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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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鶴ヶ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6113.JPG←主郭
 鶴ヶ城は、歴史不詳の城である。一応、市の史跡に指定されており登り口には標柱も立っているが、解説文がない。また『日本城郭大系』『伊達諸城の研究』にも載っていないので、その歴史は全くわからない。宮城県遺跡地図では、中世・近世の城館とある。領域からすると、葛西氏関係の城であろうか?

 鶴ヶ城は、標高60m、比高40~50m程の丘陵上に築かれている。頂部に主郭を置き、南に伸びる緩やかな尾根上に曲輪群を連ねている。主郭は、珍しい三角形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らしている。南尾根の曲輪群は、段々に並んだ長い平場群で、一部に小堀切や側方の竪堀が見られる。主郭の北東にも広い曲輪があるが、現在は田畑に変貌している。その北に土塁状の遺構らしきものが見られるが、物見台だったのか何なのか意図は謎である。鶴ヶ城は、主郭以外のほとんど全域が薮に覆われ、特に南端の曲輪群は耕作放棄地で深い薮に埋もれており、進入は困難である。標柱さえも薮に埋もれており、かなり残念な状況である。尚、主郭付近までの登道は南麓から辛うじて残っている。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_6116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811256/141.092219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 作者: 葛飾区郷土と天文の博物館
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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斐ノ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6030.JPG←主郭
 斐ノ城は、有賀館とも呼ばれ、葛西氏の家臣渋谷氏の居城と伝えられる。現地標柱の解説によれば、1063年に八幡太郎源義家がこの地で越年したと言われる。しかし同じ様な伝承は東北各地にあり俄には信じ難い。建暦年間(1211~13年)には八幡神社の別当清原氏が居住した。戦国後期の天正の頃には、葛西氏の家臣渋谷備前の居城となったが、渋谷氏の戦死により廃城となったとされる。
 一方、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、古くは延喜年間(901~23年)に鎮守府将軍藤原利仁の陣城であったとの伝承が残る。明応年間(1492~1501年)に大崎氏の家臣菅原兼長が斐ノ城に居城し、1533年に兼長が田子屋城に移ると、同じく大崎氏家臣の高玉茂兵衛の居城となり、1556年に高玉氏が福岡城に移ると大崎氏家臣田野崎玄蕃照道が城主となった。元亀年間(1570~73年)以来、大崎・葛西両氏は度々交戦し、1573年に大崎氏が大敗するとこの地域は葛西氏の支配下に入り、葛西氏の家臣渋谷式部が居城したとされる。廃城は、1590年の奥州仕置による葛西氏改易の時とされる。

 斐ノ城は、官庭寺裏山に当たる標高45.6m、比高30m程の丘陵上に築かれている。官庭寺の墓地から主郭に登ることができ、主郭南西辺に標柱が立っている。土塁はなく、切岸だけで囲まれた曲輪で、外周に腰曲輪を伴っている。切岸に厳しさはなく、簡単に登れてしまう感じである。主郭の北側に城内通路を兼ねた堀切があり、その北に二ノ郭が築かれている。この堀切も鋭さに欠けるが、主郭側には櫓台が築かれている様である(薮でわかりにくい)。ニノ郭の周りには低土塁が築かれ、外周には腰曲輪群が築かれている。前述の堀切から東に下る小道があり、鞍部の平場(現在は畑地)の東に、御賀八幡神社が祀られた小丘がある。ここにも腰曲輪があり、堡塁であったことがわかる。この堡塁となった神社境内には矢立の杉・弓立の杉がある他、多くの祠と共に斐ノ城跡と刻まれた小さい石碑と八幡神社の由来が刻まれた大きな石碑が立っている。大きな石碑の刻文には、斐ノ城のことも書かれている。矢立の杉・弓立の杉の標柱には由来が書かれていないが、おそらく源義家にまつわるものだろう。神社堡塁の北に宮司家の建つ低地があり、その北にもう一つ小丘があり、ここも腰曲輪が見られ、堡塁であったと思われる。その北東に数段の畑があり、切り通し状に車道が貫通している。これも往時の堀切であった可能性がある。この他、斐ノ城には、武鑓城と同じく西に続く尾根に曲輪群が築かれている。一部は官庭寺の墓地となって改変されているが、薮の中には途中堀切が2本穿たれている。また尾根上には土塁が築かれ、その側方両側に腰曲輪が築かれており、普請は明瞭である。物見台らしいピークも見られる。斐ノ城は、ネットに全く情報がないのであまり期待していなかったが、遺構は比較的良く残っている。しかし主郭と神社境内以外は全体に薮が多く、遺構の確認に少々苦労するのが残念である。
 尚、宮城県遺跡地図では、遺跡範囲から肝心の主郭と神社の堡塁が外れてしまっている。
神社の建つ堡塁→IMG_5987.JPG
IMG_6044.JPG←西尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803965/141.104236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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武鎗城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5838.JPG←主郭の切岸
 武鎗城は、葛西氏の家臣武鎗氏の歴代の居城と伝えられている。最初は平安末期の1189年頃に築かれたとされる。最後の城主武鎗典膳重信は、天文年間(1532~55年)以来、葛西晴胤・親信・晴信と葛西氏3代に仕えた勇将で、1579年に鶴丸城主富沢直綱が葛西氏に叛して磐井郡流庄へと侵攻した富沢兵乱において、主家の防壁として奮戦した。しかし豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易された後、1591年の葛西大崎一揆に武鎗典膳も参陣し、一揆鎮圧後に伊達政宗が一揆の主だった者達を桃生郡須江山において謀略によって惨殺した「須江山の惨劇」で典膳も殺害された。

 武鎗城は、東館と西館で構成されたとされる。東館が主城で、標高59.6m、比高50m程の丘陵上に築かれている。城内を東西に通る車道の北側の段丘上が主郭で、一部が畑、大半が山林となっている。大きな切岸で囲まれ、南西部には横矢掛かりの塁線が内側に折れており、外周に腰曲輪を廻らしている。腰曲輪は西面では2段確認できる。主郭の北側は切岸が不明瞭な緩斜面となって、腰曲輪と繋がっている。主郭東の腰曲輪には給水施設があり、そこに標柱が立っており登道が付いている。また主郭の西側の民家の建つ高台や、その南の広場(小学校跡地)、主郭の南下方に広がる畑地も曲輪跡であったと考えられる。一方西館は、東館の西に連なる尾根に築かれた堡塁群で、3つのピークの内2つは安養寺の墓地となり改変されているが、周囲の山林内に腰曲輪が数段確認でき、城郭遺構であることは確実である。しかし一番西の3つ目のピークは薮がひどく進入不能である。同じ様な尾根が東館の北西にも連なっているので探索したが、こちらにはあまり明確な普請の形跡は見られず、城砦はなかった様である。武鎗城は、部分的に改変が進んでいるものの主郭部が健在で、往時の姿をよく残している。但しあまり技巧性はなく、曲輪群を連ねただけの縄張りだった様である。尚、『日本城郭大系』には、主郭北側に空堀があると記載されているが、実際には空堀は見られなかった。
主郭周囲の腰曲輪群→IMG_5837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803848/141.122925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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有壁館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5754.JPG←主郭背後の大堀切
 有壁館は、当初は大崎氏家臣後藤美作・菅原帯刀の居城、後に葛西氏家臣有壁尾張・有壁安芸・有壁摂津の3代にわたっての居城であったとされる。有壁摂津は、西館(鶴頭城)城主としてもその名が見える。東方350m程の所には奥州街道有壁宿があり、街道を押さえる要害であったことがわかる。

