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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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勝山城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3240.JPG←解説板が建つ遊歩道
 勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。

 勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


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大友氏館(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3047.JPG←境内に残る土塁らしき跡
 大友氏館は、川場館とも言い、南北朝時代には鎮西の三豪とも言うべき豪族で織豊期まで存続した戦国大名大友氏の所縁の城館である。特にキリシタン大名として有名な大友宗麟を輩出した大名として知られている。元々大友氏は、相模国足柄郡大友郷を本領としていたが、鎌倉初期には豊前・豊後守護職兼鎮西奉行となり、九州に本拠を移した。『日本城郭大系』には、大友刑部がこの館に住み、南北朝時代の1368年に新田義宗と戦って討死したと記載されており、館跡に建つ桂昌寺の解説板にも同様の記載があるが、これは史実とは見做し難い。大友氏が創建した吉祥寺のパンフレットによれば、川場村には大友氏6代貞宗の庶子即宗や8代氏時の庶子氏能など大友氏の係累が多く居住したとされ、それら大友一族の居館であったのが実態であろう。しかし大友氏と川場村の関係については、河波姫の伝説などに彩られており、実態は不明である。

 大友氏館は、桂昌寺周辺が館跡とされる。土塁が残っていると現地解説板にあるが、かなり改変されているらしく、どれが土塁跡なのか明確ではない。西には細流があって天然の堀となっていたほか、周辺にも水路が流れ、堀の名残を残している様である。また境内には大友氏時夫妻のものとされる墓が残っている。大友氏館は、偶々花が綺麗だということで吉祥寺に行ったところ、なんと大友氏所縁の寺であったことがわかったため、帰ってからネットで調べてみたらその存在がわかったため訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.700184/139.106591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

  • 作者: 八木 直樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/09/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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白井城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2788.JPG←主郭虎口の石垣
 白井城は、関東管領山内上杉氏の重臣、白井長尾氏の居城である。南北朝期の1337年に鎌倉府の執事であった上杉憲顕が上野・越後両国の守護となると、長尾景忠が守護代を務め、上野に入部したとされる。しかし当初から白井に本拠を置いていたわけではなく、白井城が築城されたのは室町中期の景仲の代であったと考えられている。景仲は山内上杉氏の家宰を務め、享徳の大乱では山内上杉氏の主力として活躍した。景仲の孫景春は、主君山内上杉顕定が家宰職を景春の叔父の総社長尾忠景に継がせたことに反発し、鉢形城を築いて挙兵した(長尾景春の乱)。景春の攻撃によって、古河公方勢に対する上杉氏の五十子陣は崩壊し、この後数年に渡って景春と扇谷上杉氏の家宰太田道灌との間で関東平野を広範に巻き込んだ戦闘が繰り広げられた。この間顕定の兄、越後上杉定昌は白井城に本陣を移した。一時期、道灌も白井城に来城したらしく、主郭虎口に残る石垣は道灌の指導で築かれたとの伝承がある。4年に渡る反乱が鎮定されると白井城は再び白井長尾氏の本拠となったが、山内上杉氏と越後上杉氏との連絡を担う重要拠点として機能し、度々山内上杉氏も白井城に本陣を置いた。戦国時代に入ると、山内上杉憲政は北条氏康に駆逐され、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。謙信が関東に出馬すると、白井長尾氏は謙信に従った。その後、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。徳川家康が関東に入部すると、白井城は家臣の本多広孝に与えられた。1624年に本多氏が無嗣除封となると、白井城は廃城となった。

 白井城は、利根川と吾妻川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。南端から笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭・北郭・外郭を配置し、更に主城部の南東の低地に南郭・新曲輪を築いていた。遺構は、低地の曲輪や外郭は湮滅しているが、それ以外の北郭までの部分はかなり明瞭に残っている。特に主郭と笹曲輪は城址公園として整備されている。笹曲輪先端には櫓台が築かれている。主郭外周には土塁が全周し、北側の二ノ郭との間には大きな堀切が穿たれている。中央に土橋が掛かり、右方は塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の虎口は大型の枡形虎口となっていて、前述の通り石垣が残っている。二ノ郭との間の堀切は、塁線の折れに伴ってL字状に折れているが、現地解説板ではこれを三日月堀と称している。しかし実際はL字に折れているだけであり、三日月堀でも何でもない。飯山城のところでも書いたが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは悪しき風習である。二ノ郭から北郭までは畑となっているが、堀跡は良く残っている。土塁は北郭の虎口脇だけ残っており、城山不動尊が建てられているのが櫓台跡であろう。この他、主郭から三ノ郭にかけての東斜面に横堀と帯曲輪が延々と築かれ、二ノ郭の堀切との合流点には土橋も掛けられている。遺構は以上であるが、外郭の東と北の堀跡の木戸跡に北遠構・東遠構の石碑が建っている。広範に遺構が残り、規模も大きく、しかも草枯れにはまだ早い初秋の時期でも整備が行き届いており素晴らしい。選地や城の構造・規模は大庭城とよく似ている。いずれも印象に残る名城である。
主郭のL字の堀切→IMG_2848.JPG
IMG_2857.JPG←主郭東斜面の横堀・帯曲輪
ニノ郭の空堀→IMG_2978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.508808/139.010546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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渋川城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2779.JPG←民家の裏の土塁と堀跡
 渋川城は、1572年に真田幸隆らの武田勢が白井城を攻略した際、武田方に与した渋川地衆が築いたとされる城である。しかし白井城を逐われた長尾憲景は、逃れた八崎城より反撃に転じ、武田勢を破ったと言う。
 渋川城は、正蓮寺の境内と民家の敷地となっている。周囲を2つの小河川で囲まれ、3~4m程の段差で区切られた要害地形である。明確な遺構は少ないが、堀跡の水路(前述の小河川)が残り、正蓮寺の西側の民家西には土塁が確認できる。その西側に車道が通っているが、堀切の名残であろう。遺構は僅かだが、正蓮寺に城址の石碑が建ち、城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497942/139.002178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

