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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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寺池城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9675.JPG←本丸前面の土塁らしき土盛
 寺池城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、登米要害と呼ばれ、登米伊達氏(白石氏)の居城である。しかしその創築は不明で、葛西氏時代に築かれていたとも言われるが、寺池葛西氏の本拠は南の保呂羽楯であったとする説が有力で、寺池城が実際いつ築かれたのかはよくわかっていない。葛西大崎一揆の後、その旧領が伊達氏の支配下に入ると、1604年に白石宗直が水沢から寺池城に移封となり、その居城となった。元和の一国一城令の後は城の名を去り、登米要害と称された。白石氏は後に伊達姓を賜り、以後伊達一門・登米伊達氏となった。4代宗倫の時、隣接する涌谷伊達氏との間で新田開発による境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 寺池城は、北上川西岸の南北に長い丘陵上に築かれている。その地勢と縄張りは、伊達騒動で対立した涌谷伊達氏の涌谷城と、奇妙なほど似ている。丘陵上は数段の曲輪に分かれ、北の最上段に本丸を置き、その南に二ノ丸を配置していた。本丸は現在畑と民家となっており、二ノ丸との間は切岸だけで区画されている。背後に当たる北側には谷戸を転用した堀切があり、前面には土塁跡と思われる土盛が見られる。二ノ丸は3段ほどの曲輪に分かれ、最上段には裁判所、中段に民家、下段に懐古館が建てられている。二ノ丸の南から西側にかけても平場が広がっており、現在は公園となっている。各段を分ける切岸は明瞭であるが、近代の改変が多く往時の遺構はかなり失われている。二ノ丸周囲の平場(公園)には石組みの井戸跡が残っているが、この井戸に限らず城内に何らの標柱も解説もないので、キャッスラー以外の人にはどこが城なのだか何が遺構なのだか、さっぱりわからないだろう。城のある登米町は「みやぎの明治村」として観光地になっているが、もう少し寺池城にも愛情を注いでほしいと思う。
本丸北側の堀切跡→IMG_9710.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657105/141.282399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯塚館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9622.JPG←水堀跡
 飯塚館は、加賀野城とも言い、葛西氏の家臣飯塚氏の居館である。飯塚氏は米谷城主亀卦川千葉氏の庶流で、米谷城主6代亀卦川盛胤の弟長明の3男重明が加賀野に分封されて飯塚氏を称した。天正年間(1573~92年)には飯塚山城持親(真満)の子飯塚修理が城主であった。1591年の葛西大崎一揆の際、父山城は佐沼城の一揆勢に加わって立て籠もったが、7月4日に伊達軍の攻撃を受けて討死し、加賀野城外竹林の中に葬られたと言う。修理はこの時疾病により参陣出来ず、父の没後14日後に没した。
 飯塚館は、現在の加賀野八幡神社の地にあった。境内には特に明確な遺構は見られない。境内の周囲は民家となっている。わずかに境内の裏手に水堀跡があり、北の民家との間に堀状の窪地が見られるに過ぎない。社殿の脇に城址立看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696220/141.217382/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石森古館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9609.JPG←全景
 石森古館は、葛西氏入部以前の奥州藤原氏時代の館と推測されている。城主等は伝わっておらず、古館の名は飯塚館に対してのものとされる。
 石森古館は、現在民家となっている。四周を水田に囲まれた単郭方形居館で、周囲より一段高くなっているのが明瞭にわかる。土塁などは残っていないようである。こんなところにも登米市は丁寧に城址の立看板を立てており、 歴史を後世に伝えようと言う姿勢が感じられ、素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.703170/141.218197/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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新井田城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9591.JPG←主郭腰曲輪~二ノ郭間の水堀
 新井田城は、新井田新館とも言い、千葉掃部助、後に新井田新右衛門の居城であったと言われる。城主の変遷は諸伝あって俄に判じ難いが、1223年に新田(にいだ)氏がこの地を領し、1283年以前には新田重綱が領有していた様である。これは下野小野寺城を本貫とした小野寺通綱の後裔で、重綱の父重房が、通綱が拝領した陸奥国登米郡上新田を譲られて新田太郎と称し、新田小野寺氏の祖となったとされる。その後、1289年に千葉掃部が入部して新井田城主となり、新井田村を開創し、城の鎮護のために赤城神社を建立したと言う。時代は下って天正年間(1573~92年)の頃には千葉掃部助が城主で落城の憂き目にあったと伝えられる。この千葉掃部助は、千葉信胤の孫と言われ、信胤は主家葛西晴信の偏諱を受けており、新井田氏を称した。掃部助は、新井田新左衛門(新右衛門?)とも称したらしく、奥州千葉氏の出自であるが葛西氏の一門でもあった様である。この辺は系譜が錯綜していてわかりにくいのが実情である。いずれにしても戦国末期に落城し、廃城となったことは間違いあるまい。

 新井田城は、舘集落に築かれている。北西から南東にかけて城域が広がっており、北西から主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、主郭の周囲には空堀を挟んで腰曲輪がぐるりと廻らされている。現地解説板の表記では、主郭を本丸、その腰曲輪を一の構とし、以下二の構・三の構と称している。主郭と腰曲輪は大半が水田となり、二ノ郭・三ノ郭は宅地となっているが、全体に遺構は良く残っている。城の全周と各曲輪の間は、水路のような水堀で区画されており、水堀はほぼ全て残存している。大手道は城内を貫通する車道として残っており、三ノ郭の大手門と二ノ郭虎口の部分は食い違い虎口の跡が道の曲がりとなって残り、主郭腰曲輪の大手虎口も枡形跡と思われる道のクランクが確認できる。主郭は周囲を囲繞する腰曲輪まで入れるとかなりの広さがある。主郭周囲の空堀はほとんど埋まっているが、一段低い畑となってその後を明瞭に残している。この他、主郭腰曲輪から二ノ郭の北側には馬場とされる帯曲輪が水堀に挟まれて残っている。民家が林立しているのに、これ程水堀をよく残している平城も珍しい。
城の外周の水堀→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.691598/141.243281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9498.JPG←辺縁部の土塁らしき土盛
 御館は、伊達氏の重臣大内氏の江戸中期以後の居館である。大内氏は小浜城を居城とした戦国大名で、戦国末期の当主大内定綱は、当初は伊達政宗に抗したが後に臣従し、摺上原の戦い等で軍功を挙げて重臣の列に連なった。豊臣秀吉の命で政宗が岩出山に移封となると、定綱は前沢城主に封じられた。その子重綱は、1644年に西郡(現在の錦織)に移封となり、西郡古館に居住して城下町を整備した。以後幕末まで大内氏は西郡の領主であったが、1740年に新たに御館を築いて居所を移した。そのまま幕末まで存続した。

