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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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西門館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9787.JPG←主郭南の堀跡らしい窪地
 西門館は、葛西大崎一揆の最終局面、佐沼合戦で伊達軍と戦って討死した千葉越前道胤の居城である。道胤は、奥州千葉氏の一流下油田千葉氏の出で、葛西氏の重臣であった。1579年の寺崎良次と富沢直綱との抗争の際、千葉良胤・道胤父子が寺崎氏に加わって活躍し、道胤は戦功により加増を受けた。その後、父と共に栗原郡石越村に西門館を築いて居城を移したと言う。1591年の葛西大崎一揆の際、道胤は旧臣達を糾合して挙兵し、佐沼城に立て籠もった。しかし伊達軍の攻撃を受け、佐沼城から迫川を渡った地で討死したと言う。

 西門館は、JR石越駅のすぐ東側に広がる比高15m程の丘陵上に築かれている。地形を見ると熊野神社の西側が丘陵の頂部で、主郭があったと思われるが、現在は民家が建っている。おまけに『日本城郭大系』によれば、頂部の平場(主郭)は土取で削られたらしい。熊野神社の境内も城跡のはずだが、近くにいたお婆さんに聞いたところ神社付近は城跡ではないとは言っていた。どこかで伝承が誤ってしまったのだろう。主郭付近の南側には堀跡らしい窪地も見られる。この他、丘陵西端にも神社があり、そこは小さな平場になっており、物見台だったと思われる。西門館は、遺構がかなり失われており、標柱もないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.768757/141.162386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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西郡古館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9757.JPG←主郭周囲の切岸地形
 西郡古館は、伊達氏の重臣大内氏の江戸前期の居館である。その事績は御館の項に記載する。大内左兵衛備前守重綱は、1644年に登米郡西郡村(現在の錦織)など1264石を拝領し、前の西郡村の領主小梁川氏と入れ替わりにこの地に入部し、西郡古館を居館とした。以後幕末まで大内氏は西郡の領主であったが、1740年に新たに御館を築いて居所を移した。

 西郡古館は、北上川東岸の比高10数mの丘陵先端の台地上に築かれている。現在は畑地となっている他、先端に当たる西端部は国道が貫通して削られてしまっていて、全体に改変を受けているが地勢は往時の面影を残している。主郭であろう畑の登り口には標柱が建っているが、明確な遺構はなく、平場になったただの台地だけが見られるだけである。大阪の陣が終わってから30年近く経っての築館なので、もはや厳重な防備など必要ない時代になっていたのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.725045/141.271777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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タグ:居館
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黒沢氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9742.JPG←標柱の建つ居館跡付近
 黒沢氏居館は、御館・紅梅館とも呼ばれ、1723年に黒沢俊栄が中津山三千石の領主となって以降、その歴代の子孫の居館であった。黒沢氏の事績についてはよくわからないが、伊達家の家臣だったのだろう。黒沢氏7代150年の居館で明治維新まで存続した。尚、館の近くに矢の目という集落があり、名取郡矢の目足軽20人が黒沢家の御予け足軽として置かれた所と伝えられる。矢の目足軽については、下野郷館の項に記載する。
 黒沢氏居館は、室町時代に中津山氏が居城した中津山城(大館城)の一郭に相当する場所に築かれたらしい。細長い丘陵の上に位置し、屋敷は方1丁あったと伝えられる。往時は豪華な館や追手門が建っていたが、明治初年に焼失してから畑地と化したと言う。河北地区の『ふるさとの文化財』(昭和47年)という文献によれば、「紅梅の老木と物見櫓のあった高台がわずかに昔の面影を留めている」と記載されているが、現状ではよくわからない。おそらく既に湮滅してしまっているのだろう。標柱だけは民家の庭先にあり、居住者の了解を取って写真だけ撮らせてもらった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.560650/141.253774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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タグ:居館
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葛西氏・大立目氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9733.JPG←居館跡の小学校
 葛西氏・大立目氏居館は、藩政時代に伊達家の家臣葛西氏、後に大立目氏の居館である。伊達家の藩制で言う「飯野川所」(「所」は「要害」の下のランク)である。葛西氏は奥州の名門の流れであるが、葛西大崎一揆が鎮圧された後、その一族は伊達氏・南部氏などに出仕して家名を存続しており、飯野川所の葛西氏は「仙台藩葛西家」と呼ばれる。葛西氏20代重常の時に山崎館からこの地に居館を築いて移住した。1769年、24代葛西清興が失脚して知行地を没収されると、1775年に大立目盛行が相野谷村を拝領して領主となり、元葛西氏居館に居住した。大立目氏は、伊達家御一族格に列し、禄高千石、家中25人を抱えたと言う。93年に渡る治世の後、明治維新を迎えて領主を辞した。

 葛西氏・大立目氏居館は、現在の飯野川小学校の地にあった。遺構は全くなく、校門の脇に標柱が立っているだけである(今時分、当然校地には無断では入れない)。その標柱も植栽に埋もれている上、ペンキが剥げて字がほとんど読めなくなってしまっている。なんとも残念な状況である。
 尚、居館地のすぐ西の丘陵(亀ヶ森公園)中腹に、大立目氏の廟所が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.517247/141.317418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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タグ:陣屋
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一栗城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4024.JPG←小館から見た大堀切と中館切岸
 一栗城は、大崎氏の重臣で岩手沢城主氏家氏の一族一栗氏の居城である。当初は一栗放牛が古館を築いて居城としたが、戦国末期にその孫の兵部隆春が新たに一栗城を築いて居城を移したと言われる。城内は、東館(三ノ郭)・中館(主郭)・小館(二ノ郭)・西館(四ノ郭)が馬蹄形に配置され、中館には城主一栗兵部隆春が、東館には隆春の家臣千田雅楽之丞が、小館には同じく家臣の半田土佐守が、西館には隆春の祖父で隠居していた一栗放牛が居住していたと言う。1591年の葛西大崎一揆の時、隆春は一栗城に二百数十名の郎党と立て籠もって、一揆鎮圧を進める伊達政宗の軍勢を迎え撃とうとしたが、政宗は一栗城を無視して東の栗原郡に向かって兵を進めた。これは、一栗氏を含む氏家一族が大崎家中では親伊達派であったため、政宗は敢えて見逃したとも言われる。しかし祖父放牛と共に猛将として知られる隆春は、「小城ゆえに無視された」として怒り、郎党を引き連れて一揆勢の最後の拠点佐沼城に入った。隆春は猛将の名に恥じぬ活躍を見せて、攻め寄せる伊達勢を翻弄した。隆春はここで討死したとも、出羽最上氏の元に逃れたとも伝えられる。放牛も、92歳と言う高齢にも関わらず果敢に戦って討死したと言う(戦国武将の討死としては、おそらく最高齢)。一栗氏滅亡後、一旦廃城となったが、江戸時代には大崎氏の元家臣四釜氏が一栗城で居住した。