  • 作者: 小川 由秋
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/01/06
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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漆窪城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2715.JPG←主郭の現況
 漆窪城は、弘治・永禄年間(1555~70年)の頃、総社長尾氏の一族長尾大膳の城であったと伝えられている。その他の詳細は不明である。
 漆窪城は、赤城山の南西に広がる広大な裾野の一角、段丘の先端部に築かれている。城跡はほとんど畑に変貌しているが、曲輪間の段差が残るほか、主郭北側には堀切が車道となって残っている。『日本城郭大系』では4本の堀切で分断されていたと記載されているが、現在その姿を残すのは、前述の主郭北側のものだけである。その他は埋められてしまったらしい。また先端の笹曲輪との間の堀切は農地の先端にあるため確認できていない。主郭の北東角から東斜面に小道が降っており、大手であったらしい。木戸跡のような土壇とその両側には腰曲輪が確認できる。主郭の北には堀跡の道路を挟んで三ノ郭があり、林となっている。ただの平場であるが、両側が主郭に向かって張り出しており相横矢になっていた様である。主郭の角に城跡の石碑と解説板が建てられているが、全体に遺構の残存状況は余り良いとは言えない。少々残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465351/139.071615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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箱田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2676.JPG←南西辺の横矢の張り出し
 箱田城は、戦国時代に上野守護代で白井城主であった白井長尾氏の出城として、箱田地衆によって築かれたと考えられている。しかし詳細は不明である。
 箱田城は、標高208mの独立丘陵である城山に築かれている。曲輪の規模は大きいが単郭の城で、南西辺で横矢の張り出しを持ち、主郭外周に土塁と空堀が築かれている。空堀は全周しているわけではなく、一部は腰曲輪となっている。主郭内には「たちばなの郷 城山」と言う温泉施設が建っているが、周囲の遺構はよく残っており、城址標柱・解説板の他、大手・搦手等の表示もある。その為、草枯れにはまだ早い初秋の時期でも訪城でき、遺構の損壊が少ないやり方に好感が持てる。縄張り・立地など真壁城と似ており、同じ築城主体であった可能性が考えられるが、なぜ至近に似たような城を築いたのかは不明である。真壁城の項でも記載した通り、恒久的な城と言うより、臨時の陣城や作戦上の物資備蓄基地の色彩が強いように思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.462340/139.041038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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真壁城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2602.JPG←主郭周囲の土塁
 真壁城は、白井城の支城である。白井長尾氏の重臣神谷三河守が城主であったと伝えられる。八崎城の繋城として築かれ、暫く上杉謙信の勢力下にあったが、御館の乱の後は武田氏に属し、武田氏滅亡後は北条氏の支配下に置かれ、1590年の小田原の役で白井城と共に落城した。

 真壁城は、利根川東岸のなだらかな丘陵頂部に築かれた単郭の城である。城と言うより砦と言う方が適している。南のゲートボール場から薮をかき分けて行くと、すぐに主郭に至る。主郭は東西に横矢の掛かった土塁で囲まれており、周囲は空堀で囲繞されている。横矢掛かりの部分では、土塁のクランクも明瞭にわかる。しかし丘陵上の遺構はそれだけで、周りは緩斜面で囲まれているだけである。昭和20年代の航空写真を見ても、周囲に特に遺構らしいものは確認できないので、恒久的な城と言うよりは臨時的な陣城や物資の備蓄基地の色彩が強いように感じられる。尚、東麓の根古屋部分は南に向かって三角形に張り出しており、台地基部に空堀が穿たれているようだが、薮もあり民家の裏にあることもあって、車道脇から除くぐらいしかできなかった。真壁城は、要害地形にあるとは言えず、往時にどのように使われたのか興味深い城である。
 ちなみに帰ってからネットを調べたら、主郭には「立入禁止」の看板が立っていたらしい。私が訪城した時は見当たらなかったが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.469691/139.036424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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剣城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2580.JPG←畑に残る段差
 剣城は、文治年間(1185-90)に比企氏の館として創築されたと伝えられる。戦国初期には長尾景俊が在城したとされる。その他の歴史は不明である。
 剣城は、かつては上越線の線路の西側に堀で囲まれた方形に近い曲輪があったと言うが、現在は遺構は完全に隠滅している。僅かに南東隅部だけ畑の中に切岸跡の段差と、東側に堀の名残と思われる水路があるだけである。それでも手製の城址標柱が建ち、踏切や架線に剣城の名が記されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.457775/139.019880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


