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古城めぐり(福島) ブログトップ
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九々布城(福島県下郷町) [古城めぐり(福島)]

DSC03569.JPG←弧を描くダイナミックな二重土塁
(2010年12月訪城)
 九々布(こうぶ)城は、日向城とも呼ばれ、阿賀川の支流観音川の北岸に立つ比高100m程の山上に築かれた山城である。日向五郎昭光の居館であったと言われるが定かではない。石田明夫氏のHP「会津の歴史」に拠れば、1600年に徳川家康の会津侵攻に備えて上杉氏が築いた城と考えられる。上杉景勝の執政直江山城守兼続は、実弟大国実頼を鴫山城に置いて、鶴ヶ渕城の構築と共に鴫山城を大改修して会津西街道の一大要害としたが、その際に佐藤氏に命じて九々布城を築いたとされる。しかし結局、実戦には使われず、そのまま上杉氏の米沢移封に伴って廃城になったのだろう。

 九々布城は、比較的傾斜の緩い山上にあるが、南側の山裾は観音川に落ち込む急崖となっている。山頂の主郭から南西に広がる傾斜地を城域に取り込み、主郭も含めて周囲をやや裾の開いたU字型の二重土塁と空堀で防御した、独特の縄張りとなっている。この土塁と空堀で外周線を囲んだ構成について、石田明夫氏は鴫山城外郭線との共通性を指摘されている。最上部には主郭が置かれ、その周囲に数mの段差を付けて二ノ郭が置かれている。主郭と二ノ郭の外周は土塁で防御され、虎口が二ヶ所設けられている。また土塁には、一部に石積みが残っており、石垣を部分的に持っていた城だったと思われる。会津西街道の通る西面に広がる平野部を押さえるには絶好の地で、現在でもその眺望が素晴らしく、城をここに築いた意味がよくわかる。それほど大きな城ではないが、とにかく二重土塁が素晴らしい。緩やかに弧を描く見事な土塁の塁線は、冬場に薮に遮られることなく眺めたい。
反対側から見た二重土塁→DSC03572.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.253056/139.888611/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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中妻館(福島県下郷町) [古城めぐり(福島)]

DSC03427.JPG←空堀
(2010年12月訪城)
 中妻館は、中妻源太照元の居館と言われている。中妻氏についても、また居館についても、その歴史は不明である。
 中妻館は、阿賀川東岸の断崖上に築かれた居館で、その地勢からすれば崖端城そのものである。周囲をほぼ半円形に空堀で囲繞した形状で、この手の居館としては空堀の規模が大きく見応えがある。現在は耕作放棄地か何かのようで、一応主要部の薮が取り払われているので、冬場ならば遺構の確認がしやすい。曲輪内には土塁が見られないが、これは湮滅したものであろうか?簡単な構造の複郭の居館であるが、規模からすれば城と言う方が相応しいように思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.264149/139.894677/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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藤倉館(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC03403.JPG←水堀と土塁
(2010年12月訪城)
 藤倉館は、佐原十郎左衛門尉義連の孫藤倉三郎左衛門盛義が築いた居館と言われている。源頼朝の奥州合戦に参加し、軍功によって1192年に会津の地を賜った三浦氏庶流の佐原義連は、この地に勢力を扶植し、孫の代に猪苗代城主猪苗代氏、北田城主北田氏、黒川城主葦名氏、青山城主加納氏、新宮城主新宮氏らを輩出した。藤倉氏も同族とされる。室町・戦国期の藤倉氏の歴史は定かではないが、応永・永享年間(1394~1441年)に、葦名氏が北田氏・新宮氏らを滅ぼしたのと相前後して、藤倉氏も葦名氏に滅ぼされたと推定されている。一説に藤倉氏は、葦名氏の重臣で摺上原の合戦でも最後まで戦って討死した金上氏の祖とも言われている。
 藤倉館は、現在民家となっているが、周囲に土塁と水堀が良好に残っている。単純な方形単郭居館である。北東の土塁上には稲荷神社があり、三郎盛義の勧進と伝えられているそうだ。
 尚、館の東方には源義経縁の皆鶴姫の墓や駒繋石、暦応の碑などの史跡が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.533637/139.934160/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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平塚館(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC03392.JPG←わずかに残る水堀跡
(2010年12月訪城)
 平塚館は、中世には平塚氏の居館であったと言うが、江戸時代に入ると埼玉の春日部から春日部氏が入部して居住したと言う。その他の歴史は不明である。
 平塚館は、現在民家となっており、現在でも春日部氏の御子孫が居住しているようである。平地の単郭方形居館で、周囲に土塁と水堀跡がわずかに残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.537176/139.918388/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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荒木館(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC03386.JPG←北側の土塁と堀跡
(2010年12月訪城)
 荒木館は、北田城主北田氏の一族荒木氏の居館である。四郎宗胤がこの地に入部し、荒木氏を称した。その後の荒木氏の歴史は定かではなく、後には三瓶氏、高橋氏らの居館となり、天正年間(1573~92年)には、葦名盛氏に降った荒井氏の居館であった。その後も荒井氏はこの地に居住し、江戸時代にもこの地の名主として在り続けたと言う。
 荒木館は、現在民家となっており、荒井氏の御子孫の御自宅となっている。周囲には土塁や堀跡が残っている。南北2郭で構成された複郭の居館だったようで、その跡もはっきりと残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.562694/139.904183/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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島村館(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC03374.JPG←水堀と土塁
(2010年12月訪城)
 島村館は、会津の戦国大名葦名氏の家臣伴野氏の居館と伝えられている。築城時期は不明である。
 島村館は、東光寺西側に隣接する民家になっており、民家の周囲に水堀と、土塁の一部が残存している。規模はそれほど大きくはなく、よくある方形単郭居館である。入口には土橋が形を変えて残っている。現在民家に住んでいるのは、館主伴野氏の御子孫とのことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.578783/139.908303/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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青山城(福島県喜多方市) [古城めぐり(福島)]

