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古城めぐり(埼玉) ブログトップ
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老袋城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07793.JPG←城址推定地付近の現況
 老袋城は、歴史不詳の城である。『新編武蔵風土記稿』によれば、戦国時代に道祖土下総守が、小田原の北条氏康から康の一字を賜って康成と名乗り、老袋城に住んだとされているが、明証はない。その他、河越夜戦の際に、古河公方足利晴氏がこの付近に陣を構えたとされており、老袋城の地が「御所」とも呼ばれることから、晴氏の陣所があったという見解も出されている様だ。
 老袋城は、荒川と入間川の合流点から1.5km程上流の入間川西岸の地にあったと考えられている。推定地は、氷川神社付近とされているが、明確な遺構は確認できない。神社東の民家一帯は微高地となっており、遠目に見ると城跡っぽくは見える。HP「そこに城があるから」の聞き取り調査ではもう少し北にあった可能性も指摘されており、城址位置も確定はしていない謎の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.929041/139.533094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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福岡城(埼玉県ふじみ野市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07773.JPG←城址の現況
 福岡城は、単に「城山」とも呼ばれ、小田原北条氏の家臣富永善左衛門の居城と言われている。富永氏は、伊豆の土肥に本領を持つ豪族で、北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に侵攻した際、早い段階で宗瑞に従った功から、伊豆衆と伊豆水軍を率いる重臣の一人となった。その事績は、高谷城の項に記載する。善左衛門は、江戸城代となった富永三郎左衛門尉政直の甥と言われる。これほどの家格の武将を入部させたことから推測して、福岡城は北条氏綱が扇谷上杉氏から河越城を奪取して間もない頃に、河越城を防衛する支城であったと共に、荒川水系の水運を扼し、下流の江戸城との兵站線を確保する拠点であったと思われる。

 福岡城は、現在はただの水田の平地と一部は城山公園となっており、遺構はほぼ湮滅している。一部に堀跡のような畑や土塁らしき土盛もあるが、改変が進んでいるため俄に遺構とは判断できない。城の鬼門に当たる場所には、現在天神社が鎮座し、そこに解説板が建っている。解説板が建てられているだけでも、嬉しいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.874846/139.546891/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中丸城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07760.JPG←神明神社付近
 中丸城は、この地の土豪春日氏の居城とされる。南北朝期の1352年に、春日行元が足利尊氏からこの地を賜り、中丸城を築いたと言われている。戦国時代になると、春日兵庫助景定が岩槻城主太田資正に属し、岩槻城が小田原北条氏の属城となると、その支配下に入った様である。それ以外の歴史は不明である。
 中丸城は、現在の神明神社付近にあったとされている。付近一帯は市街化が進み、神社周辺だけ周囲より一段高い空き地となっている他は、遺構らしきものは確認できない。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、この付近は低湿地帯に北西から突き出た半島状の台地の上に当たり、台地先端部の林を囲む様に堀跡のようなものが確認できる。もしこれが往時の城跡だとすると、主郭は神社より200m程南西に位置していた様である。そこは南風台と呼ばれる一面の住宅団地で、往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.911907/139.659137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     (推定主郭位置)
タグ:中世平山城
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真鳥山城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07752.JPG←城址碑の建つ日向不動堂
 真鳥山城は、鎌倉幕府創業の功臣畠山重忠の家臣であった真鳥日向守の居城と言われている。現在の日向不動堂付近が城跡とされているが、周囲よりやや高い微高地であるほかは周囲一帯が市街化され、遺構は全く確認できない。しかし不動堂の前には立派な城址碑が建ち、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.864552/139.629546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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太田窪堀之内館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07741.JPG←祠の後ろに残る土塁状の土盛
