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古城めぐり(山形) ブログトップ
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戸塚山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3033.JPG←外周を巡る三重横堀
 戸塚山楯は、在地豪族の浅川采女の城であったと伝えられている。浅川氏は長井氏時代から続く在地領主で、伝承では戦国時代に入っても尚、置賜を支配していた伊達氏に服属しておらず、永禄年間(1558~69年)に至って伊達氏家臣であった長手楯主網代伯耆守と戦い敗れて、伊達氏に服属したと言う。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、これに従って当地を離れたと思われる。

 戸塚山楯は、戸塚山の山頂ではなく、その北東に離れた標高307m、比高77mの支峰に築かれている。この城へは東麓の戸塚山観音の背後から山道が付いており、藪漕ぎせずに楽に登ることができる。おそらくこれは、昭和28年まで戸塚山楯の位置する山頂に建てられていた戸塚山観音への登道であったのだろう。城は、多重横堀を多用した縄張りで、松ノ木楯に酷似している。大手虎口は城の北東部にあり、両側に横堀が穿たれた土橋の先に小規模な枡形虎口が構築されている。土橋両側の空堀は、L字状の屈曲をそれぞれ180度回転させた形で対向しており、横矢掛かりを意識した構造となっている。虎口を抜けると大手郭となり、前後を土塁で防御し、先程の虎口側方の横堀がそのまま弧を描いて、大手郭前面を掘り切っている。大手郭の上に三ノ郭、その上にニノ郭、更にその上が主郭となる。いずれも前面に土塁と掘切を穿ち、掘切はそのまま弧を描いて南側斜面の豪快な三重横堀となっている。三ノ郭側方(南側)には虎口が見られるが、その前の三重横堀には一部土橋が掛かっており、その土橋と木橋で連結されていたと思われる。ニノ郭の掘切はクランクして横矢が掛けられ、その先で三重横堀を上方から防衛する帯曲輪に変化している。最上段の主郭は城内最大の面積を有し、櫓台の様な土壇が見られるが、以前に戸塚山観音が置かれた部分と考えられ、この土壇が遺構かどうかはわからない。主郭背後は急斜面となっていて、搦手の木戸口があって城域が終わっている。その先の尾根との間には明確な掘切がなく、その点背面の防御が不十分な縄張りとなっているが、自然地形を利用した切岸で事足りると判断したのだろうか?尚、前述の三重横堀はこの主郭側方まで延々と伸びており、東面から南面に掛けての全面に防御線を敷いている。
 戸塚山楯は、松ノ木楯ほど精緻な虎口構造こそ見られないが、横矢を掛け、三重横堀を掘り切った、見事な城である。
大手虎口の枡形と土橋→IMG_3140.JPG
IMG_3131.JPG←弧を描く三重横堀
掘切と三ノ郭→IMG_3045.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.948258&lon=140.149147&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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熊野山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2978.JPG←主郭
 熊野山楯は、歴史不詳の城である。小規模な城であることから、物見台か烽火台的な性格の城であったと推測されている。
 熊野山楯は、戸塚山の南南西に隣接してそびえる独立丘陵上に築かれた、比高50m程の城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図では、狭小な主郭の周りに帯曲輪を巡らし、東側に腰曲輪群(横堀群?)を設けた構造であるが、実際に登ってみたところ、明確な遺構に乏しく、城の形態があまりはっきりしない。山頂は平らに削平され、物見台状の土壇があるが、帯曲輪・腰曲輪はほとんどわからない。『調査報告書』に記載される「6条の畝状横堀」に至っては、全くわからない。至近に戸塚山楯中川原館があることから、それらに付随した物見台であったのだろう。いずれにしても、ささやかな城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.938409&lon=140.142002&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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中川原館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2904.JPG←主郭の二重横堀の外堀
 中川原館は、歴史不詳の城館である。比高わずか5m程の台地辺縁部を利用して築かれた城館で、名称は「館」であるが、実際には「城」というべきものである。「田」字状に4つの曲輪を配し、北東が主郭となっている。主郭と南西の三ノ郭は畑に変貌しているが、遺構はよく残っており、特に主郭は西側から南側に掛けて二重横堀で囲まれている。二重横堀は、内堀は空堀だが、外堀は湧水があるのか水堀となっている。南側の水堀は横矢掛かりの屈曲を持ち、その外側にL字状土塁で囲まれた馬出しを備えていて、非常に見応えがある。この城で変わっているのは、普通台地辺縁部の城では台地先端や角に主郭を配置するが、この城ではわざわざ内側に主郭を配置して二重横堀で防御を厳重にしている点である。二ノ郭は藪であるが、堀沿いに土塁が築かれているのがわかる。その他の曲輪は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図では堀や土塁で区画されていた様だが、現状ではあまり明瞭ではない。いずれにしても、二重堀がしっかり残った平城で、なぜこれが無名で史跡指定もないのか、不思議でならない。米沢には他にも多数の良好な城郭遺構があるのだから、舘山城の国指定史跡化ばかりでなく、もっと他の史跡保護にも前向きに取り組むべきだと思う。
馬出しのL字状土塁→IMG_2965.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.947632&lon=140.136917&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平城
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長手楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2817.JPG←平城背後の二重横堀
 長手楯は、伊達四十八館の一つである。楯主は、伊達輝宗・政宗の家臣網代伯耆守で、1591年に豊臣秀吉の命で政宗が岩出山に移封となると、これに従ってこの地を離れた。添川の地を賜わり、伯耆を伊予と改めたと伝えられている。

 長手楯は、古館山から北西に伸びる山稜先端の小山に築かれた城である。比高40m程の山頂に築かれた山城と、その南麓の台地上に築かれた平城(根小屋)がセットで残った、置賜地区では稀有な例で、非常に貴重な遺構とされる。
 平城は、大小7つの曲輪で構成されており、中央西側にコの字状に入り込んだ部分が大手虎口、その北東の平場が主郭と考えられている。平城部分はほとんどが熊笹が密生した藪で覆われ、中に突入するのは容易ではない。しかし主郭背後には二重横堀が穿たれているのが明確に確認できる。この二重横堀は、北端に搦手虎口を設けて、北東に伸びる、掘切を兼ねた切通しの城道に繋がり、一方南端には窪地があり、井戸と推測されている。また大手虎口は内枡形を成し、切岸に沿って低土塁が築かれている。
 山城は、この平城部から北へと登って行くが、山麓谷戸の曲輪群はやはり笹薮の密生で形状がはっきり捕らえられない。斜面をやや登ると腰曲輪に至り、そこから櫓台を備えた小型の枡形虎口を入って、帯曲輪・段曲輪を経由して主郭に至る。主郭の周囲には、帯曲輪や腰曲輪が築かれているが、縄張りはそれだけで技巧性は殆ど無い。居館とセットになった希少性のある遺構だが、やや面白みに欠ける。
虎口の櫓台→IMG_2847.JPG
IMG_2866.JPG←主郭周辺の段曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.934162&lon=140.161111&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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館ヶ崎楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2721.JPG←北尾根の二重掘切
 館ヶ崎楯は、明徳年間(1390~93年)に後藤孫兵衛(後藤肥前とも言われる)が楯主であったと言われる城である。その他の歴史は不明であるが、伊達氏の家臣の城として戦国期まで存続したものと考えられる。

