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古城めぐり(長野) ブログトップ
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稲荷山城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1259.JPG←頂部の主郭跡
 稲荷山城は、勝間反の砦とも言い、本能寺の変の後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」で徳川方が取り立てた城である。1582年、徳川家康は佐久の平定を依田信蕃に命じ、更に同年8月柴田康忠を援軍として佐久に派遣し、中信諸将を集めて勝間反の砦を基地とし、築城の名手松平家忠に城の修築をさせた。徳川方の津金衆は、ここを基地として北条勢を岩崎砦で撃ち破った。1585年には、家康は真田昌幸の拠る上田城を攻撃したが敗退し、この城へ引き上げた。1590年、前山城で討死した伴野刑部の子や相木常林が挙兵した時には、討伐に出た小諸城主松平康国(信蕃の子)が稲荷山城で陣容を整えて相木へ向かったと言う。

 稲荷山城は、千曲川西岸の比高40m程の独立丘陵に築かれている。現在城跡の大半は稲荷山公園に変貌し、その他の部分も宅地などになっており、堀は埋められているなど遺構の大半が失われている。ただ地勢は健在で、公園頂部に建つコスモタワーからは、周囲の眺望に優れる地であることがよくわかる。遺構としては、曲輪跡の平場と切岸らしい地形が見られる程度で、縄張図を見ながらでないと、往時の城の姿を想像することも難しい。きちんと城址公園として整備されなかったことが悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.192374/138.482537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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田ノ口館(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1226.JPG←田口城下の蕃松院
 田ノ口館は、田口城の山麓居館である。田口城を築いた田口氏が当初の館主であった。天文年間の末に田口氏が武田氏の佐久侵攻によって滅びると、武田氏の家臣相木常林が館主となった。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、権力の空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川・上杉による争奪戦が始まった(天正壬午の乱)。信長の重臣であった滝川一益を神流川合戦で撃破して上州を席巻した北条氏直が、碓氷峠を越えて佐久に進軍すると、佐久の国人衆は相次いで北条氏に臣従し、相木氏も北条氏に服属した。一方、徳川家康の元で織田方による武田遺臣狩りから匿われていた依田信蕃は、家康の命で佐久に戻り武田家の旧臣達を徳川方に付ける工作を始めていたが、佐久に侵攻してきた北条の大軍の前に衆寡敵せず、三澤小屋に籠城した。その後、徳川方の援軍を得て、新府城に拠る徳川方と対峙する若神子城の北条勢の後方を脅かし続けた。真田昌幸が徳川方に寝返って、佐久の国人衆が徳川方に付くようになると、信蕃は佐久の平定を押し進め、相木氏は田口城を放棄し、北条氏を頼って上州に逃亡した。その後、信蕃は春日城を奪還し、前山城に移り、更に田口城に入って城下に田ノ口館を構え、家臣を招いて祝宴を張ったと言う。その後、信蕃に抵抗する土豪達が大井氏の岩尾城に終結したため、信蕃はこれを攻撃したが難戦となり、実弟信幸と共に敵の銃撃を受けて討死した。その子康国は小諸城と松平姓を家康から与えられ、父の菩提を弔う為に館跡に接して蕃松院を創建した。

 田ノ口館は、前述の通り蕃松院が建っている。田口城の南麓に位置し、前面は石垣が築かれた立派な構えで、見るからに居館を置くに相応しい場所である。しかし明確な遺構ははっきりせず、どこまで往時の形を残しているかは不明である。寺の裏から田口城への登道があるが、盛夏なので登城しなかった。いずれ田口城に登る時に再訪することになるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.199179/138.503137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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龍岡城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1159.JPG←稜堡式の水堀の屈曲
 龍岡城は、函館五稜郭と並ぶ幕末の稜堡式城郭である。三河奥殿藩は、信州佐久郡に12000石、三河に4000石の所領を持ち、宝永年間(1704~11年)以来、本拠を三河に置いていた。奥殿藩大給松平家最後の藩主となった松平乗謨(のりかた)は、1862年の参勤交代の緩和を機に、三河奥殿の城地の狭さと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に、幕府の許可を得て本拠を佐久郡田野口村に移し、田野口藩と改名した。乗謨は、20歳代であったが学才識見に優れ、蘭学・フランス語にも精通した開明的な人物で、幕府の若年寄・陸軍奉行・老中格・陸軍総裁に就任した逸材で、他藩に先駆けてフランス式の兵制を採用していた。新城郭の建造にあたっては、17世紀フランスの築城家ヴォーバン元帥の考案した稜堡式城塞を採用し、1863年に縄張りを開始し、1867年に竣工した。しかし大給松平家は城を持つ資格のない「陣屋格」であったため、天守閣などの防備施設を建造することができず、政務と藩主住居を兼ねた御殿と台所、陣屋住み藩士の小屋、番屋、太鼓楼、火薬庫などが城内に建てられたが、既に幕末の動乱が世を覆っていて、堀などは全周しておらず未完の城となった。また乗謨は、明治元年に大給恒と改名し、佐野常民と共に日本赤十字社の前身博愛社を創設した。

 龍岡城は、函館五稜郭と比べればかなり小型の城で、外周の堀や石垣もその気になれば簡単に乗り越えられそうな規模である。そもそも城の北側至近に田口城が築かれていた山があり、そこに砲台を築かれたら軍事的には全くの無力で、何のために築いたのか意味不明である。現地で入手したパンフレットには、「この星型稜堡を有する五稜郭は、(中略)山から遠く離れた平野の真ん中にあってこそ、その機能を十分に発揮できる平城」で、「乗謨の洋学知識では十分わかっていたはずなので、この築城は生涯に一度の夢を託したものであったといえる」とある。幕末の世情不穏な中、藩主の趣味で城などに大金を注ぎ込まれたら、家臣・領民としてはたまったものではないと思うのだが、怨嗟の的になったわけでもなく遺構は綺麗に残されている。前述の水堀・石垣の他、城内外周は土塁が残り、その他の現存遺構として城内に台所の建物や、城から少し北に離れて桝形石垣が残っている。また新海三社神社の近くの民家には、移築門が残っているが、なんとここには移築塀まで残っている!移築門はどこでもよくあるが、移築塀と言うのは初めてである。日本城郭史学会の方から「移築塀っていうのもあるんですよ」とは聞いていたが、これかぁ!と感嘆した。
珍しくも貴重な移築塀→IMG_1145.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.196010/138.501388/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