 有壁館は、有馬川北岸の比高30m程の丘陵南端部に築かれている。地勢は国土地理院地形図の等高線で見えるのとは違い、大きく抉れた東斜面より西側斜面の方が傾斜が緩いため、防御構造は西側に集中して築かれている。登り口は東麓にあり、標柱が立っているが、明確な道はあまりなく、わずかな踏み跡を辿って東尾根を登って行くと、2段程の段曲輪が確認でき、その上に主郭の虎口が築かれている。直接主郭に至ることから、この南東尾根は搦手であったことがわかる。主郭はほぼ長方形の曲輪で、西側のみに低土塁が築かれている。北西には大手虎口があり、大堀切と横堀に挟まれた土橋で二ノ郭に連結している。ニノ郭は、主郭の北西に一段低く築かれ、主郭との間には前述の通り横堀が穿たれ、北西辺に一段低く腰曲輪を築いている。その下方には横堀の塹壕線が築かれ、しっかりした土塁で横堀外側を防御している。土塁の南端は櫓台となっている。この様に西側には射撃戦を想定した重厚な防御構造が見られる。一方、主郭背後には大堀切が穿たれ、その北側に三ノ郭が築かれている。大堀切からは長い竪堀が落ち、前述のニノ郭外の横堀と交差して繋がっている。三ノ郭の北に更に堀切が穿たれて城域が終わっているが、この堀切からも竪堀が西に長く落ちている。三ノ郭は、背後に土塁が築かれているが、西側は腰曲輪等のない只の緩斜面で、不思議な普請である。相方は、敵兵をおびき寄せる罠じゃないかと推測していたが、竪堀による誘導を考えるとなるほど、そういう考え方もあるかと、その発想に感心した。有壁館はこの様に遺構が良く残り、西側に重厚な防御構造を有しているが、残念ながら未整備で薮が多く、見映えしないのが残念である。
ニノ郭北西側の横堀→IMG_5769.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.870353/141.122067/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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境野楯〔山城〕(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5646.JPG←主郭から見た2段の曲輪
 境野楯(境野館)〔山城〕は、境野楯〔平城〕の背後の山上に築かれた詰城である。平城は永禄年間(1558~70年)の境野氏分家の際に築城されているが、山城は分家以前から秋保郷を守る詰城の一つとして築かれていたと推測されている。

 境野楯〔山城〕は、標高290.6mのヤケ山に築かれている。秋保・里センターのHPでは、ヤケ山より更に北方の標高340mの大旗山が城の中心であったとしているが、スーパー地形では大旗山に遺構があるようには見えなかった為、三角点のあるヤケ山の方しか私は登っていない。ヤケ山の山上には主郭含めて3段の曲輪があり、いずれも1~2m程の段差で区画されているだけである。それら3段の曲輪の南面から西面にかけては2段の腰曲輪が廻らされており、背後に当たる主郭の北側にも1段腰曲輪が確認できる。この背後の腰曲輪から、西に向かってトラバースするように武者走りがあり、そこに竪堀が1本落ちている。その先の、主郭の北西下方に当たる部分には、堀切で区画された堡塁が築かれている。この他、大旗山に向かう背後の尾根筋にも平場っぽいものがあるが、遺構かどうか判断するのは困難である。尚、私はヤケ山に登るのに南の尾根を直登したが、実は北尾根の鞍部には西麓からの山道が通っているのを発見し、家に帰ってから調べたら、地元の方達によって里山トレッキングの道が整備されているらしい。どうりでヤケ山はほとんどが笹薮で覆われているのに、3段曲輪の一番上の主郭だけきれいに薮払いされているわけだ!いずれにしても境野楯〔山城〕は、比較的小規模な詰城の類である。
北西の堀切と堡塁→IMG_5662.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.260946/140.681691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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境野楯〔平城〕(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5568.JPG←四ノ郭西端の大櫓台
 境野楯(境野館)〔平城〕は、秋保郷の土豪秋保氏の支城である。永禄年間(1558~70年)に秋保勝盛の弟盛久がこの地に分封されて境野氏を称し、境野楯を築いたと伝えられる。戦国時代の末期、伊達政宗に反抗して捕らえられた鶴巣楯主黒川月舟斎は、境野楯に預けられている。尚、この背後の山上には、境野楯〔山城〕が詰城として築かれている。

 境野楯〔平城〕は、秋保氏本家の居城長館の北方わずか500m程の位置にあり、2つの小河川に挟まれた台地に築かれている。城内は、大きく東西2段の平場群に分かれ、更に上段に当たる東郭群は堀切で南北3つの曲輪に分かれ、下段に当たる西郭も段差で2段に分かれている。東郭群を南から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭、西郭を四ノ郭とすると、東郭群で最大の面積を持つのが主郭で、北側にニノ郭と分断する堀切を穿ち、北西には四ノ郭全体を俯瞰するように物見の張出しを設けており、先端部には小堀切と物見の小郭を設けている。主郭とニノ郭の堀切の東側には腰曲輪状の平場空間があり、虎口の様な形状も見られることから、往時の大手虎口だった可能性がある。東の沢に土橋があるがこれは明らかに近代のもので、往時は木橋が架かっていたと思われる。ニノ郭は未整備のガサ薮で進入不能であるが、その北側にも三ノ郭と分断する堀切があり、ニノ郭側には堀切に沿って土塁が築かれている。三ノ郭の北側には車道が貫通しているが、これも往時は堀切だった可能性がある。三ノ郭の南西には二ノ郭西側からの登り口があり、土塁を伴っているので往時の虎口だった可能性があるが、笹薮がひどくわかりにくい。一方、西の四ノ郭は、前述の通り2段の平場に分かれ、上段平場の西辺部には大きな櫓台の土壇が築かれており、この櫓台から南に土塁が伸びている。以上が遺構の全容で、城内は畑になっている三ノ郭以外は耕作放棄地で、部分的に薮が多い。四ノ郭の上段平場は山林となっている。東側から沢を越えて城に入る道(大手道?)があり、道の入口に解説板が建っている。境野楯〔平城〕は、単なる居館というより城砦機能を強化した縄張りであり、本城の長館を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
ニノ郭~三ノ郭間の堀切→IMG_5596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.255504/140.682871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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湯元小屋楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5508.JPG←空堀跡?の道
 湯元小屋楯(湯元小屋館)は、秋保郷の土豪秋保氏の庶流秋保摂津守盛義が築いたと伝えられている。秋保盛房の弟盛義は馬場村に居住して上館城を居城とし、一名を馬場と称し、合わせて湯元小屋楯を築いて秋保郷の東西両端の護りを担った。盛義の孫で馬場秋保氏3代定重は、永禄年間(1558~69年)に新たに豊後館を構えて居城を移したが、永禄・天正年間(1558~92年)から江戸初期の1603年まで、小屋楯にも居住したとされる。こうして湯元小屋館は初代盛義から6代重久の頃まで機能し、秋保郷の両端を秋保摂津守一族が押さえることで、外敵の侵入を防いだと言う。