長尾景仲 (中世武士選書26)

長尾景仲 (中世武士選書26)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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桃井城(群馬県吉岡町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2541.JPG←北出曲輪周囲の土塁
 桃井城は、南北朝時代の武将桃井播磨守直常の居城であったと伝えられている。桃井氏は足利一門で、鎌倉時代にはここを本貫地として居住していたとされる。直常は当初は新田義貞に従って鎌倉攻めに参陣したが、後には足利氏に従った。『太平記』によれば、将軍足利尊氏の執事として絶大な権勢を誇った高師直に戦功を無視されたため、徹底的な反尊氏派・反師直派となったとされる。その後、尊氏の弟直義に従い、石堂頼房と並んで直義党の最強硬派で、尊氏との和睦に徹底して反対し、観応の擾乱で尊氏方と激しく干戈を交えた。勇猛な武将ではあったが、その振る舞いには『太平記』や今川了俊の『難太平記』などに批判的な記事も見られる。長らく越中守護であったため、弟の直和と共に越中を拠点としていたが、直義やその養子直冬(実は尊氏の庶子)が敗退して観応の擾乱が収束すると、消息を絶った。一説には、故地の上野国に戻り、榛東村播磨に隠棲したとも言われる。

 桃井城は、標高247.5m、比高30m程の丘陵上に築かれている。近代になってから農地開放で耕地化されたとのことで、城内は大きく改変されている。現在は、給水設備が建つ他、整備途上の公園となっている。山頂には主郭があったと思われるが、ここもかなり改変が見られる。北東の北出曲輪の周囲にだけ土塁が残っている。その外周には横堀があったらしいが、今は歩道が舗装されて堀跡らしさは消えてしまっている。尚、城跡から東方約600mの所に、直常夫妻の墓と伝えられる桃井塚がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439341/138.996470/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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柏原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2488.JPG←外郭に建つ温泉施設
 柏原城は、白井城の支城である。1509年、白井城主長尾景春が上杉憲房の攻撃を受けて、柏原城に逃れ、翌年白井城を復したと言う。1573年、白井城主長尾憲景は、武田信玄の死去に乗じて柏原城を攻め、守将湯本左京進・植栗河内を駆逐し、吉里・野村・飯塚・福島らの諸士を置いた。1580年、岩櫃城代海野幸光が柏原城を攻略したが、1589年には北条氏麾下の白井勢が柏原城を押さえていたらしい。

 柏原城は、吾妻川南岸の段丘先端部に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図では二の郭の先に堀切で分断された主郭があり、更にその先に笹曲輪が置かれ、名胡桃城と似たような構造であったらしい。しかし現在は台地端部は削られて改変されている他、台地基部に広がる外郭部にも「根古屋乃湯」と言う温泉施設が建っており、大きく変貌してしまっている。従って、遺構は望むべくもない。僅かに温泉の名前にだけ、城の痕跡を留めるだけの悲しい状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547415/138.944585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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植栗城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2464.JPG←主郭西側の堀跡
 植栗城は、この地の土豪植栗氏の居城である。岩櫃城を築いた吾妻太郎の一族とも言われる。応仁年間(1467~69年)には植栗安芸守が城主で、1468年に植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れたと言う。永享の乱の前後より斎藤氏の庶流大野氏の勢威が宗家を凌ぎ、岩櫃城に入城して吾妻郡を支配した。大野憲直は、植栗河内守元吉と諍いを起こし、同族の岩下城主斎藤憲次に植栗氏討伐を命じたが、憲次は返って大野氏に反逆し、岩櫃城を急襲して大野氏を滅ぼした。憲次はそのまま岩櫃城主となって吾妻郡を支配し、元吉は憲次に従った。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃したが、この時植栗安房守元信は斎藤方として戦った。斎藤氏没落後、植栗氏は真田氏に従った様で、長篠合戦では植栗河内が手傷を負ったと言う。

 植栗城は、吾妻川南岸の段丘辺縁部に築かれている。畑地の中に三角形の主郭が一段高く残っている。主郭西側には堀跡が低地となって残っている。主郭南側は一面の水田になっているが、外郭があった可能性がある。その他には遺構はなく、ほぼ単郭の小規模な城である。主郭に城址標柱が立ち、主郭から南東にやや離れて植栗安芸守の石碑が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578661/138.865471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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吾妻城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2437.JPG←城跡の現況
 吾妻城は、岩櫃城の支城と伝えられている。当初は北条氏が築いて、伊豆を本領とする家臣の狩野和泉守が在城したが、後に真田氏に降った。沼田真田氏が改易になると帰農し、剣持氏に改姓したと言われる。

 吾妻城は、吾妻川の支流枯木沢川の北岸の台地に築かれている。小規模な城砦で、しかも城跡はほとんど民家に変貌し、地勢は残っているもののほとんど遺構を残していない。現在も剣持氏宗家が住む部分は「オクリ」の屋号が残り、それより上段の部分の屋号は「オカタ」と言い、「お館」の転訛の可能性があると言う。また、ここより北西にある諏訪神社付近は高台となり、「中城」の地名が残り、ここにも城があった様である。物見の様に民家が建ち、いかにも城跡らしい雰囲気が残っているが、余りに規模が小さく、どのように機能していたのか推測するのは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585312/138.839121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