  • 作者: 八幡 和郎
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:近世平城
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佐野堀之内館(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_0916.JPG←館跡に残る宝塔など
 佐野堀之内館は、普通には小島氏佐野館と呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏の一族の居館と考えられている。小島氏は南北朝期より須毛郷の地頭となり、宗家は須毛上郷の「菅の館」を本拠とし、文明年間(1469~87年)頃に景頼の弟景貞を下之郷(佐野)に分封した。1513年に須毛上郷の小島高盛は高梨氏へ反乱を企て、鎮圧されて滅亡した。しかし下之郷の分家は残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。その後、上杉氏の会津移封に伴いこの地を去った。
 尚、『信濃の山城と館8』では、小島氏がこの地に居していた確証がないことから「佐野堀之内館」の呼称を採用しており、当ブログでもそれに従った。

 佐野堀之内館は、現在果樹園となり、周囲より一段高くはなっているが、明確な遺構は残っていない。館跡とされる果樹園の中程に宝塔・五輪塔等が残っているだけである。果樹園への立ち入りの許可を頂いた際に伺った話では、ここから南東の土蔵のある家が佐野小島氏の本家で、かつては近くの興隆寺に行く時には駕籠に乗っていたという程の名家であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.736391/138.409292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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志久見館(内池館)(長野県栄村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0904.JPG←内池八幡社の祠と館跡の石碑
 志久見館は、内池館とも言い、この地を本拠とした市河氏の館であったと推測されている。市河氏は、元は甲斐国市川郷を本貫とする土豪で、鎌倉中期以降に中野氏から志久見郷を手に入れた。1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には、志久見郷地頭の市河助房の代官として市河助泰が参陣したことが、義貞の証判を得た着到状によって知られている。その後、南北朝期から室町期にかけて勢力を拡大した。戦国期には当主市川藤若(市河房幸)が武田氏に仕えた。市河氏は、武田氏が滅亡すると上杉氏に服属し、上杉氏が会津に移封となると、それに従ってこの地を離れた。

 志久見館は、平坦な台地上の中程に位置している。台地上は現在一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。僅かに内池八幡社の祠と館跡の石碑と解説板が立っているだけである。かつては土塁と堀で囲まれた2つの曲輪で構成されていたらしいが、往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.979089/138.581661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:居館
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平林館(長野県野沢温泉村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0891.JPG←北西辺の土塁
 平林館は、市河弥六経高及びその子孫の平林氏の居館である。元々は市河盛房・助房などの総領家が相伝していたが、南北朝期の1343年に平林村は総領家から一族の経高に譲られた。その後経高は南朝に属したため、1356年に北朝方の攻撃を受けた。その後時代は下って天正年間(1573~92年)には、平林蔵人がこの地に拠り、上杉景勝に服属していた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏もこの地を離れ、廃館となった。

 平林館は、千曲川南東の段丘上の小丘の上に築かれ、現在国中平神社の境内となっている。方形単郭居館で、現在も神社の周囲に土塁が残っている。野沢温泉村ではこれを「館城土塁」と称している。この土塁は、北西辺では二重土塁の様になっている。主郭の外周には一段低い平場が取り巻いており、腰曲輪となっていた様である。ささやかな遺構に過ぎないが、小丘頂部にあり城砦の雰囲気は残っている。尚、以前は境内に解説板があったらしいが、現在はなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.942363/138.432938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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柏尾館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0860.JPG←北東角の土塁・空堀跡
 柏尾館は、現地解説板では柏尾南館と表記され、高梨氏に関わる豪族の居館と考えられている。1392年の高梨朝高の史料に「柏尾郷」が高梨領と見え、高梨氏の支配領域となっていたことがわかる。また戦国期の記録には「柏尾ノ備中守殿」との記述があることから、この頃には高梨氏に関わる備中守と呼ばれた武士が居住していたと推測されている。戦国後期に甲斐武田氏の勢力がこの地域まで伸びてくると、高梨氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、高梨氏退転後は武田氏に服属した市河氏がこの地を支配した。武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、柏尾郷を含む北信4郡は上杉景勝が支配した。この武田氏支配時代から上杉氏支配時代にかけて柏尾館が存続していたかは不明である。いずれにしても1598年の上杉氏の会津移封後は廃館になっていたと考えられている。

 柏尾館は、千曲川東岸の緩斜面中腹に築かれた単郭方形居館である。現在郭内は農地となっているが、周囲には切岸・土塁が明瞭に残り、その外周の空堀はわずかに低い農地となって名残を留めている。農地化による改変があるものの、旧状をよく残しており、南西角には解説板も立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.909017/138.405837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名と国衆 (角川選書)

戦国大名と国衆 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
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タグ:居館
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大倉崎館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0840.JPG←外周の空堀
 大倉崎館は、上野の館跡とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。伝承では竹内源内の居館とも言うが、詳細は不明。昭和63年に常磐大橋建設の為に行われた発掘調査の結果、多数の貴重な陶磁器が見つかったことから、14~5世紀頃に有力な豪族の居館であったと推測されている。またその多くが火を受けて溶変し、焼土や炭も多量に見つかっていることから、戦火に遭った城館であるらしい。戦国後期の甲越両軍の抗争期に水運を扼する要害であった可能性もあるだろう。