DSC03331.JPG←空堀に架かる土橋
(2010年12月訪城)
 青山城は、会津佐原氏の居城である。佐原氏は、相模の豪族三浦氏の庶流で俗に加納氏とも呼ばれ、奥州合戦での軍功により源頼朝より会津の地を賜った佐原十郎義連の孫、五郎左衛門盛時を祖としている。佐原氏はこの他に葦名氏や新宮氏を輩出し、特に葦名氏は会津黒川城を本拠とする戦国大名として、伊達政宗に摺上原の合戦で滅ぼされるまで強盛を誇った。一方の佐原氏は、1402年に同族の新宮氏に滅ぼされたと言う。
 青山城は、往時は東城と西城の二つあったという城の西城に当たり、比高わずか10m程の丘陵地に築かれている。東城が城主居館に当たり、西城が詰の城であったらしい。周囲には土塁と空堀が築かれ、内部は土塁で北郭と南郭に区画され、中央部東側には物見台とされる高台があり、現在は日枝山王神社が物見台に建っている。土塁も空堀もそれほど大きなものではなく、守りが固められた城という印象ではない。また北側の空堀には搦手虎口と土橋が設けられている。戦国以前の古い城の形態を今に伝えている、ささやかな規模の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.687522/139.859122/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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綱取城周辺居館群(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

(2010年12月訪城)
 綱取城周辺には、珍しいことに居館跡が幾つも見つかっていて、看板が建っている。大半は遺構が湮滅しているが、中には遺構が残っているものもある。

<綱取城居館>
DSC03281.JPG←居館跡とされる平場
 居館は、「いだて」と読むらしい。綱取城の城主で葦名氏四天宿老の一人、松本氏の居館である。綱取城の西側山麓の国道沿いに看板が建っている。現在は民家と三段ほどの畑になっているのみで、はっきりした遺構は確認できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.654674/139.937593/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<上ノ台館>
DSC03285.JPG
 上ノ台館は、綱取城居館に隣接する居館跡で、綱取城主松本氏の家臣、戸山数馬、神山一次、榊田勘十郎ら家臣団の居館であったと言う。現在は小さな平坦地があるだけだが、周りにちょっと低い部分があり、堀跡か何かだったのかもしれない。それ以外にはっきりした遺構は確認することができなかった。国道沿いに、「史蹟 上ノ台館」の看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.654623/139.936541/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<赤館>
DSC03290.JPG←土塁跡
 赤館は、綱取城主松本氏の家臣、中ノ目阿賀が住んだと言う居館跡である。綱取城周辺に散在する居館跡の中では、唯一はっきりした遺構を有しており、畑の周囲に土塁と堀が明確に残っている。また他の居館と同様、国道沿いに「史蹟 綱取城配下赤館跡」の看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.657460/139.929610/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<一盃館>
DSC03297.JPG
 一盃館は、綱取城主松本氏の家臣、一盃大輔の居館と言う。現在は一面の水田となり、遺構は残っていない。車道の脇に、「史蹟 一盃舘跡」の看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.653859/139.916521/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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綱取城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC03220.JPG←主郭背後の堀切
(2010年12月訪城)
 綱取城は、会津黒川城の戦国大名葦名氏の家臣松本氏の居城である。松本氏は、葦名氏の家臣団の中でも四天宿老の一人に数えられる重臣であった。綱取城の築城時期は不明であるが、1500年には主君葦名盛高に反旗を翻した松本勘解由がこの城に籠城し、葦名勢によって攻め落とされたと言う。その後、1505年には葦名盛高・盛滋父子が対立し、盛滋は松本源三・松本勘解由と共に綱取城に拠って戦ったが敗れ、盛滋は伊達氏を頼って落ち延び、綱取城は一旦廃城となった。その後、戦国後期になると、東の柏木城と共に取り立てられて、伊達氏に対する北の防衛拠点として葦名氏に重視されたという。

 綱取城は、国道459号線(米沢街道)の北側にそびえる比高100mの要害山山上に築かれた山城である。綱を取って登らなければならないほど険しい山城という意味で、綱取城と呼ばれたらしい。ちょうど狐落城の名の由来にそっくりであるが、比高もそれほど高くはないので、坂道が急は急でも実際にはそれほど急峻とは感じられない。城は、主郭を中心とする曲輪群で構成された中心部と、北出丸を中心とする曲輪群で構成された北出丸部に大きく分けられる一城別郭の構造である。二つの曲輪群の間は堀切で分けられているが、それほど大きな堀切ではない。この堀切も含めて、綱取城の堀切の規模はそれほど大きくない。しかしその一方で、虎口は結構小技の効いた構造で、規模は小さいものの枡形や木戸口の土塁が明確に残っている。主郭には櫓台があり、櫓台背後は三角形の曲輪形状で、周囲に土塁が作られている。この土塁には石積みがあったらしい。堀切の先の北出丸は、詰丸の西側に7~8段の段曲輪を設け、その先は横堀で遮断防御している。大規模な城ではないものの、中々変化に富んだ縄張りで面白い。行った当日があいにくの雪混じりの天気で、遺構の確認がちょっと大変だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.657358/139.944202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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下郡山館(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00470.JPG←浸蝕谷による天然の堀
 下郡山館は、伊達氏の家臣下郡山氏の居館である。下郡山氏は、「伊達世臣家譜」に拠れば伊達氏の御一族・召出の班に列し、本姓は藤原氏、当初は小山氏または結城氏を称し、下郡山郷に住して下郡山氏を称したと言う。個人的な勝手な推測だが、南北朝時代に伊達行朝と共に南朝として活動した白河結城氏か、下野の小山氏に連なる一族が、霊山城陥落後もこの地に留まって伊達氏の家臣化したものかもしれない。伊達氏の内乱、天文の乱の際には、下郡山館は伊達晴宗の拠る桑折西山城の前衛の出城として、稙宗方と激戦を交えた。乱終結後、下郡山氏の中で稙宗方に付いた下郡山石見・因幡らは所領を没収されて没落し、晴宗方に付いた下郡山蔵人は所領を安堵されたと言う。1591年、豊臣秀吉の奥州仕置によって下郡山館は廃館となり、伊達氏の移封に従って下郡山氏もこの地を離れた。