 太田窪堀之内館は、木内氏館とも呼ばれる。伝承によれば、平安末期に佐々木盛綱の陣所となったと言うが定かではない。戦国時代に入って、千葉国胤(邦胤か?)が家臣木内右衛門をこの地に入れ、その居館となったと言われている。
 太田窪堀之内館は、浦和競馬場のすぐ東に隣接する、緩やかな丘陵地に築かれている。現在は民家や公園に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、低湿地帯に三方を囲まれた、半島状の小台地に築かれていた様である。頂部は千葉家の宅地となり、周囲には土塁状の土盛が見られるが、これは車道建設時の改変によるものと思われる。一方、丘陵西裾の公園にも祠の後ろにも土塁状の土盛があるが、こちらは遺構の可能性がある。頂部の民家と公園の土塁はやや離れており、どのような縄張りだったのか想像するのは、現状からでは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.857457/139.674028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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領ヶ谷城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07726.JPG←城址付近の段丘
 領ヶ谷城は、源頼朝の側近佐々木盛綱にまつわる城と伝えられている。即ち1180年、頼朝が挙兵した際、盛綱は領ヶ谷城に拠って軍兵を催促したと言われている。室町時代には、佐々木持清が領ヶ谷城主であったとされるが、詳細は不明である。
 領ヶ谷城は、藤右衛門川の北岸の段丘上に築かれた城で、現在は市街化によって遺構は完全に湮滅している。「領ヶ谷」とはおそらく、「龍ヶ谷」と同じく「要害」の転訛であろう。城址とされる場所には、現在「幸楽園」といううなぎ屋さんが建っている。周辺は急な坂道が通る起伏の多い土地で、遺構はないが往時の雰囲気は地勢の中に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.850066/139.682633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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本郷城(埼玉県川口市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07715.JPG←城址とされる傑傳寺
 本郷城は、『新編武蔵風土記稿』によれば扇谷上杉氏麾下の名将太田道灌が築城したと伝わる城である。戦国時代後期には、道灌の曽孫太田備中守輝資が小田原北条氏に仕えて、本郷城に住したとされる。その他の歴史は不明である。
 本郷城は、傑傳寺の付近にあったとされている。この地は、比較的急峻な斜面に囲まれた高台の頂部に位置しており、同じ太田道灌が築城した稲付城によく似た選地である。傑傳寺の南側には民有地の雑木林があり、急峻な斜面上にある平場のようなので、何かしらの遺構がありそうな雰囲気である。それ以外は市街化で改変されており、城の雰囲気を感じさせるものは残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.827956/139.759365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大相模氏館(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07710.JPG←わずかに残る南西角の土塁
 大相模氏館は、武蔵七党野与党の一流、大相模氏の居館である。大相模氏はまた、房総3ヶ国で叛乱を起こした平忠常の7代目の支族でもある。次郎能高の時、この地に入部して大相模氏を称した。以後、この地に土着して子孫は連綿と続き、江戸時代中期の1729年に中村と改姓して今に至っていると言う。
 大相模氏館は、現在その子孫中村家の宅地となっているが、わずかに南西部に土塁が残っている。以前は外周に堀跡も残っていたらしいが、現在では道路拡張などによって埋められてしまったらしく、堀は確認できない。改変を受けているものの、現在まで連綿と家系が続いているというのもすごいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.885712/139.815799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大河戸氏館(埼玉県松伏町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07700.JPG←館跡と推測されている神明神社
 大河戸氏館は、藤原秀郷の後裔とされる大河戸氏の居館である。大河戸行方(下総権守重行)を祖としている。その子、大河戸太郎広行・次郎秀行(清久氏)・三郎行元(高柳氏)・四郎行平(葛浜氏)の4兄弟は、1181年、三浦義澄に伴われて源頼朝に伺候した。大河戸氏を継いだ嫡子広行は、源義経の一ノ谷の合戦に17人の武将の一人として参戦し、その後、三河守範頼率いる平家追討軍にも参戦した。また広行は、三浦義明の娘(義澄の妹)を妻としており、鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の縁戚であったことから、大河戸氏も有力御家人に成長した。その後、1258年まで一族の名が幕府の行事に参列していることが見受けられるが、その後の事績は不明となる。おそらく新恩給付の地に移ったものと推測されている。