 大倉崎館は、千曲川西岸に面した段丘端に築かれている。現在は南北に細長い長方形の城館となっているが、これは幾度もの氾濫で川岸が削られた為であろう。往時はもっと方形に近い形状であったと思われる。川に面した東側以外の三方を土塁と空堀で囲んだ構造で、中央部を東西に国道117号線が貫通して破壊を受けている。そのせいもあって、虎口は残っていない。北側半分だけは一応公園化されていて、辛うじて夏でも訪城は可能である。土塁と空堀は明瞭に残っているが、それ以外には目立った特徴のない、よくある単郭方形居館の一部である。それにしても貴重な遺構なのだから、全壊は免れたにしてもわざわざ遺構の中心に道路を建設しなくても良さそうなものだが、土建関係の役所の文化財に対する意識の低さはどうしようもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.902377/138.398026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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尾崎城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0820.JPG←水田地帯の中に建つ城址碑
 尾崎城は、1183年に泉小次郎親衡が築いたと伝承される城である。親衡の伝承は飯山城にも残っている。親衡は、1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れ、その子孫が尾崎氏を称したと言われている。泉重治の時、9人の子を分封して上倉氏・今清水氏・上境氏・大滝氏・中曽根氏・岩井氏・奈良沢氏の庶家とし、嫡流の尾崎氏と合わせて尾崎八家(或いは泉八家とも)と称された。永禄年間(1558~70年)には、武田氏の圧迫によって各家は上杉氏に服属し、外様十人衆となったとされる。その後、1598年に上杉氏が会津に移封となると、尾崎八家もこの地を離れたと言う。但し以上の歴史には不明点も多く、『信濃の山城と館 8』では尾崎城を泉氏の居城とすることに疑問を呈している。

 尾崎城は、広井川沿いの平地にあったらしいが、現在は一面の水田となっており、遺構は完全に湮滅している。川沿いにぽつんと城址碑と解説文を刻んだ石碑があるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.903440/138.371247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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タグ:中世平城
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中条館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0817.JPG←館跡の水田
 中条館は、中条城主今清水氏の居館である。今清水氏は、南北朝期頃にこの地に土着したと推測されている。戦国後期には上杉氏に属し、飯山城の守りに就くこともあったが、富倉峠・北峠・平丸峠の守備のために中条城を守り、「たての内(中条館)」に居住していたと推測されている。1598年に上杉氏が会津に移封となると、今清水氏も会津に移ったと言う。
 中条館は、中条城の南麓に広がる傾斜地中腹に位置している。館跡とされる場所は、三方を切岸で囲まれた方形の高台となっているが、内部は水田に変貌しており、残念ながら地勢以外に見るべきものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.892321/138.352901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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タグ:居館
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飯山城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0731.JPG←本丸の石垣と枡形虎口
 飯山城は、上杉謙信が築いた北信と春日山城防衛の拠点である。元々は常岩牧一帯を所領とした小土豪の泉氏の居城であった。泉氏の祖は、鎌倉前期の1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れた泉小次郎親衡とも言われる。戦国中期に武田信玄が北信に侵攻すると、北信の土豪達は武田氏に降る者と抵抗して越後の上杉謙信を頼る者とに二分され、泉氏は上杉氏に属し、更に中野に勢力を誇った高梨政頼も武田氏の圧迫により飯山城に退去した。1561年の第4次川中島合戦の後、戦略に長けた信玄は奥信濃に深く侵入し、上杉方の防衛線は飯山付近を残すだけとなった。そこで1564年頃、謙信は武田氏の侵攻に備える重要拠点として飯山城を大改修し、また上杉氏の信濃出陣の拠点ともなった。その後、信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、上杉方は飯山城を死守した。その後、謙信が急死し、その後継を巡って御館の乱が起きると、武田勝頼は上杉景勝と同盟し、見返りとして飯山地方を割譲され、武田氏の属城となった。1582年に武田氏が滅亡すると北信4郡は織田信長の部将森長可に与えられ、飯山城も森氏の手勢が占拠したが、間もなく本能寺の変が起きて織田勢が信濃から撤退すると北信4郡は上杉景勝が占拠し、山口城主であった家臣岩井備中守信能を城代に任じて本格的な整備を行った。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封になると、岩井氏も会津に移った。その後は、江戸時代を通して関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多と多くの大名が相次いで城主となり、幕末まで存続した。