タグ:中世平山城
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小城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2428.JPG←笹曲輪らしい平場
 小城は、北条氏と武田氏による争奪の場となった境目の城である。天正年間(1573~92年)初頭に白井城の出城として築かれたと伝えられる。武田方の部将真田昌幸が支配する岩櫃城と、北条方が支配する白井城との間にあって、激しい攻防が繰り広げられた。『吾妻記』によれば、1580年12月、北条方の尻高摂津守・同庄次郎ら140~50人が立て籠る小城を、真田昌幸の家臣池田佐渡守・海野郷左衛門ら200余騎が夜襲を掛け、摂津守は深手を負って自刃し、庄次郎は白井城に逃れて、城を奪われた。1589年12月、岩井堂の砦を抜いて進撃してきた北条方の白井勢に対し、この城を守っていた武田方の蟻川入道・桑原大蔵らが迎え撃ち、飯塚小六郎を撃ち取って撃退した。翌1590年2月、白井方の神庭三河・飯塚大学が蟻川入道を追い出して城を占領したが、同2月20日頃、岩櫃方の小渕次郎右衛門・一場茂右衛門は10人計で夜討ちを掛け、城を奪還したと言われる。
 但し、1589年12月以降の時期は既に豊臣秀吉から北条討伐の宣戦布告がされ、北条領国全体が秀吉の大軍の来襲に備えて軍備を固めていた時期であり、この様な小競り合いをしている余裕はなかったはずで、これらの伝承には疑問がある。

 小城は、吾妻川北岸の段丘東端に築かれている。往時は空堀で囲まれた方形の主郭とその北側に広がる二の郭が築かれていたが、現在は城の主要部は宅地化されて遺構はほぼ完全に隠滅している。東側先端には古城公園があり、先端が一段低い平場となっていて、往時の笹曲輪であった名残りと思われる。公園の西の道路は空堀跡の様にも見えるが、果たしてどうであろうか?公園の名前に城の名が付いているものの解説板もなく、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584123/138.860192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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並木城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2389.JPG←主郭周囲の切岸・腰曲輪
 並木城は、長尾尻高氏の居城尻高城の内、平時の居館として築いた里城に当たる。1401年に白井城主長尾重国(景春)の家臣が築城し、2年後に完成すると、重国の3男重儀が城主となり尻高左馬頭を称した。以後、尻高・大塚・平・赤坂・市城までの2024石を領して勢威を誇ったが、戦国後期になると上杉・北条・武田3大名の三つ巴の抗争の狭間にあって苦難を続けた。この頃、吾妻郡では岩櫃城主斎藤氏が最大の勢力を持ち、長尾尻高氏も斎藤氏に属していたが、1563年に武田信玄の命で真田幸隆が上州に侵攻し、岩櫃城・嵩山城を攻め落として斎藤氏を滅ぼした。尻高氏は一時的に武田氏に降ったが、間もなく上杉方に転じて反抗し、1574年に幸隆の攻撃によって尻高城は落城した。この時、城主尻高左馬介景家は討死したとされる。1578年に謙信の急死でその後継を争う「御館の乱」が越後で勃発すると、上杉景虎(北条氏康の7男)支援のため北条勢は越後へ進軍し、尻高左馬介義隆は北条方に付いて猿ヶ京城を守った。しかし1580年に武田勝頼の部将真田昌幸配下の海野輝幸に攻略され、尻高氏は滅亡した。

 並木城は、本宿地区にある比高10m程の段丘上に築かれている。現在郭内は畑に変貌しており、平場以外に明確な遺構を見出すことはできない。段丘辺縁部の南辺と東辺には一段低く腰曲輪・武者走りがあり、主郭の周囲は切岸となっている。民家脇の畑には堀切跡の様なわずかに低い畑があるが、はっきりしない。いずれにしても、古い形態の段丘上の居館であった様だ。南西の登り口に解説板・標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619592/138.898773/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)

守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)

  • 作者: 三池 純正
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2009/05/02
  • メディア: 新書


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猿ヶ京城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2163.JPG←横矢の掛かる主郭の大空堀
 猿ヶ京城は、宮野城とも言い、関東に出馬した上杉謙信に所縁の城である。築城年代は不明であるが、1560年に謙信は宮野城に一泊し、吉夢を見て宮野を猿ヶ京に改めたという伝説がある。古文書では1570年の謙信から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出とされる。その後、1578年の謙信の急死でその後継を争う「御館の乱」が勃発し、上杉景虎(北条氏康の7男)支援のため、北条勢は越後へ進軍し、途中の猿ヶ京城を支配下に置いた。しかし1580年に武田勝頼の部将真田昌幸配下の海野輝幸に攻撃され、北条方の城将尻高左馬介義隆は降伏した。以後、真田氏が領主となり、武田氏の持城となった。武田氏滅亡後も真田氏がそのまま城を維持して北条氏に対抗した。廃城時期は不明。江戸後期の寛政年間(1789~1801年)に徳川幕府は三国街道の猿ヶ京関所を設置した。戦国時代から江戸時代まで、猿ヶ京は関東と日本海側の境界を守る要衝であり続けた。