 一栗城は、江合川東岸の標高140m、比高60m程の丘陵上に築かれている。南西麓の車道脇に解説板があり、その奥に大手道が残っている。この大手道は、一ノ木戸の先にひな壇状に連なった曲輪群の中央を貫通し、最上段で左折して東館の西側斜面に回り込んでいる。途中は横堀状の通路となり、また櫓台を伴った木戸口(二ノ木戸)もある。その先に進むと中館(主郭群)と東館の間の鞍部の曲輪(堀切兼用)に至る。ここから南に登ると東館で、縦長の曲輪となっており、東辺に低土塁を築き、南端に櫓台を置いている。その先の南尾根には小堀切が穿たれ、更に土壇と細尾根が伸び、尾根の南端に物見台が築かれている。ここは城域の南端に当たり、物見としては絶好の位置にある。また東館の西の塁線上からは大手の城道が監視できるようになっている。東館の北側は、前述の鞍部の曲輪に向かって土塁が伸びている。堀切を兼ねた鞍部の曲輪から中館に向かって木戸口(三ノ木戸)があり、両側に腰曲輪と櫓台が築かれている。ここは、東館の土塁上と木戸口両翼の塁線上の3ヶ所から同時に攻撃を受ける、必殺のクロスファイヤーポイントで、厳重な防御線が構えられている。中館は、南と西に2~3段の腰曲輪を築き、東に伸びる尾根には大堀切を穿って、背後を分断している。堀切手前には櫓台らしい土壇を築いている。中館の大手虎口は西の腰曲輪に向かって開いている。腰曲輪から北に進むと大堀切を挟んで小館に至る。二ノ郭は後部に土塁を築き、東から北にかけて腰曲輪を築いており、特に北に向かって腰曲輪が広がっている。小館を西に進むと、土橋の架かった堀切を介して西館に至る。西館の虎口は小型の桝形虎口になっている様だ。西館も北に腰曲輪を築き、南西端の土塁の先に小堀切を穿っている。その先の細尾根には特に遺構は見られない。西館の北に伸びる尾根にも舌状曲輪がある様だが、時間の都合でパスした。以上が一栗城の遺構で、全ての曲輪群は堀切で分断され、東館・西館共に先端の尾根筋に小堀切を穿っている。腰曲輪も比較的規模が大きく、全体に普請はしっかりしている。虎口は平易な坂虎口が主であるが、大手道が完存しているなど、城の構造がわかりやすい。さすがは戦国末期の城だけのことはあると感じた。

 尚、城の南東麓の樹林寺には、寺の開基である一栗兵部隆春の供養碑が建っている。
腰曲輪群を貫通する大手道→IMG_3872.JPG
IMG_3884.JPG←大手道途中の二ノ木戸
西館~小館間の堀切→IMG_4046.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.695207/140.857837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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一栗古楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3823.JPG←主郭東側の大堀切
 一栗古楯(一栗古館)は、鹿ヶ城、八幡館とも呼ばれ、戦国時代に大崎氏の家臣で岩手澤城主氏家氏の一族、一栗放牛によって築かれ、その子氏家宗蓮も居館とした。戦国後期に放牛の孫、兵部隆春は一栗城を築いて居城を移した。この時、古楯が廃されたのかは不明だが、一栗城防衛の支城として残されたのではないだろうか。
 尚、一栗(氏家)兵部隆春が一栗城を築城した際、その記念として植樹したと伝えられる大きなヒバの木が、古楯の南中腹に建つ八幡神社宮司の家の庭先に見事な姿を残している。

 一栗古楯は、江合川東岸の比高70m程の舌状丘陵先端部に築かれている。主郭には現在古館八幡神社が建っているので、参道が整備されており、簡単に登ることができる。最初の鳥居をくぐって階段を登っていくと、西側に腰曲輪が幾つか確認できる。中腹は広い平場になっていて、前述の通り宮司の家などが建ち、畑などが広がっている。往時はここも一郭であったろう。更に参道の階段を登ると、神社の建つ主郭に至る。主郭は比較的小さな曲輪であまり居住性はない。神社の東側に古墳があり、往時は物見台になっていたと思われる。主郭の西側には馬蹄形曲輪が一段、南斜面にも腰曲輪があるが、神社建設で一部改変されている。一方、主郭の東側には城郭遺構がよく残っている。主郭は高さ10m程の切岸でそびえており、東尾根を大堀切で分断している。その東も平場となっており、外郭があったと思われるが、藪が多いので未踏査である。大堀切は堀底道を兼ねており、南北の腰曲輪を繋いでいる。堀切の南側は側方に土塁を築いた通路となっており、木戸口か何かがあったようだ。南の腰曲輪は比較的広く、南西部に虎口があって、竪堀状の城道に繋がっている。この部分は参道の階段脇に見ることができる。その他、南側に何段か更に腰曲輪が築かれている。一栗古館は、一栗城に行く途中でたまたま標柱を見つけて立ち寄ったが、予想以上に城跡らしい遺構が残っていた。

 尚、城の名称であるが、普通は単に「古楯(古館)」と呼ばれるが、古楯という城館は各地にあるので、ここでは他と区別する便宜上、「一栗古楯」として記載した。
古墳のある主郭→IMG_3804.JPG
IMG_3811.JPG←南腰曲輪の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.690082/140.863631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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原田家屋敷(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3770.JPG←屋敷跡の現況
(以前は指差している部分に屋敷跡の
立看板があった)

 原田家屋敷は、一時期伊達政宗の居城になっていた岩出山城の南の谷戸状の平地に築かれた伊達氏重臣の原田氏の屋敷跡である。ここには原田氏3代、即ち17代左馬之助宗時、18代甲斐宗資、19代甲斐宗輔が居住したと言われている。
 以前は北東角の道路脇に立看板で屋敷跡の表示があったらしいが、今回行ってみたところ看板がなくなっていた。明確な遺構もないので、看板がなければ屋敷跡であることが忘れ去られてしまうだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.651701/140.858610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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丸山館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3709.JPG←大館南側の空堀
 丸山館は、大崎天文の内乱の際に、大崎義直と伊達稙宗が岩手澤城(後の岩出山城)攻撃の本陣を置いた城である。一名を照井城とも言い、元々は平安末期の承安年間(1171~75年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が築いて居城としたと言われている。そして1189年の源頼朝の奥州合戦の際には、高直は鎌倉勢の先発軍である仁田四郎忠常と照井城に立て籠もって戦い、城は攻め落とされ、高直は討死した。その後この城が歴史に現れるのは、前述の通り大崎天文の内乱の時である。内乱の経緯については、泉沢城の項に記載する。1536年、独力での内乱鎮定ができなくなった大崎義直は、伊達稙宗に援軍を要請し、これに応じた伊達勢と共に叛乱勢力の拠点となっていた古川城を攻め落とした。反乱軍の中心であった新田安芸頼遠は岩手澤城に逃れて立て籠もった。大崎・伊達連合軍は岩手澤城攻撃の為、丸山館に2ヶ月に渡って本陣を置き、出羽の最上義守の調停でようやく岩手澤城を開城させて反乱を鎮定した。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易され、葛西大崎一揆を経てその旧領が伊達政宗に与えられると、秀吉の命により岩出山城に居城を移した。この時、丸山館を改築して東御所と称し、政宗の母の居館とした。関ヶ原合戦後に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、丸山館は廃城となった。