 館ヶ崎楯は、標高286m、比高わずか40m程の独立小丘に築かれた城である。大きく3つのブロックから構成された城で、主郭を中心とした主城部と、北出丸、東出丸から構成されている。主郭は幅が狭く細長い曲輪を中心に、幾重にも帯曲輪群を巡らした、置賜の伊達氏系城郭に多い多段式の構造で、特にこの城では主郭が狭小で、ほとんど居住性を持っていない。従って、あくまで有事の際の詰め丸の位置付けだったと考えられる。大手は西側にあったらしく、段曲輪群の先に大手虎口跡と推測される石積みが確認できる。主郭群の北の段曲輪から東に向かって城道が伸び、東出丸への接続部に小さな枡形虎口が築かれている。その先に平場が続き、腰曲輪に囲まれた小丘状の東出丸がある。頂部は狭小で、物見台以上の役目はなかった様だ。主郭群の北麓には、北尾根を分断する二重掘切と、それに繋がる横堀、その下方に数本の竪堀群が穿たれている。北に続く尾根に曲輪数段が築かれ、西尾根に小堀切、北にも横堀が尾根を掘り切っており、この横堀から落ちる竪堀を城道として、谷戸に平場群が築かれている。更に北尾根に舌状の曲輪が続き、北出丸がそびえている。ここには祠が祀られ、西麓から参道が伸びている。北出丸も腰曲輪群で囲繞されている。この北側には尾根を遮断する長大な三重掘切が穿たれている。この三重掘切は東麓に向かって長く伸びたもので、規模は異なるが丁度畑谷城の西部三重堀の様な堀である。

 館ヶ崎楯は、掘切や横堀を組み合わせた中々技巧的な城で、決して規模の大きな城ではないが、非常に面白い。また訪城時に、縄張り図作成中の方が居り、ちょっとした城談義ができたのも楽しい一時だった。
主郭の帯曲輪群→IMG_2724.JPG
IMG_2788.JPG←主郭群西麓の石積み
北端の三重掘切→IMG_2688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.961084&lon=140.19392&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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屋代楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2550.JPG←主郭背後の堀切
 屋代楯は、新宿柵とも呼ばれ、南北朝時代に置賜の国人領主長井氏が築いた国境警備の城と推測されている。1380年、伊達宗遠が長井庄に侵攻して長井氏を攻めた際、屋代峯で合戦があったと伝えられており、屋代楯を巡る攻防があったものと考えられている。また時期は不明だが(1385年か?)、宗遠の子政宗(儀山公)が長井庄に侵攻した際も屋代嶺で合戦があり、伊達方の関・渡部某が討死したと伝えられている。江戸時代後期の『米沢地名選』には、伊達氏の家臣遠藤吉兵衛盛利が屋代楯主であったが、伊達政宗(貞山公)が豊臣秀吉の命で岩出山に移封となり、上杉景勝の執政直江兼続が米沢に入るとこれに臣従し、慶長年間(1596~1615年)末期に再び伊達家臣となったと記載されている。また1600年の慶長出羽合戦の際には、屋代楯を巡って東方の玉ノ木原で伊達・上杉両軍が交戦したと言う。いずれにしても屋代楯は、国境警備上重要な位置にあったことから、置賜を領した歴代領主の長井氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏によって堅持されてきたものと見られている。

 屋代楯は、国道113号線の二井宿第2トンネルの上にそびえる、標高600mの山に築かれている。この城へはどこかに登り道もある様だが(最近整備され始めているらしい)、私は大滝不動尊から斜面を直登した。広い城域を持った城で、城内は大きく5つの曲輪群に分かれ、それぞれ独立性が高く一城別郭的な構成となっている。最高所にある主郭(Ⅰ郭)は、前面に数段の段曲輪を伴った小規模な曲輪で、後部に小さな物見台(或いは宗教的な土壇か?)を有し、背後に2本の堀切で北尾根からの接近を防御している。主郭の南西にはⅡ郭があり、城内では最も広い曲輪で、北側に横堀を廻らし、この横堀はそのままL字状に曲がってⅠ郭群との間の掘切を兼ねている。Ⅱ郭南側に2段の腰曲輪があり、西側斜面に竪堀が穿たれている。Ⅱ郭の南東に谷戸を挟んでⅢ郭がそびえている。Ⅲ郭は円丘状の曲輪群で、周囲に帯曲輪を巡らした物見台的なもので、西側に坂虎口と横堀を廻らしている。Ⅲ郭北側の谷戸には水の手と思われる池と、溜池を作っていたと思われる土塁(堰)が築かれている。ただこの堰状の土塁は、後世の農地の水溜を作っていたものかもしれない。Ⅲ郭の南西の平場の先に、Ⅳ郭がある。Ⅳ郭は腰曲輪に囲まれた丘状の曲輪であるが、削平は甘く、自然地形に近い。Ⅳ郭~Ⅴ郭間は平坦な平場が広がり、途中にL字状の低土塁と浅い空堀が築かれ、Ⅴ郭との間を区分している様である。Ⅴ郭は城域最南端に位置する東西に長い物見台状の曲輪で、西側に3段程の段曲輪を有し、間に浅い掘切が穿たれている。最下段の切岸にはわずかに石積みと見られる跡も見られる。

 屋代楯は、基本的には室町前期頃までの古い形態を示しているが、一部にやや技巧的な遺構も見られ、戦国初期まで存続していたもののように見受けられる。しかし戦国後期の城の様な大規模な普請は少なく、奥州山脈で分断された伊達氏の東西の領国を繋ぐ、繋ぎ城の様な役目が主体だった様に思われる。
Ⅱ郭の横堀→IMG_2522.JPG
IMG_2445.JPG←Ⅲ郭の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.018963&lon=140.281521&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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松ノ木楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2270.JPG←主郭の周りを巡る四重横堀
 松ノ木楯は、歴史不詳の城である。わずかに『下長井段銭帳』より、松木主計が楯主だったものと推測されるのみである。しかし城の縄張りは戸塚山楯と酷似しており、伊達氏の城であったことは疑いがないだろう。

 松ノ木楯は、標高290mの丘陵先端に築かれた城で、比高はたったの30m程しかないが、外周をうねるように廻らされた多重横堀で防御された、豪快な造りとなっている。主郭手前の大手は大手郭と馬出郭の2つの小郭が構えられ、それぞれの郭から横矢が掛けられた横堀が外周を廻り、虎口に土橋が架かっている。特に大手郭は大手虎口の手前の土橋両側を横堀で穿ち、下の馬出郭から進入した城道は横堀状となって横堀と並走しており、枡形・横堀・土橋と大手郭外周の土塁と組み合わせてE字状の土塁が配置された、極めて巧妙な虎口構造となっている。また大手郭の周りだけ、横堀は二重となっている。横堀群は斜度の緩い南面に集中配置されて防御を固めており、ほとんどの部分が三重、一部最大で四重の横堀群が廻らされていて、主郭から見たこの横堀群は壮観の一言に尽きる。主郭は、前面の大手虎口を低土塁で防御し、虎口内部は内枡形を有し、郭内部は数段の段差に分かれた多段式の構成である。中心付近が最も高い方形の平場で、そこから後背部に尾根状の段が伸び、南側方に一段低い平場を伴っている。主郭背面には立派な土塁が築かれて、背後の三重掘切を見下ろしている。主郭背面の土塁の南側に搦手虎口があり、ここも小規模な枡形となっている。三重掘切は、2本目は中央に土橋を残したやや浅い掘切で、実質的に2.5重の様な堀切である。ここから落ちる竪堀は、下に穿たれた横堀と合流している。三重掘切の背後は小さなニノ郭で、後ろ最上部が一段高い物見台状となり、その背後に城内最大の深さ4m程の掘切が穿たれている。その後ろは外郭で、掘切はないが最高所は櫓台らしく、祠が祀られている。二ノ郭は、北側斜面に段曲輪群を配置し、その外周に横堀を廻らして、そのまま北尾根を掘り切っており、その外側に櫓台を設けている。この段曲輪群は先程の大堀切と繋がっており、掘切は城内通路を兼ねていた様である。段曲輪群の東側は横堀状城道と帯曲輪が、主郭切岸の下を並走し、その先に竪堀状の虎口があって、その下の横堀に出る様になっている。前述の帯曲輪は、主郭先端部付近まで伸びている。以上の様に松ノ木楯は、低丘陵に築かれた城ながら、豪快な多重横堀で武装された技巧的な縄張りで、置賜地方では必見の城の一つである。