 御館は、錦織集落の東に張り出した比高20m程の舌状台地先端部に築かれている。現在は錦織小学校の校地となっており、改変されている。しかしよく見ると、校庭の辺縁部に土塁状の土盛が見られ、その外側には腰曲輪状の平場も確認できるので、おそらく遺構ではないかと思われる。また校庭の南西端部は一段低くなっており、小道が通っており、城門跡か何からしい。また南西麓から登る車道はおそらく往時の大手道で、この坂道を人々は御表坂と呼び、館を御館館山と呼んだと言う。御館は、あまり遺構がはっきりしないが、往時の雰囲気は感じられる。尚、御館の南の丘陵中腹に大内家代々の御霊屋がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729489/141.273794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小鶴城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9435.JPG←主郭北西の堀切跡
 小鶴城は、岩切城主留守氏の重臣逸見丹波守の居城と伝えられている。逸見氏は、留守氏16代景宗(伊達尚宗の次男で稙宗の弟に当たる)が伊達氏から入嗣した際に従ってきた家臣で、留守氏の宿老的な地位にあった。また景宗の代に作られた『留守分限帳』には逸見遠江守の名が見える。伊達晴宗の3男政景の留守氏入嗣の際、二派に割れる家中にあって、逸見遠江守は政景入嗣を支持した様である。逸見氏のその後の事績はよくわからない。

 小鶴城は、低地帯に突き出た比高10m程の小丘上に築かれている。現在は城址全域が宅地化されているが、地勢は健在である。戦後の航空写真を見ると、小丘上の東西2郭から成っていた様で、西側の方が高い位置にあることから主郭で、東側が二ノ郭であったと考えられる。主郭の北西には堀切と外側の土塁が残っている。主郭・二ノ郭の周囲は現在も急斜面で囲まれており、多くの部分はコンクリート製の擁壁で覆われているが、一部は往時の切岸をそのまま残していると思われる。城の周囲には幅5m程の水堀があったと言われ、北側の堀跡は前述の古写真でも明瞭で、現在は公園となっている。小規模な城であるが、往時は低湿地帯に浮かぶ孤島の様な要害であったと思われる。これほど市街化が進んでいるのに、地勢や堀切など城の痕跡が明瞭なのは素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.279755/140.930064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鞭楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9334.JPG←榴ヶ岡公園の中段の平場
 鞭楯(鞭館)は、源頼朝の奥州合戦の際、奥州藤原氏4代泰衡が本陣を置いた陣城である。1189年、源頼朝は、自分と対立した源義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏の討伐を開始した。泰衡は鎌倉勢を迎え撃つ為、阿津賀志山に長大な防御陣地を構築して異母兄藤原国衡を大将とする2万の軍勢を配し、刈田郡に城を築き、名取・広瀬両河に大縄を張り、自身は国分原鞭楯に本陣を置いて指揮を執った。しかし激戦の末に国衡らの諸将は討死して奥州勢は敗れ、泰衡は鞭楯から本拠地平泉へ撤退した。

 鞭楯は、現在の榴ヶ岡公園がその擬定地とされている。現在は市街化が進み、公園化で大きく改変されてしまっている。公園の南斜面には中段に平場が見られるが、腰曲輪の遺構であろうか?遺構は望むべくもないが、現在でも丘陵端部の公園となっており、南への眺望に優れた地勢であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.260634/140.896912/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=std&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:陣城
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長喜城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9282.JPG←「屋敷」北の堀跡らしい水路
 長喜城は、歴史不詳の城である。伝承では、中世の豪族である沖野氏らがこの地に館を築き、「喜びに満ちた不朽の城であるように」との願いを込めて命名したとされる。しかし沖野氏の事績についても不明であり、はっきりしたことはよくわからない。
 長喜城は、仙台市街地東端に近い沖積台地に築かれている。「いぐね」と呼ばれる屋敷林が残る景観が、古い農村の風景を残していることで知られているらしい。屋敷、御蔵堀などの地名が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、「屋敷」の部分に方形の主郭があり、その東西に2つの曲輪が、また主郭の南にも2~3つ程度の曲輪があった様である。現在は遺構の湮滅が進んでいるが、「屋敷」の西郭北側に水路の様な堀状地形が垣間見れる。また「御蔵堀」も囲郭であったらしく、堀跡らしい水路が残っている。いずれにしてもあまり遺構は明確ではなく、どのような縄張りの城館だったのかも闇の中である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.239908/140.938582/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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沖野城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9272.JPG←現存する土塁
 沖野城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。粟野氏の事績は、茂ヶ崎城の項に記載する。戦国末期の当主粟野大膳重国は、1591年に伊達政宗に抗したらしく、北目城に立て籠もって抗戦し、重国の弟も沖野城に立て籠もったという。しかし衆寡敵せず両城とも落城した。沖野城はそのまま廃城になったと思われる。
 沖野城は、陸上自衛隊霞目飛行場のすぐ南に隣接する地域に築かれていた。二重の土塁と水堀で囲まれた城だった様だが、現在は宅地化が進んで、ほとんど遺構は湮滅している。明確な遺構としては、北西部の土塁がわずかに残るだけである。その土塁も、周りを生け垣で厳重に囲まれ立入禁止と書かれた畑地の中にあるので、道端から遠望することしかできない。また南西部には円弧状の堀跡と思われる地形が水路と空き地となって残っている。遺構はその程度であるが、北門、中柵、舘など地名として残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.228784/140.919635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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四郎丸館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9268.JPG←館跡の善徳寺
 四郎丸館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣名取四郎の居館であったと言われている。源頼朝の奥州合戦の際に、主家藤原氏と共に滅亡した。後に曾我氏の居館となり、室町時代末期には伊達氏家臣菅井和泉守実国がこの館に入ったと言われる。
 四郎丸館は、名取川南岸の沖積地に築かれていた。現在の善徳寺境内付近にあったとされ、周囲に水濠と土塁を幾重にも取り巻いた要害であったと言う。現在は宅地化などで遺構は完全に湮滅しており、何らの痕跡も見出すことはできない。城址標柱も何もないので、ここが館跡だとは近所の人は誰も知らないのではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.189060/140.916266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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下野郷館(宮城県岩沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9249.JPG←堀跡の水路と土塁
 下野郷館は、矢野目足軽城とも呼ばれ、当初は奥山民部という武士の居館であったが、伊達氏に滅ぼされたとされる。その後、矢野目足軽と呼ばれる軍団の居住地となった。矢野目足軽は伊達家62万石直属の足軽で、藩祖伊達政宗が豊臣秀吉の命によって米沢から岩出山城に移封となった際に、政宗の従者として米沢の矢野目より移住し、更に1603年に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、この地に居を構えた鉄砲足軽であった。その後、この地は仙台藩家臣奥山与市左衛門の知行地となり、矢野目足軽はその配下に組み込まれた。しかし矢野目足軽は伊達家直参として政宗の信頼が厚く、それゆえ水運を扼し、かつ海防の任に当たるこの要衝に置かれたのだと言う。