 下郡山館は、播磨館伊達崎城と同様、阿武隈川によって削られた段丘上に築かれている。特に下郡山館の置かれた地は、浸蝕谷が複雑に入り組んだ大地の先端にあり、屈指の要害性を誇ったと考えられる。浸蝕谷による急崖で分断された小館・古館・館ノ内・中丸の複数の郭群で構成されており、天文の乱当時の下郡山館は、館ノ内にあったと考えられていると言う。館跡は畑や民家となり、はっきりした遺構は残っていないが、その地勢は現在でも健在である。家に帰ってからYahoo!地図の航空写真を見たら堀跡のような畑が見られる場所があったので、いずれ再訪して確認したいと思っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.852111/140.537699/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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伊達崎城(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00465.JPG←西館北側の堀跡
 伊達崎(だんざき)城は、伊達氏の庶流伊達崎氏の居城である。伊達崎氏は、伊達氏初代朝宗の6男宗綱が伊達崎郷に分封されて伊達崎氏を称したのに始まる。後に、本家の伊達氏と姓が似ているので、混同を避ける為に田手氏に改称した。伊達家中を二分した天文の乱では、一族の田手治部丞・石見・隼人は伊達稙宗方に付いて没落し、田手助三郎実烈は伊達晴宗方に付いて、乱後に各地の所領を授かった。実烈の子宗光は、伊達氏の相馬氏に対する備えとして角田城に置かれた。江戸時代に入ると、最終的に宮床要害8千石に移り、伊達氏の一門として幕末まで存続した。なお戦国末期の伊達崎城は、角田にあった田手氏の本貫の地として保持されていたと推定されると言う。

 伊達崎城は、阿武隈川によって形作られた段丘上に築かれている。この段丘上には、他にも播磨館下郡山館が築かれており、居館を置くに好適な要害地形であり、その地勢は現在でも往時そのままである。伊達崎城は西館と東館の二郭から成り、当初は方形館の西館だけだったものが、田手氏の勢力伸張に伴って東館を築いて城地を拡張したらしい。城内は畑や民家となっているが、遺構は比較的よく残っており、特に西館の西側の土塁・堀や北側の堀は往時そのままの雰囲気である。また東館の北を走る道路に沿って、かなり埋められているものの堀跡が残っている。またこの地には、西舘・東舘・舘下などの地名も残り、往時の雰囲気のよく残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.855821/140.544566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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塚野目城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00447.JPG←堀跡と土塁跡
 塚野目城は、伝承では信夫庄司の大鳥城主佐藤基治(奥州藤原氏の重臣で、源義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の父)の家臣塚目太郎正則の居城と言われている。天文の乱の際には、伊達晴宗が大波二郎に与えた書状に「塚目名代前の如く進投す」とあり、大波二郎が塚目城主ではなかったかと推測されている。いずれにしても、塚野目城があるのは桑折西山城にも程近い伊達氏の勢力圏の真っ只中であるので、伊達氏家臣の居城であったと考えられる。
 塚野目城は、畑の中に方形に近い微高地があり、それが城跡である。土塁は湮滅し、周囲の堀も埋められているが、その痕跡は明瞭で、耕地化した際に土塁を切り崩して堀を埋めたものであろう。曲輪の形状は、完全な方形でなく、北東角と北西角がやや丸みを帯びていて、特に北西側では完全に円弧状の形状となっている様だ。単郭の居館であったものだろう。東側の土塁上には立派な石碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.862242/140.547699/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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保原城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00433.JPG
 保原城は、懸田氏の家臣中島氏の居城である。伝承では、保原城の創築は伊達氏初代朝宗の子為重と言うが、確証はない。南北朝時代になると中島右衛門宗常の居城となったと言われる。中島氏は本姓藤原氏を称し、天文年間(1532~55年)頃の城主は、懸田俊宗の家臣中島伊勢宗忠であった。天文の乱の際には懸田俊宗は伊達稙宗方に付いたが、宗忠は主家に背いて伊達晴宗方に付いた。乱終結の後、和議条件の一つ、懸田城の廃棄に不満を募らせた俊宗は、1552年の夏、晴宗に背いて挙兵し、中島宗忠を保原城から追い落とした。しかし翌年、懸田俊宗が滅亡すると宗忠は伊達氏の家臣となった。中島氏は後の伊達輝宗時代に、相馬氏との戦いで活躍して伊具郡金山城を賜って移り、そのまま幕末まで存続した。一方、保原城は、1591年の伊達氏の岩出山城移封によって廃城となり、上杉領時代の1636年には小越清道が保原鎮将となって派遣された。その後、保原が白河藩領となると、城跡の西側に陣屋・倉場が構えられた。
 保原城は、現在その遺構は完全に湮滅し、全くその面影を留めていない。かつては周囲を水堀に囲まれ、内部を土塁で3つの曲輪に区切っていたようであるが、城跡は完全に市街化し、わずかに城ノ内の地名を残しているだけである。交差点横の中野病院の脇に、標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.820396/140.557548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大立目館(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00427.JPG
 大立目館は、伊達氏の家臣大立目氏の居館と言われている。大立目氏は、初め二階堂氏を称した伊達氏譜代の一族で、康暦年間(1379~80年)に梁川城主伊達8世宗遠の家臣、大立目下野守朝安が居住した。伊達氏の長井(出羽)侵攻に従って、大立目氏は本拠を下長井に移したと考えられている。
 大立目館は、八幡神社周辺と考えられているが遺構は全くなく、わずかに標柱が立っているだけである。周辺は畑と民家で、現在の状況から往時を思い浮かべるのは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.836446/140.570272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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新田館(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00422.JPG←南側の土塁
 新田館は、新田義貞の一族がこの地に住んだ場所と言われている。「北畠武鑑」では、新田城主として新田小太郎義澄の名があったようであるが、検討の余地が残るという。
 新田館は、洞雲寺の西に隣接し、館跡の中央を線路が貫通しているため、破壊を受けている。また館跡は周囲も含めて全て耕地化している。そんな中にクランク状の折邪を持った南側の土塁などがわずかに残っている。かつては周囲を深い湿田で囲まれた要害だったらしく、館跡の南半分には「万所」の名が残ると言う。中世の政所がここにあったと推測される。
 館主が新田一族という伝承だが、義貞は建武の新政下では武者所の頭人であったので、もしかしたら北畠顕家が奥州に下向する際に一族の誰かを補佐の為に付けたのかもしれない。確証となる文書は一切ないが、太平記のロマンを思い描くのも面白い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.839462/140.595442/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小梁川館(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00413.JPG←館跡付近とされる射箭神社
 小梁川館は、伊達氏の庶流小梁川氏の居館である。小梁川氏は伊達持宗の3男中務少輔盛宗を祖とし、伊達家中の大乱、天文の乱では、桑折西山城に幽閉された伊達稙宗を救出するなど活躍した。
 小梁川館は平地方形館であったというが、現在は市街化の中で完全に湮滅し、遺構は残っていない様である。伊達市の発行する「伊達の散歩道 やながわ編」の地図によれば射箭神社付近が館跡の様であるが、住宅街の真っ只中であり、遺構はおろか標柱さえ建てられていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.853661/140.604626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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梁川城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00369.JPG←北三ノ丸の見事な枡形
 梁川城は、一時期伊達氏の本城であった城である。源頼朝の奥州征伐の際、阿津賀志山合戦での戦功により伊達朝宗は伊達郡に入部して伊達氏の祖となった。当初は高子岡城を築いて居城としたが、3代義広は粟野大館を築いて居城を移した。梁川城は鎌倉時代に支城として築かれたと考えられており、9代大膳太夫政宗の頃には本城となったと考えられている。以後、伊達氏は梁川城を拠点に勢力を拡大し、1523年に伊達稙宗が陸奥国守護に補任されると、梁川城は奥州の政治的中心となった。1532年に稙宗が居城をより堅固な桑折西山城に移すと、梁川城は伊達宗清が城主となって伊達氏の重要な支城となった。1591年に伊達政宗(貞山公)が岩出山城に移封となると、梁川城は会津に入部した蒲生氏郷の支城となった。1598年には豊臣政権五大老の一人上杉景勝が会津に移封となり、梁川城もその支城となった。1664年まで上杉領として須田氏が城代を勤めたが、64年に天領となって梁川城は一旦廃城となった。1807年から松前領となり、一時期天領期間を挟んで幕末に至った。