 大河戸氏館は、光厳寺の南東に位置する大河戸神明神社付近にあったと推測されている。この地は、古利根川東岸の平地の中でも微高地となっている。しかし明確な遺構は確認できない。尚、光厳寺には鎌倉後期に造られ、現在県の指定史跡となっている「帰依仏塔」(板石塔婆)が残り、大河戸氏の足跡を残しているものと考えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.938301/139.817312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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佐枝氏館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07669.JPG←龍門寺に残る土塁
 佐枝氏館は、小田原北条氏の重臣佐枝若狭守秀成の居館である。佐枝氏は、宇多源氏佐々木氏の一流と言われ、秀成の時に北条氏康に仕えて岩槻城に配された。1550年に出家して、居館の中に龍門寺を創建した。その嫡子若狭守植行も北条氏に仕え、引き続き岩槻城防衛の一翼を担ったが、1590年の小田原の役の際、豊臣・徳川連合軍2万の大軍に囲まれた城兵2千足らずの岩槻城に於いて、新曲輪に詰めて死力を尽くして戦い、討死した。城を脱出して生き延びた、植行の幼い嫡子種長は、母宝樹院と共に徳川家康に保護され、長じて後、尾張徳川家の家老となり、以後徳川御三家の筆頭家老の家柄として幕末まで存続した。

 佐枝氏館は、佐枝若狭守秀成が開基となった龍門寺の境内に変貌している。岩槻城外郭のすぐ外側に位置することから、城の防衛陣地の一つとして機能したと考えられる。現在、本堂の周囲に土塁が残っているが、寺の掲示資料によれば、これは小田原の役の際に築かれたものだとされる。それ以外には遺構はなく、堀跡も残っていない。尚、境内には佐枝氏の墓の他、江戸時代中期に9代将軍徳川家重の側用人となって幕政を主導した岩槻城主大岡忠光の墓も残っている。遺構はわずかであるが、掲示物や解説も多く、見所が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.960275/139.696344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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江ヶ崎城(埼玉県蓮田市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07651.JPG←江ヶ崎城の石碑
 江ヶ崎城は、歴史不詳の城である。城主は、伝承では新羅三郎義光の子孫或いは家臣とも言われ、武蔵七党野与党の鬼窪尾張守繁政とも言われるが定かではない。発掘調査の結果からは、発掘された遺物などから鎌倉時代後期の築城と推測されている。
 江ヶ崎城は、現在「瑞穂団地」という住宅団地に変貌しており、遺構は湮滅している。日本城郭大系によれば、かつては回字状に二重の空堀を巡らした環郭式の平城で、その形状は空中写真閲覧サービスの昭和20年代の航空写真でもはっきりと捉えられている。わずかに城の南の民家前に建つ立派な石碑だけが、城があったことを伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.997417/139.686238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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高野城(埼玉県杉戸町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07636.JPG←城址?の藪山
 高野城は、古河公方の重臣幸手一色氏の支城である。伝承では、1362年に因幡前司藤原長福という武士が田宮庄近郷を領し、高野浅間台に高野城を築いたとされる。長福は後に乱行に奔り、非業の死を遂げたと言う。その後、幸手一色氏の持ち城となった様である。幸手一色氏の事績については、一色氏館(幸手城)の項に記載する。1461年、扇谷上杉氏の家宰であった岩槻城主太田氏が、古河公方勢力の前進基地であった高野浅間台城を攻めた。また1471年にも扇谷上杉氏の重臣長尾景信(長尾景春の父)と太田資忠(太田道灌の弟)によって幸手城と共に攻め落とされたが、再び一色氏によって両城は奪還されたと言う。

 高野城は、現在周囲一帯が市街化で改変されているため、遺構はよくわからないが、わずかに藪山が残っており、城址の一部と考えられる。すぐ近くには日光御成街道(県道65号線)が通り一里塚が残っていることから、往時から交通の要地であったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.050018/139.701923/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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清久氏館(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07626.JPG←浅間神社の土壇