 飯山城は、千曲川西岸の標高340m、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。城内は公園化されているので、夏でも訪城可能である。丘陵全体を城塞化した城で、この地域では矢筒城の縄張りに類似している。南東端の丘陵頂部に本丸を置き、その北側に切岸だけで区画された二ノ丸・三ノ丸を連ね、西側には帯曲輪と2段に分かれた西曲輪を置き、三ノ丸の北側にも外郭を築いている。城内に堀切はないが、北中門から三ノ丸に至る城内通路は横堀を兼ねており、通路外側には大きな土塁が築かれている。また城全体を囲んで水堀が廻らされていたらしい。この堀跡は湮滅が進んでいるが、東側と南側は低地となって名残を留めている。本丸の北辺にはしっかりした石垣が残り、大型の出枡形の虎口が構築され、この城の大きな特徴となっている。これらは近世初頭の構築と考えられている。二ノ丸の北辺には土塁が築かれ、三ノ丸からの動線はこの土塁を迂回してつけられている。三ノ丸と外郭との間にはL字型の水堀が穿たれていたが、現在はグラウンドに変貌して湮滅している。現地解説板には「三日月堀」とあり、江戸時代からの呼称と思われるが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは、「甲州流軍学」という架空の兵学に捕われた悪しき風習である。技巧性のある縄張りではなく、現在の姿からはそれほど要害性が高い城とも思われないが、往時は全周を水堀で囲まれ、多数の兵で防衛した屈指の要塞だったのだろう。甲越両軍の抗争を語る上で、避けては通れない城である。
三ノ丸西側の横堀兼用の通路→IMG_0688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856051/138.366483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
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中御所守護館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0609.JPG←館跡に建つ御所天満宮
 中御所守護館は、漆田館とも呼ばれる。1198年に源頼朝が善光寺に参詣した際の宿跡と言われ、またこの地の土豪漆田氏の居館であったと推測されている。また「中御所」と言う地名から、信濃守護小笠原氏の守護所かそれに関連した城館とする説もある。1400年の大塔合戦で守護小笠原長秀が敗退した後、その弟の政康は上杉禅秀の乱の討伐で軍功を挙げたことで再び信濃守護に補任され、中御所に守護所を置き、信濃国内を統一して権勢を誇った。1442年に政康が亡くなると、子の宗康と従兄弟の持長との間で家督争いになり、1446年、漆田原で両軍は激突した。この漆田合戦も守護館付近で行われたとされる。この戦いで、持長は守護館を攻め、宗康を滅ぼした。宗康滅亡後に守護館は廃され、持長は府中(現在の松本市)に移ったと言う。応仁・文明年間(1467~87年)には、この地を支配した漆田氏が砦を構えたとされる。漆田氏は秀興・秀豊・貞秀の3代が確認されており、往時は漆田城と呼ばれて栗田氏など周辺土豪層と抗争を繰り返す中で防備を固めていた様である。しかし3代の後の漆田氏の動向は不明であり、またこの漆田氏が鎌倉時代の漆田氏と同じ一族かどうかも不明である。

 中御所守護館は、JR長野駅から南に500m程の位置にある。この地域は近年区画整理されて大きく改変されており、元々市街化の波に飲まれて遺構は湮滅していたが、新興住宅街となっていて往時の雰囲気は微塵もない。館跡の北辺部に御所天満宮が鎮座し、その名にわずかに名残を留めているに過ぎない。尚、区画整理事業に伴う発掘調査で、堀や土塁が検出されている他、輸入陶磁器の破片などが見つかっていると、現地解説板に記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.639016/138.186775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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平林城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0604.JPG←城址の石碑と堀跡?の水路
 平林城は、歴史不詳の城である。永禄年間(1558~69年)に武田氏の重臣原美濃守の居城であったと言われるが、詳細は不明。近くの宝樹院には城主奥方の位牌が安置されているらしい。
 平林城は、現在城跡の大半がJR東日本長野総合車両センターの敷地となり、残りの部分も市街化で遺構は完全に湮滅している。わずかに堀跡の名残と思われる水路が、南辺に流れているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、周囲を堀で囲まれ、東西に長方形の2郭を並べた縄張りだったらしい。現在は城址南東角に石碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654872/138.211817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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尾張城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0599.JPG←城址碑と城址公園
 尾張城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、天正年間(1573年~1592年)に尾張備中の居城であったとも、或いは尾張部三郎の居城であったが永禄年間(1558年~1570年)初頭に武田氏に降って城館を引き払ったとも伝えられるが、確証はない。
 尾張城は、現在は宅地化され、遺構は完全に湮滅している。僅かに城跡中心付近に城址公園があり、入口脇に城址碑が建っているだけである。かつては二重の濠で囲まれた城であったらしく、馬出しも備えていたらしい。発掘調査では、多くの建物跡や多量の陶磁器類が見つかったと言う。昭和20年代前半の航空写真では水田地帯にはっきりと堀跡が確認できるが、今では残念ながら失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.647229/138.230034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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清野氏居館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0326.JPG←古峰神社の建つ平場
 清野氏居館は、清野屋敷とも呼ばれ、この地の土豪清野氏の屋敷があったと伝えられる。清野氏は北信の雄、村上氏の一族で、数代この地に居したが、後に海津館(海津城の前身)を築いて移り、この地には蔵を置いたらしい。以後、禽敖屋敷と呼ばれるようになった。戦国中期に武田信玄がこの地に侵攻すると、1553年8月、武田氏に敗れた清野山城守清重(清寿軒)は村上義清と共に越後上杉氏を頼って落ち延びた。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、武田遺領をめぐって周辺諸勢力が争奪戦を繰り広げ、北信四郡は上杉景勝の支配下となり、その家臣清野左衛門尉はこの地に居住したとも、或いは猿が馬場峠の隣地、竜王城に入ったとも伝えられる。江戸時代になると真田氏の所領となり、寛永年間に焼亡したと言う。

 清野屋敷は、古峯神社の建っている尾根先端部にあったと伝えられている。神社がある平場は比較的小規模で、屋敷を建てるには少々狭い。その一段上に畑になっている平場があり、そこならばもう少し大きな屋敷が建てられそうである。その上にも小さい平場があり、観音堂が建っている。そこは高源寺跡とされ(現在は廃絶)、かつての境内にあった真田信之と真田大学(松代藩2代藩主真田信政の3男)の供養塔がある。いずれにしても土豪の居館にしても小さすぎ、蔵か何かしかなかったものが屋敷地として伝承されてしまったのではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554982/138.180639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

川中島合戦:戦略で分析する古戦史

  • 作者: 海上 知明
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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生仁館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0311.JPG←堀跡を思わせる水路
 生仁館は、唐崎城に対する平時の居館と考えられている。応永年間(1394~1427年)の館主は生仁(身)大和守とされ、雨宮摂津守の弟であったとも言われている。事績については唐崎城の項に記載する。
 生仁館は、唐崎城西麓の平地にある。沢山川に五十里堰(生仁川)が合流する地点の南に当たる。往時は方形の堀で囲まれていたと言うが、宅地化で遺構は完全に湮滅している。しかし屋敷地は周囲よりわずかに高くなっており、また東側には堀跡の名残を思わせる水路が流れている。いずれにしても、今となっては失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.544829/138.149096/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