 丸山館は、蛭沢川西岸の標高77m、比高30m程の独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、小館・中館・菱館・大館・空館から成っていたとされる。以前は南西麓に登り道があったようだが、現在は深い薮に埋もれており、南西からの登城は不可能である。その為、少々斜度がきついが薮の少ない北東斜面から直登した。主郭に当たるのが大館で、五角形の曲輪で周囲を土塁で防御しているが、郭内は藪で進入困難である。大館は、北東辺は山の急な斜面に面しているが、それ以外の周囲には空堀が穿たれ、その周りに曲輪が配置されている。どれが小館等の曲輪に相当するのかは情報がなく明らかではないので、ここでは大館北西の曲輪を西郭、大館南東の曲輪を南1郭、その南の曲輪を南2郭、大館東の曲輪を東1郭、その南の曲輪を東2郭と呼称する。大館と南1郭の間には土橋が架かり、また南1郭から東2郭へも土橋が架かっており、城内で確認できた土橋は合計2ヶ所である。東1郭は大館側だけに土塁を築いた三角形の曲輪となり、北端は隅櫓台となっている。大館の南東は空堀の十字路となっており、堀底を東に下っていくと東麓の民家に通じているようなので、堀底道として機能していたことがわかる。東2郭は南西角部に大きな櫓台がある。大館の南西側は比較的薮が少なく、空堀も見易い。空堀外側には土塁と腰曲輪が築かれ、中央部には竪堀状の虎口が見られる。この腰曲輪は、大館南北の空堀をそのまま掘り切った竪堀で南北を区画されている。大館の西には空堀を挟んで西郭があるが、ここも藪で進入困難である。大館と西郭の間の空堀が北斜面まで掘り切った先には、細尾根状の物見台が突き出しており、その脇には竪堀が落ちている。大館北東側の急斜面には帯曲輪が築かれ、大館に向かって竪土塁状の城道が登り、虎口が築かれている。帯曲輪の南東端部には虎口が築かれ、竪堀状の城道となって斜面を下っている。以上、主郭である大館の周囲を中心に遺構を探索したが、遺構はよく残っているもののかなりの部分が深いヤブに覆われていて、踏査が容易ではない。震災復興が続いている宮城県では仕方のないことであるが、この未整備の状況は残念というほかはない。
南1郭の東側切岸→IMG_3698.JPG
IMG_3735.JPG←北端に突き出した物見台
1975年の航空写真と曲輪名→航空写真1975.jpg
(画像クリックで拡大)
〔写真出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス〕

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪が酷いので☆1つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.630349/140.879166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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泉沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3645.JPG←主郭
 泉沢城は、大崎氏の一族で大崎天文の内乱を起こした新田安芸頼遠の居城である。当主大崎義直の横暴に怒った頼遠は、1534年、中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って叛乱を起こした。これが大崎天文の内乱で、義直は直ちに頼遠討伐に出陣したが、古川・高泉(高清水)・一迫氏ら大崎氏一族の他、重臣の氏家氏まで叛乱に加担し、大崎家中を二分する大規模な内訌となった。翌年、義直は頼遠の拠る泉沢城を攻撃して降し、頼遠は古川氏の居城古川城に逃れた。その後は古川城が反義直方の拠点となった。その後、一旦は義直方の部将氏家清継が制圧していた岩手澤城が、再び叛乱軍の氏家安芸守によって奪還され、更に高泉直堅が義直方の諸城に火を放って古川氏を援けた。こうして家中の内訌を独力で鎮圧できなくなった義直は、1536年に桑折西山城に自ら出向いて伊達稙宗に援軍を要請し、これを大崎氏への影響力拡大の好機と捉えた稙宗は支援を承諾して、自ら三千余騎を率いて大崎領に進軍した。伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、義直は伊達氏の援軍によって古川城を落とし、その後叛乱軍の最後の拠点となった岩手澤城を2ヶ月に渡る攻城戦の末に出羽の最上義守の調停で開城させて、義直はようやく叛乱を平定した。乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びた。その後の泉沢城は、大崎義隆(義直の子)の家臣遠藤和泉守の居城であったと言われるので、遠藤氏に与えられた様である。

 泉沢城は、大崎氏の居城とされる名生城から、谷戸を挟んですぐ北の台地辺縁部に位置している。比高20m程の台地の南東端部に築かれており、昭和30年代後半の航空写真を見ると空堀で区画された東西2郭で構成されていた様で、東の広い曲輪が主郭であろう。主郭は現在は畑となっているが、曲輪の形は往時のまま残っており、西辺には土塁が残存している。北西隅には辛うじて建っている倒れかけたお堂があり、その背後には隅櫓台の土壇がある。西の二ノ郭も畑になっているが、主郭との間の空堀は埋められて湮滅している。二ノ郭周囲も切岸や空堀で防御されていたと思われるが、周囲は全て耕地化しており、旧状はかなり失われている。また以前は南麓の宅地前に城址標柱が立っていた様だが、現在はなくなっている。対岸の名生城と同様、辛うじて遺構が残る城である。遺構はあまり期待できないが、名生城との近さを考えれば、泉沢城が大崎氏にとって重要な城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.617072/140.893221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三丁目城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3616.JPG←堀跡らしき低地
 三丁目城は、奥州探題大崎氏の重臣で岩手沢城主氏家氏の一族の城である。城址に建つ薬王神社の社伝によれば、大崎氏の祖斯波家兼の家臣氏家三河守が守護神として深く信仰したとあり、家兼の奥州下向の頃から氏家氏の拠点の一つとして重視されたものらしい。大崎天文の内乱で大崎義直に反抗した氏家直益は、乱の後に家督を嫡子隆継に譲って、自身は三丁目城に隠棲したと言う。

 三丁目城は、江合川東岸の比高わずか数mの低台地上に築かれている。主郭には現在、前述の通り薬王院神社が建っている。周囲に土塁らしい跡があるが、神社建立に伴う改変である可能性もあり、遺構かどうかはっきりしない。主郭の西側に二ノ郭があったと思われるが、現在は民家が建っている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、民家のある二ノ郭は、半円形を変形させた不定形の曲輪であった様だが、現在は地形自体がかなり改変されてしまっているので、南側の切岸ぐらいしか往時のままと思われる地形は無いと思われる。また主郭から二ノ郭にかけての南側は、耕地が低地帯となっており、堀跡だったのではないかと推測される。歴史的な経緯からすれば、隠居城とは言えそれなりの重要性を持った城であったはずだが、現在の姿からは残念ながらそうした過去の姿は見出だせない。また城址標柱も解説板もないのも残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.620458/140.917146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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宮沢遺跡 外郭遺構(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3574.JPG←北西部の三重空堀の一部
 古代城柵跡である宮沢遺跡については、以前に東北自動車道沿いにある中心部の遺構を訪城したが、その後調べたところ、かなり離れた部分の外郭線にも遺構が現存していることがわかった。そこで晩秋の時期を狙って再訪した。
 再訪したのは外郭の北西部遺構と北辺部中間に当たる長者原地区の遺構である。まず北西の外郭線には、車道脇からちょっと森林公園内に入った所に、中規模の土塁状になった築地跡と空堀が残存している。古代城柵としては驚くほどよく残っており、しかも三重空堀となっている。そこから100m程北側にも更に外周を巡る1条の空堀と築地跡が見られる。また三重空堀の城内側には標高56.6mの小丘(糠塚山)があり、物見台となっていたと思われる。一方、長者原地区の遺構は、わずか10m程しか遺構が残存していないが、北端部と同様に三重空堀と築地跡がはっきりと残り、史跡として保護されている。これらは古代城柵の表面遺構としては極めて貴重なもので、かつ良好に残っている。三重もの空堀で防御した様は、蝦夷との抗争がいかに苛烈なものとなっていたかを物語っている。
長者原地区の空堀・築地跡→IMG_3603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【北西部遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.629209/140.952873/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【長者原地区遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.628069/140.956864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 単行本


タグ:古代城柵
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秋保上館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3475.JPG←帯曲輪と切岸
 秋保上館は、上館城とも呼ばれ、秋保郷の土豪秋保氏の庶流馬場秋保氏の城である。戦国時代に秋保氏15代盛房の弟、馬場盛義が馬場村に分封されて馬場秋保氏の祖となり、上館を築いて居城としたと言われている(盛房の次男、賀沢左衛門が城主であったという説もある)。その後、永禄年間(1558~69年)に孫の定重が豊後館を築いて居城を移すまで、その居城となった。