 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』に記載されている縄張図は、柳沢楯以上にかなり不正確なもので問題がある。
大手郭の複雑な土塁構造→IMG_2254.JPG
IMG_2278.JPG←主郭背面の土塁
主郭背後の三重掘切→IMG_2284.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.977261&lon=139.996946&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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朴沢楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2199.JPG←横堀と主郭切岸
 朴沢楯は、歴史不詳の城である。犬川と北沢川の合流点に向けて突き出した、標高290m、比高わずか40m程の丘陵先端に築かれている。単郭の小規模な城で、外周に横堀・帯曲輪を廻らし、背面には横堀から繋がる浅い掘切を穿ち、掘切北端は竪堀状虎口となって下の帯曲輪に繋がっている。また主郭先端には小規模な枡形虎口があるが、土塁もささやかなもので、形状がかなりわかりにくくなっている。南に1.2kmの位置には豪壮な松ノ木楯があり、その前衛の砦として物見的な役割で築かれたものだろうか?縄張り的には伊達氏の影響下にあったと思われるが、小土豪の築いたささやかな城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.9874&lon=140.001935&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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柳沢楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_1986.JPG←南東の二重枡形の一部
 柳沢楯は、歴史不詳の城である。築城者も不明であるが、その縄張りの特徴から考えれば、伊達氏の城であることはほぼ疑いなく、それも輝宗・政宗期の戦国末期の遺構と推測される。

 柳沢楯は、標高350mの山頂に築かれた城である。主郭を帯曲輪と段曲輪で幾重にも取り巻いた、置賜地区の伊達氏の城に多い多段式の縄張りであるが、この城ではほぼ全周を取り巻く横堀と、数ヶ所に築かれた枡形虎口が特徴である。特に南東と北東に築かれた枡形は圧巻で、南東のものは尾根筋を分断する豪快な二重堀切の向こうに並走する形で二重枡形を設け、あたかも四重堀切の如き様相を呈している。更にこの枡形は出枡形となり、外周の横堀は出枡形に沿ってクランクしている。これほど見事な二重枡形は、伊達氏の山城では桧原城以来である。一方、北東には外周横堀と主郭群帯曲輪とから接続する形で、二つの枡形虎口が土塁で仕切られて並走する、複雑な構造となっている。但しこの付近は藪が多くて形状の把握が難しい。前述の二重枡形ほど規模は大きくないが、幾重にもクランクしつつ分岐合流を繰り返す動線構造で、囮虎口まで設けられており、極めて技巧的である。一方、城の西端部には四重堀切が穿たれ、1本目は外周の横堀がそのまま尾根を掘り切っている。1本目の土塁は両端が途切れて竪堀が穿たれているが、これは虎口を兼ねたものだろう。2本目の掘切と土塁は、折れ歪みを持っている。更にこの掘切の四重堀切の南に隣接して、U字状の土塁と二重竪堀が組み合わされた虎口が築かれている。南辺部中央には円弧状の短い三重横堀(畝状障壁?)の先に竪堀状虎口が構えられている。この他には北辺の横堀が北尾根を掘り切っている部分の外側に櫓台と小郭が構えられ、防御を図っている。この城は基本的には単郭であるが、多くの段曲輪・帯曲輪がはっきりとした切岸で構築され、複雑な虎口や横堀と相まって厳重な防御線を構築している。柳沢楯は、枡形を多用した屈指の山城で、伊達氏の築城技術の一つの到達点を示している。

 尚、主郭群の外形は、国土地理院1/25,000地形図の標高340m等高線の形状とほぼ同じで、北側に向かってやや弓なりに歪んだ台形をしている。『山形県中世城館遺跡調査報告書』に記載されている縄張図は、概ねは合っているものの、北辺部や南辺部はやや不正確で、虎口部分にも形状の誤認識が見られるので注意が必要である。
西端の四重堀切の一部→IMG_2063.JPG
IMG_2040.JPG←北辺の横堀と櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.973075&lon=140.025946&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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矢子山城(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1927.JPG←山中に残る石垣
 矢子山城は、歴史不詳の城である。江戸後期の史書によれば、第12代伊達成宗が葦名勢の進入に備えて築いたとされるが、確証はない。元々この地は「石切山」の名の通り石の切り出しを行っていた土地で、江戸時代から昭和30年頃まで採石されており、地形の改変が多く、あまり城跡と認識されて来なかったらしい。20年ほど前に米沢市による2年に渡る発掘調査が行われ、その結果の考察としては、慶長期の上杉氏時代頃に築城途中で放棄された未完成の山城が、その後の採石によって破壊されたものではないか、とされている。もちろん異説も多く、依然として謎が多い。

 矢子山城は、標高457.1mの石切山の東側山腹に築かれた城である。まずこの城の地勢が特異である。普通ならば山頂の尾根筋に何らかの施設を設けるのが普通であるが、それが全く見られない。この位置のため、この城に行くには南側山麓から伸びる作業用林道からでは行くことが難しい。東側から伸びる小道を登っていくのが正解である。例によって道が途中で途絶するので、そこからは斜面直登である。
 山腹には多くの平場が段々に築かれ、その中に発掘調査報告書にもある小規模な石垣が散在している。石垣の脇にある堀切状の通路は、発掘調査の結果、そのほとんどが石切り場の道として改変されたものと判明している。こうした通路や、石切による大きな窪地など改変が多く、どこまでが城郭遺構か判然としない。しかし石垣は明瞭で、切り石による切込み接ぎが多い。城郭遺構と考えたいが、石切道の脇に虎口的に積まれているものが多く、純粋な城郭遺構と考えるにはやや割り切れなさがある。しかし石切時の土留としても位置・形状的に機能が不明で、後世の改変による石垣とも単純には考えられない。また石垣の脇には櫓台的な高台があり、城郭遺構と考えて良さそうな部分もあり、非常に判断が難しい。結局、どちらとも断定しかねるというのが正直なところである。
 尚、南北に長く伸びた城域の北半分は、途中にスズメバチがブンブンたかっていて、そこから先の踏査は諦めた。
 苦労した割に消化不良気味の城で、何より城郭遺構なのかどうかが明確に判断しがたいのが辛い。
石垣→IMG_1880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):-(城郭遺構と断定できないので採点なし)
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.923971&lon=140.058842&z=16&did=std&crs=1
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成島館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1793.JPG←神社背後の二重空堀
 成島館は、成島八幡神社一帯に築かれた館である。その歴史は不明であるが、成島八幡神社は777年に蝦夷討伐の為に下向した大伴駿河麿が建立したと伝えられる古社で、本殿・拝殿の造立・修理に関わる43枚もの棟札によれば、最も古いもので1300年の地頭長井宗秀に始まり、その後南北朝時代に長井氏を滅ぼして伊達氏が置賜を併呑してからは、伊達宗遠以下の伊達氏歴代当主の棟札、伊達氏以降では1621年の上杉景勝の棟札などが残る。これらのことから、先に神社が建立され、中世に入ってから神社守護の為に構築された防御施設と考えられ、その後時代の推移とともに根小屋・腰曲輪等を追造して臨時的な城郭機能を持つようになったものと推測されている。