 下野郷館は、五間堀川北岸の平地に築かれていた。前述の通り近世には足軽軍団の居住地となった為、中世の遺構は表層には残っていないと思われる。現在残っているのは近世の矢野目足軽城としての遺構で、中央集会所周囲に居住地外周を取り巻く土塁や水堀の一部が水路となって残っている。ここは矢野目足軽城の北西隅の部分に相当するらしい。以前は、下野郷駐在所の真向かいに石碑と標柱が建っていたが、現在は中央集会所敷地の西端に場所が移動されていた。それにしても足軽軍団を集住させた城というのも珍しい。野望を抱き続けた政宗らしい用心深さである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127037/140.902705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (地図中央は石碑の位置を示す)
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吉野城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9201.JPG←微高地となった主郭跡
 吉野城は、吉野五良という者の城と言われている。現地解説板によれば、吉野五良とは後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)のことで、1336年に伊久(伊具?)の国官府として吉野城を築いたとされる。そして、吉野五良の姫が病没後、その霊を祀るために阿弥陀堂を建立したと言う。阿弥陀堂は吉野城址の北西に現存し、前述の解説板はその堂宇の脇に立っている。しかしこれは随分おかしな伝承で、義良親王は後に吉野で父帝の後を継いで後村上天皇となっているし、陸奥国司・鎮守府将軍北畠顕家に奉じられて奥州に下向した先は多賀城であり、その時はまだ7~8歳の幼少であり、もしここに居たことがあったとしても姫など出生できる年齢ではない。おそらく「吉野」と言う名から連想した、随分無理のある仮託であろう。

 吉野城は、阿武隈川西岸の平地に築かれている。現在確認できるのは主郭跡の方形の区画で、民家と畑になっているので旧状をかなり失っていると思われるが、周囲よりこの区画だけわずかな微高地となっているのがわかる。また東側には堀跡らしい溝状地形が確認できる。解説板によれば、往時は内濠・外濠があり、東を搦手・西を西木戸・南を朱雀の木戸・北を松枝屋敷と言っていたらしい。外郭は回字状に主郭の周りを取り巻いていたと推測されているが、改変が激しく、ごく一部に土塁跡らしき土盛を残すほかは、既に塁線を追うことすら困難である。吉野城は、既に往時の姿は見る影もないが、南東角に建つ城址碑と前述の阿弥陀堂だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.995089/140.802777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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彫堂七館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3168.JPG←長館の横堀
 彫堂七館は、歴史不詳の城である。古くは「七館八沢」と呼ばれていた。『余目記録』によれば、南北朝期の観応の擾乱の際、奥州管領として派遣されていた吉良貞家(足利直義方)・畠山国氏(足利尊氏方)の両者が中央の情勢に連動して争った時、長世保に拠った畠山氏に対して、吉良方に付いた大崎氏が色麻川(現・鳴瀬川)を隔てた鉢森に陣取り遠矢の合戦をしたと言う。この鉢森が現在の鉢谷森と考えられている。(但しこの伝承には少々疑問がある。大崎氏の初代斯波家兼は、直義方であった兄高経と袂を分かち、終始尊氏方として活躍した武将なので、直義方の吉良氏に付いたとは考えにくい。)いずれにしてもこの地は大崎領の東端に当たり、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏に対する最前線であった。ちなみに葛西・伊達両氏は、北畠顕家の奥州府を支えた東北南朝方の主柱とも言うべき武将であったので、その観点からすれば北朝対南朝の図式でも捉えられる城である。一方、江戸時代にまとめられた『仙台領内古城書上』には彫堂城の記載が見え、伝承では蜂谷筑前守という武士が居城したとされている。現地解説板では、彫堂城は彫堂七館の一郭蜂谷森の別名であろうとし、蜂谷筑前守は大崎氏に関連した武将かもしれないと推測している。彫堂七館は、歴史不詳ながら、大崎氏によって築城された可能性が高いと推測されている。

 彫堂七館は、出来川北岸の東西に連なる比高15~30m程の丘陵上に築かれている。西から順に、山前館・長館・大館・小館・陣館・狼之介館・彫堂館(蜂谷森)・笹館の八館から成るとされる。八館なのに何故七館と呼ぶようになったのかは不明。全長で東西800m程にも及ぶ広い城域から成るが、基本的には単純な縄張りで技巧性には乏しい。小館・陣館・狼之介館・彫堂館の4つは公園化されており、このうち小館・彫堂館には北側半周を取り囲むように空堀が穿たれている。それ以外は単に頂部の平場の周囲に腰曲輪などが築かれているに過ぎない。また陣館・狼之介館の間には堀切があったとされるが、公園化による改変のためか、わからなくなってしまっている。大館は民家と畑になっており、外から見るしかできない。長館は、最も広い館で、主郭の全周を横堀で囲んでおり、更に周りに腰曲輪を築いているようだが、未整備の山林となっている。残りの山前館・笹館はいずれも民家裏の山林で、進入は憚られ、未踏査である。遺構を確認した限りでは、腰曲輪と空堀だけで横矢もなく非常に単純な縄張りで、まるでチャシの様である。南北朝期の城として見ても、少々見劣りする城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.539531/141.053274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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西館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2957.JPG←本丸切岸と水堀
 西館は、鶴頭城とも言い、また江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、不動堂要害と呼ばれた城である。元々は葛西氏の家臣有壁摂津守の城であったと言われ、葛西氏と大崎氏の抗争の場となった。また天文年間(1532~55年)には伊達天文の乱の余波で大崎小僧丸(義宣)が西館に立て籠もって養父大崎義直と争うなど、大崎氏の内訌の舞台ともなったと伝えられ、この時期には大崎氏の支城であったと言う。有壁氏は、金成町の有壁館を本拠とする豪族で、おそらくは大崎氏に備えるために葛西氏が有壁氏をこの地に置いて守らせたものが、その後の変遷で大崎氏の支配下に入ったと思われる。いずれにしても、葛西領・大崎領との接壌地帯にあった城館であった。1588年には、伊達氏の家臣で千石城主遠藤高康の攻撃を受けた。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易されると、その後の葛西大崎一揆を経て伊達氏領となり、1611年に後藤信康がこの地を拝領し、1620年に信康の子近元が西館に居城を移し、以後幕末まで後藤氏の居館として存続した。