 湯元小屋楯は、名取川南岸にそびえる比高60m程の断崖上に築かれている。この断崖は、北面は垂直に近い絶壁で囲まれており、人を寄せ付けない。北西の尾根も傾斜がきつく、登り得るのは北東の尾根筋のみで、天守閣自然公園内の回遊路が通っており、北東麓から登り道がある。断崖上に広い平坦地が広がっており、そこに城館があったらしい。断崖上は自然地形の平場が広がっているだけで、空堀、土塁等の遺構があるとされるが、どこのことを言っているのか良くわからない。しかし平坦地の中央付近に水の手らしい湧水池があり、土塁を伴っている。またその北東方に堀底道らしいものがあるが、これが現地解説板に記載のある空堀のことであろうか?その脇には一応土塁らしき土盛りも見られるが、縄張り的にどうなっているのかは判然としない。前述の登り道のある尾根の南側は深い谷が刻まれており、登り道のある尾根の先端付近は独立性のある物見台となっているらしい。この物見台に祠も祀られている。この他、南には山地が続いているが、堀切などは確認できない。城内は回遊路が通っている為、城跡の薮はきれいに整備されている。湯元小屋楯は、この様に明確な防御構造はほとんど見られず、急峻な断崖だけで守りを固めた城館だった様である。但し、平場は広いので、居住性は十分である。
土塁を伴う水の手→IMG_5520.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.228809/140.711389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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大原館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5457.JPG←標柱と堀跡とされる溝
 大原館は、天正年間(1573~92年)の初め頃から国分氏の家臣作並宮内が居住したと伝えられている。熊ヶ根城の対岸の台地南端に位置し、三方を川で囲まれた天然の要害である。現在は一部が宅地、大半は耕地化されており、遺構はほとんど湮滅している。館跡北端部に標柱が立っており、ここに見られる溝状の地形が堀跡であったとされ、昭和20年代前半の航空写真でも一直線に走る堀跡が確認できる。しかし現況からすると、かなり埋められてしまったものと考えられる。過去に行われた発掘調査の結果では、二重の空堀であったことが判明していると言う。しかし今となっては、地勢以外に見るべきものはほとんど無い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.289987/140.695317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏の領国支配―小林清治著作集〈1〉 (小林清治著作集 1)

戦国大名伊達氏の領国支配―小林清治著作集〈1〉 (小林清治著作集 1)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本


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熊ヶ根城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5446.JPG←堀切跡と土塁
 熊ヶ根城は、国分盛重の家臣六丁目氏の城と伝えられる。広瀬川と豆沢川の合流点に突き出た、比高40~50m程の段丘南東端に築かれている。六丁目氏が開基した興善寺の東側に隣接しており、現在は空き地と宅地となっている。興善寺との間には堀切跡が民家入口の通路となっており、その東に土塁が築かれている。明確な遺構はこの程度で、あとは平場が広がっているだけである。民家の南側を南東に下る車道があるが、往時はその南側の宅地も曲輪の一部であったと推測される。いずれにしても、改変が進んでかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.293069/140.690832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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根添館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5383.JPG←主郭西側の空堀
 根添館は、前九年の役の際の安倍一族の支城と言われている。伝承では、源義家は安倍氏の激しい抵抗に遭い、坪沼の道内寺に本陣を敷いて、やっとのことで落城させたと言われる。

 根添館は、坪沼川西岸の比高15m程の段丘北端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、主郭の周囲に腰曲輪を一段廻らし、南から西側にかけての台地基部をL字の空堀で分断した簡素な縄張りとなっている。南側の堀の中央には土橋が架かり、主郭内の土橋右側には櫓台が築かれている。主郭は現在空き地となっているが、櫓台前に解説板が建てられている。空堀は良好に残っており、堀は北西端で西に折れて竪堀となって落ちている。この竪堀脇の腰曲輪には土塁を備えた虎口があり、竪堀が登城道を兼ねていたことがわかる。これは低湿地帯に面して船着場があったのだろうか?この他、主郭南西には外郭があり、土塁と溝状の堀が確認できる。遺構はよく残っているが、腰曲輪と外郭は薮がひどく、踏査が困難である。小規模な城館で構造も簡素であるが、時代的に平安後期まで遡るかは少々疑問である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.191379/140.764196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前九年・後三年合戦 (11世紀の城と館)

前九年・後三年合戦 (11世紀の城と館)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2011/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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高舘城(宮城県名取市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5226.JPG←主郭と西之丸の間の堀切
 高舘城は、伊達氏の拠点城郭であったと推測される。伝承では、1175年に奥州藤原氏3代秀衡が館を築き、1189年の源頼朝による奥州合戦の際、藤原勢がこの城に立て籠もって鎌倉勢を迎え撃ったと言われている。南北朝時代の観応の擾乱の際には、1351年、多賀城を巡る攻防で奥州管領(後の奥州探題)吉良貞家が陣を置いた「羽黒城」「名取要害」は、高舘城のことと考えられている。戦国前期の伊達稙宗の時代には、名取郡を押さえた稙宗が一時居城し、後に家臣の福田駿河守を城主として置いたとされている。