 梁川城は、梁川市街東部の段丘上に築かれた城で、本丸を中心に周囲をいくつかに区画された二ノ丸・三ノ丸で囲み、東を金沢掘と言う空堀で東の山裾と分断していた。現在、本丸には梁川小が、南二ノ丸には梁川高校があり、それ以外は市街化してかなり変貌している。しかし、遺構は想像以上に良好に残っていて、小学校校庭には庭園跡と土塁・石垣があり、校舎裏の北西には上杉時代の大手虎口を守る横矢の張出しが見られる。いわゆる左袖であるが、虎口との距離が30m程あることから、鉄砲時代に構築されたものと思われる。更に北には北三ノ丸があったが、遺構はここが最もよく残っている。内部は団地となっているが、周囲には高さ5m以上にも及ぶ大規模な土塁が築かれ、更にその外側には水堀が残り、東側には見事な枡形虎口が残っている。ここは伊達氏時代の大手虎口とされる防御の要で、その規模は近世城郭の枡形に匹敵する。伊達氏時代のものに、蒲生・上杉時代に更に改修を加えたのかも知れないが、伊達氏の中世城郭に於いて見事な枡形虎口はトレードマークと言ってもよい。桑折西山城然り、舘山城然り、桧原城然りである。また北三ノ丸にも北の虎口を守る横矢張出しがあり、これも左袖となっていて、虎口までの距離から考えてやはり鉄砲時代に築かれたものだろう。そのほか、高校東側には金沢掘の遺構が残り、本丸西側の切岸もほぼ現存していると考えてよい。街中で変貌を遂げながらも、要となる遺構の残る城である。
北三ノ丸の大規模な土塁→DSC00374.JPG
DSC00330.JPG←本丸の庭園と土塁・石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.855203/140.611149/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大枝城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00255.JPG←東側の大空堀
 大枝城は、袖ヶ崎城とも言い、伊達氏の庶流大枝氏(現地表記では「大條」と書いて「おおえだ」と読む)の築いた城である。大枝氏は、伊達宗遠の3男で大膳太夫政宗(儀山公)の弟に当たる孫三郎宗行が大枝郷に分封されて大枝氏を称したのに始まる。以後、大枝氏は6代にわたって大枝郷に居を置いたが、1591年の伊達氏の岩出山移封に伴って志田郡大倉城に移り、大枝城は廃城となった。

 大枝城は、当時の伊達氏の本城梁川城の北北西2km程の、阿武隈川北岸の独立丘陵に築かれた平山城である。地勢は、阿武隈川に面する南側は急崖だが、北側にはなだらかな傾斜地が広がり、城を築くには絶好の場所である。本丸を南端の最上部に置き、北西下段に二ノ丸を、北東下部に三ノ丸を置いている。城内は現在果樹園などになっていて改変を受けているが、遺構は比較的良く残っている。特に本丸北東側の大空堀は見事である。逆に言うと見所はそれだけで、土塁の一部が残っているものの、ほとんどの土塁は湮滅しているようである。現在は数段の平場が広がり、西側下部に腰曲輪を伴うだけの二ノ丸周辺には、もっと土塁が築かれていたことが日本城郭大系の縄張図から知ることができる。北側の台地基部には二重堀切があったというが、これもわかりにくくなっている。要所は堀と土塁で防御を固めていたものの技巧的な部分はあまり見られず、割と古い形態の城だったようである。