 秋保上館は、名取川支流の南岸に張り出した舌状丘陵先端に築かれている。主郭には現在、馬場愛宕神社が建てられており、参道の階段があるので、簡単に登ることができる。主郭は北側は急峻な断崖となっているが、南側は比較的緩い斜面となっているため、ここに4段の帯曲輪群が築かれている。台地基部に当たる主郭の西側には堀や土塁状の地形が見られる。複雑に派生・屈曲した形をしており、通常の堀切とは形状が異なっている。遺構かどうか悩ましいが、しかし土塁は土が固いので遺構の様である(麓の解説板にも空堀があると記載されている)。堀の北端は掘り切られておらず、土橋で連結されている。この他、主郭の東の急峻な斜面下にも円弧状に空堀が取り巻いている。秋保上館は、遺構は残っているが小規模な城館で、あくまで居館機能を主眼としたものだったと推測される。

 尚、城の名称であるが、普通は単に「上館」と呼ばれるが、上館という城館は各地にあるので、ここでは他と区別する便宜上、「秋保上館」として記載した。
空堀北端の土橋→IMG_3519.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.271509/140.646780/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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砂金城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3411.JPG←広い主郭
 砂金城は、本砂金城とも呼ばれ、伊達氏家臣砂金氏の元の居城である。戦国後期に前川本城(中ノ内城)を築いて居城を移すまで、歴代の居城であった。砂金氏の事績は前川本城の項に記載する。

 砂金城は、標高250m、比高60m程の丘陵上に築かれている。南麓の国道457号線脇に城址解説板が建っている。特に明確な登り道はないので、解説板付近から適当に斜面を直登するしかない。遺構は、山頂の主郭から南東の尾根・その南に派生する中央の南尾根・その左方に位置する南尾根と三方に広がっている。斜面を登っていくと、中央の南尾根先端の小郭に至る。小郭と後ろの尾根上の曲輪との間は小堀切が穿たれている。尾根上の曲輪は縦長の平場で、奥に木戸口のような土盛があるが、少々草木で荒れており遺構かどうかは明確ではない。この先は南東尾根へと武者走りが斜面を迂回するように続き、南東尾根の曲輪群に至る。南東尾根は主郭の手前に築かれた二ノ郭を中心に、二ノ郭の西から南にかけて腰曲輪が取り巻き、その南東に2つの舌状曲輪を築いている。二ノ郭の南端には両側に土塁を築いた虎口があり、北側には主郭に至る大手道があり、側方に櫓台を築いている。その西側に二ノ郭北西端から西の谷戸に降る道がついている。道の上部側方も土塁で防御されている。この谷戸に水の手があったらしい。一方、大手を登ると主郭に至る。主郭はまとまった広さをもった城内最大の曲輪で、西と南に腰曲輪を築いている。特に南の腰曲輪では、腰曲輪からの主郭虎口に櫓台が設けられ、2段ある内の上段の腰曲輪に、土塁で囲まれた小さな穴蔵のようなものが2つ並んでおり、何らかの備蓄庫になっていた可能性がある。南の腰曲輪を2段経由して、その下の三ノ郭に至る。三ノ郭は単純な舌状の平場で、腰曲輪は見られない。一方、主郭の後部に土壇があり、その上からは主郭全体が見渡せる。その裏はやや幅狭の尾根となって北に続いており、小堀切が穿たれている。以上が砂金城の遺構で、大規模な城ではないが、この前に行った大森山楯と比べれば、遥かに城らしい遺構が見られる。
二ノ郭虎口→IMG_3328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.241618/140.648217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大森山楯(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3227.JPG←北腰曲輪から見た主郭
 大森山楯(大森山館)は、大森和泉守という武士の居城であったと伝えられている。しかし大森和泉守の事績は全く不明で、どの時代の武士かもわからない。現地標柱には「安倍一族の智将」とだけ記載されているが、前九年合戦で滅ぼされた安倍頼時・貞任の一族ということであろうか?一方で解説板には、「この山城の築城は戦国時代と思われる」とあり、詳細はよくわからない。

 大森山楯は、前川本城から南西に2.3kmの位置にそびえる標高421.7m、比高220mの大森山に築かれている。大森山は3つの峰から成る山稜で、城はこれら3つの峰全体を城域としている。東の峰から順に東出曲輪、主郭、二ノ郭、主郭と二ノ郭の間の鞍部が三ノ郭と思われる。北東麓より、東出曲輪にある青森(あおそ)神社に至る登り道が付いている。ここから鳥居をくぐって登ると、北東に伸びた尾根の先端に至る。ここには倒れた石祠があり、明確な普請はないが、自然地形の平場となっており、北端の物見であったと思われる。ここから延々と南西に尾根筋を登っていくと、ようやく東出曲輪に至る。頂部は平坦で、青森神社の崩れた石祠とガマガエルの石像がある。東側に3段の腰曲輪が確認できる。ここから西の鞍部を越えた第2峰に主郭がある。道が明確なのは東出曲輪までなので、ここから先は藪漕ぎをしながら登るしかない。主郭は周囲を低土塁で囲まれた縦長の曲輪で、南側は土塁が開いており虎口を形成していた様であるが、主郭内は枯れ草の藪で覆われ、明確には判別できない。北・東・南に腰曲輪を伴っている。南は2段程に分かれて南西尾根に繋がっている。南の腰曲輪の先に小堀切が穿たれている。この堀切を北に降った先は広い谷戸になっており、何段かの平場が確認でき、解説板にある「井戸沢」と呼ばれる水の手と思われる。前述の堀切から先はV字状に曲がった平坦な尾根で、堀切近くに土塁も見られることから三ノ郭であったと思われる。V字の頂点に当たる南端部はわずかに高くなっており、物見台であったと考えられる。ここから北に進むと、ピーク上に曲輪があり、ここではこれを二ノ郭としておく。二ノ郭の北側にも堀切があり東側に長い竪堀となって下り、二ノ郭側に竪土塁が築かれている。この北のピークにも曲輪があったかもしれないが、藪がひどかったのでここで撤収した。後でよく考えたら、この北のピークが本当の二ノ郭だったかもしれないが、見ていないのでなんとも言えない。
 尚、大森山の3つの峰で最も高所にあるのは西の第3峰だが、解説板はそれより低い真ん中の第2峰を主城としているので、ここでの表記もそれに従った。また解説板によれば、山の西に広がる平地が武芸の訓練をした「武士平」、山の北側に大手門があったので「大手原」と呼ばれていると言う。

 以上の通り、大森山楯は一城別郭の構成で、山全体を城域とした広い城だが、縄張りは古色蒼然としたもので、技巧性もなく、期待できる遺構は見られなかった。元々この城に登ったのは、近くの前川本城があまりに素晴らしかったので、その近くにある山城はどうなのかという興味からであったが、残念な結果に終わった。
主郭南西尾根の堀切→IMG_3294.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.160746/140.608156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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小野御所(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2589.JPG←北郭の低土塁
 小野御所は、小野館とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の初代斯波家兼が築いた大崎五御所の一つと言われている。しかし大崎氏は奥州仕置で改易されてしまった為、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の本拠がどこであったのか、必ずしも明確ではない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、小野御所の他にも師山城中新田城名生城などが居城であったと言われ、これらをまとめて大崎五御所などと言い伝えられているが、諸説あってはっきりしない。戦国期には名生城が本拠であったとの説が有力である。但し、戦国前期の天文年間(1532~55年)に大崎氏の内乱鎮圧に力を貸した伊達稙宗が、次男小僧丸(後の大崎義宣)を大崎高兼の養嗣子として送り込んだ時には、小僧丸と結婚した高兼の娘梅香姫は絶世の美女と言われ、母と共に小野御所に住んだと言われる。これが正しいとすれば、戦国期にも大崎氏の重要拠点の一つとして機能していたのだろう。