 高舘城は、仙台平野南半を見下ろす高舘山の東峰、標高180mの山上に築かれている。巨大な城郭で、仙台平野周辺に築かれた中世城郭では最大の規模を持つ。山頂に広大な長方形の主郭を置き、その周囲にニノ郭群を廻らしている。主郭には東と南東に虎口が築かれている。南東のものは大型の桝形虎口で、これが大手虎口であったと思われる。一方、東側のものは虎口の前面に櫓台を設けた出桝形で、規模が小さいことから搦手虎口であったと思われる。また主郭の西辺部には大土塁が築かれている。ニノ郭群は、独立性の高い数個の平場に分かれ、現地解説板の縄張図ではそれぞれ北之丸・東之丸・南之丸・西之丸と称している。位置的に最も高い位置にあるのが東之丸で、側方に搦手道が通っており、搦手の防衛を担っている。西之丸と南之丸は主郭との間に堀切兼用通路を設けて独立性の高い区画としている。ニノ郭群には南東・東・南西の3ヶ所の登道があり、南東のものが大手枡形虎口に繋がっている。東のものは登り口に櫓台がそびえており、登っていくと搦手虎口に通じている。南西のものは竪堀状の城道となっている。南之丸の南側には大堀切があり、その先に秀衡ヶ崎と呼ばれる三ノ郭が広がっている。三ノ郭の外周には帯曲輪が廻り、南端は円弧状の堀切となっている。以上の曲輪はいずれも広くかなりの兵数が駐屯可能であるが、一部の郭内は傾斜しており削平が甘い状態である。これら主城部は、北西の尾根筋を三重堀切で分断している。
 主城部以外に、南東・東・北東・北の4つの尾根に遺構群があり、南東の尾根は更に途中で南・東の支尾根に分かれて遺構が存在している。南東の尾根は細尾根上の平場群の先に高舘山古墳があり、大型の前方後方墳であるが城の一郭として利用されている。古墳登り口も出桝形っぽい形に作られている様だ。古墳の南西から南東にかけて腰曲輪が数段ずつ構築されている。南西の腰曲輪から伸びる南の支尾根には二重堀切・小郭・堀切が構築されて尾根筋が防御され、その先に2ヶ所の物見台が置かれている。また古墳南西の腰曲輪から南の支尾根には城道が伸び、降った先では土塁を伴ったつづら折れの城道が構築されている。従ってこの登道では、180度の旋回を何度も強制されることになる。東の尾根にも尾根上の曲輪群があるが、脇に登山道があるので一部破壊を受けている。尾根先端に円弧状の堀切が穿たれているが、この堀切は登山道をまたいで南斜面まで続いており、堀切南西端部は虎口となっている。その下に南東に下る城道があり、前述のものと同様につづら折れの城道になっている。北之丸の北東には、堀切を挟んで北東尾根の遺構群がある。細尾根上の曲輪群であるが、この尾根だけ北側斜面に延々と横堀が穿たれている。尾根の先には曲輪を挟みながら3つの堀切が穿たれており、それぞれ横堀と接続しており、先端のものは横堀がそのまま堀切となって尾根に回り込んでいる。北之丸の北側にも堀切を挟んで土塁が築かれ、その外側に更に堀切と小郭が置かれている。

 以上が高舘城の全容である。高舘山古墳の先の支尾根の遺構群は、現地解説板の縄張図には記載されていない。縄張的には、桝形虎口や横堀が多用され、大型の堀切も備え、出羽鷺城との類似点も多く、伊達氏系山城の特徴を備えている。また伊達氏の山城の規模としては陸奥桑折西山城に匹敵する。伊達稙宗が一時居城としたとする伝承は、十分首肯できる。但し、全体に整備があまりされておらず、部分的に薮がひどいので、ゴーグルは必須である。整備されたらどれほど見事な遺構であるかと思うと残念である。尚、東麓と西の車道から登山道が整備されている。
主郭の大手桝形虎口→IMG_5356.JPG
IMG_4947.JPG←南支尾根の二重堀切
つづら折れの城道→IMG_4988.JPG
IMG_5098.JPG←北東尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.189423/140.841594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


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愛宕山城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4588.JPG←主郭北の堀切状腰曲輪
 愛宕山城は、愛宕山館とも呼ばれ、伊達氏重臣亘理元宗の家臣坂元大膳隆俊の居城である。隆俊は、1570年に愛宕山城を築いて、新城館から本拠を移したと言う。しかし翌71年、相馬盛胤父子の攻撃を受けて落城し、隆俊は討死した。1572年に、隆俊の子三河俊久が坂元氏を再興すると、愛宕山城が父大膳の討死した不吉な城であったことから、新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。

 愛宕山城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓の高さ10m程の高台の畑の手前を奥に進むと登り道が付いている。主郭にある愛宕神社への参道で、竪堀状になっているが、勿論後世の改変だろう。山頂には南北に長い長円形の主郭があり、内部は僅かな段差で北南二郭に分かれていた様である。南郭の西辺には土塁が築かれ、その上に杉の大木がそびえている。この土塁の北側、ちょうど主郭西辺の中央部に虎口がある。また主郭の北には堀切を兼ねた腰曲輪があり、その北にニノ郭が広がっている。ニノ郭は南端に土塁を築き、北には堀切が2条と中間の小郭が置かれている。ニノ郭南西部に内桝形虎口が築かれている。主郭とニノ郭の周囲には腰曲輪が広がっているが、薮が多く、全部は踏査していない。また主郭の南から東の斜面には腰曲輪群が幾重にも築かれている。地形的には西尾根にも遺構がありそうだったが、この日は日没でタイムアウトとなり、未確認である。愛宕山城は、遺構はよく残っているが、主郭とニノ郭以外は薮が多く未整備である。登り口と主郭に、それぞれ解説板が設置されているのに、ちょっと残念な状況である。
ニノ郭北の堀切→IMG_4605.JPG
IMG_4619.JPG←ニノ郭の内桝形虎口と腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.924887/140.890968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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陣林楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4451.JPG←一騎駆けの土橋
 陣林楯(陣林館)は、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で相馬義胤が陣取りしたとされる陣城である。伊達政宗が本陣を置いたとされる冥護山楯からは、直線距離で3.5km程の位置にあり、両軍が睨み合っていたことがよく分かる布陣である。