 成島館は、前述の通り、成島八幡神社の鎮座する曲輪を主郭とした崖端城である。非常に特異な城館で、神社背後の土塁の裏にはなんと!二重空堀が穿たれている。この北辺の二重空堀は、西側で一本の広い水堀に変化している。主郭の西側には虎口が構築され、その外には馬出し小郭まで築かれている。馬出しの周囲も空堀で防御され、特に南側ではE字状の空堀を構築し、中間の土塁を障壁とした堅固な形を作っている。南下方が根小屋とされるが、藪もひどかったので未踏査である。神社や寺を城砦化した例は多いが、せいぜい単郭方形の城砦で、この成島館の様に二重空堀や馬出しまで備えた完全に城郭の形態となった城郭は珍しい。極めて異質な城館である。縄張りからすれば随時追造の手を加えながら戦国期まで使用されたと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.930741&lon=140.077896&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世崖端城
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舘山城 その2(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1771.JPG←発掘された枡形の石垣
 舘山城には2009年4月に訪れていたが、今回5年半振りの訪城である(あれからまだ5年かぁ・・・)。当時はまだ発掘調査も行われておらず未整備で、しかもネット上の情報もほとんど皆無に近かったので、まさに手探りでの訪城だった。今回は、かなり発掘調査と整備が進んでいた。

 まず、山麓居館部である東館は、入口に「私有地に付 立入り大歓迎」という謎の(笑)標柱が建ち、広い平地が綺麗に草刈りされている。井戸跡の発見場所などが石と標柱で表示されている。いずれ国指定史跡にするつもりらしいから、いずれ予算がついたら建物跡などの表示も追加されていくのだろう。奥の林の中には大手虎口があり、往時のものと思われる直線上の小さな土塁が確認できる。ここから主郭(現地解説板では馬出曲輪)まで登る大手道が整備されている。
東館と舘山城→IMG_1674.JPG

 城内は、標柱がかなり整備されて中世城郭初心者でもわかりやすくなっている。主郭(馬出曲輪)西端の枡形虎口は近年大々的に発掘調査が行われ、櫓門土塁の底部から石垣が発掘されていた。石垣の積み方から、上杉景勝時代(実際に舘山城に手を加えたのは米沢を領した執政直江兼続であったろう)に築き直された石垣と考えられている様だ。おそらく総石垣の櫓門を備えた枡形となっていたと思われる。その後、関ヶ原合戦後の上杉氏大減封の時に、徳川家康から各地の城の破却を命じられて、石垣が崩されたのだろう。ただ、発掘調査で石垣が出てきたのはいいが、裏込石と思われるこぶし大の川原石が、主郭内に大量に積まれていて、景観を損ねていた。ニノ郭(現地解説板では主郭)・三ノ郭(現地解説板では曲輪Ⅲ)は標柱こそ建っているものの、あまり整備されておらず、特に三ノ郭はほぼ以前の薮のままである。尚、三ノ郭内には「修法壇」とされる小塚があった。

 この他、舘山城には、北館と南館が山麓平場にあるが、北館は発掘調査後に埋め戻されて現在ではただの平場の様だし、南館は山林のままで道もあるかどうか分からなかったので(現地解説板によれば曲輪Ⅲの堀切裏から道があるらしい)、時間の制約もあって未踏査である。

 今後どんな史跡整備がされるか、注視していきたい。

DSC06880.JPG←未整備時の枡形虎口


IMG_1704.JPG←発掘後の枡形虎口

※注記 <曲輪の呼称に関する見解について>
 米沢市による過去の調査報告書と現在設置されている解説板縄張図では、先端の曲輪Ⅰを馬出曲輪とし、最大面積を有する曲輪Ⅱを主郭としている。これについて私は全く賛同できない。
 まず曲輪Ⅰを馬出しとする見解であるが、これは東館から伸びる大手道を強く意識して、主郭に対する前衛の馬出しと考えているのであろうが、普通の城の造りから考えれば、石垣まで巡らした壮麗な枡形虎口は曲輪の「入口」に造るもので、出口に造るものではない。まして石垣が曲輪Ⅱに向いて残っていることからすれば、必ず曲輪Ⅱから曲輪Ⅰに進入したはずである。そうでなければ、石垣による防御力向上と来城者に対する美観向上には寄与しないであろう。
 次に曲輪Ⅱが最大面積だから主郭とする見解。最大面積を有し、内部に庭園跡を推測される窪地が残っていることから考えれば、ここには迎賓館的な建物があったと思われる。しかしだからと言って、それが主郭ということにはならない。鉢形城では迎賓館・庭園は三ノ郭から見つかっている。また城における主郭とは、城主が戦いの際に最後に拠る場所であり、必ず要害性の高い曲輪となる。舘山城は山城とは言うものの、実質的には崖端城であり、その主郭は必ず先端に置かれるはずである(狭小な笹曲輪は別)。
 これらのことから考えれば、曲輪Ⅰが主郭で、曲輪Ⅱをニノ郭とするのが妥当と考える。
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笹野山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1644.JPG←一応堀切です
 笹野山楯は、歴史不詳の城である。伝承では、伊達氏家臣の遠藤兵庫が楯主であったと言われるが、確証はないと言う。
 笹野山楯は、笹野観音堂の背後の丘陵中腹に築かれた城である。観音堂の北側から山中に入る道が付いているので、左程苦労することはないが、かなり道の藪化が進んでいるので、夏場だと道がわからなくなる危険性がある。城内はものすごい薮で、遺構の状況は平場が広がっているということがわかるぐらいで、ほとんど確認することができない。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図がなければ、多分ほとんどわからないところだったろう。頂部に主郭を置き、そこから階段状に帯曲輪群を連ね、下方にニノ郭を置いている。はっきりわかるのは、ニノ郭前面の横堀と、主郭背後の土塁と堀切、更に数十m西の堀切ぐらいである。また主郭には小さな櫓台も備わっていた様である。城内を山道が貫通しているので、一部遺構が破壊されているが、逆にこの道がなければ、薮に阻まれて主郭や堀切に到達できないところだった。一応横堀・堀切はあるが、何しろ藪がひどく、技巧性もあまりない平凡な縄張りの城で、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.880288&lon=140.089998&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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前ノ在家楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1552.JPG←西出曲輪群の横堀と物見台
 前ノ在家楯は、歴史不詳の城である。伝承では、北麓に居館があったとされる卯の花対馬や、和地和泉守などを楯主とする説もある様だが、信憑性に乏しいとされる。いずれにしても城の形態から考えれば、伊達氏関連の城であろう。前ノ在家楯の峰続きの南方450mに中ノ在家楯があるが、前ノ在家楯との関連は不明である。

 前ノ在家楯は、標高420m、比高75mの峰に築かれた山城である。城域は広く、中央峰の主城部、西出曲輪群、東にやや離れた東出曲輪群の3つのブロックに分かれている。前ノ在家楯へは、中ノ在家楯から尾根を縦走して行くのがわかりやすい。440.8mの三角点を越えて暫く行くと小堀切があり、更に尾根を少々歩くと、いきなり目の前に中規模の三重堀切が現れ、ここから本格的な城域に入る。この三重堀切は、深さ4m程であるが一番内側のものだけ浅く、2.5重という印象の堀切である。主城部は2本の小堀切で3つの曲輪群に分けられ、南から順に三ノ郭群・ニノ郭群・主郭群と連なる。三ノ郭群は櫓台を備えた出丸的な曲輪で、東尾根にも堀切を穿っている。ニノ郭群は細尾根上の曲輪で幅が狭い。主郭群はやや広さがあり、多くの帯曲輪で囲まれている。主郭群と西出曲輪群との間は堀切で分断されているが、この堀切は城内通路を兼ねており、そのまま横堀状の武者走りに繋がっている。特に北側では横堀と堀切の合流点に物見台が築かれており、技巧的な構築となっている。西出曲輪群も3段程の環郭式の曲輪群で、西尾根に2本の堀切、北尾根に二重堀切ともう1本の堀切を穿っている。どちらの堀切群も一番内側のものは城内通路を兼ね、帯曲輪同士の連絡路となっている。西出曲輪群の北の尾根は物見的な曲輪だったと思われるが、北端が採石場となって削られてしまっている。一方、主郭群の東側にも堀切が穿たれているが、これも城内通路を兼ね、更に堀切に沿って小規模な畝状竪堀が穿たれている。伊達氏の城で畝状竪堀の例は少ないので、大した遺構ではないが貴重である。東尾根には前述の堀切ともう1本土橋付きの堀切があり、その先はしばらく尾根が続いた後、小堀切の先に東出曲輪群が築かれている。これも帯曲輪を何段にも築いた曲輪群だが、最上段の曲輪の削平はやや甘く、この辺になると普請がやや不徹底の様である。
 前ノ在家楯は、中ノ在家楯より普請の規模が大きく、畝状竪堀や通路兼用堀切を持つなどより技巧的な縄張りとなっている。
三重堀切→IMG_1470.JPG
IMG_1564.JPG←畝状竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.852033&lon=140.10974&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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中ノ在家楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1382.JPG←土橋の架かった大手の堀切
 中ノ在家楯は、歴史不詳の城である。近くに伊達氏家臣の但木左馬助の居館があり付近を知行していたことから、その関連の城とも考えられるが確証はない。城の形態から考えれば、伊達氏関連の城であったことは間違いないだろう。尚、峰続きの北側450mには前ノ在家楯が築かれているが、それとの関連も不明である。