 清久氏館は、藤原秀郷の後裔大河戸氏の庶流、清久氏の居館である。大河戸行方(下総権守重行)の2男次郎秀行がこの地に入部して清久氏を称した。1181年、大河戸太郎広行・次郎秀行・三郎行元・四郎行平の4兄弟は、三浦義澄に伴われて源頼朝に伺候した。清久氏はその後鎌倉幕府に仕え、1190年の頼朝上洛の際も随兵として従った。その後清久氏は、兵衛尉秀綱が1221年の承久の乱の際、宇治橋の合戦で活躍した。南北朝時代には、中先代の乱の時、清久山城守が北条時行方の将となり、観応の擾乱の際には左衛門次郎泰行が高師直に従って、足利直義が逃げ込んだ将軍尊氏の邸宅を囲んだことが知られている。南北朝期から室町期にかけては、伊奈町や四国に主な領地があり、一族はこの地から移住して、廃館となったものと考えられる。

 清久氏館は、現在の常徳院・白幡雷電神社一帯の台地上に築かれていたと言われている。この地は、周囲の水田からは浮島の様な微高地となっており、遺構は湮滅しているものの、館の雰囲気は地勢の中にわずかに残っている。尚、雷電神社裏にある祠(浅間神社)の土壇は往時の土塁の様にも見えるが、果たしてどうであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076922/139.644331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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粟原城(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07620.JPG←粟原城付近の現況
 粟原城は、戦国時代に岩槻城の支城として機能した城である。元々は、鷲宮神社の発展と共に形成された社領領主の居館であったと考えられている。戦国時代中期に、小田原北条氏の勢力と越後上杉氏の勢力が関東で激突する様になると、粟原城もその抗争に巻き込まれることとなった。1560年、初めて関東に出馬した上杉謙信は、翌年3月、北条氏康の小田原城を大軍で包囲攻撃した。この時、粟原城主細萱民部少輔光仲は、70余人を率いて小田原城に詰めた。小田原城を攻めあぐねた謙信は軍勢を退き、その帰途、羽生城主木戸宮内少輔忠朝が北条方の粟原城と花崎城を攻め落とした。しかしその後、北条氏は着々と勢力を拡大し、天正年間(1573~92年)には、粟原城は北条氏の1級支城であった岩槻城の出城として機能していたことが、同時代文書から知られている。

 粟原城は、青毛堀川を挟んで鷺宮神社に隣接する平地上に築かれていたが、現在は畑や民家に変貌し、遺構は完全に湮滅している。畑には段差が残り、脇には土塁のような茂みも見られるが、遺構の名残かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.099550/139.652485/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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大越城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07583.JPG←八幡神社脇に残る土塁
 大越城は、日本城郭大系では「館山」と記載される、歴史不詳の城館である。一説には、羽生城が存在していた頃の館と言われている。忍城主成田氏の家臣に大越彦次郎がおり、地名との関係から大越氏の居館であったとも推測されている。また1583年、小山小四郎が北条氏政に敗れて、大越に一時住んだとも言われている。
 大越城は、徳性寺の西側にある八幡神社付近にある。夏場は草木で覆われてわかりにくいが、八幡神社西側に土塁が残っている様だ。土塁の外周には空堀も残るらしい。民家の脇なので、あまり不用意には歩き回れず、遺構の確認があまりできなかった。尚、大越城の東200m程の位置にある八坂神社の脇には、小山朝政の墓が残っており、この地と小山氏との関係を推測させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.181619/139.618431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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渋井越前守館(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07576.JPG←館跡付近の現況
 渋井越前守館は、下川原堀之内とも言い、戦国時代に上杉謙信の家臣渋井越前守の居館があったと言われている。その他のことは不明であるが、謙信の関東の重要拠点の一つであった羽生城まで約5kmと程近く、羽生城の支城として機能したと考えられる。利根川南岸の平地に位置し、不動院の東側にあった様だが、耕地化で遺構は湮滅しており、今では正確な場所もわからない。不動院も、近年の市道建設で移設改築されたらしく真新しいので、もはや付近にも館の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.200893/139.597811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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礼羽氏館(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07572.JPG←住宅街に建つ標柱
 礼羽氏館は、鎌倉幕府に仕えた礼羽氏の居館である。礼羽氏については、1213年に和田義盛が北条義時の挑発に乗って挙兵した際(和田の乱)、義盛の3男で武勇に秀でた朝比奈義秀の御所乱入を防いで討たれた武士の一人として礼羽蓮乗の名が『吾妻鏡』に見えるのみで、それ以外の事績は不明である。