 西館は、鳴瀬川北岸の小丘陵に築かれている。台形状の小丘陵に本丸を置き、その外周に水堀を廻らし、更に外側の低台地に二ノ丸を廻らした梯郭式の縄張りとなっている。本丸は現在、鶴頭公園となっており、かなり改変を受けているもののわずかに土塁や腰曲輪などが残っている。北側には堀底道のような歩道があるが、これも遺構であろうか?一方、水堀は南東部分のみが護岸工事をされた形で残っている。二ノ丸は、市街化で大きく改変されているが、辛うじて周囲よりわずかな高台になっていて、地勢を残している。感じとしては、佐沼城のミニチュア版と言った雰囲気である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528268/141.078465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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涌谷城(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2919.JPG←北尾根の堀切
 涌谷城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、涌谷要害と呼ばれ、涌谷伊達氏(亘理氏)の居城である。元々は、奥州探題として勢威を誇った足利一門の大崎氏の庶流涌谷氏の居城であった。涌谷氏は、大崎氏初代家兼の3男彦五郎が百々城を居城として百々美濃守を名乗り、その2男が涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとも、或いは大崎氏5代満持の弟高詮が百々氏の祖となり、その2男直信が涌谷氏の祖となったとも言われる。いずれにしても大崎氏の一門として続いたが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、宗家大崎氏と共に滅亡した。その後、葛西大崎一揆を経て、伊達氏領となり、1591年に伊達氏重臣の亘理重宗に涌谷城が与えられた。重宗は最初、百々城に入り、翌年涌谷城に入城した。以後、涌谷城は近世城郭へと改修された。1604年に重宗は、隠居領として高清水城を与えられて移り、その子定宗が涌谷城主となり、1606年に伊達姓を与えられて、伊達一門・涌谷伊達氏となった。涌谷伊達氏は新田開発に努め、4代安芸宗重の時には石高2万2千石余に達したが、隣接する登米伊達氏との間で境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 涌谷城は、江合川西岸の南北に細長い丘陵上に築かれている。丘陵上は、2段の平場に分かれ、上段曲輪に涌谷神社が建ち、下段曲輪は公園化されているので、かなり改変を受けている。上段曲輪は近世には使用されていなかったようであるが、中世の主郭である。下段曲輪が近世の本丸で、南北に長い平場で伊達氏の居館が建っていた。中世ではニノ郭であった。その南端に、資料館となっている模擬天守と、現存遺構である太鼓堂という隅櫓が建っている。太鼓堂の周りの石垣も遺構であるそうだ。丘陵西側斜面に段が見られるが、これも往時の腰曲輪・犬走りの遺構であるらしい。この他、涌谷神社の北側に台地基部を分断する堀切が一部残存している。近世には、城下南側の平地に一之曲輪、東側に二之曲輪があり、水堀で囲まれていたが、現在は市街化で湮滅している。亘理要害同様、城の雰囲気は残しつつもかなり改変されてしまっているのは惜しいところである。
石垣と太鼓堂→IMG_2893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.546496/141.130350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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日向館(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2874.JPG←周囲の帯曲輪
 日向館は、歴史不詳の城である。現地標柱などによれば、古く天平勝宝年間(749~757年)に黄金奉行として入来した第獄日向守の居館であったと伝えられている。事実かどうかは確証がないが、日向館やその近辺の「城山裏土塁」など古代(8世紀~12世紀末)の役所や公的施設があった可能性が高い遺構が確認されており、律令国家の北辺に位置する小田郡の重要地点として、天平産金に大きな役割を果たしていた可能性が推測されている。そうなると、東大寺の大仏造営と密接に関係していた遺跡ということになろう。

 日向館は、比高40m程の山稜南端のピーク上に築かれており、現在は妙見社が建っている。山頂はほぼ平らに削平されており、周囲に帯曲輪が確認できる。標柱には西側に空堀跡があると書かれているが、確認できたのは帯曲輪だけで空堀は確認できなかった。いずれにしても、古代の古い施設であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.545791/141.137795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代平山城
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樫崎城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2798.JPG←主郭北側の空堀と櫓台
 樫崎城は、内館城とも呼ばれ、山内首藤氏の家臣男沢内膳の居城と伝えられている。永正年間(1510年頃)に七尾城主首藤貞通・知貞父子が、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の大軍の攻撃を受けた際、樫崎城も葛西勢の猛攻により落城したと言われている。

 樫崎城は、北上川西岸の標高34.5mの丘陵上に築かれている。南西の民家敷地に登り道が確認できるが、進入できないので、北西麓の鹿嶋神社裏手から登城した。最高所の主郭を中心にY字型に曲輪を配した縄張りとなっている。西郭は畑となっているが、主郭も含めたその他の曲輪は山林や耕作放棄地となっている。西郭から山林に入っていくと、すぐに西側の堀切に行き当たる。西側に土塁を築いた一直線状の堀切である。そこから更に東に進むと主郭周囲の広い腰曲輪に至る。ここは耕作放棄地であるが、藪が少なく開けている。ここからは南東郭群が段々になっているのがよく分かる。また東郭群は山林の中に段になった曲輪群が確認できる。主郭は、切岸で囲まれた方形に近い曲輪で、北側には横堀が穿たれ、中央付近にやや張り出した櫓台が築かれ、空堀がその周りで屈曲して横矢が掛かっている。この他、前述の西堀切よりも南東側斜面に竪堀が1本落ちている。なだらかな丘陵上の城で、比較的旧態依然とした縄張りなので、大軍に攻められたらひとたまりもなかったろうと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.564853/141.290982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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沢山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2760.JPG←主郭と思われる寺崎八幡神社
 沢山城は、寺崎城とも呼ばれ、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。伝承では、元は奥州藤原氏の部将西條氏の居城であったとされる。寺崎氏は、奥州千葉氏の一族とも、或いは葛西氏の一族とも言われ、下総国葛西庄が本貫地であったが、葛西氏に従って奥州に下向し、桃生郡に沢山城を築き、代々葛西氏の重臣を務めた。戦国時代の1507年、金沢城主金沢冬胤が葛西氏に対して反乱を起こすと、寺崎下野守時胤は日形城主千葉秀胤らと共に金沢を攻めて討死した。五郎三郎重清(時継)が寺崎氏を継いだが、千葉秀胤も討死したことで峠城が空き城となり、寺崎氏は峠城を押さえて本拠を移した。一方、沢山城には一族の寺崎伊予守を残したらしい。その後の沢山城主寺崎氏の事績は不明である。