 中ノ在家楯は、標高460m、比高100mの峰に築かれた山城である。城の手前の斜面に高圧鉄塔が建っており、その保守道が南東麓から伸びているので、城へは簡単に登ることができる。鉄塔から小さな横堀を越えると城域に入る。多数の段曲輪群で構成された城で、東郭群は外周の北面から東面にかけてを前述の小横堀で囲繞し、内部は多数の小段郭に分けている。段曲輪群の中央は城道となっており、その先に土橋の架かった小堀切があり、ニノ郭群に至る。ニノ郭も数段の曲輪で構成されているが、東郭群よりも面積が広い。ここから2段程の段曲輪を経由して頂部の主郭に至る。主郭は中央に櫓台を築いた比較的小規模なもので、大した居住性は持っていない。主郭背後には三ノ郭群があり、ここには中央に土塁が走り、左右の曲輪を分割している。その先に腰曲輪を伴った南端の櫓台があり、小堀切で背後の尾根と分断して城域が終わっている。一方、主郭の北尾根にも段曲輪群があり、その先をやはり小さな二重堀切で区画している。中ノ在家楯は、城域はそこそこの広さを持つが、まとまった広さの曲輪はあまりなく、また堀切などの各パーツの規模もやや小さい。しかし普請はしっかりしており、登り易さもあって中々楽しめる。
東郭の段曲輪群→IMG_1371.JPG
IMG_1407.JPG←北端の二重堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.848088&lon=140.110707&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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塩田城(山形県白鷹町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2675.JPG←四ノ郭切岸と腰曲輪
 塩田城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、1600年に菊池兵庫という武士が城主であったが落城したとされる。勢力圏としては米沢を本拠とした伊達氏、若しくは上杉氏の支配下であり、伊達氏か上杉氏が最上氏に対して築いた重要な城であったと推測される。

 塩田城は、国道348号線沿いにそびえる、標高406m、比高150mの山上にある城である。かなり広い城域を有する城で、山頂周辺の主城部から南尾根の出丸部まで、南北300m以上の長さを持っている。各曲輪も大きく、主郭・ニノ郭・三ノ郭の他、周辺を取り巻く腰曲輪や先端部の段曲輪などいずれも広い面積を持ち、かなりの兵数を駐留できる規模である。基本的には直線的な連郭式の縄張りで、北から順に四ノ郭・主郭・ニノ郭・三ノ郭が連なり、更に南の尾根にやや離れて南出曲輪が構築されている。主郭~三ノ郭は段差のみで区画されているが、主郭背後の四ノ郭との間だけ、小規模な堀切が穿たれて、高低差を増している。また四ノ郭周辺は防御構造が最も複雑で、腰曲輪だけでなく西側には横堀が廻らされ、そこから竪堀を落としたり、広い腰曲輪に櫓台を設けたりと防備に余念がない。また主要な曲輪から派生する尾根にはかなり広範囲に段曲輪群が築かれ、要所を堀切で分断している。これらの堀切はいずれも高低差が比較的大きく、最大のものでは高さ8m程の切岸がそびえている。登城した南出曲輪の尾根には、城の主要部からかなり離れた中腹部にも段曲輪群が築かれていた。塩田城は縄張り的には旧態依然としたもので、鷲城の様な大きな枡形虎口もなく、戦国期中頃までの遺構と思われるが、城の規模から考えてそれなりのまとまった兵力を置いた拠点城郭の一つだったのではないだろうか?縄張り的には伊達氏系城郭の特徴が見られることから、伊達氏が最上氏に備えて築いたものではないかと想像され、城の大きさを見ると伊達氏と最上氏の勢力の違いがよく分かる。
 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』に載っている縄張図は、かなり不正確であまり使えなかった。
四ノ郭外周の横堀→IMG_2679.JPG
IMG_2683.JPG←腰曲輪の櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.197286&lon=140.128705&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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水口楯(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2427.JPG←見応えのある三重竪堀
 水口楯は、歴史不詳の城である。水口十一面観音堂の裏にある、標高220m、比高30mの「楯山」に築かれている。伝承によれば、最上義光が八ッ沼城を攻撃した際、水口観音堂に一夜宿ったとも言われる。1600年の慶長出羽合戦の際には、鮎貝城を発した上杉軍の別働隊千人は、最上方の八ッ沼城に向かう途中、水口楯の前面の朝日川で八ッ沼城主望月隼人率いる最上勢の激しい抵抗に遭い、決死の突撃でようやく水口楯を抜いたと伝えられている。しかしこの後、上杉勢は八ッ沼城攻略にも手間取って時日を費やし、長谷堂合戦には間に合わなかったと推測されている。こうした歴史から考えると、水口楯は最上川西岸を通る街道筋と、その朝日川渡河点を扼する重要な城であったと思われる。

 水口楯は、現在「ときわ楯山歴史公園」となり、「常盤楯山を整備する会」によって綺麗に整備されている。山頂部に方形の櫓台を備えた小規模な主郭・ニノ郭を置き、東斜面に4~5段の腰曲輪を、また西斜面に帯曲輪と、川沿いの台地上に広い三ノ郭を置いている。ニノ郭の北側は堀切状の虎口空間となっていて、ここから東西の曲輪に城道が伸びている。この虎口の北側の土塁の向こうには、見応えのある三重堀切が穿たれ、そのまま東と西の斜面に長い竪堀となって落ちている。この三重堀切の北側も削平された外郭で、低い土塁が築かれている。城の北限は堀切も何もないのではっきりしないが、丘陵地の先に物見台状の高台があり、そこまでが城域だったと思われる。小規模な城であるが、西北西1.2kmの位置にある太郎楯にも長大な三重堀切があり、縄張り面での共通性を感じさせ、築城主体が水口楯と同じであったことを伺わせる。
手前から堀切状虎口・ニノ郭・主郭→IMG_2505.JPG
IMG_2514.JPG←水口楯の遠景
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.286106&lon=140.122326&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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真木山城(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2381.JPG←土塁で囲繞された空堀
 真木山城は、この地の領主大谷氏の本城である。東方に秋葉山楯と猿田楯の2つの出城を築いて防備を固め、平時の居館はこの3つの城を頂点とする三角形の中心付近にあったものと推測されている。真木山城主大谷彦次郎元秀は、血縁関係にあった寒河江大江氏が1584年に最上義光に攻め滅ぼされた時、最上氏に降らず、元秀は平塩池之坊に亡命し、家臣達は帰農したと言う。真木山城はこの時廃城になったと思われる。