 小野御所は、低地帯に張り出した比高10m程の台地上に築かれている。現地標柱によれば、往時は周囲を「千枝の湖」と言う水を湛えた池沼で囲まれた屈指の要害であったらしい。梅香院の東の台地が「内館」と呼ばれる城館の中心部で、南北に曲輪があり、更に南に高台となった外郭がそびえている。仮に北から順に北郭・中央郭・外郭と呼称すると、北郭には低土塁が築かれ、更に北西側下方を腰曲輪で防御している。堀切を挟んで中央郭があるが、真ん中を道路が切り通し状に貫通している。おそらく道路南の部分まで曲輪が繋がっていたと推測される。中央郭は西側に大土塁が築かれ、中央郭の背後は台地を削り残した高さ8mもの垂直に近い切岸となっている。その上に外郭がそびえている。外郭は東西に長く伸び、内館を囲むように置かれている。外郭の外周にも低土塁が築かれ、西端には櫓台が張り出している。南面にも腰曲輪があり、現在民家がある部分も曲輪であったと思われる。民家入口には竪土塁状の土盛が見られる。即ち内館は、南は高台の外郭に囲まれ、北側は池沼で防御された要害であったと推測される。尚、内館の東西には東舘・西舘の地名が残り、外郭土塁の東端部は道路を塞ぐ様に突出しており、木戸口となっていたのかもしれない。宮城県遺跡地図を見ると西にやや離れて普月館という城館があるが、小野御所の西方を防衛する外郭として、大崎氏の家臣が居住したものであろう。
中央郭西側の大土塁→IMG_2619.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.623308/140.995166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新庄館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2362.JPG←主郭塁線の張り出し
 新庄館は、歴史不詳の城である。江戸後期に編纂された『高清水拾遺志』によれば、鎌倉~南北朝期に新庄伊賀守が築城し、その後大崎詮持の子高泉出羽守持家が1356年に東館(高清水城)を築くまで居城したと言う。その後長い間城主不在であったが、天正年間(1573~92年)に高清水直堅がこの城を改修して居住したとされる。しかし『高清水拾遺志』は記述自体に錯誤が多くそのまま信ずるできないとされる。

 新庄館は、標高49.5mの丘陵上に築かれている。この丘陵は、城のすぐ脇を東北新幹線が貫通しているので、城も一部が破壊されたと思っていたが、幸いなことに遺構の破壊はほぼ免れている。南に傾斜した斜面に東西に長い主郭群が築かれ、内部は3段に分かれている。北の平場が最も高く、土塁で西・北・東の三方を囲んでいる。北西の土塁の隅部に地形図にある三角点が設置されている。土塁の外周は空堀が穿たれているが、西面のものはかなり浅くなっている。北面のやや東寄りには土橋が架かっており、搦手虎口が築かれている。空堀の外周も土塁が築かれており、北西部に櫓台の様な土壇が見られる。主郭群の南にも更に2~3段の腰曲輪が築かれ、主郭群塁線から一部横矢が掛けられている。主郭群の東は、前述の空堀と合わせて二重堀切で分断され、その東に二ノ郭があるが、削平が甘い平場である。二ノ郭南には一部に土塁があり、南東下部には枡形虎口の様な空間がある。二ノ郭東側は切岸は明瞭だが、堀切はかなり浅く、ほとんど分断効果を持っていない。新庄館は、一部に横矢掛かりが見られるものの、基本的には直線的な空堀・堀切で構築されており、戦国期以前の古い形態を残した城と考えられる。
主郭外周の空堀→IMG_2420.JPG
IMG_2462.JPG←主郭東側の二重堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.661219/141.020615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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藤沢館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2284.JPG←主郭切岸と空堀
 藤沢館は、小野寺氏の居城と伝えられている。奥州合戦後の1192年、小野寺左馬介信氏が源頼朝の命により奥州総奉行葛西清重の幕下として奥州に下向し、1200貫の知行を拝領して、藤沢館を居城としたとされる。以後、小野寺氏歴代の居城となった。室町時代頃には栗原・遠田郡に1700貫の所領を持つに至り、戦国期には大崎氏に属したが、1590年に太郎左衛門信春の代で豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡したと言う。尚、小野寺氏にはいくつかの系統があるが、藤沢館の小野寺氏は、下野国小野寺郷を本貫とする小野寺氏の一族か、或いは奥州千葉氏の庶流とされる小野寺氏の一族か、どちらかであろう。

 藤沢館は、JR瀬峰駅西側の比高30m程の丘陵上に築かれている。北に隣接する観昌寺の墓地への参道入口脇に城址標柱が建ち、参道の途中から山林に突入すれば、すぐ城址に至る。ほぼ全周を土塁で囲み、周囲を空堀で防御した単郭の城である。主郭は方形に近い形状の曲輪で、西へ行くほど土塁と空堀の規模が大きくなっており、最大で深さ4~5m程に及ぶ。一方で東側は土塁が小さく、空堀もかなり浅くなっている。この東面に大手虎口があり、土橋が架けられている。郭内の北東部には井戸跡も残っている。また空堀の外周にも土塁が築かれており、その外側に腰曲輪らしい平場も散見される。遺構は以上の通りで、縄張りに面白みはないが、空堀・切岸の規模が大きく見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.655874/141.070654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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月輪楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2227.JPG←主郭周囲の空堀
 月輪楯(月輪館)は、伝承によれば葛西氏の支族月輪六郎・七郎(一説に五郎・六郎)兄弟の居城であったと言う。月輪氏は、迫の城主三位中将藤原師門の家臣で6万石を領し、天正年間(1573~92年)に眺望絶景・難攻不落のこの地に築城したとされる。戦国後期の迫合戦の際に、敗北した師門を庇って兄弟揃って討死したと伝えられる。しかし藤原師門と言う人物は実在が証明されておらず、迫合戦なるものも史実として確認できていないので、伝承の真偽には検討の余地が多い。但し、月輪氏という一族は実在したと思われ、月輪館の東門だったと伝えられるものが香林寺の山門として残っており、そこには月輪氏の家紋二ツ葉柏紋の彫刻が付けられている。尚、香林寺の近くにも月輪館とされる平地の城館跡があり(遺構は湮滅)、月輪楯と全く同じ伝承が伝わっていて、月輪楯とどのような関係だったのか、興味深いところである。

 月輪楯は、北上川の西岸にそびえる玉山の北の尾根上の、標高100m程の高地に築かれている。二重の空堀で外周を囲まれた不定形な長円形の城砦で、まるでチャシの様である。実際、古代のチャシだったものを改修・転用した可能性も指摘されている。西側を走る車道脇に立て看板と解説板が立ち、そのすぐ奥に遺構があるのでアクセスは簡単だが、城内は酷い藪に埋もれていて、遺構の確認は容易ではない。主郭内は基本的に平坦であるが、外周部に土塁が見られ、郭内には段差もあって何らかの区画があったらしい。主郭周囲の空堀は割りと規模が大きめだが、その外側を囲む二ノ郭外周の空堀は規模が小さい。いずれにしても物凄いガサ藪で、辛うじて空堀であることが分かる程度である。市の指定史跡であり、山麓の車道入口からの誘導表示もしっかりしているのに、かなり残念な状況である。
 尚、宮城県遺跡地図では、月輪楯の位置を玉山山頂付近としているが、位置が間違っていることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.682914/141.282034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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楼台城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2184.JPG←主郭群の段状腰曲輪群
 楼台城は、葛西氏の家臣伊藤豊後守の居城と伝えられている。伊藤氏は、永正年間(1504~21年)の葛西氏と山内首藤氏の抗争(永正合戦)の際、山内首藤方に与した為、石巻城主葛西宗清の軍勢に攻め滅ぼされたらしい。その後は、青梅尾張守が楼台城に入ったと言う。