 沢山城は、標高20m程の八幡山と呼ばれる丘陵上にあり、現在は寺崎八幡神社の境内となっている。縄張図もないのでよく分からないが、神社が建っているのが主郭らしい。その南側に一段低い平場が広がっているが二ノ郭であろうか?特に堀切などの明確な城郭遺構は確認できず、どこまで城域が広がっていたかもわからないが、宮城県遺跡地図では八幡山全体が城跡であったとしている。しかし八幡神社の東側は、壊滅的な乱開発で地形が変形してしまっており、遺構は望むべくもない。以前は八幡神社の参道下に城址標柱があったようだが、それも今はなくなってしまっている。非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.569886/141.259353/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中津山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2740.JPG←宅地脇の土塁跡?
 中津山城は、江戸時代に仙台藩の内分支藩である中津山藩の陣屋が置かれた城である。正確には、元和の一国一城令で築城が制限されているので、「城」ではなく中津山「所」(「要害」より一段下のランク)である。江戸中期の1695年、仙台藩4代藩主伊達綱村は、水沢伊達家の当主であった同母弟・伊達村任を桃生郡中津山ほか3万石に分知して、新たに中津山藩の立藩を幕府に申請し、認められた。中津山藩主となった村任は、名を村和に改め、中津山城を藩庁としたが、4年後の1699年、不祥事があって改易となった。わずか1代4年の短命の藩であった。結局、村和は藩主在任中、一度も中津山城に入ること無くその座を追われたと言う。

 中津山城は、「城内」と言う地名の比高10m程のなだらかな丘陵西端に築かれている。城内は宅地化され、遺構はほとんど失われている。城域西端に白鳥神社が建っているが、往時の城鎮守の社であろうか。丘陵を東西に貫通する車道の南側の宅地に土塁らしい跡が見られ、丘陵最高所には方形に近い形の空き地があり、ここが往時の本丸であろうと思われる。この他に枡形が残っているらしいが、周りが宅地で囲まれており、よく確認することができなかった。城の期間が短かったせいか、非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.559786/141.251736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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神取山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2713.JPG←主郭跡に建つ神社
 神取山城は、豊臣秀吉の派遣した奥州仕置軍に抵抗した葛西勢の最後の抵抗拠点である。城主は、岡野伊勢長満、鈴木山城守ら葛西氏の家臣と言われている。葛西晴信は、1590年の小田原の役に不参したため、秀吉の奥州仕置によって改易された。しかし葛西氏とその家臣団は各地の城に立て籠もって抵抗し、秀吉の派遣した蒲生氏郷・木村吉清らの奥州仕置軍と戦った。しかし多勢に無勢で敗れ、葛西総大将大原飛騨守胤重と精強1700騎は神取山城に立て籠もり、最後の抵抗をしたと伝えられている。

 神取山城は、旧北上川と江合川の合流点東側の標高57mの独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、山頂に主郭、南西の尾根に二ノ郭があったとされる。しかし主郭は浄水場が造られて破壊を受け、残りの部分は本鹿島神社となっている。平場以外に明確な遺構は見られない。また二ノ郭とされる場所も自然地形で、やはり明確な遺構はない。解説板にも『日本城郭大系』にも空堀があると記載されているが、どれがそうなのかよくわからなかった。結局、明確な城址遺構は確認できず、葛西勢は最後に悪あがきで山に立て籠っただけだったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.530568/141.231265/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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釣ノ尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2593.JPG←主郭の天守台
 釣ノ尾城は、山内首藤氏の支城である。城主は、七尾城主首藤義通の弟山内左馬之介であったと伝えられる。山内首藤氏が葛西氏に滅ぼされると、山内氏は葛西氏に仕えたと言う。葛西大崎一揆の後、この地が仙台伊達藩領となり、更に天下の治世が徳川幕府のものになると、野望を捨てきれない伊達政宗は、幕府軍と戦って敗れた伊達藩の最後の決戦場として、この釣ノ尾城を想定していたとも伝わっている。

 釣ノ尾城は、北上川南岸の標高76mの八幡山に築かれている。北側斜面の中央に僅かな小道が付いており、そこを登っていくと前面の帯曲輪群に至る。この城は山頂の北側に広い二ノ郭を置き、背後に幅広の浅い堀切に幅広の土橋が架かって、南側に主郭が置かれている。二ノ郭の前面には前述の通り5~6段の帯曲輪群が築かれているが、斜面の形状が中央が内側に凹んだ形状になっているため、中央部は数段のみ、張り出した両翼は更に数段の帯曲輪が築かれた構造となっている。主郭は円形の平場で、中央には天守台が築かれ、部分的に石積みが見られる。主郭周囲と背後の尾根にも帯曲輪群が築かれ、その下方の南尾根には2条の小堀切が穿たれている。この城には、大きな大手道が作られており、二ノ郭背後の帯曲輪から北西の斜面に向かって降っている。大手道の下方には側方に竪堀を穿った防御構造がある。その下は、麓の神社裏に当たるが。斜面が削れており、大手道は消滅している。
 釣ノ尾城は、比較的小規模で簡素な縄張りの城であるが、普請はしっかりしている。特に広い大手道や石積みの天守台など、この規模の城には不釣り合いな、戦国末期から近世頃の新しい構造が見られる。政宗が最後の決戦場と想定していたとの伝承は本当だったのかもしれない。
天守台の石積み→IMG_2604.JPG
IMG_2645.JPG←主郭背後の尾根の曲輪群と堀切
大手道→IMG_2682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.534680/141.388915/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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吉岡城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2517.JPG←南東の隅櫓台
 吉岡城は、伊達政宗の3男河内守宗清が築いた近世城郭である。宗清は1613年に下草古城に入部して二重の堀を持った平城として整備したが、下草古城は川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、1616年に新たに吉岡城を築いて居城を移した。一般的に「吉岡城」と呼称されるが、実際には元和の一国一城令により、「城」ではなく「所」(「要害」より一段下のランク)であった。宗清が1634年に35歳の若さで病没すると、吉岡伊達氏は無嗣断絶となり、1662年には奥山氏が入り、1757年には仙台藩の要職の地位にあった但木土佐顕行が東磐井郡からこの地に転封された。以後、但木氏の居城として幕末まで存続した。