和本影印,大塔物語・大塔軍記 (長野電波技術研究所)

和本影印,大塔物語・大塔軍記 (長野電波技術研究所)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2018/11/16
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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大塔城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0305.JPG←大当集落の遠望
 大塔城は、古書『大塔物語』に「大塔の古要害」と記載され、室町中期に信濃で生起した大塔合戦の主戦場である。大塔合戦は、信濃守護に復帰した小笠原長秀に対して有力国人衆が大文字一揆を結んで挙兵したもので、その経緯については二ツ柳城の項に記載する。『大塔物語』によれば、大塔合戦以前から古い要害があったが、当時は廃されていたと伝えられる。四宮河原で敗れた長秀は、深手を負って塩崎城に辛うじて逃げこんだが、逃げ遅れた坂西長国ら300騎は大塔の古要害(大塔城)に逃げ込んだ。大塔城に拠る劣勢の小笠原勢は、国人一揆の重囲の中で20日間にわたって籠城して抗戦したが、最後は食糧が尽きて全滅したと言う。その後、長秀は一族の大井光矩の仲介で和睦し、京都に逃げ帰った。従来は大当の地が大塔城と考えられてきたが、近年では二ツ柳城であったという説が有力視されているものの、未だに定説を見ない。

 大塔城は、岡田川東岸の大当集落にあったと言われている。『日本城郭大系』によれば、戦前まで一部に堀が残っていたらしい。現在は明確な遺構は全く見られない。川沿いの低湿地に築かれた平城なので、20日間の籠城戦を行った城址とするには不適と言うのが二ツ柳城説の根拠であるが、近代以前より集落があるということは、逆に低湿地帯に囲まれた要害であったとも推測される。現に結城城なども、現在の地勢からすれば大した要害性を持たない様に見えるが、実際には幕府の大軍を前にして1年近くにわたる籠城戦を展開している(結城合戦)。従って往時は、現在考えられるよりも全く異なる様相を呈していた可能性も考えられる。いずれにしても、今後の考究が待たれる。尚、岡田川対岸の大当公民館脇に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.567546/138.131887/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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竜王城(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0291.JPG←外周の帯曲輪
 竜王城は、本能寺の変後の北信の武田遺領をめぐる上杉景勝・小笠原貞慶の抗争の際に上杉方の城であったと伝えられる。猿が馬場峠を押さえる要害で、清野清寿軒(清重)がこの地に居たとされる。清野氏は猿が馬場留守役で、小笠原勢に備えてこの地に置かれ、猿が馬場衆の同心が詰めていたらしい。猿が馬場衆は、小坂城、佐野山城、竜王城に配備された者達と考えられている。旧領を回復し筑北を従えた貞慶は、1583年9月、猿が馬場峠より進出してきた。竜王城留守居の城将清野氏は、景勝と共に新発田に出陣中の子息左衛門尉信昌に急を報ずると共に、僅か40騎の守兵で奇策を用いて小笠原勢の先鋒を撃破し、更に援軍に見せかけた多数の擬兵により貞慶の野望を挫いたとされる。左衛門尉の後、清野助次郎長範が相続し、猿が馬場留守役を命ぜられたと言う。

 竜王城は、標高760m程の丘陵中腹に築かれている。城のすぐ後ろまで車道が伸びているので、訪城は容易である。解説板が立つ他は山林の中に主郭と思われる平場が広がっているだけだが、その外周には切岸で区画された帯曲輪がはっきりと構築されており、また北側にも一段低い曲輪があり、城郭遺構であることは間違いない。しかし堀切などは見られず、普請が中途半端である印象は否めない。俄作りの陣場のようにも思えるが、果たしてどうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.525157/138.068243/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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八幡松田館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0265.JPG←館周囲の土塁
 八幡松田館は、武水別神社神主の松田氏の居館である。松田氏は元々安曇野を本拠とした仁科氏の一族であったらしい。その名が現れるのは、本能寺の変後の北信の武田遺領をめぐる上杉景勝と小笠原貞慶の争いの中である。仁科(松田)盛直は、府中を押さえて安曇野に勢力を伸ばした貞慶に従属することを嫌って日岐城を退去し、上杉氏に服属した。そして更級筑摩群境を守っていたが、1584年正月、海津城将上条宜順の指揮下において八幡方面で働く様に命じられた。その後の同年5月、麻績城の攻防が続く中、松田民部助や保科豊後守が稲荷山城在番を命じられ、松田氏には八幡神領が与えられている。1598年に上杉氏が会津に移封となった後も松田氏は八幡に残って神領一円を支配し、神職となって古くからの宮川神主・宮原神主もその支配下に入ったと思われる。

 八幡松田館は、武水別神社の西側にある。単郭方形居館であったらしく、西側半分の土塁と堀跡が残っている。また東側の表門の脇に水堀跡が残っている。また神社の西辺にも土塁らしい土盛りが確認できる。尚この館では、主屋や斎館など江戸時代の建物が多数残っており、県宝に指定されていて修復工事が行われたが、修復完了から間もなくの2017年9月に蜂の巣駆除の際の不用意な失火で焼失してしまっている。そのニュースは全国ニュースでも取り上げられたため、私も記憶している。健在な時の建物を見ることができなかったのは、今更ながら残念で仕方ない。
東側の水堀跡→IMG_0262.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.519018/138.101803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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明徳寺館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0238.JPG←寺の周囲の土塁
 明徳寺館は、歴史不詳の城館である。明徳寺は、北信の雄で葛尾城主村上義清の家臣林能登守が羽尾の寺屋敷から移したと伝えられていることから、林氏との関連が推測されている。またすぐ北の山上には堂城山砦があり、物見として居館と一体となって機能していたと考えられている。