 礼羽氏館は、礼羽地区の住宅街の只中に伝承地がある。畑の脇に「伝承 礼羽館」の標柱が建っているのだが、この場所がなかなかわからず、30分以上も探し回った末にようやく探し当てた。結局、最初に車で通った所に標柱があったのだが、丁度電信柱の影になっていて、見つからなかったのである。遺構はおろか、館跡らしい雰囲気すら全く失われており、標柱だけがその由来を伝えるのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.127269/139.583520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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多賀谷氏館(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07561.JPG←館跡に建つ大福寺
 多賀谷氏館は、後に下総結城氏の元で半独立的領主として活躍した多賀谷氏の草創の地である。多賀谷氏は、武蔵七党野与党に属した道智氏の一族で、 平安時代末期にこの地に入部して多賀谷氏を称し、源頼朝の上洛の随兵や弓始射手として活躍した。室町時代になると、この地を領した結城氏に属し、結城に移住した。その後、結城合戦後に滅亡した結城氏の再興を果たすなど活躍し、享徳の乱の時に鎌倉公方足利成氏より下妻三十三郷を与えられ、後に下妻城を築いて本拠を移した。戦国時代には主家結城氏からほぼ独立した勢力を有し、佐竹氏と同盟して小田原北条氏の勢力拡張に抵抗した。関ヶ原合戦の際、徳川家康に敵対した為、合戦後に改易されて滅亡した。

 多賀谷氏館は、現在の大福寺の地にあったと言われるが、遺構は既に湮滅している。境内には14基もの板碑が残り、わずかに多賀谷氏の足跡を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.111807/139.557320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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真板氏館(埼玉県行田市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07544.JPG←真板氏館の現況
 真板氏館は、鎌倉幕府の御家人真板五郎次郎経朝の居館である。経朝は弓の名手で、1243~52年までの11回に渡り、御的始の射手を務めたことが『吾妻鏡』に記されている。
 真板氏館は、遺構は湮滅しており、現在の花蔵院薬師堂の境内付近にあったと推測されている。ここにある薬師如来像も大板碑(石板塔婆)も公孫樹も、皆当時のものと考えられており、真板氏の足跡を今に伝えるものと考えられている。脇には真名板高山古墳があるが、往時は物見台か何かとして使われたのだろうか?尚、小さな薬師堂には不釣り合いなほど立派な山門があり、異彩を放っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.133681/139.522902/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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亀開城(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07543.JPG←城址付近の遠望
 亀開城は、この地の土豪川俣氏の居城と言われている。川俣氏は、足利氏に仕え、功によって源姓を賜り、亀開城を築いたと伝えられる。その後、120余年に渡る居城となったが、1583年の川俣主膳正貞次の時に落城し、最上氏を頼って出羽に移住した。川俣氏の後、早川織部正がこの地に入部したと言う。
 亀開城は、非常に謎の多い城である。というのも、遺構は湮滅していると言われているのだが、現地に行くと民家の隣の空き地には土塁があり、隅櫓台の様な高まりもあって、普通に考えれば遺構にしか見えないのである。しかし国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、以前は確かにただの空き地で、遺構らしいものは存在していない。どういう意図でこの土塁状の土盛を築いたのか、不思議である。いずれにしても、遺構は湮滅しているのが真相の様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.185187/139.520584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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須加城(埼玉県行田市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07532.JPG←城跡とされる長光寺
 須加城は、『吾妻鏡』に記載される御家人、須賀弥太郎の居城と言われている。須賀氏は、1221年の承久の乱の際、弥太郎が宇治橋合戦で活躍し、その後、1238年の将軍随兵に須賀左衛門太郎の名が記されている。南北朝時代には、須賀氏は足利氏の家臣となったことが知られている。室町時代の1440年には、前年の永享の乱で自刃した足利持氏の外戚、一色伊予守持家が須賀土佐守入道の守る須加城を攻め、焼き払った。戦国時代には、須加城を巡って古河公方と小田原北条氏の合戦が行われた。戦国末期には須賀氏は忍城主成田氏に属したらしく、1590年の小田原の役で開城した忍城の武士の中に須賀修理亮の名が見える。