 吉岡城は、善川と吉田川に挟まれた台地上に築かれた平城である。市街化で遺構の湮滅が進み、往時の縄張りを明確に把握するのは困難だが、南の隅櫓台が2ヶ所残存している。その内の西側の隅櫓台は城内大堤公園に隣接し、公園西側にはこの櫓台に繋がった土塁が残っている。公園に模擬櫓台があるので、ここが城跡だと勘違いしてしまうが、実際には公園の東側の畑・民家が城跡である。公園は、かつての庭園であったらしい。本丸は隅櫓台のある平場よりもう少し北にあったらしく、保健福祉総合センター敷地の南入口付近に城址標柱が建っている。大和町の中心に位置する街中の平城のため、壊滅的な状況だが、隅櫓台がしっかり残っているだけでも良しとすべきか。
 尚、伊達宗清とその養母であった飯坂の局の墓が天皇寺に残っている。縦長でスリムな、珍しい形の五輪塔である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.446338/140.879617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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蟻ヶ袋城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2483.JPG←民家脇に残る土塁
 蟻ヶ袋城は、大崎氏の家臣熊谷玄番の居城と伝えられている。歴史の詳細は不明であるが、1588年の大崎合戦の後始末でその名が現れる。即ち、折からの大雪で大敗した伊達勢の将、泉田重光・長江月鑑斎は、和睦の条件として大崎氏の人質となり、この城に幽閉された。その経緯と後日譚は、小野城の項に記載する。一方、蟻ヶ袋城主の熊谷氏は、葛西大崎一揆の際に討死したという。

 蟻ヶ袋城は、鳴瀬川南岸の平地に築かれている。現在は宅地となっているが、宅地の周囲に大土塁が残り、宅地の前は一段低く堀跡と考えられる。場所は間違いないのだが、土塁の隣家の住民に訊いてみたが城があったことをご存じなかった。周囲を歩いてみたが、土塁は残っているもののだいぶ改変を受けているようだった。以前は土塁上に標柱があったようだが、朽ち果てたのか見当たらなかった。戦国末期の歴史に現れる城なのに、少々残念な状態である。城址が民家だから仕方ないところだが。
堀跡らしい窪地→IMG_2485.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.522006/140.921137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御所楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2223.JPG←4郭外側の横堀
 御所楯(御所館)は、大崎氏の庶流黒川氏の初期の居城である。黒川氏の事績は、鶴巣楯の項に記載する。

 御所楯は、比高50m程の馬蹄型の山稜に築かれている。西側外郭部を東北自動車道が貫通しており、一部破壊を受けているが、幸い城の主要部は無傷である。鶴巣楯と同様、多数の曲輪群から成る城で、『図説 中世城郭事典』所収の縄張図によると、主要な曲輪だけで23郭まで記載されている(この内、17~23郭は高速道路で消滅している)。南に開いた馬蹄形山稜の北の頂点に主郭を置き、そこから東尾根と西尾根に曲輪を直線的に連ねているのが基本構造である。2郭には石神神社が鎮座している。主要な曲輪間は基本的に切岸や土塁で区切られ、堀切の数は多くない。堀切は尾根の末端付近の曲輪部分に穿たれている。また馬蹄形に連なった主郭~4郭の外側には、切岸の下に延々と横堀が穿たれ、更に外側に腰曲輪が廻らされている。ここには上方の5郭の張り出した塁線上から横矢が掛けられている。土塁は尾根上の曲輪群の要所に築かれ、例えば主郭の背後や主郭の虎口などは土塁が明確で、16郭では後述する櫓台に繋がる大土塁となっている。西尾根の14郭へは堀切に湾曲した土橋が架かって連結されている。14,16郭には大型の隅櫓台が備わり、特に16郭のものは下段の15郭からだと高さ7m程もある。この他、東尾根の末端近くにある10郭の虎口土塁には石積みが見られ、鶴巣楯移城後の戦国期にも有力支城として存続した可能性が高いと考えられる。主要な曲輪の周りや先端には、多数の腰曲輪群も見られる。
 城へは石神神社への参道で行くことができ、横堀外の腰曲輪には山道が通じている。城内は一部藪が酷いが、ゴーグル着用などすれば歩けない程のレベルではない。御所楯は、城域は広いが鶴巣楯と比べると縄張りの技巧性は乏しく、戦国初期までの古い形態を残していると考えられる。

 尚、御所楯の西側曲輪群の南に谷戸を挟んで八谷館があり、位置・規模・構造から考えて、八谷館は御所楯の出城であったと考えるのが妥当であろう。
14郭の湾曲した土橋→IMG_2399.JPG
IMG_2445.JPG←16郭の大型の隅櫓台
12郭南東の堀切→IMG_2282.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.447312/140.915043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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下草古城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2169.JPG←本丸周囲の水堀跡
 下草古城は、伊達政宗の3男宗清が1613年に入部し、1616年に吉岡城を築いて居城を移すまでの宗清の居城である。宗清は、二重の堀を持った平城として整備したが、川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、新たに吉岡城を築いたとされる。しかし、すぐ南方の山稜には黒川氏の巨城・鶴巣楯があり、下草古城は黒川氏一族か、鶴巣楯を有事の詰城とした黒川氏の平時の居館であった可能性もある。実際に過去に行われた周辺での発掘調査の結果、宗清居城以前の城下町があった可能性が指摘されている。
 下草古城は、竹林川南岸に築かれた平城である。城址は耕地化されてかなり改変されているが、方形の本丸とその周囲の水堀跡がほぼ往時の形で残っている。本丸の周囲には梯郭式に二ノ丸が築かれ、外堀の南西部が僅かにその形状を残している。二ノ丸の南側一帯に、城下町が築かれていたらしいが、現在ではその痕跡は微塵もない。低地になった本丸水堀跡だけが、城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.425227/140.903349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鶴巣楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1961.JPG←横堀に構築された枡形虎口
 鶴巣楯(鶴巣館)は、鶴楯城とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の一族黒川氏の戦国期の居城である。1445年頃に、大崎氏の一族で最上氏の祖となった羽州探題(或いは出羽按察使とも)斯波兼頼の孫、左衛門尉氏直が黒川地方に分封されて、黒川氏を称したとされる。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっており、大崎領の南方を押さえる為に最初は御所楯を居城としていた。しかし戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、伊達一門の飯坂清宗(伊達氏9代儀山公政宗の3男)の子景氏を養子として家督を継がせ(入嗣は1519年以前とされる)、以後は大崎氏を離れて伊達氏に属した。そのため景氏は、北の大崎氏に対する備えとして新たに鶴巣楯を築いて居城を移した。以後鶴巣楯は、黒川氏4代に渡る居城となった。1588年の大崎合戦では、鶴巣楯主黒川月舟斎晴氏は突如伊達氏を裏切り、大崎方に付いて渋谷相模守が守る桑折城に入って守備に当たった。折からの大雪で留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大敗し、晴氏は娘婿の政景を温情をもってその帰陣を許した。その後、伊達氏と大崎氏の間で講話が成立したが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は改易となった。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、黒川月舟斎と小野城主長江月鑑斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえた。月舟斎の所領は没収され、鶴巣楯はこの時に廃城になったと思われる。月舟斎は、留守政景の助命嘆願によって一命を取留め、その後は政景の保護下で余生を送り、1609年に没した。黒川氏の家督は、月舟斎が大崎氏から養子に迎えていた義康が継ぎ、少禄で伊達氏に仕えた。その子季氏の時、無嗣断絶となった。