 猿ヶ京城は、赤谷湖北岸に突き出た台地上に築かれている。しかし赤谷湖は戦後の人工湖なので、往時は湖はなく、谷戸に突き出た断崖上の城であった。三角形の台地を2つの堀切で分断した縄張りで、南端が主郭、北側に二の郭を配置している。主郭には現在湖城閣というホテルが建っている。主郭内部は2段に分かれており、そのままの地勢でホテルの温泉施設が建てられている。主郭北側には立派な土塁と大空堀が残り、この堀切は東側では横矢の屈曲が見られる。二ノ郭は民家などが建っており、中を探索することは不可能だが、遠目に土塁が辛うじて分かる。また張出し櫓台跡と思われる土壇上に民家が建っている。私は今回、湖城閣に宿泊したので、遠慮なく主郭内を歩かせてもらったが、そうでない人はホテルの方に断ってから探索して欲しい。また猿ヶ京は温泉でも有名で、湖城閣で入った夕闇の露天風呂は、折しも煌々と輝く月が湖面に映え、美しい光景だった。もしかしたら謙信もこんな景色を眺めたのだろうかと思うと(当時は湖がなかったにしても)、なんとも感慨深かった。
西斜面に落ちる主郭大空堀→IMG_2173.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.722873/138.888216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上杉謙信 (シリーズ・実像に迫る14)

上杉謙信 (シリーズ・実像に迫る14)

  • 作者: 石渡洋平
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/12/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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森下城(群馬県昭和町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2138.JPG←主郭付近の現況
 森下城は、沼田城を防衛する城砦群の一である。後に真田氏、北条氏によって前衛の砦として利用された。1582年、鉢形城主北条氏邦に攻められ、守将の加藤丹波守が奮戦、自刃したと伝えられている。
 森下城は、片品川南岸の段丘上に築かれている。東にそびえる断崖上に築かれた阿岨城と異なり、低地の川縁に位置している。阿岨城とは指呼の間にあり、このことから断崖上を押さえる阿岨城と一対となって、片品川の渡河点を扼していたと推測される。現在は畑の中に城址標柱と解説板が立っている。周りには段差が残っており、『日本城郭大系』の縄張図では主郭の周りに堀を廻らした環郭式の城であった様だが、縄張りは正直言ってよくわからない。この城も阿岨城と同じく、片品川によって城の中心部が削られてしまっている様である。尚、東北東400m程の民家脇に城将の加藤丹波守の腹切り石と言うものが残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.623347/139.053655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

  • 作者: マコト出版
  • 出版社/メーカー: マコト出版
  • 発売日: 2016/08/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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阿岨城(群馬県昭和村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2118.JPG←主郭周囲の堀跡
 阿岨城は、阿曾の砦とも呼ばれ、沼田城を防衛する城砦群の一である。現地解説板によれば、1573年に沼田城主沼田万亀斎(顕泰)は愛妾・ゆのみの兄・金子美濃守にこの城を与えた。その後、1582年に鉢形城主北条氏邦が長井坂城、阿岨城、森下城を次々に攻略した際、阿岨城は北条の兵3000騎に夜討ちされ、金子美濃守は騎馬もろとも谷を滑り落ち、沼田城へ逃れたと伝えられていると言う。

 阿岨城は、片品川東岸にそびえる比高150m程の台地辺縁部に築かれている。堀跡がよく残り、綺麗に整備されているので、夏でも訪城可能である。小規模な主郭の周囲に堀を廻らし、その外周にニノ郭を配し、その周りにも堀を廻らしていた様だが、ニノ郭は耕地化で一部を残して湮滅している。また城域の北西側半分ほどが、段丘崖の崩落で失われている様で、主郭は中途半端な形をしている。伝承では、北条方の沼田城攻撃の拠点の一つとなっていた様なので、往時はもっと異なる姿を見せていたのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.626498/139.066079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


読む年表 利根沼田の歴史

読む年表 利根沼田の歴史

  • 作者: 金子蘆城
  • 出版社/メーカー: 上毛新聞社 出版部
  • 発売日: 2016/11/24
  • メディア: 単行本


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幕岩城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1936.JPG←三ノ郭の空堀跡
 幕岩城は、沼田氏の沼田城以前の居城である。沼田氏は最初は荘田城を本拠としていたが、1405年頃に小沢城に居城を移し、更に1519年に沼田泰輝が幕岩城を築いて本拠を移した。以後、1544年に泰輝の子顕泰が沼田城を築いて居城を移すまで、沼田氏の本城となった。