 明徳寺館は、明徳寺の境内となっている。というより、寺に城館機能を持たせた寺院城郭であったのだろう。構造は簡素で、単に寺の周りに土塁を廻らしただけである。寺自体が傾斜地にあり、東側は切岸だけで区画され、境内西半分に土塁を築いて防御している。堀跡は確認できないが、寺のすぐ北西側を雄沢川が流れており、自然の川をそのまま外堀としていたのだろう。この様な簡素な城砦が往時はどの様な使われ方をしたのか、興味深い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.495579/138.109807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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福島城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6243.JPG←城址標柱と解説の石碑
 福島城は、北信を巡る甲越両軍の抗争期に築かれた城である。弘治年間(1555~58年)から1585年までのわずか30年間だけ存在した城であった。大岩城主須田満親の弟須田左衛門尉によって築かれたとされる。戦国時代に武田信玄が川中島に進出すると、帰趨を巡って須田氏は二家に分裂し、武田氏に属して高井郡に留まった須田信頼の系統と、上杉氏に付いて越後に去った須田満親の系統に分かれたが、左衛門尉は武田氏に降って兄満親の所領を給わり、福島城を築いて移ったと言う。1582年、武田氏・織田信長が相次いで滅亡し、上杉景勝が北信濃四郡を支配すると、左衛門尉は上杉氏に降って本領を安堵されたが、1584年の麻績城での抜け駆けを咎められて所領を削られたため、反逆を企て、福島城を増築した。長沼城代島津淡路守忠直は、指揮下の夜交・寺尾・保科・大室らの諸氏と長沼城在番の諸将を率いて福島城を攻撃した。左衛門尉は島津氏の足軽大将武藤団兵衛と戦って討死にし、福島城は廃城となった。

 福島城は、存続期間が短かったため、早くにその遺構は失われたらしく、戦後間もなくの航空写真を見ても、既に城の輪郭は認められない。現在、福島宿東側の果樹園の中に標柱と解説の石碑が立っているだけである。この地は、古くは北国街道と大笹街道が分岐する所で、千曲川の布野渡しを押さえる交通の要衝であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.641806/138.267210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高梨氏発祥地(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6237.JPG←関山国師生誕地の石碑
 高梨氏発祥地は、関山国師伝承地ともされ、高梨氏の初期の居館があったとされている。平安時代末期に初代盛光以来、信濃高井源氏高梨氏の発祥地とされ、この地で14代続いた高梨氏は後に松川北の都住(つすみ)、更に中野小館に本拠を移した。一方、高梨氏の出身である関山国師は、南北朝の初め頃に花園上皇に召されて美濃伊深の陰棲地を出て京都に妙心寺を開創したと言う。
 高梨氏発祥地は、『信濃の山城と館8』では高梨氏館として記載されている。千曲川の東岸、現在の国道406号線のすぐ南に、「関山国師生誕地」という大きな石碑が建っている。遺構は全く無いので、石碑と解説板以外は望むべくもない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657041/138.280385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


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山田氏居館(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_6227.JPG←真法寺の門
 山田氏は、仁科氏の庶流で、応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が山田城(桝形城)を築いたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、この地に移り住んだと言う。3代原兵庫守は1578年3月に山城が焼却したので奥州に降ったとされるが、戦国期には山田城は高梨氏の支配下にあったはずで、時代的に矛盾する。結局正確なところは不明である。
 山田氏居館は、現在は真法寺となっている。特に遺構は見られないが、門前に山田氏居館の標柱と解説板が建っている。寺のすぐ北西には山田城がそびえている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.689810/138.366151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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山田高梨居館(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_6226.JPG←居館跡の果樹園と標柱
 山田高梨居館は、山田城(桝形城)主であった山田高梨氏の居館である。高梨氏は中野小館を本拠とした北信屈指の豪族で、山田高梨氏はその有力な分家である。鎌倉時代から1484年まで駒場に住し、室町後期の館主高梨日向守高朝は、山田城を詰城として大熊・江部を領有していた。1484年、惣領家の高梨政盛は、高野山参詣で高朝不在の山田城を奪取し、高朝は小県郡高梨村に落ち延びたとされる。
 山田高梨居館は、駒場堀之内と呼ばれる地にあったと考えられている。現在は果樹園になっており、明確な遺構は確認できない。南東隅に城趾標柱が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.688416/138.353555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


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草間城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6202.JPG←曲輪周囲の切岸と堀跡
 草間城は、高梨氏に属した草間氏の居城である。草間氏の出自には諸説あり、高梨氏の一族であるとも、佐久方面から入部した土豪とも言われる。草間氏は当初は大久保館に居住していたが、後に応永年間(1394~1427年)頃に草間城を築いて移ったのではないかと考えられている。1513年には、山ノ内の土豪小島氏・夜交氏らが中野氏の残党と組んで反抗を企てた時には、草間大炊助がこれを鎮圧した。また1551年に武田信玄に逐われた信濃守護小笠原長時は、草間城にしばらく滞在して兵力を整えたとも言われている。その後、草間氏は川中島の戦いで敗れ、越後に逃れたと言う。尚、草間城の西方約900mの位置にある立ヶ花城は、草間氏が築いた出城との説もある。

 草間城は、篠井川の北岸の微高地に位置している。城跡は現在宅地となっており、曲輪内に入ることはできない。東西に長い長方形の高台で、周囲に切岸が見られる。周囲は堀跡と考えられるが、埋められていて明確にはわからない。現況を見る限り、城とは名ばかりで単郭方形居館であった様である。尚、宅地入口の切岸上に城址標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.724507/138.321519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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割ヶ嶽城(長野県信濃町) [古城めぐり(長野)]