 鶴巣楯は、吉田川の広い氾濫原に面した比高55m程の丘陵突端部に築かれている。宮城県内でも有数の規模・構造を持った山城で、城域は広大である。『日本城郭大系』などの記載に従うと、主要な曲輪だけで主郭~七ノ郭まである。主郭は頂部に位置する三角形状の曲輪で、西に二ノ郭、南東の尾根続きに三ノ郭、北東に四ノ郭を配置している。二ノ郭との間は変則的な二重堀切で分断し、三ノ郭との間は単発の堀切で分断している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の周囲には腰曲輪が築かれ、その外周に横堀を多用して防御を固めている。この横堀は枡形虎口を兼ねたクランク状の屈曲や出枡形があちこちに見られる。また各所の虎口には櫓台も見られ、厳重な防御を施している。二ノ郭には内枡形と出枡形を組み合わせた虎口があったり、三ノ郭には側方を横堀で防御したS字土橋の虎口を設けるなど、虎口構造の技巧性も高い。また三ノ郭外周には尾根筋を分断するため深さ5mの大きな横堀が穿たれている。四ノ郭~七ノ郭は北東の尾根に沿って展開しているが、基本的に切岸だけで区画されている。これらの東から北の斜面にかけては多数の腰曲輪が築かれている。
 事前に本で見ていた縄張りからは、城域は広いが曲輪群だけがあるだけであまり技巧性はなさそうだと期待していなかったが、実際にはかなり巧妙な遺構群でビックリした。特に横堀の多用や枡形虎口の構築など、伊達氏の築城技術との類似点が多く見られることから、伊達氏の技術を移入したものの様に感じられた。
 ただ、遺構としては素晴らしいが、展望台となった四ノ郭以外は未整備で山林内が荒れており、うまく写真を取るのが非常に難しい。城址公園として綺麗に整備されると、その価値が見直されると思う。
三ノ郭外周の大空堀→IMG_2037.JPG
IMG_2007.JPG←三ノ郭虎口のS字土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.417578/140.901890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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桃生城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6210.JPG←北の外郭の土塁跡
 桃生城は、律令政府が758年に造営を開始し、760年に完成し、その後774年に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代城柵である。発掘調査の結果、外周を築地塀などで囲み、中央やや東寄りに政庁、その西側に官衙地区が設けられていることが判明している。これらはいずれも同時期と見られる火災で消失し、その後復興されていないことから、『続日本記』に記載されている海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられている。8世紀後半の、わずか15年程の期間しか存続しなかった城柵である。

 桃生城は、標高70m程の丘陵地に築かれている。私が訪城した「丘陵地に築かれた古代城柵」としては、宮沢遺跡に続き2例目である。しかし宮沢遺跡のような本格的な堀などの防御施設はなく、外周を築地塀・土塁と櫓で防御していただけらしい。また桃生城は、古代城柵としては異例の未整備状態で、訪城した際、たまたま行き会った古代城柵巡りをしている中年のご夫婦が、「ここは最悪」と愚痴っていたほどである。普通は復元整備するか、それほどでなくとも散策路を整備して、政庁跡などを簡易的な表示で示すかするものだが、ここでは中心の政庁跡は藪で冬でも進入不能、西側官衙地区に至っては到達することすら不可能。北辺の築地塀の土塁だけは、わずかな踏み跡程度の小道が通じており、土塁の跡がわずかに示されているが、帰りに暗くなってきたら小道が見えなくなって危うく迷いそうになったぐらいである。史跡の整備状態としてはホントに最悪で、さすがにこれは行政当局でもう少し考えた方が良いのではないかと感じた。
政庁跡の現況→IMG_6203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.533430/141.277485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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七尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5955.JPG←腰曲輪上に屹立する三ノ郭
 七尾城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の最後の居城と言われている。山内首藤氏の事績については、大森城の項に記載する。山内首藤氏が最終的に七尾城に本拠を移した時期は不明であるが、永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子が石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた時には、七尾城が本拠となっていたとされる。当時の七尾城は三方を水に囲まれた要害で、葛西勢は総力を挙げて攻撃したが攻略できず、最後は兵糧攻めによって陥落し、山内首藤氏は没落した。その後、七尾城には葛西氏の一族葛西守重が入った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易されると、七尾城は廃城になった。