 幕岩城は、沼田城と同じ沼田台地の北の突出部に築かれている。沼田城と同様に比高50m以上の断崖で囲まれている。直線的な空堀で区画された主郭・ニノ郭・三ノ郭で構成され、北端の断崖沿いに主郭がある。現在城内は民家や畑が並び、遺構の大半は失われているが、戦後の航空写真では堀跡がはっきりと残っている。主郭先端は空き地となり、土塁と窪地状の地形が見られる。そこには墓が多数建っているが、誰のものかはよくわからない。卵塔があるので寺があったものの様である。二ノ郭入口は車道がクランクしており、虎口の名残であろう。その東側に掘跡が残っている。ちなみにニノ郭の堀は、この虎口の西側で大きく横矢掛かりの屈曲があったが、現在は宅地に変貌して湮滅している。三ノ郭の堀も一部が明確な窪地となっており、分かりやすい。三ノ郭内の宅地跡(現在は空き地)の門跡に、個人で立てた「幕岩城二の丸跡」と刻まれた丸い石碑が残るが、実際は三ノ郭内に当たる。この他、主郭の北東の断崖下に「殿様清水」という湧水も残る。尚、どこかに城の解説板があるらしいが、見つけることができなかった。もっと遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.655630/139.048247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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寄居山城(群馬県片品村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1850.JPG←公園化された主郭
 寄居山城は、歴史不詳の城である。鎌田集落の西端に位置する比高10m程の小丘に築かれている。片品川に面した断崖上の小山で、現在は公園化されて大きく改変されており、明確な遺構はほとんど見られない。公園頂部は2段の平場に分かれているが、元々は単郭の城で周囲に腰曲輪が廻らされていただけらしいので、公園化の際にかなり改変を受けていると思われる。西には断崖に面した細尾根があるが、城砦の一部として機能していたのかどうかははっきりしない。結局、「寄居」という城郭関連地名を残すことだけが城があったことを伝えているだけである。鎌田宿入口を押さえる、関所的な砦であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.769727/139.224801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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鷹ノ巣城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1065.JPG←主郭と物見のあった大崩山
 鷹ノ巣城は、関東管領山内上杉氏の家臣小幡三河守貞政の居城と伝えられている。築城は先代の三河守通家とされる。貞政は、関東管領兼上野守護の山内上杉氏に仕えてほとんど鷹ノ巣城を留守にしており、桜井丹後守を鷹ノ巣城代としてこれを守らせたと言う。鷹ノ巣城の西方の山上には大崩山物見があり、また東方1.6kmの山上に吉崎城を築いて鷹ノ巣城の防衛力強化を図ったとされる。尚、鷹ノ巣城主小幡氏と国峰城主小幡氏は同族とされ、三河守系(鷹ノ巣城主)と右衛門尉系(国峰城主)の二流に分かれて存在していたことが、細川勝元が出した書状から確認されており、右衛門尉系が嫡流とされていた様だ。1590年の北条氏滅亡後に廃城になったと言う。

 鷹ノ巣城は、南牧川と栗山川に挟まれた段丘上に築かれている。堀も土塁もない、単なる平場を主郭とし、その北と東に一段低い二ノ郭を廻らしていただけの構造であったらしい。主郭は「おくるわ」と呼ばれ、現在吉崎公園と保育園跡地となっている。二ノ郭は畑となっている。あまりに改変されて過ぎているので、どこまで往時の地形を残しているかもはっきりしないが、2つの川で防御された天然の要害という以上の城ではなかった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.206832/138.783256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世崖端城
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弥勒屋敷(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1021.JPG←畑地に残る堀切跡の窪地
 弥勒屋敷は、歴史不詳の城館である。弥勒寺跡であるためこの名が付いている。貫前神社の初期の神主尾崎氏の墓地が屋敷地内の土塁上にあることから、往時は尾崎氏が館を構えており、尾崎氏が衰退移転の後に弥勒寺が建立されたのではないかとの説もある。

 弥勒屋敷は、貫前神社のある独立丘陵の西端部に築かれている。現在屋敷地は一部が宅地に、大半が畑に変貌している。畑地となった平場の中には、3つの堀切跡と思われる窪地が見られる。また東側の堀切の前には、土塁があり、その上には前述の通り尾崎氏の墓地がある。一番東側が弥勒跡とされ、方形の高台となっている。わずかな遺構であるが、貫前神社の歴史を語る上では重要な地であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.253877/138.854946/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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一の宮氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0971.JPG←神社境内と分断する堀切
 一の宮氏館は、貫前神社の社人一の宮氏の居館である。初めは正神主の尾崎氏の居館であったらしいが、戦国初期に一の宮氏に替わったらしい。戦国後期に武田信玄が西上州を支配下に置くと、一の宮氏も武田氏に従い、武田氏滅亡後に北条氏が上州の大半を支配すると北条氏に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康に社領を安堵された。