IMG_6154.JPG←三重堀切
 割ヶ嶽城は、北信濃に侵攻した武田軍が攻め落としたとされる城である。元は、平安末期にこの地の土豪柴津為信と言う武士の城とも伝えられるが、確証はない。戦国時代には信越国境の前線にあって、重要な軍事拠点となっていたと考えられている。1561年5月に武田軍が鰐ヶ嶽城を攻め落としており、これが割ヶ嶽城のことと推測されている。すぐ後の9月には激戦となった第4次川中島合戦が行われており、また1564年には野尻城の取り合いがあった。即ちこの地は、甲越両軍の激しい抗争の場となっていたことがわかる。

 割ヶ嶽城は、標高770m,比高125m程の城山に築かれている。連郭式を基本とした縄張りで、南東麓から登道が整備されている。南東斜面をジグザグに登っていく道で、かつての大手道と考えられている。この道は、一部が林道で破壊されている。この道の脇には竪堀の様な溝が降っているが、遺構かどうかは不明。山林搬出の溝であった可能性も考えられる。登道を登りきると、主尾根の南東下方の5郭に至る(以下、曲輪の呼称は『信濃の山城と館8』による)。ここには天水溜と思われる窪みがある。5郭の上に城の主要部がある。真ん中に主郭があり、北辺と西辺に低土塁が築かれている。主郭の西に堀切を挟んで二ノ郭があるが、主郭とニノ郭は堀切の両端に架けられた二重土橋で連結されている。更に西尾根の先に小郭7と、南斜面に6郭が築かれている。一方、主郭の北東には三重堀切が穿たれ、その先に4郭(実質的には三ノ郭)が置かれている。4郭の北斜面には竪堀が見られる。更に北の急峻な尾根には小郭2つと堀切2本が穿たれて、城域が終わっている。この他、南側の斜面に竪堀数本が穿たれているとされるが、現状を見る限りよくわからなかった。割ヶ嶽城は、要地にあって甲越両軍の攻防が繰り広げられた城ではあるが、全体的に規模は小さく、堀切も比較的小規模で、普請のレベルは大きくはない。期待して行ったが、少々肩透かしを食らった印象だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.809371/138.242061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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若宮城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_6030.JPG←三重堀切の一部
 若宮城は、奥信濃に大きな勢力を持っていた土豪芋川氏の居城と言われている。芋川氏の事績については芋川氏館の項に記載する。当初は鼻見城を詰城としていたが、後に若宮城を築いて居城を移したと考えられている。甲越合戦の頃、1561年に割が嶽城、1564年に野尻湖城が武田氏によって攻略されているので、その前方に当たる若宮城もそれ以前に武田方の手に落ちていたと推測されている。一方、別説もあり、芋川氏の要害城は鼻見城のままで、若宮城は1582年に上杉景勝が北信濃4郡を押さえた後に、上杉氏によって築かれたのではないかとの説もある。しかし鼻見城の遺構を見る限り、戦国後期の甲越両軍の厳しい対峙の時期に拠るにはいかにも城が小さ過ぎ、やはり若宮城を本城としていたものと個人的には考えている。

 若宮城は、標高680m、比高80m程の山上に築かれている。町史跡に指定されており、南東麓から主郭まで登山道が伸びている。これがかつての大手道であったらしい。大手道を登り始めるとすぐに右手に横堀があり、西園寺堀と呼ばれている。大きな堀ではないが、山腹の長い塹壕線でまっすぐ北側に伸び、北端は直角に曲がって竪堀に変化して落ちている。またその西側には帯曲輪があり、竪堀が穿たれている。西園寺堀を越えて尾根を登っていくと、数個の腰曲輪を経由して西園寺屋敷と呼ばれる四ノ郭に至る。四ノ郭は段差で区画された上下2段で構成され、背後の尾根に小郭と堀切が築かれている。更に登ると三ノ郭に至る。三ノ郭は全体が傾斜したやや削平の甘い曲輪で、後部に櫓台を築いている。櫓台の前面側方に竪堀が落ち、背後に堀切が穿たれている。その上がニノ郭で、その背後にも堀切が穿たれている。その上に主郭がそびえているが、主郭は内部が2段に分かれた方形の小さな曲輪である。主郭から四方に伸びる尾根は急峻で、これらの尾根上には曲輪群が築かれているが、主郭とは距離があり連絡できなくなっており、主郭は周囲からそびえ立った独立郭となっている。主郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれているが、深さは3m程でそれほど大きなものではない。この他、二ノ郭の南南西の尾根や主郭の南西の尾根に段曲輪群が築かれ、小堀切も穿たれている。また主郭の東尾根には堀切のほかに、尾根筋に平行に降る長い横堀が穿たれている。途中で竪堀の様に降りながら続いており、東端は折れ曲がって竪堀となって落ちている。以上の様に若宮城は、山全体に多数の曲輪を配置し、長い横堀線で防御した山城である。ただ曲輪はそれほど大きくないので、あくまで詰城として機能していたと考えられる。
主郭→IMG_5994.JPG
IMG_6075.JPG←東尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.792842/138.259120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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芋川氏館(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5903.JPG←北側の堀跡と土塁
 芋川氏は、平安時代以来の近衛家領芋川荘の荘官から発したとされ、この地に勢力を張った武士である。室町・戦国期には高梨氏に属し、越後上杉氏の勢力下にあった。1404年に高梨左馬助が室町幕府に背くと、細川兵庫助が鎮定に向かい、下芋川の要害(若宮城か?)が攻め落とされて城主の芋川長知は自害したとされる。戦国時代に入り、武田信玄が北信濃に侵攻すると永禄年間(1558~69年)の頃には芋川氏は武田氏に従属し、信越国境を守って上杉謙信に対抗する最前線にあった。要害城として若宮城・鼻見城などを築いていた。1582年、織田信長が武田氏を滅ぼすと、川中島4郡はその家臣森長可に与えられたが、北信の武田家旧臣は上杉景勝の支援を受けてこれに抵抗した。芋川親正は、武田氏滅亡後、直ちに上杉景勝への従属を求め、その後間もなく一向一揆を率いて蜂起した。武田旧臣の籠もる飯山城を包囲していた織田方の稲葉彦六の軍勢を更に包囲した後、大倉古城を取り立てて籠城する一方、長沼城を目指して進撃した。しかし森長可の軍勢に大敗し、そのまま大倉古城も落城して立て籠もっていた女・子供1000人余が虐殺され、一揆は鎮圧された。敗れた親正は上杉氏を頼って越後に逃れ、本能寺の変後に川中島4郡が上杉氏の支配下に入ると牧之島城在番を命じられる等、上杉氏の家臣として活動した。また1590年の豊臣秀吉の奥州仕置の際には、上杉勢の一翼として陸奥九戸や出羽庄内藤島に転戦した。1598年、上杉氏が会津に移封となるとこれに従ってこの地を離れた。