 尚、平時の居館は大枝城の北西1kmにある住吉館だったと考えられている。
台地基部の堀切跡→DSC00300.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.871127/140.604025/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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住吉館(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00231.JPG←東側の水堀と土塁
 住吉館は、伊達氏の庶流大枝氏(現地解説板では「大條」と書いて「おおえだ」と読んでいる)の居館と考えられている方形単郭居館である。大枝氏の城としては、ここから南東1kmに大枝城があり、平時の根古屋として住吉館を築いたものと思われる。現在は徳本寺となり、境内周囲に土塁と水堀が残っている。北側の土塁と水堀は、県道320号線によって破壊を受けているが、道路北側に土塁と水堀の一部が残っている。また北側以外の三方の遺構は良好に残っていて、往時の面影を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.876547/140.594949/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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阿津賀志山防塁(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00190.JPG←厚樫山山麓部の防塁
 阿津賀志山防塁は、奥州藤原氏が源頼朝の奥州侵攻に備えて築いた防塁である。1189年、源頼朝は鎌倉幕府創立の総仕上げとして、平泉に覇を唱える奥州藤原氏を討伐した。いわゆる奥州合戦である。時に奥州平泉の盟主藤原氏3代秀衡は病没してこの世になく、嫡男泰衡が継いだばかりの隙を狙ったものでもあった。頼朝は全国の武士に動員をかけ、3手に別れて奥州へ侵攻した。中央は畠山重忠を先陣とし頼朝自ら率いる大手軍、右翼は千葉常胤・八田知家率いる東海道軍、左翼は比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍。吾妻鏡では総勢28万4千騎とするが、兵数を実数より多く言うのは軍記古来の鉄則なので、実際には5万騎程度ではなかったろうか。対する泰衡は、異母兄国衡を大将とし、厚樫山山麓から阿武隈川まで、二重の堀を構えた長大な三重の防塁を築き、平泉防御の第一線とした。これも兵力2万とされるが、実数は1万程度ではなかろうか。戦闘は8月7日より開始された。防塁の前面において激しい戦闘が繰り広げられ、数に勝る鎌倉勢が奥州勢を徐々に押し込み、一方、鎌倉方の小山朝光はわずかな手勢で厚樫山を大きく西北方に迂回して、国衡本陣に背後から奇襲をかけた。これによって浮き足立った奥州勢は一挙に瓦解し、国衡は出羽へ敗走の途中、畠山重忠・和田義盛の手によって討死し、後方にあって戦場を総覧していた泰衡は平泉に火をかけて北方へ逃走し、最後は郎党の裏切りに遭って殺害された。奥州勢を打ち破った頼朝は、そのまま軍を率いて北上し、陣ヶ岡に軍勢を集結させた。かつて宗祖源頼義が前九年の役の際に首実検を行った陣ヶ岡で、故事に倣って泰衡の首級を晒した。こうして奥州も平定され、武家政権が名実共に樹立された。

 阿津賀志山防塁は、現在国指定史跡になっており、大きく分けて4ヶ所にその遺構が残されている。防塁の基点は厚樫山の中腹にあり、山を登る車道の途中にその遺構を見ることができる。ここでの防塁は見た限り一つの堀と二重の土塁であるが、山を下って国道4号線付近では二重の堀と三重の土塁となっているようである。最も雄大な遺構を残しているのは下二重掘地区で、土塁の間に広大な堀が横たわっている。いずれの遺構も土塁はかなり削れ、堀はかなり埋まっているが、復元したらものすごい規模になるだろう。敗れたりとはいえ、突貫工事でこれだけの防御陣地を構築した奥州藤原氏の勢威がよく分かった。

 尚、国道4号線脇の高台の上に厚樫山故戦将士碑が建っている。果樹園の片隅にあり場所がわかりにくいので、付記しておく。
防塁始点→DSC00168.JPG
DSC00205.JPG←高橋地区の防塁
下二重掘地区の防塁→DSC00223.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【防塁始点】
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.892043,140.564886&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
     【防塁 厚樫山山麓部】
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.888114,140.56583&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
     【防塁 高橋地区】
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.876971,140.572375&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
     【防塁 下二重掘地区】
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.870958,140.575615&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
     【厚樫山故戦将士碑】
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.890739,140.569435&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※後日の追加の訪問記はこちら
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石母田城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00133.JPG←本郭の水堀
 石母田城は、伊達氏重臣の石母田氏の居城である。石母田氏は、元は甲斐武田氏の出自と言われ、石母田郷に住して石母田氏を称した。石母田城の築城時期は定かではないが、この城が歴史の表舞台に立つのは、伊達氏家中の大乱、天文の乱の時である。1542年、伊達稙宗は、対立していた嫡子晴宗によって桑折西山城に幽閉されたが、小梁川宗明に救出されて石母田城に入って稙宗党の拠点とした。翌年、稙宗は懸田城に移ったが、1544年に懸田城中で懸田氏家中に晴宗党の叛乱が起き、稙宗は再び石母田城に逃れた。この年、晴宗は稙宗の拠る石母田城を攻撃し、これを落城させた。稙宗は逃れて、八丁目城に移った。この時の石母田城主は不明であるが、乱後に稙宗方の石母田宮内少輔と彦三郎は失脚し、石母田光頼とその弟氏頼は封地を授かった。光頼は、弘治・永禄年間(1555~1570年)の頃、朝廷から従五位下安房守に叙せられ、将軍足利義輝から奥州守護代に任じられた。これは伊達家中でも破格の待遇と言ってよい。1564年、伊達輝宗と伊達一門衆の角田城主田手宗光が対立し、調停の為に石母田城に出向いた晴宗が、輝宗の攻撃を受けるという事件が起きた。その後の石母田城の歴史は定かではないが、1590年の豊臣秀吉による奥羽仕置によって、石母田城は廃城となった様である。翌年、伊達政宗が岩出山城に移封となると、石母田景頼もこれに従って荒山城に移ったと言う。1593年に景頼は政宗の命で桑折氏の名跡を継ぎ、1615年の宇和島藩立藩の際、筆頭家老として宇和島に移った。一方、石母田氏の名跡は、景頼の婿養子浦山景綱が継いで石母田宗頼と名乗り、幕末まで存続した。

 石母田城は、本郭・二ノ郭・三ノ郭を有する平城で、現在民家や果樹園となっているものの遺構は比較的良く残っている。主郭の東側には横矢掛を持った土塁が残り、その外側に水堀も残っている。主郭西側の土塁はかなり湮滅しているが、堀跡は道路となってその形状を良く留めている。主郭南虎口には馬出郭があったようだが、現在では湮滅している。二ノ丸は果樹園となっているが南西部に土塁と堀跡がわずかに残っている。外郭となる三ノ丸は、西側だけ土塁が良く残っており、その外側には堀跡が一段低い畑となって残っている。民家や畑となっている割には、城域や縄張がかなり明瞭で、特に外郭の遺構まではっきり残っているのは、かなり良好な遺構と言ってよいであろう。
三ノ郭の土塁と堀跡→DSC00103.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.889876/140.556153/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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藤田城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00055.JPG←本丸搦め手口の張出し
 藤田城は、南北朝時代に奥州南朝方の拠点の一つとなった城である。築城年代や築城者は定かではなく、1189年の源頼朝の奥州征伐の折、阿津賀志山の合戦で頼朝が本営を置いた場所と伝わっている。そのことから、源氏宗家の拠った山ということで源宗山と呼ばれている。南北朝時代に入ると、陸奥国司・鎮守府大将軍の北畠顕家が、北朝方の攻勢によって国府多賀城を捨て霊山城に拠ると、藤田城はその出城として宇津峰城・川俣城と共に南朝方の有力拠点とされた。この時の藤田城主は、伊達行朝か藤田下野守と推測されている。しかし1347年、北朝方の奥州管領吉良貞家は、大軍で藤田城を激戦の末攻め落とし、一時的ではあるが奥州管領府の居城となって、霊山城攻撃の軍事拠点となった。室町時代になると、藤田城は伊達氏家臣の藤田氏の居城であったと考えられているが、藤田氏は一時断絶している上、再興したものの天文の乱では伊達稙宗方に付いて敗れ、藤田晴親は相馬に逃亡して、以後藤田城は廃城になったと思われる。