 楼台城は、標高80m程の山に築かれている。山頂から北西に伸びる斜面上に段状に曲輪群を展開した縄張りで、北西から順に三ノ郭群・主郭群・ニノ郭群と並び、いずれも多数の腰曲輪群を伴っている。特に畑地となって開けた主郭群は、多数の段状の腰曲輪群が見事な姿を現している。城内に堀切はなく、三ノ郭と主郭群はなだらかな地形で繋がり、主郭と二ノ郭は、主郭背後が数mの切岸で区画されているほかは鞍部の曲輪で繋がっているだけである。ニノ郭群の背後にもやはり後衛の腰曲輪群があり、一部に登城道となっている坂土橋(土塁道)が確認できる。また三ノ郭は畑地となり、先端には土塁と虎口が確認でき、その下に数段の腰曲輪が築かれている。城内に残る道は、往時も城道として使われていたものと考えられ、明瞭に残っている。多段式の曲輪群が美しい城である。
主郭前面の段状腰曲輪群→IMG_2174.JPG
IMG_2198.JPG←三ノ郭先端の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.687453/141.301925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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柴崎城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2018.JPG←二ノ郭前面の堀切
 柴崎城は、歴史不詳の城である。一説には、文治年間(1185~89年)に葛西清重の一族葛西重成が築城したとも言われるが、定かではない。

 柴崎城は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。北から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んだ連郭式の縄張りで、各々堀切で分断している。主郭~二ノ郭間のものは幅は広いが鋭さのない堀切であるが、ニノ郭~三ノ郭間のものはしっかりした薬研堀で、わずかに横矢も掛けられている。三ノ郭前端にも小堀切があり、その先に物見台状の小郭がある。この小堀切の三ノ郭側に、板碑が数基建っている。三ノ郭の北西には水堀の一部も残っている。主郭北西辺には低土塁が見られ、外側には藪でわかりにくいが横堀が築かれて斜面を防御している。また主要な曲輪の東側はなだらかな地形のため、腰曲輪が数段築かれているが、畑などに変貌しているものも多く、遺構なのかどうか判断しにくい。柴崎城は、全体に薮が多く、踏査は少々大変である。二ノ郭・三ノ郭は、一時期公園化されていたため東屋が残っているが、現在は藪に埋没している。基本的には単純な縄張りであるが、遺構からすれば室町・戦国期の土豪のものと推測される。薮が多いせいもあって遺構的にはあまりパッとしない。西麓に城址立看板が立っているのが救いである。
三ノ郭北西の水堀→IMG_2008.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.650696/141.193607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鈴鹿城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1994.JPG←台地上の主郭
 鈴鹿城は、岩切館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承では、坂上田村麻呂の御台所鈴鹿御前の居館であったと言うが、定かではない。
 鈴鹿城は、大嶽山北東の低台地に築かれている。主郭と思われる部分は、台地上の一段高い方形の区画となっているが、現在は畑となっているらしい。周囲の二ノ郭と思われる平場も畑となっている。明らかに民有地の畑のため、縁の方から遠望しただけである。台地の南麓には民家があり、その門前右手に城址標柱が建っている。この民家には長屋門が建っているが、そのさまがまるで城門の様である。南に一直線に道があり、往時の大手道かもしれないので、実際に城門が建っていたのかもしれない。それにしても坂上田村麻呂の御台所の居館とは、伝説にしてもすごい誇張である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657734/141.188865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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松島館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1963.JPG←主郭周囲の空堀
 松島館は、歴史不詳の城館である。伝承では、前九年合戦の際に八幡太郎源義家が、八幡神社に戦勝を祈願し、陣を張った時の館跡と言われるが、定かではない。

 松島館は、松島屋敷の地名が残る低台地に築かれている。小規模な城館で、車道脇に立つ解説板の奥の山林内に、空堀と土塁が残っている。その上に主郭があり、一隅に祠がある。空堀は埋まっているのか規模は小さく、また『日本城郭大系』の図では二重空堀とされるが、下段は堀というより単なる腰曲輪で、辺縁部にわずかに低土塁が見られる程度である。尚、義家が参詣したという八幡神社が館の西北にあるが、周囲を土塁に囲まれており、ここも館の一郭だった様である。但し、地元の人の話では、この八幡神社は移築されたものらしい。いずれにしても、小規模な城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.668490/141.168373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

タグ:居館
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保呂羽楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1868.JPG←主郭西側の横堀
 保呂羽楯(保呂羽館)は、奥州の雄葛西氏の居城であったと推測されている。葛西氏の事績は石巻城の項に記載する。元は登米小野寺氏の居城で、葛西氏が本拠を保呂羽楯に移すに当たり、保呂羽楯を葛西氏に譲り渡し、小野寺氏は美濃楯に移住したものとも言われるが、明証はない。石巻城と並ぶ葛西氏の居城で、戦国時代に寺池城と呼ばれたのがこの保呂羽楯であったと考えられている。葛西氏は当初石巻城を居城としていたが、時期不明ながら、後に寺池城(保呂羽楯)に本拠を移したと言われている。しかし葛西氏の系図にはかなり混乱もあり、別説では先行して奥州に入部していた奥州葛西氏と、しばらく関東に本拠を置き、遅れて奥州に下向した関東葛西氏の系統に二分されて並立していたとも言われる。いずれにしても保呂羽楯は寺池葛西氏の本拠であったが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏は改易され、没落した。翌91年、葛西大崎一揆が起きたが、伊達勢を主力とする奥州仕置軍に鎮圧されその勢力が擦り潰されると、葛西氏再興の夢は絶たれた。葛西旧領が伊達氏の支配下に入ると、新たに寺池城が築かれ、保呂羽楯はその役目を終えたと思われる。

 保呂羽楯は、北上川西岸に広がる草飼山の北半部一帯に築かれている。標高約100mで、その城域は東西1km、南北2kmに及ぶと言われ、県内最大級の山城とされる。『日本城郭大系』に記載されている縄張図では、現在保呂羽浄水場が置かれている丘陵を示しているが、主郭はその一つ南のピークにあったと見られる。西側を通る山道の脇に城址立看板が建っており、そこから登ってしばらく行くと道は左に鋭角に曲がり、その先を行くと主郭の南西端に至る。主郭は一段高くなった曲輪で、西側に横堀を穿って防御している。主郭西辺には低土塁も築かれている。主郭北側には腰曲輪が廻らされている。主郭の東側に二ノ郭、更に東に三ノ郭と思われる平場がある。主郭は山林となっているが、二ノ郭・三ノ郭は空き地となっており各々段差だけで区切られている。その他、周囲に腰曲輪らしい平場が確認できる。城の中心部は以上の通りで、その他にも広大な丘陵上に曲輪群が展開していたと思われるが(前述の浄水場もその一郭と思われるが)、時間の関係もあってそれらは踏査していない。大族葛西氏の本拠にしては、縄張り的に目立った特徴はなく、結局家臣団の統率に苦労し続けた葛西氏としては、城の普請はこの程度のものだったのかもしれない。勿論、未踏査の部分に素晴らしい技巧的な遺構が隠れている可能性もあるが。
 尚、城の中心部から南南西にやや離れた高台に、「保呂羽城址」と刻まれた大きな石碑が建っている。
主郭北側の腰曲輪→IMG_1883.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.643473/141.277893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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赤生津楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1810.JPG←主郭背後の堀切
 赤生津楯(赤生津館)は、歴史不詳の城である。伝承では、奥州藤原氏3代秀衡の一族の居城であったが、後に葛西氏の臣族が居住したと言われている。その伝承によると、平安末期~鎌倉初期の城ということになるが、真偽は不明である。