 陣林楯は、国道113号線が通る大内集落東側の比高40m程の丘陵上に築かれている。城全体はT字型のハンマーの様な形をしており、主要部は大きく3つの曲輪で構成されている。北西から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んでいる。西麓から登道が付いており、登り切ると丘陵上の耕作地に出る。そのすぐ東側に城があり、西端の段曲輪が構えられ、その脇に土塁が築かれた虎口があり、段曲輪の脇をすり抜けるように土塁で防御された城道が奥に通じている。段曲輪の東に三ノ郭があり、城道の前面にその塁線が立ちはだかっている。三ノ郭に入らず城道を進むと、腰曲輪に通じる木戸口が構えられ、物見台が築かれている。一方、三ノ郭への入口は小型の枡形虎口となっている。三ノ郭が最も大きな曲輪で、ハンマーのT字の部分に当たる。削平の甘い曲輪で内部には起伏がある。北東部に土壇と堀状通路が見られるが、普請が甘く形状がわかりにくい。三ノ郭内を南東に進むとハンマーの柄の部分に至り、二ノ郭との間に小堀切が穿たれ、桝形虎口が形成されている。ニノ郭側も桝形虎口となっていて、堀切の横を迂回するように動線が設定されている。ニノ郭は幅が狭く縦長の曲輪である。ニノ郭の東に堀切を介して主郭が築かれている。ここも主郭側は桝形虎口となっており、また南側の腰曲輪からも登れるように、虎口の小郭が置かれている。主郭は最も防備が厳重で、末広がりの形状の曲輪の北・東・南の三方に城内通路を兼ねた堀切が穿たれ、その前面にそれぞれ独立堡塁が築かれて尾根筋からの接近に備えている。北尾根の堡塁は、その先にも堀切が穿たれ、段曲輪も築かれている。北尾根からの搦手道があった様で、これらの段曲輪・堡塁の脇を抜けて腰曲輪に通じる道が確認できる。主郭東にも腰曲輪上に堡塁があり、その東に長い一騎駆け土橋が築かれている。相馬方面からの補給路と、万一の際の撤退路であったと思われる。前述の堡塁はこの土橋の前面に立ちはだかるようにあり、土橋の監視所であったのだろう。主郭南は規模の堀切の前面に2段の曲輪が築かれている。この他、三ノ郭~主郭の南側には延々と腰曲輪が築かれ、2ヶ所ほど更に外側に段曲輪が築かれている。またニノ郭北側にも腰曲輪がある。陣林楯は、陣城らしい比較的簡素な普請であるが、それでもしっかりとした防御構造が構築されており、冥護山楯ほどでないにしても見応えがある。伊達氏の冥護山楯との構造の違いが見比べられるのも面白い。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_4388.JPG
IMG_4395.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
主郭北の堀切と堡塁→IMG_4420.JPG
IMG_4297.JPG←腰曲輪の木戸口・物見台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.868527/140.830865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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西山楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4248.JPG←片堀切と土橋
 西山楯(西山館)は、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で伊達成実が陣取りしたとされる陣城である。伊達家当主の政宗は、すぐ隣の冥護山楯に本陣を置いている。伊具郡を巡る抗争については、冥護山楯の項に記載する。

 西山楯は、冥護山楯の西側に谷戸を挟んで並走する山稜上に築かれている。既報の通り、山林伐採で重機が城内に入っており、主郭から北の部分は大きく破壊を受けてしまっている。基本的に細尾根に沿って曲輪を連ねただけの城で、城内は大きく3つの曲輪で構成されていたらしい。一番南がニノ郭で、くの字に曲がった曲輪で、南西斜面に横堀があったが、重機で踏み荒らされてはいるものの、堀の形状は辛うじて残っている。ニノ郭と主郭の間には片堀切が穿たれ土橋が架かり、そこは幸いに破壊を免れている。主郭は、二ノ郭との間の片堀切を睥睨する南端部にL字型の低土塁が見られる。主郭もノの字に湾曲しているが、東側に帯曲輪が確認できる。しかし主郭の北側半分は重機で蹂躙されている。北の三ノ郭との間にも堀切があったようだが、ちょうど重機の通り道となってしまい、窪地形状は見られるが無残に破壊されている。三ノ郭はすっかり破壊されていて、往時の形状はわからなくなっている。西山楯は、冥護山楯と比べるとささやかな遺構で、技工性も感じられない。細尾根でもあり、成実率いる軍団が陣営を敷くにしても、ちょっと狭過ぎる様に思う。それにしても、埋蔵文化財包蔵地にも指定されていなかったため、無残に破壊されてしまったのは非常に残念である。
ニノ郭南西の横堀跡→IMG_4232.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.901356/140.820286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


相馬氏の成立と発展 (中世武士選書シリーズ第30巻)

相馬氏の成立と発展 (中世武士選書シリーズ第30巻)

  • 作者: 岡田清一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/10/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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遠の倉楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4202.JPG←北尾根の堀切
 遠の倉楯(遠の倉館)は、伊達政宗(貞山公)が合戦していた頃に、馬上11騎・槍鉄砲150人組で守った陣地跡と伝えられる。但し、同じ伝承が近くの前田楯にもあり、詳細は不明である。

 遠の倉楯は、阿武隈川曲流部の西岸にそびえる標高351.3mの山上に築かれている。城内にはテレビの電波塔や愛宕神社があり、未舗装の山道があるので登城は容易だが、その分遺構が破壊を受けている。南北に伸びる尾根上に築かれた山城で、主郭は前述の通り電波塔が建っているので、大きく改変されていると思われる。主郭の南から南西には腰曲輪が築かれている。また主郭の東側には愛宕神社が鎮座する平場があり、二ノ郭であったと推測される。主郭から北に伸びる尾根を薮漕ぎしながら進んでいくと、北の段曲輪群が現れる。その前には中央に土橋の架かった小規模な堀切があり、その先は北郭となっている。北郭の東側にも帯曲輪が付随しており、前述の堀切が城内通路として繋がっていた様である。遺構としては以上で、遠の倉楯は小規模な山城の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.935872/140.686069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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前田楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4059.JPG←主郭外周の横堀
 前田楯(前田館)は、伊達政宗(貞山公)が合戦していた頃に、馬上11騎・槍鉄砲150人組で守った陣地跡と伝えられる。但し、同じ伝承が近くの遠の倉楯にもあり、詳細は不明である。

 前田楯は、比高わずか40m程の丘陵上に築かれている。南の車道脇に標柱があり、登道が付いている。基本的に単郭の城砦で、小屋楯と似た感じであるが、縄張りに技巧的なものはなく、素朴な形態である。主郭には現在小祠があるだけだが、南から一直線に登る参道が付いているので、昔はもう少し大きな神社でもあったかもしれない。主郭内部は何段かの平場に分かれているようだが、普請が荒く、緩斜面で囲われている感じで形状はあまりはっきりしない。主郭の外周は南・西・北の三面に横堀が廻らされている。東側だけ広幅の数段に分かれた腰曲輪となっている。南の尾根との間は横堀がそのまま堀切となって分断し、尾根上は物見の様になっている。主郭東側は、東側の腰曲輪に向かって大きく傾斜しているが、虎口のような明確な構造はなく、形態がよくわからない。この他、主郭虎口の内側には桝形状の空間があり、また南の横堀から180度Uターンして上の平場に通じる虎口状の構造も見られる。いずれにしても、全体にざっくりした印象の城で、おまけに全体に薮が多く、特に横堀の大半は薮に埋もれてしまっていて見栄えしない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.933993/140.677614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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小屋楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3919.JPG←主郭虎口前の横堀状通路
 小屋楯(小屋館)は、斎備前と言う武士の居城とされる。『日本城郭大系』によれば、斎備前は御番組峠御番所の軍治様の先祖で、伊達政宗(貞山公)の時代に相馬氏と合戦した頃に居住した所であると言う。しかし城の造りを見る限り一時的な陣城と見られ、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の際に、伊達氏勢力が築いた陣城ではないかと思う。