 藤田城は、本丸跡は大半が源宗山住宅団地となり、二ノ丸など周辺部も市街化されて、遺構の大半は湮滅している。しかし本丸西側は公園となっていて、井戸跡のほか搦め手口防御の横矢の張出し等は明瞭に残っている。日本城郭大系の図にある本丸外周の空堀は、現在遊歩道が敷かれて単なる腰曲輪にしか見えない。しかし全体に地勢はよく残っていて、周囲を望む高台に城があった事が今でも良くわかる。この地には城に由来する北小舘・南小舘・小舘などの地名が残る。

 ちなみに、本丸にある町営源宗山住宅団地は、高度成長期に作られた平屋の古い住宅が今でも並んでいて、非常に懐かしい匂いがした。私も子供の頃は、こんな家に住んでいたものだった。
二ノ丸の切岸→DSC00075.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.878868/140.544995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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山崎城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00042.JPG←畑の中にわずかに残る土塁
 山崎城は、伊達氏の家臣山崎氏の居城である。城主は1553年の「伊達晴宗采地下賜録」にある山崎彦七と考えられている。1552年の伊達氏家中の内乱、天文の乱の際には、山崎彦七は同族の彦兵衛と共に晴宗に属して、所領を加増された。1576年の伊達輝宗と相馬盛胤との戦いでは山崎丹後が参陣するなど、伊達氏の家臣として活躍し、独眼龍政宗の時代には政宗の側近となっていたようである。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置きによって、山崎城は廃城となり、翌年の伊達氏岩出山城移封に伴って、山崎氏も山崎郷を去った。
 山崎城は、JR東北本線藤田駅北側に隣接している。二重に土塁を巡らし、本丸・二ノ丸を備えた平城であったが、現在は畑と民家になっていて遺構の大半は湮滅している。わずかに畑の中には土塁の残欠が見られ、周囲には空堀跡と思われる段差も残っている。戦後間もなくの航空写真でははっきりと城の輪郭を捉えることが出来るので、日本の高度成長期に姿を消した城の一つである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.880925/140.538944/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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桑折西山城(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00534.JPG←本丸南の空堀と土橋
 桑折西山城は、戦国前期の伊達氏の本城である。その前身は、伊達郡に入部して高子岡城を居城とした伊達朝宗(念西)が築いた赤館と言われている。1400年、伊達氏中興の祖といわれる9代大膳太夫政宗(儀山公)が、鎌倉公方足利満兼に反旗を翻して長倉館と共に拠点としたのが、この赤館である。1523年に奥州守護職に補任された14代稙宗は、1532年に守護の府城を梁川城から桑折西山城に移し、城下町を整備して城を現在残る規模に修築した。しかしその後、奥州を二分する大乱となった伊達氏家中の騒乱「天文の乱」が起こり、稙宗は嫡子晴宗と激しく争うこととなった。この乱の最中、常に渦中にあったのが桑折西山城である。6年に及ぶ大乱は終盤に至って晴宗の優勢で推移し、足利将軍家の調停によって和睦がなり終結した。稙宗は丸森城に隠居し、勝った晴宗は西山城を破却して居城を米沢城に移した。時代は下って、明治元年の戊辰戦争の際に、仙台藩は西山城の地に砲台を築いた。

 桑折西山城は、さすがに奥州の雄伊達氏の本城だけあって規模が大きい。現在、国の指定史跡となっているのでかなり整備されており、遺構の隅々まで見ることができる。東の高館と呼ばれる部分に本丸と二ノ丸を置き、間は空堀で分断、周囲には腰曲輪を置いて防御を固めている。本丸には東と南西の2ヶ所の虎口があり、更に南に空堀に掛かった土橋を渡って腰曲輪に連結するルートもあるようだ。本丸~二ノ丸間の空堀は畝があり、どうも畝掘であった可能性がある。また本丸の搦め手筋を降った所の虎口は、草むらの中に石積みが残っている。こちらの本城部分から西にやや離れた所には、中館・西館と呼ばれる曲輪がある。こちらの遺構も出色で、全周を土塁が囲み、中館・西館の間は大きな空堀で分断する。更に中館南西の枡形虎口、西館南の枡形虎口は極めて良好に残っている。西館南の虎口は、出枡形以外に内枡形もあったらしく、二重枡形を形成していた様である。また、中館・西館周囲の土塁にはかなり広範囲に石積みが残っており、なかなか素晴らしい。東北の中世城郭にこれ程の石積みがあるとは思わなかった。良く見ると腰曲輪などにも石積みがあるようだ。ただ近年の発掘調査の結果では、これらの石積みはもっと時代が下ったものである可能性があるとのことで、謎が残っている。いずれにしてもどの曲輪も広大で、非常に規模の大きい城であることがよく分かった。現在も発掘整備が進められているので、数年後にはまた違った姿を見せてくれるかも知れない。今後の整備が楽しみである。
中館の枡形虎口→DSC00581.JPG
DSC01533.JPG←中館~西館間の空堀
西館に残る石積み→DSC00622.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E140.30.47.7N37.51.9.1&ZM=9
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播磨館(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00454.JPG←堀切跡の道路
 播磨館は、伊達市の庶流桑折氏の居館である。伊達氏4代正依の庶兄左衛門蔵人親長を祖とし、桑折郡に住んで桑折氏を称した。南北朝時代の1338年には、桑折政長は伊達氏惣領の伊達行朝に背いて北朝方に降伏し、足利尊氏から知行地の半分を宛行われた。1542年の天文の乱の際には、その直接の発端となった稙宗3男実元の越後上杉氏入嗣について、桑折景長は中野宗時と共に伊達晴宗に阻止するよう進言した。1559年頃には、晴宗は奥州探題となり、桑折景長の嫡子貞長は守護代に補任されるなど重きを成した。1570年に伊達氏宿老中野宗時・牧野宗仲父子が伊達輝宗に叛して没落すると、その居城小松城は貞長に与えられた。貞長の子治部大輔宗長は、伊達輝宗・政宗2代に仕えて多くの戦功を挙げた。1591年に政宗が米沢城から岩出山城に移封されると、宗長の嫡子桑折政長も播磨館を去って江刺郡岩谷堂に移った。1593年、政長は朝鮮の役に出征したが朝鮮で病没した。政長には嗣子なく、姉婿の石母田景頼が桑折氏を継いだ。1615年、政宗の庶長子秀宗が伊予宇和島に10万石で立藩すると、景頼はその家老としてこれに従った。一方、その後の播磨館は、その北側に陣屋が置かれ御城米を貯蔵する蔵が立ち並び、庫場と呼ばれたと言う。