 須加城は、行田市域の北辺、利根川を背にした長光寺から須加小学校にかけての一帯に築かれていたと考えられている。寺の境内は平地だが、小学校は5m程の高さの高台になっており、ニノ郭と主郭の関係にあった可能性があるが、どうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.186537/139.482883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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皿尾城(埼玉県行田市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07516.JPG←城址碑と堀状の窪地
 皿尾城は、上杉謙信が忍城に対して築いた城と言われている。即ち1561年、謙信は皿尾城を築いて木戸監物入道玄斎を置き、忍城の成田下総守長泰に対する守りを固めたと言う。一説には、この後玄斎は成田氏に通じた為、謙信は激怒して皿尾城を焼き落としたとされる。
 皿尾城は、平地の平城で、現在の大雷神社の位置にあったと考えられている。しかし明確な遺構は既に湮滅しており、城の痕跡はほとんど残っていない。わずかに境内周囲に堀跡らしい窪地や、本殿背後に土塁状の土盛が見られるが、遺構とは俄には断じ難い。ただ、これらが遺構であったとすると、方形の平城であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.144338/139.442929/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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奈良氏館(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07453.JPG←寺の周囲の段差
 奈良氏館は、成田氏の庶流奈良三郎の居館である。奈良氏は、成田助高の3男高長がこの地に入部し、奈良三郎と称したことに始まる。『保元物語』には、1156年の保元の乱の際、白河殿夜討ちの条で奈良三郎が源義朝に従い武功を挙げたことが記載されている。三郎は後に妙音寺を建立し、頼尊と称したと言う。
 奈良氏館は、現在の妙音寺にあったとされる。明確な遺構は確認できないが、寺の周囲の水田にはわずかな段差があり、館跡の塁線跡の様にも考えられる。尚、妙音寺には、奈良三郎の墓(江戸時代の再建)が残っている。
奈良三郎の墓→DSC07452.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.184130/139.359008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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玉井氏館(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07443.JPG←玉井四郎の墓
 玉井氏館は、成田氏の庶流玉井四郎の居館である。玉井氏は、『成田氏系図』によれば、成田助高の4男助実がこの地に入部し、玉井四郎と称したことに始まる。『保元物語』には、1156年の保元の乱の際、白河殿夜討ちの条で玉井四郎が源義朝に従い武功を挙げたことが記載されている。また、源平の合戦では、玉井助影(助重か?)が源頼朝に仕えて、1184年の一ノ谷の合戦で平通盛を討ち取ったと伝えられている。
 玉井氏館は、現在の玉井寺を含む周辺一帯に築かれていたと考えられているが、現在は遺構は完全に湮滅している。玉井寺の境内には、玉井四郎の墓とされる五輪塔と玉の井という井戸が残っている。この井戸は、もしかしたら往時からの井戸であろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.181601/139.348365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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木之本塁(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07430.JPG←わずかに残る土塁
 木之本塁は、詳細不詳の城郭遺構である。この地には、木の本古墳群が存在しており、その3号墳を利用した土塁遺構となっている。南西600m程の位置に深谷上杉氏の居城庁鼻和城があり、その外郭線を守る長塁として築かれた可能性が考えられる。
 木之本塁は、前述の通り古墳を起点に土塁を巡らした長塁遺構である。土塁はわずかに残っている程度で、高さは1mにも満たない程なので、夏場は草に埋もれて遺構がわかりにくい。平地で何の役に立つのか、塁の役目が疑問であるが、単なる関所的な意味合いのものだったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.196564/139.307724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:塁跡
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増田四郎重富館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07421.JPG←北の堀跡の道路と土塁