 小屋楯は、標高420m、比高100m程の山上に築かれている。丘陵の尾根が南東に張り出した先のピーク上に位置している。南麓から地形図に記載されている山道が城の北西の尾根まで伸びており、それを使って城まで近づける。但し、この山道は登口が藪に埋もれていて、最初見つけることが出来ず、行き過ぎて牧草地に出てしまい、そこから藪を突っ切ってようやく山道に辿り着くことができた。城は基本的に単郭であるが、北西尾根に複雑な縄張りを施している。尾根筋を城に近づいていくと、堀切を兼ねた多重横堀が構築されている。四重ほどの横堀で、一番外の横堀内側の土塁は武者溜り状の独立堡塁となっている。またこの多重横堀の南側方には土塁で囲まれた堀底道が二重に構築されており、内側のものは主郭に通じ、外側のものは腰曲輪への桝形虎口に繋がっている。腰曲輪への桝形虎口には、竪堀状通路から腰曲輪木戸口に登る石段らしきものも見られる。主郭虎口も少々複雑で、横堀状通路から土橋で進入するように形成されている。手前には仕切り土塁もあって、虎口への進入路の障壁となっている。主郭虎口に繋がる土橋は虎口と位置がズレており、進入動線を屈曲させている。この構造は、信濃三日城の虎口動線と同じで類例は少ない。主郭内部はあまり明確ではないものの数段の平場に分かれており、山形県置賜地方の山城に多い「重餅型」と呼ばれる多段式の曲輪である。主郭外周には帯曲輪1段が全周し、南から西にかけては帯曲輪は2段構築されていて、前述の多重横堀・出桝形と接続している。以上の様に小屋楯は、複雑な桝形虎口や変則的な出枡形を有し、横堀中間の武者溜りなど、前川本城とも縄張りの共通点が多い。伊達氏系山城の特徴を有し、小規模な城ながら北西部に一点豪華主義とも言える厳重な防御構造を備え、目を見張るものがある。
多重横堀の一部→IMG_3921.JPG
IMG_3907.JPG←腰曲輪への桝形虎口
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.883051/140.706754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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鶴ノ丸館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0148.JPG←主郭跡
 鶴ノ丸館は、藩政時代に仙台藩の家臣茂庭氏・西大條氏の居館であった。元々は、葛西氏の家臣で日良館主沼田氏の別館であったと言われる。沼田氏は、1190年に葛西清重から日良館を拝領し、以後17代にわたって日良館に住し、1590年、沼田四郎宗綱の代で葛西氏の没落に伴って断絶したと伝えられる。その後の1618年、仙台藩召出・茂庭定元が名取郡茂庭村(仙台市生出)から八樟村に所替になり、550石余を賜わり鶴ノ丸館に5代にわたって居住した。1703年に茂庭氏は再び茂庭村に所替となり、その後に西大條定賀が知行高600石余で鶴ノ丸館に入部し、9代賀知の時に明治維新を迎えたと言う。尚、昭和53年に東北道建設に伴う発掘調査の結果、鎌倉時代以降の館跡であることが確認されている。

 鶴ノ丸館は、低地帯に突き出た比高4m程の微高地先端に築かれた城館である。前述の通り東北道が館跡を貫通し、大きく破壊を受けている。しかし主郭は東側1/3程が残り、東側については概ねその形状を追うことができる。発掘調査結果によれば、合計3段の曲輪で構成され、上段郭(主郭)・腰郭・下段郭と命名されている。主郭の東側に堀跡のような低地の水田があったが、これは削平されてしまった下段郭だったとのことである。この他、主郭南側の堀跡が車道として痕跡を残し、高速道路の西側には下段郭の北西部が微高地として残っている。わずかとはいえ遺構が残っているのは貴重である。尚、東側の車道脇に解説板が建っているが、ペンキが剥げて字がほとんど読めなくなってしまっているのは残念。
南側の堀跡の道路→IMG_0152.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.755338/141.048607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鬼切部城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0072.JPG←城址の広大な高原
 鬼切部城は、前九年の役の勃発地である。奥六郡の蝦夷を統率して強大な勢力を誇った俘囚の長、安倍頼良が1050年に築いたと言われる。頼良は、その勢威を背景に貢納を怠るなどした為(朝廷側の記録)、1051年、陸奥国司藤原登任は軍勢を率いて安倍氏を討伐した。一方の頼良は、子の貞任、宗任以下の一族郎党を率いて鬼切部城に立て籠もり国府軍を迎え撃った。前九年合戦の始まりである。登任は敗れて都に逃げ帰り、代わって軍事貴族であった源頼義が陸奥守となって多賀城に赴任した。折しも朝廷で大赦があり、頼良も朝廷に逆らった罪を赦された。頼良は、自ら辞を低くして新国司の頼義と友好関係を保ち、頼義と同音であることを憚って名を頼時と改めた。この後、しばらく奥州には平和が訪れたが、頼義の陸奥守の任期が終わる間近の1056年2月に、突然阿久利川事件が出来した。ここに前九年合戦の後半戦が始まり、奥州の地は戦乱で覆われることとなった。

 鬼切部城は、比高140m程の広大な高原をそのまま要害としている。堀や土塁など城郭とされる様な普請は全くなく、ただの高原をそのまま利用した天険の要害である。但し絶好の物見で、眼下を通る街道監視には好適である。尚、眼下に流れる川は軍沢川と言い、古戦場であったことを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.838237/140.631341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 鈴木 拓也
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/12/01
  • メディア: 単行本


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葉山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0030.JPG←三条平南端の空き地
 葉山城は、南北朝期に奥州総大将として奥羽に派遣された石塔義房が本拠を置いたとされる城である。石塔氏は足利一門で、義房・頼房父子は足利直義に近く、室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際には、終始ガチガチの直義党として尊氏に敵対して、薩埵山合戦武蔵野合戦で戦ったことが知られている。それ以前の1337年、奥州総大将であった斯波家長が鎌倉の杉本城で北畠顕家率いる奥州勢に攻め滅ぼされると、足利幕府はその後任の奥州総大将として義房を奥州に下向させた。この後、1345年まで義房は奥州経営を推し進め、奥州南朝勢力の鎮定を進めた。この時、本拠としたのが葉山城だと言うのである。しかし義房が下向した時、既に顕家を失っていた奥州南朝勢力は各地で頽勢覆い難く、そんな時期に攻勢に出るべき奥州総大将が、最初から山深い山間の奥地を本拠としたとは考えにくいと思う。周辺には、石塔氏の家臣が城主だったという城も点在しているが、それも甚だ疑問である。

