪堀・横堀で防御した区画で、特に最下段の横堀はしっかりと穿たれており、下方からの敵の接近を阻止する塹壕として機能していたことがわかる。謙信が馬を隠したという言い伝えから、「馬隠し」と呼ばれているらしい。3つ目の区域は北斜面にあり、ここにも横堀・竪堀がL字状に穿たれている。ここは藪が多いので未踏査だが、明確な曲輪はあまり無い様だ。一方、主郭の東側はかなり荒れており、斜面が崩落している様である。どうも採石場の跡らしく、崩れた石がゴロゴロし、切り立った崖に阻まれている。髻山城は、大きな城でもなく、また技巧性も無い縄張りなので、あくまで中継点の砦と言った趣である。尚、この城には北東麓から登るのが正で、私は間違って崩落した東斜面からアプローチしてしまい、大変な目に遭った。
馬隠しと呼ばれる横堀→IMG_3457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.720345/138.243477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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