 真木山城は、大谷川とその支流に挟まれた山地を利用して築かれた城で、西の山頂部から東麓に向かった緩斜面上に、階段状の多数の曲輪群を築いている。大きく3つの曲輪群に分かれており、下から順に三ノ郭群・ニノ郭群・主郭群で構成されている。まず三ノ郭群は、東斜面に広く展開する曲輪群と、南東に一段高く派生する尾根上に展開する曲輪群の2つに分かれる。東斜面の曲輪群は、前面に長さ90mの二重横堀を穿って下方からの接近を防いでいる。その上は小さな段差で区画された曲輪が多数配置されているだけである。南東尾根の曲輪群は、最上部に意図不明の「ト」型の土塁があり、細尾根上に段曲輪群が連なっている。ここからは東斜面の曲輪群が一望でき、土塁や物見台としても機能した曲輪群であったと思われる。この曲輪群の先端部は、土塁で周囲を長方形に囲まれた空堀があり、内部には井戸跡が残っている。これは類例の少ない、珍しい構造である。更にその外側には二重堀切が穿たれて、前述の空堀からこの堀切に向かって虎口が開いており、右側の土塁上の隅櫓台から横矢が掛けられている。次にニノ郭群であるが、これも段差で区画された曲輪群が展開しているだけである。最上段には櫓台があり、その背後には二重堀切が穿たれている。この堀切は、側方中央部の土塁を削り残して二重竪堀にして落とす珍しい構造で、京塚楯藤沢楯石堂山楯で見られるものと同様の形である。この上には主郭群がある。主郭群は小さな曲輪で構成された詰丸で、前衛小郭の後ろに小堀切があり、その先に2段の曲輪がある。途中の物見台と思われる部分には櫓台入口らしい窪みがある他、主郭上段曲輪の虎口部分は幾重にもクランクした枡形構造となっていた様である。しかしいずれもささやかな遺構で、規模は小さい。この他、主郭部から派生する3つの尾根には小堀切が穿たれている。以上の様な遺構で、三ノ郭群前面の空堀以外はちょっと見所が少なく、おまけに全体に笹薮が繁茂し、遺構の確認が難しい城である。
堀切側方の二重竪堀→IMG_2319.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.342378&lon=140.155322&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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睦合楯(山形県西川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2260.JPG←主郭背後の空堀
 睦合楯は、歴史不詳の城である。隣接する長登楯が白岩備前守光広の治める楯と伝えられるところから、睦合楯も白岩氏の支城であったと考えられている。
 睦合楯は、睦合小学校背後の標高236mの丘陵上に築かれていたが、山形自動車道の建設により遺構はほとんど破壊されてしまっている。しかし、地形図と『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図とを照合すると、遺構の一部が残っている可能性があったので、一縷の望みに賭けてダメ元で訪城した。その結果、主郭は山形道が貫通して破壊されていたが、主郭背後の空堀の西半分が残存しているのが確認できた。この空堀は深さ4m程あり、単純な1条の堀ではなく、台地基部側に2つの小空堀を階段状に連ねて、変則的な三重空堀とした構造となっている。この他には主郭手前に腰曲輪群があったようだが、前述の通り既に湮滅している。しかしわずかでも堀跡がしっかりと残っていたのには感激した。尚、登道はないので、高速脇の側道を通り、城の東側の低地から斜面を直登して訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.421086&lon=140.180549&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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神楽楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2144.JPG←二重堀切
 神楽楯は、歴史不詳の城である。国の重要文化財となっている水上八幡神社背後の、標高52m、比高31mの丘陵先端部に築かれた城である。神社参道には神楽楯の縄張図が掲示されており、神社本殿の脇から登道が整備されているので、簡単に訪城できる。数状の堀切で尾根筋を分断した連郭式の縄張りで、尾根に沿って「く」の字型に曲輪を配置している。主郭・ニノ郭は先端部にあり、主郭と二ノ郭の間は段曲輪や腰曲輪を経由して連絡している。主郭背後には櫓台が築かれ、その先に堀切が穿たれている。この堀切の両側は主郭両翼に伸びる帯曲輪に繋がっているが、堀底が曲輪に繋がる形状はこの地域の城では珍しい。これは伊達氏系の城によくある構造である。この堀切に背後の尾根は物見の曲輪に連なり、その背後は二重堀切で分断されている。更にその先にも物見台があり、堀切と横堀で防御されて城域が終わっている。比較的単純な縄張りだが、堀切は中規模でしっかりと穿たれ、遺構は良好に残っている。尚、麓には楯川原の地名が残っている。
主郭の櫓台→IMG_2187.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.701589&lon=139.743274&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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出張坂城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2108.JPG←わずかに残る小丘
 出張坂城は、清水城とも言い、庄内平野と越後を結ぶ街道の出入口に位置する要衝である。背後の丘陵上に栗楯を置き、両城一体となって機能したと考えられている。出張坂城の北方4kmには尾浦城が位置し、西方5kmに大宝寺城(鶴ヶ岡城)があり、重要な位置を占めていた。その為度々合戦の舞台となった。出張坂城は古くからあったと推測されているが、本格的に整備されたのは大宝寺(武藤)義氏の時と考えられている。1571年、藤島城主土佐林氏は、尾浦城主大宝寺義氏と対立して攻撃され、土佐林氏の一党が出張坂城・栗楯に立て籠もって全滅したと言う。その後、大宝寺氏の持ち城となり、義氏の養子義勝が佐藤備中守と共に出張坂城に在城した。1580年に義氏が最上義光の後援を受けた前森蔵人(東禅寺筑前守義長)に攻め滅ぼされて、庄内が最上氏に制圧されると、義勝は実父本庄繁長のいる越後に逃れた。1588年、上杉景勝の意を受けた繁長は、義勝と共に庄内に大挙侵攻し、最上勢に打ち勝って庄内を制圧して上杉領に併合した。1600年の慶長出羽合戦では、大滝八左衛門・佐藤備中守が守る出張坂城は、上杉軍敗走の後、余勢を駆って庄内に侵攻した最上勢によって攻め落とされた。その後、最上氏の持ち城となったが、1615年の一国一城令で廃城となった。

 出張坂城は、庄内平野に突き出た丘陵上の城であったが、現在は国道7号線が貫通し、鶴岡鉄鋼団地に変貌しており、地形はもはや原型を留めないほどに改変されている。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、往時は起伏のある丘陵地だったらしく、先端部に主郭があったらしい。現在では、国道の北側にわずかに削り残された小丘が残るだけである。

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.718416&lon=139.768636&z=16&did=std&crs=1
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栗楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2096.JPG←「栗楯」の曲輪群と堀切の遠望
 栗楯は、庄内での合戦において度々戦場となり落城の憂き目を見た城である。前方に築かれた出張坂城と共に、両城一体となって機能したと考えられている。1571年、藤島城主土佐林氏は、尾浦城主大宝寺(武藤)義氏と対立して攻撃され、土佐林氏の一党が出張坂城・栗楯に立て籠もって全滅したと言う。その後、大宝寺氏の持ち城となり、義氏の養子義勝が佐藤備中守と共に出張坂城・栗楯に在城した。1580年に義氏が最上義光の後援を受けた前森蔵人(東禅寺筑前守義長)に攻め滅ぼされて、庄内が最上氏に制圧されると、義勝は実父本庄繁長のいる越後に逃れた。1588年、上杉景勝の意を受けた繁長は、義勝と共に庄内に大挙侵攻し、最上勢に打ち勝って庄内を制圧して上杉領に併合した。1600年の慶長出羽合戦では、板垣主膳・田沢氏が守った栗楯は、上杉軍敗走の後、余勢を駆って庄内に侵攻した最上軍によって攻め落とされた。