 葉山城は、三条山の南中腹に広大に広がる三条平と呼ばれる高原にあったと言う。現在は一部が空き地になっていたりアンテナが建てられていたりする以外は、森林が広がっているだけである。奥まで車道が伸びているようだが、未舗装の車道の両側は深い林で覆われており、しかもアブ・ハチがブンブンとたかってきて車から出ることもできなかった。詰城として三条山に三条館が築かれていたようだが、いずれにしても奥州総大将石塔義房がこの地を本拠としたとは考えにくい。一体この謎の伝承は何に基づくのだろうか?安永風土記辺りに記載されているらしいが史実とは考えにくく、葉山城の存在も謎である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.756309/140.726463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)

足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2009/05/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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米泉館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9958.JPG←主郭北側の大堀切
 米泉館は、大崎左衛門の家臣米泉(笠原)伊勢守直行とその子権右衛門長行の居城と伝えられる。笠原氏は宮崎城を本拠とした大崎氏の重臣で、氏家氏と並ぶ双璧であった。加美郡一帯に一族を分封して一大勢力を築き、笠原一族の戦場における精強ぶりは、大崎家中笠原党として武名を轟かせた。笠原氏7代仲沖の4男が直行で、米泉館を築いて独立し、米泉氏を称した。大崎氏の内乱に伊達政宗が軍事介入した大崎合戦では、長行は他の笠原氏一族と共に中新田城に立て籠もり、伊達軍の大将泉田重光の攻撃に頑強に抵抗した。その後、豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易されて没落し、その後に生起した葛西大崎一揆では、宮崎民部少輔率いる笠原党3000余が宮崎城に立て籠もったが、伊達政宗の激しい討伐を受けて宮崎城は落城し、米泉父子もこの戦いで討死した。

 米泉館は、田川北岸の比高15m程の丘陵南端に築かれている。現地標柱によると、上館・下館の2郭で構成されていたらしい。上館と思われる上段の平場(主郭)には現在、水道施設(館山配水場)が設置されており、改変を受けている。とは言っても、基本的には広大な平場が広がっていただけと思われ、往時の姿と大きくは異ならないと思われる。北辺に低土塁が築かれ、その北側には深さ5m以上の大堀切が穿たれて、台地基部を分断している。訪城時は盛夏であったので、主郭東側には雑草が繁茂し、それ以上の探索はしなかった。下館とされる平場は、水道施設への登り道の東側にある平場と思われるが、未整備の雑草に覆われ、平場であることしかわからない。米泉館は簡素な城砦であるが、大堀切は見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.589940/140.827464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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城生柵(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9924.JPG←築地塀跡
 城生柵は、奈良~平安時代にこの地に築かれた古代城柵である。昭和52年から発掘調査が行われた結果、奈良時代中期頃には既に造営され、平安時代まで続いた城柵であることが判明している。東北の城柵としては最も小さく、東西350m、南北370mの築地塀で囲まれた方形の城柵で、築地塀の外側7~8mの位置には幅3~4mの大溝(外濠)が穿たれていたことが確認されている。また、北辺中央部には八脚門が作られ、築地塀の内部は溝で区画され、掘立柱建物・倉庫・竪穴住居跡などが発見されている。構造的・時代的に多賀城等と関連する城柵とされ、737年(天平9年)に現れる多賀城関連の5柵の内の玉造柵や色麻柵ではないかとする説、賀美郡衙とする説などが提示されているが、未だに定説は見られていない。

 城生柵は、加美町中心街の北方にあり、低丘陵の南端部に築かれている。耕地化でかなり遺構は失われているが、現在でも北東角に築地塀の遺構が残っている。この遺構は墓地裏にあり、L字状に土盛りが残っている。城柵の南東の交差点脇に立派な石碑と解説板が立っているが、ここは城柵の外で、唯一遺構の残っている北東角からも遠く離れ、しかも遺構の地図も掲出されていないので、甚だわかりにくい。また築地塀遺構も誘導標識など全く無く、事前に位置を探し出しておかないと、現地で辿り着くことは困難である。せっかくの国指定史跡なのに、加美町の扱いは甚だ残念というほかはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【築地塀跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/38.584690/140.853685/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/11/27
  • メディア: 単行本


タグ:古代城柵
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四竃館(宮城県色麻町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9909.JPG←主郭南西隅の櫓台?跡
 四竃館は、大崎氏の家臣四竃尾張の居城である。後に同じ大崎氏家臣の内ヶ崎中務が居城したとも言われている。その他の詳細は不明である。

 四竃館は、現在の色麻町中心部に築かれていた。標柱も解説板も一切ないので、古い航空写真などから推測するしかないが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭は町役場から道路を挟んで西にある民家のところにあったらしい。方形をした主郭の周りだけ堀跡の水路と切岸地形が残存し、南西隅の櫓台と思われる場所には土壇の上に神社が祀られている。神社の土壇の西と南は低くなっており、堀跡の雰囲気を残している。『伊達諸城の研究』では、100~150m四方の居館と推測しているが、前述の航空写真を見ると、主郭の外周から200m程離れた所まで堀跡が幾重にも見られ、大型で多郭の複雑な縄張りを有した平城であった様である。市街化で遺構はほとんど湮滅しているが、各所に堀跡の水路や窪地が散在している。中心市街地の東を南北に貫通する国道457号線沿いに宿場町があり、その西側に接するように城域が広がっていたらしい。色麻町も、町の中心にあった城館なのだから、もっと史跡として認識されるように努力してほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.548493/140.848922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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平柳城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9870.JPG←南辺の堀跡らしい畑
 平柳城は、大崎氏7代教兼の9男・平柳七郎の居城である。教兼は9男4女と多くの子女に恵まれ、河内諸郡の要地に9人の子息を配して、領国支配を固めていたと言う。平柳氏の事績については不明である。
 平柳城は、多田川東岸の平地に築かれている。現在は城野集落となっており、遺構はほとんど湮滅している。周りに宿場町もなく、水田地帯の只中にぽつんと城跡の集落だけがあることから、平柳氏の居館と家臣団の居住区がコンパクトにまとまった平城だったと推測される。付近を見て歩くと、集落の北辺と西辺に堀跡と思われる水路が流れ、また南辺にも一段低い畑があって、これも堀跡だと考えられる。城地中心から東に少し離れて方形の宅地があり、東の別郭だったのではないだろうか。いずれにしてもかなり改変が進んでおり、縄張りはわずかな手掛りを元に想像する他はない。南の集落入口に標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.570591/140.889734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