 一の宮氏館は、貫前神社の東に続く独立丘陵の東端部に築かれている。神社境内とは堀切で分断され、更に堀切で区画された2~3の曲輪に分かれている様で、主要部には現在、市の社会教育館が建てられている。これは戦前の昭和11年、ちょうど日本全体が急速に右傾化していた時代に、「東国敬神道場」という愛国教育のために作られた施設で、陸軍特別大演習の巡察のために群馬県に昭和天皇(陸軍大元帥でもある)が行幸されたことを記念して作られた。現在は神道色・愛国色は薄められているものの、昭和の国家神道教育の名残を残している。もっと批判的側面を主張した歴史遺産として扱われるべきだが、そうした批判色が極めて薄いことには少々疑問を持たざるを得ない。ただ純粋に昭和初期の和式建築の遺構として見れば、細部の装飾等に見るべきものはある。一方、肝心の城館遺構は、教育館の渡り廊下部分に堀切が残り、北側には土塁も残る。その北側に横堀が穿たれているようだが、盛夏の訪館だったので薮で確認できなかった。東の一段低い山林内にも平場が続き、鎮塚という土壇が先端近くに残っている。その東側にも一段低い平場が見られる。近代の改変もあることから、城館遺構としてはあまり評価できないが、何より隣接する貫前神社の社殿が素晴らしい。この神社はちょっと変わっていて、鳥居の先の参門をくぐると、ずっと降った所に社殿が建っている。普通は門の先を登った所に社殿があるものだが、降った所にあるという神社形態としても貴重だろう。本殿も単層2階建の「貫前造」という独特の社殿形式と、雷神小窓と称する小窓が設置されており、これも貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.255071/138.859323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK)

一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2018/07/12
  • メディア: ムック


タグ:居館
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大島下城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9671.JPG←主郭西側の土塁跡
 大島下城は、西平城に対して下城と呼ばれ、即ち西平城の里城とされる。城主は国峰城主小幡氏の家臣小間氏と伝えられるが、小間氏の事績は不明である。
 大島下城は、鏑川とその支流の野上川に挟まれた台地上に築かれている。城跡は宅地や畑に変貌しており、遺構の残りは悪い。わずかに主郭と思われる民家の西側に土塁らしき跡が見られ、その南西に堀跡の様な谷筋が残っているだけである。主郭の周囲は堀で囲まれていたと思われるが、堀跡は農道に変貌している。その他は明確な遺構がなく、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.241314/138.862488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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七日市陣屋(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9643.JPG←宝塔が建つ南西の土塁跡
 七日市陣屋は、加賀前田家の支藩七日市藩の陣屋である。1616年に前田利家の5男前田利孝が、大坂の陣の戦功によって上野国甘楽郡内に一万石を賜わり、七日市藩を立藩した。以後、外様でありながら11代250余年の間、移封されることなく明治維新を迎えた。この間歴代藩主は、概ね老中配下の大坂加番・駿府加番(大坂城・駿府城の警備役)を勤めたと言う。

 七日市陣屋は、現在その跡地の大半が県立富岡高校の校地となっている。高校内に御殿が残る他、東側の中門も残存している。また北東角の土塁が残っていて御殿山と呼ばれている。南西にも民家裏に土塁が塚状に残っており、その上には前田家が建てた宝塔が残っている。この南西の土塁は古墳を利用したものらしく、宝塔の標柱には「七日市七号古墳」と書かれている。この他、南東の蛇宮神社境内にも残存土塁と思われる土盛りが散見される。陣屋の南側は鏑川に臨む急崖に面しており、要害の地に築かれたことが現在でもよくわかる。湮滅が進んでいるものの、いろいろと見所がある陣屋である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.256075/138.874462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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山田氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9559.JPG←館跡付近の現況と大杉
 山田氏館は、白倉城主白倉右近道佐の第3子、山田道政の館と伝えられる。屋敷の鬼門に当たる北東隅に諏訪神社、裏鬼門に当たる南西に若宮八幡神社を祀っていたと伝えられる。現在は県道193号線の南脇に若宮八幡神社とその両脇の大杉だけが残っている。その脇の墓地には山田家一族の墓があり、その中の墓誌に白倉道佐(入道自徳斎)を祖とすることが刻まれている。若宮八幡神社以外に明確な遺構は見られないが、西側に細流が流れており、沢筋に面した段丘上の居館だったらしい。すぐ北には内匠城がそびえているが、山田氏館とどの様な関係にあったのか、興味深いところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.235499/138.900511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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上野城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9553.JPG←土塁と堀跡
 上野城は、鎌倉時代に築かれた居館と推測されている。中世の歴史は不明であるが、江戸時代になると幕府の直轄地となって代官屋敷が置かれた。その後、旗本の知行所となって明治に至ったと言う。
 上野城は、現在民間となっているが、西側の高さ3m程の立派な土塁が残り、その周囲には堀跡の畑が見られる。西側に土塁の切れ目があり、往時の虎口であったものだろう。よくある単郭方形居館で、小河川に挟まれた細長い台地の中央部に築かれていた様である。見事な土塁が住宅地の中に残っており、中々見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.233699/138.926969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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小幡陣屋(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9448.JPG←陣屋の復元石垣・空堀・土塁
 小幡陣屋は、後には小幡城とも呼ばれ、小幡藩を立藩した織田氏によって築かれた陣屋である。元々この地には、国峰城主であった小幡氏が国峰城築城以前に居住していたとも言われ、国峰城に居城を移してからは小幡氏重臣の熊井戸対馬守正満が屋敷を構えていたとされる。1615年に織田信雄(織田信長の2男)に大和国宇陀郡3万石・上野国小幡2万石が与えられると、翌年、信雄の子信良が福島陣屋に入部して、織田氏による小幡統治が開始された。1629年、3代信昌の時に小幡への陣屋移転を決め、13年後の1642年に陣屋が完成して藩政の中心を小幡に移した。また陣屋屋敷に南面して楽山園と呼ばれる庭園も造営された。しかし一説には1621年に織田信雄が楽山園を造営したとも言われているが、真偽は不明である。1767年、明和事件が起こって織田藩は出羽高畠2万石に転封され、8代152年に及ぶ織田家の小幡支配は終わりを告げた。織田家転封後、松平忠恒が小幡に入部し、以後4代続いて幕末まで存続した。この間、3代忠恵は、20余年間若年寄を勤めた功績により、1850年に「城主格」に進められた為、以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれる様になった。