 栗楯は、標高60m、比高40mの丘陵上に築かれた城である。山頂部を「楯の山」と言い、西に伸びる尾根先端部の遺構群を「栗楯」と呼ぶとされる。しかしそれ以外にも、堀切で分断された尾根毎に曲輪群が展開し、大きく4つ程の区域に分かれていた様である。この内、東の出丸には峯龍神社があり、北西の出丸には月山神社が鎮座している。神社付近だけは薮が切り払われて遺構が確認でき、峯龍神社の手前には段曲輪や浅い堀切が確認できる。しかしそれ以外は高藪が密生しており、とてもじゃないが突入出来る状態ではなく、踏査は断念した。それでも西尾根の「栗楯」部分の曲輪や堀切、また主郭の「楯の山」と東出丸とを分断する大堀切が遠目に見え、朧げながら縄張りの雰囲気が掴める。住宅地に近い里山なので、もう少し手入れしてもらえるとありがたいのだが。
「楯の山」~東出丸間の大堀切→IMG_2095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.714222&lon=139.764787&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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広浜楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2012.JPG←畝状竪堀
 広浜楯は、大宝寺氏(武藤氏)の家臣弭間(はずま)九郎右ヱ門の居城である。しかし詳細な歴史は不明である。

 広浜楯は、大谷集落背後の標高120m、比高60m程の丘陵上に築かれた城である。比高が低いので、簡単に登ることができる。私は大谷集落の光明院の南にある小さな神社の背後の斜面を直登した。途中、城道を思わせる道跡が残っており、城の北西の尾根上に辿り着いて城に向かって行くと、物見台と思われる小丘を経由し、その先に土壇と堀切が築かれている。その上はもう主郭である。主郭は先端部に土塁があり、その先に腰曲輪2段を伴っている。その先は堀切が穿たれて、両側を竪堀で落としているが、堀切先の土壇を取り巻くようにV字状に穿たれている。この堀切のすぐ東側に隣接して畝状竪堀が穿たれている。しっかり普請された、比較的大きな畝状竪堀で、竪堀群の一番東側は東尾根との間を二重堀切で分断し、そこもV字状に竪堀を両側に落としている。一方、主郭背後は堀切を介して方形のニノ郭が続き、その先も堀切で尾根を分断している。以上が遺構の概要で、やや広めの主郭とニノ郭に腰曲輪を組み合わせた比較的小規模な城であるが、堀切と畝状竪堀が効果的に組み合わせられており、縄張りは技巧的である。またいずれの堀切もしっかり穿たれた中規模のものである。この他に北に伸びる尾根に出丸もある様だが、時間の都合で未踏査である。

 尚、訪城した際、主郭に近づくと雉か何かの鳥がギーギー鳴いて羽をバタつかせる音がし、主郭でこちらを威嚇していたが、優しく話しかけると鳴きやんで静かになった。野生動物でも、話しかけると意図が通じて攻撃してこないという話を聞いたことがあるが、実際に通じたのは面白い経験だった。
主郭北西の堀切→IMG_2061.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.694746&lon=139.730333&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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関根城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1957.JPG←主郭群背後の二重堀切
 関根城は、最上軍が上杉軍の庄内侵攻に対抗した城である。戦国末期、庄内の大宝寺氏(武藤氏)を攻め滅ぼして、一旦は庄内を手中に収めた最上義光であったが、義光に滅ぼされた大宝寺義興の養子義勝の実父本庄繁長は、1588年、上杉景勝の意を受けて庄内に侵攻した。この時最上勢は、関根城に立て籠もって防戦したが落城し、城主樋野左衛門尉は討死した。こうして最上方の諸城を撃破した本庄繁長・大宝寺義勝親子の率いる上杉軍は、中山玄蕃・東禅寺筑前守率いる最上軍と十五里ヶ原で激突し、本庄軍の猛攻の前に最上軍は大敗を喫した。続く黒瀬川合戦でも最上軍は大敗して庄内より撤退、最上義光は完全に庄内を失う事となった。

 関根城は、大山川西岸にそびえる標高252.7m、比高173mの山上に築かれた城である。東麓の関根集落背後の台地上に居館跡と推定される3段程の平場があり、最上段南側には虎口の開いた土塁が築かれている。ここから尾根筋を藪と格闘しながら登って行くと、途中にも小さな枡形状の木戸口や小郭があり、堀切・腰曲輪を経由して城域北端のニノ郭群に到達する。ニノ郭はほぼ方形の曲輪らしく、外周に腰曲輪が取り巻いており、北西尾根に1本の堀切が、また北東尾根には三重堀切が穿たれている。この三重堀切は結構規模が大きく、この方面の尾根筋を厳重に遮断している。北端のニノ郭から最上部の主郭までは段曲輪群が連なり、かなり南北に長い城域となっている。ただ主郭も含めていずれの曲輪も小さな平場で、多くの兵を籠められる規模ではない。主郭の背後にも細尾根上の曲輪が続き、大きな二重堀切が穿たれている。この堀切は、中間に低い土塁状の阻塞を設けた山形に多い形状で、規模は大きいが切岸の傾斜が緩く、鋭さは余り感じさせない。この背後にも曲輪が続く様だが、薮が密生しており、未踏査である。全体に藪がひどく、遺構の確認が大変である。尾根筋は堀切で防御しているものの、ひたすら段曲輪を連ねただけの縄張りで、戦国末期に戦場となった城にしては遺構に物足りなさを感じる。
主郭→IMG_1945.JPG
IMG_1907.JPG←ニノ郭北東尾根の三重堀切の一部
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.666335&lon=139.73597&z=16&did=std&crs=1
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砂谷楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1830.JPG←主郭北斜面の畝状竪堀
 砂谷楯は、歴史不詳の城である。砂谷には加賀国安宅関守であった富樫左衛門尉の開村伝説があるというが、元より単なる伝説に過ぎない。現在残る遺構から考えれば、戦国後期に大宝寺氏(武藤氏)か最上氏による構築であろう。

 砂谷楯は、砂谷川上流部の標高280mの山上に築かれている。南斜面から直登すると、先端部の物見郭に到達する。腰曲輪を伴った前衛郭群である。その先に二重堀切と細尾根の先にもう1本中規模の堀切が穿たれて、ニノ郭に至る。ニノ郭から1段腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭は北側から東側にかけて高さ3m程の土塁が廻らされ、中間部に櫓台を伴っている。また主郭背後は大きな堀切が穿たれ、更に細尾根上の三ノ郭の先に小堀切があって城域が終わる。この城で特徴的なのは、主郭後背部とニノ郭西側に穿たれた畝状竪堀で、特にこの城独特なのは、ニノ郭や主郭の下方に物見台状に張り出した独立堡塁があり、その基部を堀切や二重横堀で穿ち、更にこの独立堡塁の上面から三重竪堀が落ちていることである。また畝状竪堀は比較的規模が大きくしっかりと普請されている。前述の堀切もいずれも中規模でしっかり普請がされ、比較的斜度の緩い斜面に畝状竪堀を配置した縄張りは、極めて合理的である。曲輪内は藪が多く見通しは余り効かないが、見応えのある遺構である。
主郭背後の堀切→IMG_1833.JPG
IMG_1807.JPG←独立堡塁に刻まれた横堀・竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.66116&lon=139.764206&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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蛇ノ口楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1720.JPG←二重横堀
 蛇ノ口楯は、奥州の名族伊達氏の家臣、須藤備中守の夏館と言われている。北側山麓に冬館とされる樋口館があり、蛇ノ口楯と一対となって機能したと考えられる。
 蛇ノ口楯は、羽黒川南岸にそびえる標高490m、比高170mの山上に築かれている。城への道は途絶しており、西の谷戸の林道から、適当な斜面に取り付いて直登した。蛇ノ口楯は、V字型の尾根に沿って曲輪群を展開した縄張りで、大きく東曲輪群と西曲輪群、更に東曲輪群の北東端に位置する物見郭群に大別される。いずれの曲輪も小規模で、しかもどの曲輪も削平が甘く、切岸も不明瞭で、かなり漠然としたイメージの城である。大手は西の谷筋からの道らしく、小規模な枡形虎口が構築され、この斜面に沿って二重横堀が穿たれて防御が固められている。また西曲輪群の先端西側にも小さな横堀が廻らされている。V字の接点に当たる場所には櫓台が築かれ、手前に1本、背後に前述の二重横堀から繋がる二重堀切で尾根筋を分断している。また北東端の物見台は、腰曲輪に取り巻かれた曲輪群を構成している。全体としてはパッとしない印象の城で、二重横堀・堀切だけが唯一の見所である。