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新井田城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9851.JPG←主郭西側の土塁と堀跡
 新井田城は、大崎合戦の導火線となった大崎氏家中の内乱を起こした、新井田刑部少輔隆景の居城である。隆景は大崎氏の重臣狼塚城主里見紀伊隆成の子で、天性の美少年であったと言われ、主君大崎義隆に小姓として近侍し、その寵愛を恣にした。1586年、隆景が寵を失って失脚し、代わって伊場野惣八郎が大崎義隆の寵を受けた。座を奪われた隆景は、主君義隆を自身の居城新井田城に強制的に軟禁して名目を固め、伊場野惣八郎を保護した岩手澤城主氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請したことで、伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した大崎合戦が生起することとなった。伊達勢は大軍であったが、折からの降雪と厳寒で大敗を喫した。しかし大崎方も伊達勢の攻勢に抗し続けるだけの力はなく、結局伊達氏との間で和睦が結ばれた。大崎氏の内乱の傷は深く、結果的に伊達氏に服属し、政宗は大崎地方に覇権を確立することとなった。

 新井田城は、江合川南岸の平地に築かれている。城址は現在宅地となっているが、その北辺と西辺に土塁と堀跡の溝が残っている。改変が進んでいるので、往時の縄張りははっきりしないが、方形の主郭であったと思われ、現在の宅地の形状として明瞭に残っていると推察される。東側の道路も堀跡であったと思われる。またこの地には「南構」の地名が残っているが、北側に新田(新井田)宿があることから、宿に対して南方に構えられた城ということなのだろう。遺構はわずかだが、大崎氏の歴史では重要な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.594921/140.925997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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青塚城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9839.JPG←城址標柱の立つ諏訪公園
 青塚城は、奥州探題大崎氏6代持詮の弟直兼が居城したことに始まる。その後、天正年間(1573~92年)頃には古川城主古川弾正の弟青塚左衛門佐、または青塚左衛門尉吉春の居城であったと伝えられる。
 青塚城は、古川黎明高校から諏訪公園にかけての地にあったとされる。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、どの様な縄張りだったのかも皆目わからなくなってしまっている。わずかに城址標柱が諏訪公園入口脇に立っているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.581771/140.949043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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桜ノ目館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9834.JPG←堀跡っぽい道路
 桜ノ目館は、石母田館とも言い、仙台伊達藩の家臣石母田家の居館である。高清水要害を領した石母田家の分家で、石母田宗頼の次男頼章がこの地に1000石で分封されて屋敷を構えた。8代石母田但馬頼至は幕末に於ける勤王家で、ペリー来航の際に藩主に攘夷を建白し、戊辰戦争の時には収拾役を命じられて官軍との和平交渉全権を務めた。石母田家は桜ノ目地区の歴史に深く関わる名家であったと言う。
 桜ノ目館は、江合川北岸の平地に築かれている。現在は宅地化が進み、明確な遺構は確認できない。周囲の道路や水路は堀跡っぽく見えるが、どうであろうか。また民家に土塁跡のような土盛りも見られるが、遺構かどうかは不明である。県道脇に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604865/140.947520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


幕末雄藩列伝 (角川新書)

幕末雄藩列伝 (角川新書)

  • 作者: 伊東 潤
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/11/10
  • メディア: 新書


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沢田館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9816.JPG←堀跡っぽい水路
 沢田館は、南北朝時代に生起した観応の擾乱の際に、畠山氏が拠った要害である。足利幕府は、1346年に奥州管領として吉良貞家・畠山国氏の2人を派遣したが、足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起きると、その余波で直義党の吉良氏と尊氏党の畠山氏が対立した。この時、畠山勢が長岡郡沢田要害まで進出したと伝えられており、沢田要害がこの沢田館に比定されている。その後、四管領並立時代を経て、最終的に大崎氏が奥州探題として権威を確立した。大崎氏支配時代には、沢田館主は始め大崎氏の被官留守長門弾正、天文年間(1532~55年)頃には古川城主古川持慧の被官米谷兵部照正であったとも言われている。

 沢田館は、江合川北岸の平地に築かれている。館跡は宅地となっていて、遺構は湮滅している。遍照院付近が主郭跡と考えられており、付近には大手屋敷・中門屋敷・搦手屋敷・馬場屋敷等の地名が残っている。付近を見て回ると、寺の北側に堀や切岸らしい地形が見られ、西隣の民家との間の水路も堀跡っぽく感じられる。また民家に土塁跡のような土盛りもあるが、いずれも遺構かどうかははっきりしない。寺の入口に標柱が立っているだけマシとすべきか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.601780/140.970200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


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大林城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9810.JPG←城址付近の現況
 大林城は、二階堂治部少輔の居城と伝えられている。沢辺館も二階堂氏の居城であり、沢辺館の伝承によれば鎌倉の二階堂氏を本宗とし、和田義盛の遺領を継いで栗原郡三迫を知行したとされ、葛西氏の家臣であったとされる。
 大林城は、迫川北岸に築かれた平城である。『日本城郭大系』によれば、かつては高さ2mの土塁がめぐっていたらしいが、現在は水田に変貌している。城址とされる付近を探索したところ、堀跡らしい水路や低地の水田、民家の裏に土塁跡らしいものが見られたが、実際に遺構かどうかは不明である。一応、市の史跡に指定されているが、残念ながら解説板はおろか標柱すらなく、甚だ残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.786782/141.099354/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 作者: 葛飾区郷土と天文の博物館
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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塩森兵庫邸(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9791.JPG←不老の松と解説板
 塩森兵庫邸は、伊達氏の家臣塩森家の屋敷である。その祖は伊達氏の庶流小梁川親宗の次男塩森兵庫宗朝で、出羽国置賜郡塩森郷に分封されて塩森氏を称した。しかし別説もあり、塩森氏は初め長井氏に仕えていた塩森郷の土豪であったが、1380年に伊達氏が置賜に侵攻するとその家臣となったとも言われる。いずれにしても天文年間(1532~55年)には塩森兵庫の名が見え、伊達晴宗によって「一家」の家格に列せられた。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、塩森氏もそれに従って出羽を去った。後に宗朝の曾孫宗直の時、1640年に栗原郡若柳に屋敷を構えて居住するようになったと言う。

 塩森兵庫邸は市の指定史跡となっているが、残念ながら市街地に飲み込まれて遺構は湮滅している。わずかに庭園の名残を留めるとされる推定樹齢300年以上の老松「不老の松」が残っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.769736/141.127828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


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