 増田四郎重富館は、室町時代に増田四郎重富と言う武士の居館であった。重富は、扇谷上杉氏に攻められてこの地を捨て、荒川を越えて南の四ツ山城(高見城)の城主となったとも、或いは野原村の文殊寺を再興して居館とし、その地で没したとも言われる。
 増田四郎重富館は、現在民家となっているが、民家の北と東に土塁らしき跡が残っている。しかし日本城郭大系や現地解説板の記載によれば、北側の土塁以外は破壊されているらしい。また北辺の土塁の外には空堀があったが、現在は埋められて道路になったそうだ。わずかに中世の居館の面影を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.211957/139.325062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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蓮沼氏館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07414.JPG←館跡とされる淡島神社
 蓮沼氏館は、武蔵七党猪俣党の一流蓮沼氏の居館である。蓮沼氏は、内ヶ嶋国綱の子国家が蓮沼に入部し、蓮沼六郎を名乗ったことに始まると言われる。その後蓮沼氏は、同族の荏原氏と共に、室町時代前期の上杉禅秀の乱の時、禅秀方に付いて敗れ、滅亡したと言う。
 蓮沼氏館とされる場所は、水田地帯の只中、私道脇の民家の裏にある淡島神社という小さな神社付近とされる。この神社は民有地の中にあるので(多分)、お参りするには民家の方に断った方が無難である。遺構は全くないが、荏原氏館から至近の距離にあり、同族として強い繋がりを持ってこの地を開拓していたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.221167/139.324054/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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荏原氏館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07403.JPG←館跡の摩利支天堂
 荏原氏館は、武蔵七党猪俣党の一流荏原太郎の居館である。荏原氏は、室町時代前期の上杉禅秀の乱の時、禅秀方に付いて敗れ、滅亡したと言う。
 荏原氏館は、利根川南岸の平野部に築かれた居館で、現在の摩利支天堂の付近にあったと伝えられている。既に遺構は完全に湮滅しており、館の痕跡は微塵もない。現地解説板によれば、かつては300m以上に及ぶ範囲に所在した館で、利根川の堤防の一部は館の土塁であったものを、戦国末期の小田原の役の際、忍城の水攻めを行った石田三成が、取水施設として改修したと言うが、土豪の居館にしては規模が大き過ぎるので、少々疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.227779/139.331757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大家城(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC05214.JPG←城址とされる森戸神社
 大家城は、歴史不詳の城である。一説には、小田原北条氏が築いた城とも言われるが、明確ではない。
 大家城は、現在東武越生線の西大家駅のすぐ近くに鎮座する森戸神社に変貌している。市街化で遺構は明瞭ではなく、社殿背後に土塁状の土盛りがあり、祠が祀られているが土塁の遺構であろうか?西側は5m程降る斜面となっているが、傾斜はかなり緩く城郭的な造りにはなっていない。その下に、一部の城郭サイトで堀とされる溝があるが、底部にコンクリート製の水路が走っており、遺構とは見做し難い。城郭としてはかなり「?」な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.932394/139.356412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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宿谷氏館(埼玉県毛呂山町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC05194.JPG←V字状に切れ込んだ虎口跡
 宿谷氏館は、武蔵七党児玉党に属する宿谷氏の居館である。『新編武蔵風土記稿』によれば、児玉惟行の4男太郎経行の四代の孫、太郎行俊がこの地に入部して、宿谷氏の祖となったと言う。室町時代には、応永の乱で幕府方として大内義隆と戦って軍功を挙げた。戦国時代に入ると、近江守重近・大和守重則父子は、武蔵を制圧した小田原北条氏に従った。北条氏滅亡後は帰農したらしい。
 宿谷氏館は、大谷木処理場に面した段丘上に位置している。比高5m程の低台地で、館跡は現在民家と畑に変貌している。中には入っていないので明確ではないが、館跡の北辺に土塁らしき跡が残っているようで、その北側下方の水路は堀の名残であろう。水路際を東奥に辿ったところ、V字状の切れ込みが斜面にあり、堀状の虎口があった様である。わずかではあるが、遺構が残っているのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.926330/139.313132/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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