 尚、夏館・冬館という置賜地方独特の呼び名があるが、雪深い置賜では山城は冬には機能させられず、麓の居館に本拠を置いたことによるのだろう。
西尾根の曲輪群→IMG_1693.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.855834&lon=140.153236&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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三沢楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1674.JPG←東斜面の横堀
 三沢楯は、伊達氏の家臣富沢飛騨守の居城である。築城時期は明確ではないが、現在残る遺構から1580年前後の伊達輝宗期の城と推測されている。豊臣秀吉による奥羽仕置によって、伊達氏が岩手山へ移封になると、富沢氏も同行してこの地を離れ、そのまま廃城になったと考えられている。
 三沢楯は、羽黒川東岸の比高60m程の丘陵上に築かれた城である。小規模な城で、南北に曲輪を連ねた連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪や横堀を廻らせている。南側の腰曲輪には蔵王神社の祠がある。山上は主郭の北に伸びる尾根に、わずかな段差で区切られた曲輪が連なり、その先に堀切がある。この堀切の東側に落ちる竪堀には土塁が並走し、二重竪堀の様になっている。この堀切の北尾根にも曲輪があるらしいが、後世の改変と薮でよくわからない。一方、前述の堀切から東の斜面には2段の小規模な横堀が穿たれて、主城部の側面を防御している。この横堀の真ん中辺りには土橋が掛かり、上の曲輪に繋がる城道となっていた様である。三沢楯は、神社の参道もあり、比高も低いので簡単に訪城できるが、城内は比較的草薮が多く、遺構が小規模なため確認し辛い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.869118&lon=140.152482&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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鷺城(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1576.JPG←主郭大手の枡形虎口
 鷺城は、歴史不詳の城である。広義の鷺城は、背後の早坂山に築かれた早坂山楯を含む城砦群ともされる。1804年の『米沢地名選』によれば(1)戸板山館、(2)土肥館、(3)大津土佐守、(4)鷺ヶ城、(5)鷺館の5通りの名称があり、城主についても(1)土肥備中守、(2)土肥単多備中守、(3)大津土佐守、(4)小梁川泥藩の4名が記されており、判然としない。近年の考証では、(1)戸板山館→(2)土肥単館→(3)鷺ヶ城、という様に何段階かの変遷を経て築城されたと推測されており、初期の城郭として早坂山楯が築かれ、後に中腹に土肥備中守が土肥単館を築き、更に後に小梁川泥藩が土肥単館を拡張改修し、南北両翼に根小屋を配した山城としたとの説が提示されている。
 尚、この様な複雑な経緯から、早坂山楯を鷺城の第1山城とし、本項で紹介する中腹の鷺城を第2山城とする見解もある。

 鷺城は、羽黒川の東岸にそびえる標高340m、比高80mの丘陵上に築かれた山城である。背後にそびえる早坂山から西に伸びる尾根上に位置している。狭小な曲輪群で構築された旧態依然とした縄張りの早坂山楯とは、明らかに異なる築城思想で作られた大型の城である。主郭を始めとする曲輪はいずれも広く、山頂の主郭を中心にして三方に伸びる尾根上に配置されている。尾根筋にはそれぞれ規模の大きな堀切が穿たれ、特に城内最大となる主郭東側の堀切は、深さ8m幅15m程にも達する。またこの堀底の両側は腰曲輪に繋がり、それぞれ堀底道との間に枡形虎口(木戸口)を設けている。主郭の大手にも大きな枡形虎口が築かれており、立派な櫓門が建てられていたと思われる。この他、南東麓谷戸に築かれた第2居館とされる根小屋に向かっては、曲輪の外周下方に長大な横堀が穿たれて根小屋側からの敵の接近を防御している。ここの横堀の構造も結構複雑で、上方で櫓台が睨みを効かせた枡形虎口を備えたり、南尾根曲輪群の堀切と横堀を組み合わせたりするなど、技巧的な構造が随所に見られる。鷺城は、早坂山楯とは明らかに普請の規模と構造が異なり、大型の堀切と枡形虎口が随所に築かれた城で、近世城郭にも匹敵する戦国末期の最新鋭の縄張りである。遺構から見る限り、おそらく伊達輝宗・政宗期の拠点城郭であったと考えられ、大型の端正な枡形虎口や大規模な堀切など、舘山城とも共通点が垣間見られる。
主郭東側の大堀切→IMG_1443.JPG
IMG_1541.JPG←曲輪外周の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.886379&lon=140.150612&z=16&did=std&crs=1
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早坂山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1335.JPG←城内最大の堀切
 早坂山楯は、歴史不詳の城である。鷺城の第1山城とする見解もあり、位置付けも明確ではない。早坂山楯を含む鷺城は、1804年の『米沢地名選』によれば(1)戸板山館、(2)土肥館、(3)大津土佐守、(4)鷺ヶ城、(5)鷺館の5通りの名称があり、城主についても(1)土肥備中守、(2)土肥単多備中守、(3)大津土佐守、(4)小梁川泥藩の4名が記されており、判然としない。近年の考証では、何段階かの変遷を経て築城されたと推測されており、早坂山楯は初期の城郭として、山頂の早坂山に築かれた山城と山麓の根小屋から構成されていたものと考えられている。この初期形態の城が『米沢地名選』に言う、戸板山館と城主大津土佐守であろうとされる。

 早坂山楯は、羽黒川の東岸にそびえる標高502.8m、比高233mの早坂山山頂部に築かれた山城である。第1居館とされる西側の谷戸から登ったが、明確な道はなく、適当に斜面を登って尾根筋に出て、そこから尾根伝いに登城した。尾根までの登攀は大変だが、尾根にさえ出てしまえば藪も少なく踏み跡が残っているので、城までは楽に辿り着ける。最初に虎口があり、そこから腰曲輪を経由して城域に入る。おびただしい数の帯曲輪群で構成された城であるが、一つ一つの曲輪は小さく削平も明確ではない。主郭やニノ郭といった主要な曲輪は、数段の複数の郭群で構成されているらしい。特に防御が厳重なのは主郭群で、その入口郭は土塁で虎口を防御し、後ろに櫓台を備えた囲郭となっている。その先に三角点のある主郭群最上部の曲輪となるが、いずれにしても数名しか籠もれないような小さな曲輪である。主郭群の背後尾根にも三ノ郭群と思われる曲輪群が連なり、そこには中・大・小・中と4つの堀切が曲輪を挟んで穿たれている。最も大きい2つ目の堀切は深さ5m程あるが、鋭さは余り感じさせない。早坂山楯は、堀切の規模から考えて戦国期の遺構と思われるが、縄張りは旧態依然としたもので、戦国後期には西麓の鷺城に主体が移ったと考えられる。
主郭群入口郭の土塁→IMG_1278.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.88836&lon=140.155954&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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原田館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1194.JPG←わずかに歪んだ堀跡
 原田館は、地元の伝承によれば、伊達氏の家臣原田甲斐の居館であったとされる。しかし原田氏との繋がりは文献的にも乏しく、実証できないと言う。
 原田館は、方形の主郭と周囲を囲むニノ郭から成る、環郭式の平城に近い居館である。住宅地の横に残る山林の中に遺構が眠っており、それほど薮がひどくないので、簡単に訪城することができる。主郭とニノ郭のほぼ全周の土塁と堀が残っている。しかし規模は大したものではなく、土塁は低く、堀も埋もれているのかかなり浅い。ニノ郭南東の虎口にはわずかに櫓台らしき土壇も確認できる。しかし全体の面積も大きくはなく、いずれにしてもささやかな遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.905056/140.157115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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