 七尾城は、北上川北岸に連なる丘陵群の一つ、標高80mの山上に築かれている。大きく3つの峰に曲輪群が築かれており、東の高い峰から順に主郭郡・二ノ郭群・三ノ郭群とされている。これらの曲輪群は、それぞれのピーク上に主体となる曲輪を置き、その外周に腰曲輪を数段廻らし、さらにそれぞれのピークから北西に伸びる尾根に沿って舌状曲輪を配置した構造で、一城別郭の縄張りとなっている。私は三ノ郭西側の谷戸に小道が付いていたので、そちらから南面の尾根筋まで至り、そこから西から順に城内を巡った。三ノ郭は比較的藪が少なく、山の手入れもされているので、遺構の確認がし易い。三ノ郭西側に浅い横堀を備えた腰曲輪を築き、北西尾根には二重堀切を穿ち、更に舌状曲輪を配している。舌状曲輪側方にも帯曲輪を築いている。次の二ノ郭群は、地形上の制約からか曲輪群の規模は小さい。また藪も多く、遺構が見づらい。基本的にはピーク上の二ノ郭と外周の腰曲輪、更に北西尾根に数段の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は、高低差の大きな斜面・鞍部で分断されており、二ノ郭側はこの斜面に何段もの腰曲輪群を築いている。鞍部は平場になっており、谷戸を登ってくる大手道に繋がっている。主郭は、ここから数段の腰曲輪を経由した上にあり、途中には浅い堀切と土橋もある。主郭内は僅かな段差で3段ほどに区画されている。主郭の外周も数段の腰曲輪で囲繞され、急峻な南側では幅が狭まって武者走り状になっている。主郭群も北西尾根に舌状曲輪が伸びており、先端を急峻な中規模の堀切で分断し、更にその下方にも舌状曲輪がある。主郭群と二ノ郭群の間の谷戸には、大手門の跡が残り、門跡の土塁が明瞭である。
 七尾城は、全体に旧態依然とした縄張りで、見た限りでは大森城の方が新鋭の山城である。また大森城の方が本城にふさわしい規模を誇っているので、山内首藤氏が居城を七尾城に移したというのは少々疑問に感じた。相当追いつめられたものか、或いは、大森城の方は葛西氏時代の戦国後期に大改修されたのかもしれない。
三ノ郭群の二重堀切の1本目→IMG_5977.JPG
IMG_6129.JPG←主郭群の堀切
谷戸の大手門跡→IMG_6168.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528646/141.344240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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大森城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5750.JPG←主郭北側の横堀
 大森城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の居城である。山内首藤氏は、後三年の役以来、源氏に恩顧のある家柄であったが、源頼朝が石橋山で挙兵した際、山内首藤経俊は母が頼朝の乳母であったにも関わらず平家に味方したばかりか、頼朝に対して矢を放ったため、頼朝が鎌倉を制圧すると斬首されそうになったが、老母の助命嘆願で助けられた。その後は頼朝に従って軍功を挙げ、御家人の列に連なった。奥州合戦にも従軍して、その功によって桃生24郷を拝領したのが、山内首藤氏が奥州に地歩を築く契機となった。後に山内首藤氏の嫡流は備後に移ったが、庶流が桃生郡に下向してこの地を支配した。奥州入部の時期は不明であるが、鎌倉末期から南北朝期頃に掛けては永井城を本拠に勢力を伸ばし、その後、大森城に居城を移して大勢力に成長した。大森城を本拠としたのは、南北朝期から室町中期(1350~1500年)頃と推測されている。この時期が、山内首藤氏が最も勢力を拡大した時代であったとされる。山内首藤氏の最終的な居城は、七尾城であったと言われるが、七尾城に移った時期は不明である。永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子は、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた。葛西氏は総力を挙げて攻撃したが、大森城・七尾城は陥落せず、やむなく兵糧攻め・長囲の計をめぐらしたため、遂に落城し、山内首藤氏は没落した。その後の桃生郡は葛西領に併呑され、大森城には葛西氏の家臣男沢氏が入城したと言う。

 大森城は、標高70m程の大森山という独立丘陵に築かれている。丘陵全体を城とした、規模の大きな山城で、山内首藤氏の勢威を感じさせる堂々とした造りである。中心に主郭を置き、西尾根に二ノ郭、東尾根に三ノ郭と東郭、北尾根に北郭を配している。主郭は南に内枡形の虎口を築き、虎口を守る櫓台などには石積みが散見される。主郭内は僅かな段差で東西に区画され、東部分は更に南北に区画されている。この内、北東部が一番高い位置にあり、主殿があったものと推測される。主郭外周には土塁が築かれ、主郭南辺では塁線に横矢掛かりが見られる。主郭外周は腰曲輪が築かれ、東・北・西の三面には切岸の下に横堀が穿たれて防御を固めている。この横堀は主郭東側の南端部では竪堀となって落ちている。二ノ郭周囲には幾つもの腰曲輪が築かれ、三ノ郭の先の東郭の基部には堀切が確認できる。この堀切も南端で竪堀となって落ち、竪堀の両側に腰曲輪が築かれている。以上の様に遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多く、歩いて回れない程ではないが遺構の確認は少々しづらい。南西麓に解説板があり、その先を直登したが、明確な道はなく、とにかく上を目指して登っていくしか無いが、主郭付近は普請の規模が大きく、見応えがある。石積みや桝形虎口などの遺構から考えると、戦国末期まで使用された大型の城だった様である。もう少し整備されていると、素晴らしいのだが。
主郭の横矢掛かりの切岸→IMG_5851.JPG
IMG_5862.JPG←櫓台を備えた主郭枡形虎口
東郭の堀切→IMG_5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.501044/141.320958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中沢楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5660.JPG←段々になった曲輪群
 中沢楯(中沢館)は、歴史不詳の城である。勢力圏から考えれば、葛西氏の支配領域であることから、葛西氏の家臣の本拠であったことは想像に難くない。現地解説板によれば、戦国末期の1588年に葛西晴信が中沢左近之丞宛に、元南曲輪内にあった中沢神明社に対する「御立願之事」という願文を送っていることから、この中沢氏であったと推測されている。

 中沢楯は、人石山の裾野が大原浜まで伸びた突端の段丘に築かれている。比較的城域の大きな城で、段々になった多数の腰曲輪群で構成されている。中央に大手の谷戸があり、その南北に張り出した丘陵部に出曲輪を配している。曲輪群には堀切はなく、主郭まで段差という程度の小さな切岸だけで区画されている。主郭は頂部の平場と考えられるが、東側はそのまま丘陵基部に続いてしまっていて、主郭の範囲があまり明確にできない。現地解説板の縄張図に記載されている背後の堀切は、主郭からかなり離れた登り斜面に穿たれているが、非常に小規模で、特に2本目はほとんどわからないレベルである。また前述の縄張図には、南曲輪周囲に空堀、南麓の腰曲輪に石塁が記載されているが、空堀は湮滅して形態を残さず、石塁は耕地化の際の土留の可能性が高く、遺構とは看做し難い。縄張りとしては、素朴な形態を残した城だったと思われる。
 尚、大手の谷戸には民家があるが、無住の様で、入口に売地の看板が立っている。周辺の浜一帯は東日本大震災の被災地で、家屋がほとんど残っていないので、ここの地主の方も移住されてしまったのかもしれない。私は南西麓の中沢神明社から登ったが、城内で人の気配を感じることはなかった。一日も早い復興を祈るばかりである。
わずかな1本目の堀切→IMG_5625.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.331069/141.477170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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