 播磨館は、河岸段丘の先端に築かれ、両側を侵食谷で削られた要害であったが、現在は宅地化され、遺構はほとんど湮滅している。しかしその地勢は健在で、要害地形が今でもよく分かる。東下の道路から館内に入る道は、主郭と台地基部を分断した堀切跡であろう。この道路を入ってくると、わずかに「史跡 播磨館跡」の標注が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E140.31.22.5N37.50.13.5&ZM=9
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長倉館(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00446.JPG←館主稲荷の土塁
 長倉館は、長倉氏の居館である。長倉氏は伊達氏の一族とも、一説には源氏の流れとも言われる。室町中期に長倉館は突然歴史の表舞台に立つ。1400年、伊達大膳太夫政宗(儀山公)は、関東管領足利満兼が弟満貞(稲村公方)・満直(篠川公方)を奥州に派遣して伊達氏に領地割譲を求めた際にこれを拒み、一族の長倉入道と謀って桑折西山の赤館と長倉館に拠って反旗を翻した。満兼は、岩松満純を大将に大軍を以って赤館・長倉館を攻めたが大敗し、1402年には勅使河原兼貞を大将に再度攻め寄せたがこれも完敗。その後、上杉氏憲(禅秀)に命じて三度討伐して、ようやく政宗・長倉入道らは降伏したと言う。その後、伊達氏の内乱「天文の乱」では、長倉氏一族の多くはは稙宗方に付いた為に没落し、晴宗方に付いた長倉彦兵衛が長倉氏の名跡と所領を安堵された。その後、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で廃城になったと言う。
 長倉館は、現在市街化によって遺構は湮滅している。伊達小付近が長倉館の跡で、この地には「舘ノ内」の地名が残り、ここにかつて居館があったことを今に伝えている。小学校北東にある館主稲荷の祀られた土壇は、かつての長倉館の土塁跡とのことである。これが唯一の遺構であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E140.30.3.3N37.49.2.3&ZM=9
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高子岡城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00438.JPG←堀跡?
 高子岡城は、伊達氏の祖伊達念西朝宗の居城と伝えられている。1189年、念西は源頼朝の奥州征伐に子息を率いて参加し、阿津賀志山合戦などで戦功を挙げ、伊達郡を賜った。伊達郡に入部した念西は、高子岡の地に城を築いて居城とし、中村の姓を伊達と改めた。後、3代義広は、居城を粟野大館に移したとされる。
 高子岡城は、後に奥州切っての大族となった伊達氏の草創時の居城で、平野の中の独立丘陵に城を築いていたようである。遺構ははっきりせず、いくつかの平場が確認できるだけであるが、この平場も耕地化や八幡宮造営で改変されたものである可能性があり、何とも言い難い。麓には堀跡のような畑もあるが、これもよく分からない。頂上には、丹露盤と言われる巨石が転がっているが、当時からあったものだろうか?独立丘陵だけあって、頂上からの眺望は見事で、周囲の平野部を手に取るように見据えることができる。遺構はなくとも城を築くに絶好の地勢であることは、間違いない。
高子岡城遠景→DSC00443.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E140.31.43.2N37.48.29.6&ZM=9
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霊山城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00300.JPG←主郭
 現在、紅葉の名所として知られる霊山は、その昔、奥州南朝方の中心地であった。平安前期の859年に慈覚大師円仁が開創した山岳寺院霊山寺は、建武の新政の頃、奥州府の拠る寺院城郭、霊山城となった。建武の新政を始めた後醍醐天皇は、1333年10月、奥州を押さえる為に北畠顕家を陸奥守・鎮守府大将軍に任じ、わずか6歳の義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州に下向させた。顕家は大納言北畠親房の嫡子で、若干16歳の眉目秀麗な青年公卿であった。顕家は、国府多賀城に本拠を定め、父親房や奥州の豪族結城宗広・伊達行朝らがその補佐に当たった。1335年末に足利尊氏が鎌倉で新政から離反し、攻め寄せてきた新田義貞を伊豆竹之下で破って京都へ進撃すると、同年12月、顕家は義良親王を奉じて奥州軍を率いて征西し、尊氏を九州に追い落とした。翌2月に顕家は京都から奥州への帰途に就き、足利方に寝返った相馬らの奥州諸豪を討ち破って同年5月に多賀城に帰着した。しかし多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。これは霊山が、奥州南朝方の柱石、伊達行朝の勢力圏にあったからでもあろう。しかし霊山城も北朝方に攻め囲まれる中、吉野に潜幸した後醍醐の度重なる要請によって、同年8月意を決した顕家は義良親王を奉じて再び西上の途に就いた。下野で北朝方の大族小山朝郷を降し、鎌倉に突入して杉本城で関東管領斯波家長を自刃に追い込み、そのまま驚くべき速さで東海道を進撃した。そして青野原の戦い(後の関ヶ原の地)で足利の精鋭軍と激突し、これを破った。しかし兵力を消耗した顕家は伊勢に転進し、奈良で体勢を立て直して京都を突こうとしたが、京都から下った高師直・師冬・今川・上杉らの北朝軍と般若坂で戦って敗れ、和泉堺浦で最後の決戦に挑んで敗死した。その戦没地は大阪の阿倍野と言われている。一方、顕家亡き後も霊山城では南北両軍の間で攻防が続き、顕家の死から10年後の1347年、藤田城落城直後に奥州管領吉良貞家率いる北朝軍重囲の下、遂に霊山寺と共に炎上、陥落したと言う。その後霊山城は、歴史の表舞台から姿を消した。