 赤生津楯は、標高70m、比高50m程の山上に築かれている。東西に並立する大館・小館の2つの城から成り、東が大館となっている。大館の南部1/3程が採石の為に削られて焼失しているが、残りの部分が残存している。採石場跡の背後の斜面の中腹に標柱が建っているが、特に道は無いので、適当に斜面を登るしかない。大館は、現存している部分では南の主郭と北の二ノ郭から構成され、主郭な南東部に方形の一段低い区画を形成している。背後は堀切で区画して二ノ郭と分断し、小さな土橋が中央に架かっている。また西斜面には帯曲輪を築いている。二ノ郭はただの平場であるが、笹薮が酷い。これら主郭から二ノ郭を取り巻くように、西から北西尾根にかけての斜面中腹に小横堀を廻らしている。大館の遺構は以上である。
 小館であるが、小館に至る大館北西の尾根の笹薮が酷く、踏査は断念した。小館は、『日本城郭大系』の図と1970年代の航空写真を見ると、不等辺四角形に近い長円形の単郭城砦で外周に空堀を廻らしただけらしく、その形態はチャシに近い。
 赤生津楯は、その素朴で古風な形態から考えると、古い時代の城砦と考えられ、伝承の時代と遺構面ではほぼ合致しそうである。
中腹の小横堀→IMG_1820.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.620978/141.250470/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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久寿田館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1775.JPG←大手虎口の出枡形
 久寿田館は、楠田三郎元重の居城と伝えられている。その他の歴史は不明である。

 久寿田館は、比高20m程の丘陵上に築かれている。南側に楠田神社が建っており、神社裏の薮の中にすぐ空堀がある。土塁と空堀で囲まれた単郭の城館で、南面以外は大土塁と空堀で囲まれており、特に北側の土塁は郭内からでも高さ3~4mもある大型のものである。また北辺のみ横矢掛かりの屈曲がある。これによって北東部が内側に折れた形になっており、もしかしたら鬼門除けの入隅を兼ねていたかもしれない。また北の空堀は外側にも土塁を築き、その外周土塁の東端付近に堀切(或いは切通し状の虎口)があり、その東に櫓台が築かれている。その東側は畑になっていて旧状はわからなくなっているが、おそらく城外だったろう。一方、主郭南側は低土塁だけで空堀はないが、中央付近に大手虎口が築かれている。この大手虎口は、土塁で出枡形を築き、出枡形の外にも蔀土塁を築いて、虎口の防御を固めている。また主郭の東部に井戸跡らしい水溜まりが見られる。久寿田館は市の指定史跡であるが事前情報が全く無く、この城の前に行った同じ市指定史跡の美濃館が不発だったので期待していなかったが、立派な遺構が残っていたのは嬉しい誤算だった。城址標柱は、前述の大手虎口の脇に朽ちて倒れていたが、辛うじて館主の名が判別できた。それにしてもこの手の小城館で、出枡形の虎口を備える例は珍しく貴重である。
主郭東辺の土塁→IMG_1737.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.609175/141.233540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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美濃館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1690.JPG←主郭に残る土塁
 美濃館は、小野寺美濃守の居城と伝えられている。一説には、この小野寺氏は登米小野寺氏と称され、保呂羽楯を居城としていたが、葛西氏が保呂羽楯に本拠を移すに当たって保呂羽楯を譲り渡し、美濃館に移住したものとも言われる。しかし葛西氏の歴史と同様、不明点が多く確証はない。

 美濃館は、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。一応、市の指定史跡となっているのだが、城址は未整備の上、解説板はおろか標柱もない。近代には丘陵一帯は耕地化されていたが、現在はほとんどが耕作放棄地となっている。そのため耕地化による改変の可能性もある。とりあえず藪の中を丘陵頂部に登ってみたが、主郭と推測される部分に、一応土塁の囲郭があることは確認できた。しかし前述の通り耕作放棄地で、ガサ藪に覆われており、主郭内はある程度歩けるものの遺構は藪でほとんどわからず、途中で踏査断念した。


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.622436/141.281669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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柳津館山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1470.JPG←主郭の櫓台・土塁
 柳津館山楯(柳津館山館)は、高森館とも言う。江戸後期編纂の『柳津村風土記書上』によれば、元は黒木紀伊守という武士の城で、後に葛西氏の家臣千葉太郎左衛門の居城となったと伝えられている。また柳津三河の名も伝わっていると言う。しかしそれ以外の歴史は不明で、発掘調査の結果から推定されている15~16世紀の使用時期の内、黒木氏や千葉氏、柳津氏の城主時代がいつ頃かなど、詳細は全くわかっていない。

 柳津館山楯は、北上川と旧北上川の分流点の東岸にそびえる、標高109mの山上に築かれている。南麓の明耕院のお婆さんに伺ったところ、昔は明耕院の墓地裏から登り道が付いていて、檀家さんの案内で登ったことがあるが、今はどうなっているかわからないと言われた。しかし行ってみると登り道はほぼ残っており、入口付近に若干の薮と途中に多少の倒木がある他は、苦労なく登ることができる。この道を登っていくと、主郭背後(東側)の堀切と鞍部の曲輪群に至り城域に入る。発掘調査報告書の測量図によれば、城内は大きく5つの曲輪群で構成されている。それぞれの曲輪群の頂部に広い曲輪があるが、これら中心の曲輪はいずれも規模が大きく、それぞれ長径70~80m程の大きさがある。これらの中心の曲輪の周囲に多数の腰曲輪群が築かれて、各曲輪群を構成している。報告書測量図で平場A・B・C・D・Eとあるが、ここではそれぞれ主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭と呼称する。主郭群は、頂部の主郭を中心に同心円状に数段の腰曲輪を廻らし、更に南側に数段の腰曲輪を築いている。主郭は北辺のみ土塁を築き、土塁東端部をL字状に曲げ、櫓台を築いている。腰曲輪とは数mの切岸で区画されるが、西側だけは切岸がなく緩い斜面で腰曲輪に繋がっている。主郭内のやや南東寄りには井戸と池跡らしい水場がある。主郭の腰曲輪群には、前述の堀切沿いと北側の一部にのみ土塁が築かれている。この城では明確な土塁は少なく、主郭群にのみ存在している(近代には城址全体が耕地化されていたので、湮滅している可能性もある)。主郭群の東側は背後の鞍部に当たり、前述の通り箱堀状の堀切とその両側に多数の腰曲輪群が築かれている。ここの一角にも小さな水溜りがあり、水の手があった可能性がある。主郭群の北側には、鞍部の広い曲輪を介して二ノ郭群がある。二ノ郭群も、頂部の二ノ郭を中心にほぼ同心円状に2段ほどの腰曲輪を廻らしている。二ノ郭群の北側から北西尾根に向かって幅広の城道が残っており、五ノ郭群に通じている。五ノ郭群は、舌状曲輪を連ねたもので、その西側側方に城道が貫通している。一方、主郭群~二ノ郭群間の鞍部の曲輪からは西に向かって曲輪が広がり、そこを貫通する大手道を降っていくと、三ノ郭群に至る。三ノ郭群は頂部の三ノ郭の西斜面に、おびただしい数の腰曲輪群を構築している。三ノ郭の東側は、二ノ郭群との間に幅広の堀状曲輪を置いている。三ノ郭群から四ノ郭群までの間は、前述の多数の腰曲輪群を縫う様に、切通し状の大手道がはっきりと残っている。この切通し状の大手道は、左右に腰曲輪群を配置して防御を固め、要所で左右に屈曲して、上の腰曲輪塁線からの横矢掛かりを意識して築かれている。大手道は途中に土塁で木戸口を設けた枡形通路もあり、防御は厳重である。四ノ郭まで降った所で、大手道は西に折れ、やはり切通し状の通路となって西側に降っている。明耕院のお婆さんが、西麓のガソリンスタンドの辺に降りれると言っていたのがこの大手道のことらしい。こちらの大手道両側にも多くの腰曲輪群が築かれ、大手道も左右に屈曲しながら降りている。四ノ郭群は北西に伸びる尾根上にあり、舌状の四ノ郭の北面から西面に腰曲輪群を築いている。この他、主郭群背後の堀切の東に、南から北に向かって尾根が突き出しているが、尾根上は綺麗に削平され、道も残っているので、近世に畑となる以前にも外郭として倉庫ぐらいはあった様な感じがする。