 芋川氏館は、現在民家となっているが、一部に遺構が残っている。基本的には単郭方形居館で、西と北の堀跡が一段低い畑地として残り、北西角の土塁も残存している。何より民家であるのに、こんな小さな居館跡にも解説板が設置されており、びっくりした。それによれば、過去の発掘調査で掘っ立て建物や柵列のほか、長野県下では類例のない障子堀が検出されたとのことである。障子堀の技術がどのように波及していったのかを考える上でも重要な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771772/138.257983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
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鼻見城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5852.JPG←三ノ郭と主郭切岸
 鼻見城は、奥信濃で大きな勢力を持っていた土豪芋川氏の初期の詰城と言われている。芋川氏の事績は芋川氏館の項に記載する。後に若宮城が築かれると、その支城となったと推測されている(別説もある)。「鼻見」とはおそらく「端見」のことであろうから、芋川氏の所領の南端を監視する物見を兼ねた要害であったと思われる。

 鼻見城は、標高722.6m、比高180m程のその名もずばり鼻見城山に築かれている。城までは北西の尾根筋に小道が延びており、軽トラやSUVなら城近くまで車で行けるが、私は途中で車を降りて、延々と歩いて訪城した。城跡は非常に綺麗に整備されており遺構が見やすい上、城自体の普請も丁寧にされているので、なかなか見応えがある。堀切で分断された主郭と二ノ郭を東西に伸びる尾根上に築き、主郭北側に三ノ郭、主郭と二ノ郭の南斜面に腰曲輪や帯曲輪を数個築いただけの簡素な構造である。しかし主郭切岸が非常に綺麗に普請され、その北側下方の三ノ郭には復元された井戸もある。決して大きな城ではなく、縄張りも素朴な形態の古い城であるが、綺麗な城であるので一見の価値がある。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_5854.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.776000/138.249035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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矢筒城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5787.JPG←稜堡式のような三角形状の出桝形
 矢筒城は、北国脇街道と各街道が合流する要衝に築かれた、北信濃の拠点城郭である。1513年の越後守護代長尾為景の福王寺彦八郎宛の書状に記載された福王寺要害が矢筒城のことだと推測されている。この頃は福王寺氏が城主であったが、永禄~天正年間(1558~92年)にはこの付近は島津泰忠の本領であったとされ、島津氏が城主であったとも伝えられるが、天正年間(1573~92年)に福王寺氏の存在も確認されており、この間の状況は不明である。1582年、織田信長の武田征伐が始まり織田軍が信濃に侵攻すると、海津長沼両城に拠っていた武田勢は上杉景勝に援軍を要請し、景勝は上条宜順を主将とする援軍を直ちに派遣した。この時上杉軍は矢筒城で合流し、長沼城に入城している。また景勝は福王寺氏らに対し城を堅固にするよう指示しており、信濃に入った上杉軍を動員して城の修築がされたと考えられている。その後、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、北信濃4郡は上杉氏の支配下に入り、矢筒城もその持城となって整備拡張された。その後の歴史は不明である。

 矢筒城は、標高566.6mの矢筒山というなだらかな山容の独立丘陵全体を城砦化した城である。町立飯綱病院の裏山がそれで、城内は公園化されているので比較的遺構が見やすい。なだらかな丘陵上に幾重にも曲輪を築いた多段式の城で、曲輪間は段差で区切られているだけで、堀切は見られない。切岸の一部に物見台のような土壇や内桝形の様な形状が見られる程度である。土塁も少ない。一部の段差部に石垣が見られるがわずかである。但し、大手虎口と思われる登り道脇や搦手道にははっきりとした石垣があり、虎口は石垣造りだったらしい。しかしいずれも低い石垣で、雑草が生えてくる時期には見辛くなってしまう程度である。一番はっきりしているのは主郭の南側腰曲輪にある石塁である。また主郭東側の腰曲輪から二ノ郭に通じる虎口には三角形状の小型の出桝形があり、まるで稜堡式の様である。幕末に何か使われることでもあったのだろうか?戦国~安土桃山時代の遺構だとすれば、かなり珍しいものである。この他、東側の山腹には横堀が延々と穿たれ、北西端でニノ郭先端から落ちる竪堀と繋がっている。尚、往時は飯綱病院の所に居館があり、その外周には外堀があったとされる。現在は車道になっているが地形は名残を留めている。城の南の車道脇には舟繋石の標柱が立っているが、他の方が撮った写真の様な石はなく、どこかに持ち去られてしまった様だ。以上の様に矢筒城は、縄張としては単に無数の曲輪を連ねているだけであまり面白味はないが、織田信長の武田征伐とも関係した歴史的には重要な城である。その様な点も含めて出羽長谷堂城とよく似た印象の城である。
二ノ郭から落ちる竪堀→IMG_5724.JPG
IMG_5806.JPG←南腰曲輪の石塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749459/138.233414/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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