 霊山城は、主郭の周囲に国司館や廃堂跡が数多く残り、更にその外周にも物見岩や出城などが残っている。全体ではかなりの面積であるが、親王の御座所でもあり、国府と言うその政庁としての性格から、戦国期の実戦バリバリの山城と比べると自ずから遺構の趣も異なり、多くの堂宇・建物を配した平場だけで構成された山城だった様である。それでも主郭等には土塁や空堀が残っている。一方、国司沢や護摩壇などハイキングコースとしての見所も多く、山城遺構だけでなくその景色も楽しみたい城である。今回、満を持して紅葉真っ只中の好天の霊山を訪れることができた。朝6:30から登山開始し、一通り巡って降りてきたのは9:30だった。紅葉真っ盛りの時期であった為、朝まばらだった駐車場の人影は、降りてきた時には人だかりとなっていた。登るなら、人の少ない朝に限る。紅葉に彩られた絶好の眺望を、静かにゆっくりと楽しむことができるだろう。
有名な国司沢→DSC00247.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E140.41.13.5N37.45.58.9&ZM=9
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柏木城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC04105.JPG←内枡形虎口の石垣
 柏木城は、葦名氏が対伊達戦用に築いた巨大城塞である。伊達政宗の会津侵攻を阻止する為、1584年に米沢口の押さえとして、旧米沢街道を押さえる大塩の地に柏木城を築き、三瓶大蔵を城番にして守らせた。1589年6月、政宗が摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼすと、ここを守備していた三瓶大蔵、穴沢俊次らは、城に火を付けて退却し、伊達勢がこの城に入った時には、空であったと言われている。

 柏木城は、おそらく葦名氏が築いた中でも最も高度な築城技術を結集した城である。城の中枢部は要所に石垣を取り入れ、曲輪間を巧みに空堀で分断するほか、横堀、竪堀、土塁、内枡形に石垣虎口、馬出しの設置等、様々な築城技術を駆使した優れた縄張となっている。北斜面の腰曲輪群は、かなり薮化していて遺構の確認が容易ではないが、中枢部は薮がある程度取り払われており、高度な縄張を堪能することができる。主郭内部は、石塁で囲まれた塀が建てられていた区画や門の跡があり、土塁上などにも石積みが今でも散見される。往時はほぼ全周を石垣で武装していたのだろう。ただあちこちに築かれた石垣は、現在では崩落しているものが多く(破却されたらしい)、思ったほどの規模ではないのが残念である。中枢部の周辺にも城域は大きく広がり、中曲輪群・東曲輪群などを含めると、その範囲は東西約1kmにも及ぶ。ただ中枢部以外は耕作地に転用された場所が多く、どこまでが遺構なのか非常にわかり辛い。

 それにしてもなんという広大な城だろう。政宗の脅威が、葦名氏をしてこの巨大要塞を築かせしめたのだ。しかし政宗は、不利な城攻めをすることなく、決戦を野戦に持ち込んで勝利をもぎ取った。まさに戦略勝ちである。その為、せっかく築いた巨大要塞の柏木城も不発に終わるという結末を迎えた。結局、戦国大名の没落というのは、信玄の言葉ではないが、城によらず人心の離反によって引き起こされるものなのだろう。(葦名氏は家臣団の内部分裂が大きく響き、摺上原でも敗北を喫した。)それは、信濃小笠原氏の没落や甲斐武田氏の終焉を見ても明らかだ。

 なお柏木城は、一般的には山城の分類に入れられているようだが、山の峻険さよりもなだらかな丘陵状の地形を利用して広い曲輪を連結した縄張で、比高も100mに満たないので、ここでは平山城に分類しておく。
主郭と三ノ郭間の大空堀→DSC04163.JPG
DSC04171.JPG←腰曲輪内の石列
主郭土塁上の石列→DSC04180.JPG
DSC04239.JPG←北曲輪群の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html?lat=37.665757&lon=139.976981&z=16&did=std&crs=1
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岩山城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC04058.JPG←曲輪らしき平場、奥は土塁か
 岩山城は、葦名氏家臣の穴沢氏が築いた山城である。穴沢氏は、伊達氏の桧原侵攻に備えて1564年に戸山城を築いたが、翌年伊達氏の奇襲を受けて苦戦し、辛くも落城は免れたものの防備の弱点を痛感して、新たに岩山城を築いたと言う。1584年に葦名盛隆が死去すると、葦名氏は佐竹義重と接近を図った為、家督相続したばかりの伊達政宗は会津侵攻を決意し、同年11月26日、伊達勢約1,500人で奇襲を掛けた。穴沢俊光は岩山城に立て籠もって奮戦したが火攻めにあい、俊光以下自害したと言う。金山も抱える要地桧原を押さえた政宗は、新たに桧原城を築き、更に会津侵攻を推し進めて行き、ついに1589年、摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼし、会津を掌中に収めることとなった。しかしその先には、全国統一を目前に控えていた豊臣秀吉が立ちはだかっていたのである。
 岩山城は、現在は堂場山ハイキングコース上にあり、桧原湖底からの比高は100m程である。湖底から、と言うのは、「桧原城 外構え」のところで記載した通り、明治以前は桧原湖は存在しなかったからである。県道64号線からハイキングコースを歩いてしばらく行くと、「岩山城自刃之館跡」という看板の立つ場所に到達する。この道の東側には削平地と奥に土塁らしい高まりが見られ、ここが岩山城であるらしい。その先にも歩いていくが、一旦下ってまた登ったところにまた平場、という感じで、遺構がはっきりしない。それでも3箇所ほどの平場があるようである。ただこれらの平場は削平がやや甘く、また土塁もあまりはっきりした形状ではないようだ。堀切もらしきものはあるがはっきりせず、全体的に「これが城跡?」と思うぐらい消化不良な感じである。
 比高から考えても、その縄張の充実度から考えても、遥かに戸山城の方が充実しており、岩山城が勝るのは平場の広さだけである。なぜ戸山城を破却してこの城に移ったのか、不思議な感じがする。また岩山城は戸山城と異なり20年近くも存続した城だから、もっと本格的な普請がされていても良いのではないかと思う。謎の残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html?lat=37.715143&lon=140.051182&z=16&did=std&crs=1
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