 以上が柳津館山楯の遺構で、それぞれの曲輪の規模が大きく、想像以上に城域が広い。技巧的な部分は少なく素朴な縄張りの城だが、多数の腰曲輪群で防御した切通し状の大手道は出色である。薮も比較的少なく、歩きやすいのも助かる。城の造りと規模を見る限り、多数の兵で守ることを前提に作られた、拠点的な城だったと思われる。それにしては城の歴史が伝わっていないのが残念である。
主郭群背後の堀切→IMG_1426.JPG
IMG_1466.JPG←主郭の池跡?
屈曲する切通し状の大手道→IMG_1559.JPG
IMG_1591.JPG←大手枡形通路の木戸口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.601780/141.306581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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永井城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1377.JPG←三ノ郭前面の小堀切
 永井城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の初期の居城である。山内首藤経俊が、源頼朝の奥州合戦での戦功により桃生24郷を拝領し、その後時代不明ながら奥州に下向して永井城を築いて居城とした。その事績は大森城の項に記載する。室町期に南方に勢力を伸ばして大森城に居城を移すと、永井城には重臣の畑崎内膳を入れて守らせた。1499年、葛西宗清の家臣門田丹波・勝田某らが主君宗清の謀殺を図ったが、陰謀が露見し、丹波らは永井城の畑崎氏を頼って逃れた。葛西氏は丹波らの引渡しを要求したが、畑崎氏がこれに応じなかった為、1511年に永井城を攻囲し、伊達稙宗の支援を得て城を陥としたと言う。その後永井城は葛西氏の持ち城となった様である。

 永井城は、標高65mの永井丘陵中央部に築かれている。この丘陵は、なだらかな斜面で形成されており、あまり要害性を感じさせない。昭和47年の河北地区教育委員会(当時)発行の『ふるさとの文化財』によれば、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・第一控丸・第二控丸(八雲神社)の5郭が並んで城を構成していたと言う。しかし現地を確認すると、実際にはもっと多くの曲輪があったと考えられる。前述の5郭は、昭和30~50年代の航空写真を見るとはっきり確認できるが、現在踏査可能なのはこの中では三ノ郭だけで、その他は耕作放棄地となって踏査不能の藪で覆われている。(八雲神社には行っていないが、GoogleMapの航空写真を見ると、社殿は現在でも残っているようなので、第二控丸は踏査できるかもしれない。)三ノ郭より西側は現在でも畑となっていて、三ノ郭と二ノ郭の間は切岸で区画されている。三ノ郭の西側前面には小堀切が穿たれ、その外に櫓台が築かれている。その南西には2段の平場が広がり、西端に堀切跡がわずかに残っている。また南斜面にも腰曲輪群があった様だが、耕地化による改変の可能性もあり、はっきり遺構とは断定できない。これら城の中心部以外にも、西の三角点のある台地も出曲輪であったのではないかと考えられる。更に南西の民家裏にも台地があり、地形的にはここも出曲輪だったように感じられるが、踏査できていないので実態は不明である。いずれにしても、城内はほとんど畑と耕作放棄地で遺構の残存度は悪い。現状を見る限り、素朴な古い形態の山城であった様だ。
西端部の堀切跡→IMG_1360.JPG
IMG_1371.JPG←西の腰曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.581939/141.283107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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山家楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1322.JPG←堀切とされる主郭背後の段差
 山家楯(山家館)は、歴史不詳の城である。地元では山家(やんべ)氏の祖先の城と伝承されている様だが、山家氏の事績についても不明である。出羽最上氏好きの私など、山家氏といえば伊達政宗の母保春院(義姫)が伊達輝宗の元に輿入れした時に付き従い、最上氏から伊達氏家臣となった山家公頼の山家氏を想起するが、同族であろうか?

 山家楯(山家館)は、標高175m、比高115m程の山上に築かれている。近くで畑仕事をしていたお婆さんに話を聞いたが、「舘山」の名が残るだけあって城があったということは認知されているが、現在では登る人もいないらしい。登山道も無いらしいので、北側の取り付きやすそうな斜面から直登した。城址は藪でほとんど埋もれており、遺構もわかりにくい。『日本城郭大系』の縄張図によれば、山上の尾根に東西2つの曲輪を並べ、東郭の東や南の尾根に腰曲輪が数段置かれている様である。実際登ってみると、北側に一段低く腰曲輪を廻らした東郭が築かれている。西郭より高い位置にあるので、これが主郭であろう。その背後の堀切は、ほとんど切岸のみで、堀というほど穿たれていない様に見えた。その西には西郭(二ノ郭)があり、その背後も堀切で分断されているとされるが、実際にはやはり切岸程度の区画で、堀の形状はあまり明瞭ではない。また各々の堀切沿いに土塁が築かれているとされるが、はっきりそれとわかるのは二ノ郭背後のものだけで、それでも低い土塁にすぎない。結局のところ、小規模で普請もささやかな城砦で、室町前期以前の古い城砦であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.061388/140.647187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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宮城館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1292.JPG←主郭の土塁
 宮城館は、宮ノ城とも言い、伊達氏の家臣宮内氏の居城である。宮内氏は、元は山城である内親楯を居城としていたが、1552年、宮内因幡(中務)宗忠の時、白石川対岸の宮城館へ居城を移し、以後1591年に加美郡色麻に移封となるまでの38年間、この館を本拠とした。1570年の中野宗時・牧野久仲らが伊達輝宗の追討を受けて相馬氏を頼って逃れた際、その逃避行の経路にあった宮城館主宮内宗忠はその通過を阻止できず、輝宗から問責されたが、遠藤基信の取りなしで赦免されている。宗忠・常清父子は伊達政宗の信頼が厚く、継嗣のなかった常清に政宗の第9子宗実が入嗣していることは、宮内氏の家格の高さを示すものと言われる。

 宮城館は、宮集落を一望するなだらかな丘陵上に築かれている。東の高台に主郭を置き、西に二ノ郭を構え、外周に堀を廻らしていたが、主郭の大半は土取で消滅した後に住宅地となり、外周の堀跡は埋められて湮滅し、二ノ郭の北西部は東北道建設で削られているなど、遺構は湮滅が進んでいる。それでも二ノ郭は耕作放棄地となりながら残存し、その東側に主郭との間の段差が明確に残っている。ここは1~2m程の段差となり、北半分には土塁が確認できる。この他、二ノ郭の南西端には物見台状の高台があるが、薮が酷く確認不能である。宮城館は全体に藪に覆われており、辛うじて主郭土塁・切岸が確認できたものの、遺構が僅かなのは残念である。城址標柱も、南麓の民家脇に立っているのを見つけたが、全面ペンキが剥げており、全く判読できなくなっていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.045168/140.647144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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