 小幡陣屋は、雄川東岸の段丘上に築かれている。陣屋よりも国名勝に指定されている楽山園の方が有名であるが、現在は陣屋跡や楽山園が復元整備されて公開されている。御殿はないが、中門の桝形石垣や内部の仕切り土塁・空堀・石垣が復元されている。また調査で検出された建物跡も地面に表示されている。井戸跡は御殿側に2ヶ所、庭園側に1ヶ所復元されているが、庭園側のものは熊井戸と表記され、戦国期の熊井戸氏の館にあったものらしい。陣屋・庭園以外にも、「城下町小幡」ということで武家屋敷や大手道(中小路)の石垣や喰い違い郭なども残っていて、往時の雰囲気を残している。
庭園に復元された熊井戸氏館跡→IMG_9483.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.228887/138.914566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

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  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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八幡山砦(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9366.JPG←主郭外周の土塁
 八幡山砦は、小幡城の北側を守る砦とされる。しかし「小幡城」とは普通、江戸時代に織田氏が築いた陣屋のことを指すが、戦乱が遠ざかり幕政が安定した時期にわざわざ砦を築くことは考えられないので、おそらく国峰城のことを言っているのだろう。また八幡山砦は長畝砦と対になっていたらしく、長畝砦を「下の城」と称するのに対して「上の城」とも呼ばれていた様である。

 八幡山砦は、小幡八幡宮背後の比高50m程の丘陵上に築かれている。主郭は縦長の六角形の平場で、現在公園化されているが、北端部に物見台らしい土壇が、また南辺など周囲に土塁が散在している。主郭の北側下方には馬蹄形段曲輪が築かれ、東側には腰曲輪が取り巻き、南側の台地基部は小堀切が穿たれていた様だ。ここも長畝砦と同様、眺望に優れ、周囲を監視できる絶好の物見、兼陣場であったことが伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.234512/138.921540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国関東三国志―上杉謙信、武田信玄、北条氏康の激闘 (歴史群像シリーズ (2))

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研
  • 発売日: 1987/05
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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長畝砦(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9328.JPG←堀跡と櫓台
 長畝砦は、小幡城の北側を守る砦とされる。しかし「小幡城」とは普通、江戸時代に織田氏が築いた陣屋のことを指すが、戦乱が遠ざかり幕政が安定した時期にわざわざ砦を築くことは考えられないので、おそらく国峰城のことを言っているのだろう。また長畝砦は八幡山砦と対になっていたらしく、八幡山砦を「上の城」と称するのに対して「下の城」とも呼ばれていた様である。

 長畝砦は、比高15m程の半島状に突き出た丘陵の先端部に築かれている。以前は牧場となっていて立入禁止になっていたらしいが、現在は貸し農園になっていて進入可能となっている(但し先端の一部だけ羊牧場になっていて進入不能)。砦跡も農園化されているのでかなり改変を受けているものの、台地基部との間に堀切跡が窪地状の地形となって残り、櫓台らしい大きな土段も残っている。周りには一段低い腰曲輪が残っているが、その他には明確な遺構はなく、往時に全周していたと思われる土塁と空堀はかなり失われてしまっている。砦跡からの眺望は素晴らしく、西には内匠城、南西には国峰城、南東には一郷山城八束城天引城などの西上州の諸城砦が一望できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.240310/138.921454/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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庭谷城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9283.JPG←主郭周囲に残る土塁
 庭谷城は、国峰城の支城で、小幡氏の重臣庭屋左衛門尉が城主であったと伝えられている。庭屋氏の事績については、。西牧根小屋城の項に記載する。1590年の豊臣秀吉による小田原の役の際、国峰城と共に落城したと言う。

 庭谷城は、鏑川蛇行部の西岸の断崖上に築かれている。梯郭式の城だったと思われ、方形の主郭の東以外の3面を二ノ郭で囲んだ構造となっている。主郭は赤城神社の境内となっており、周囲に土塁が残っているが、石が積まれるなどやや改変を受けている。南西の入口が往時の虎口の跡であるらしい。また主郭の北側斜面下にわずかに石垣があり、どうも北側に下る城道があったらしい。主郭周囲の二ノ郭は畑と民家に変貌しており、主郭との間には堀があったと思われるが全て埋められてしまっている。ニノ郭の南側は奈免沢という沢に接しており、沢がそのまま外堀となっていた様である。この沢筋へは遊歩道があり、沢底(堀底)まで降りることができる。庭谷城は、改変が進んでいるものの、往時の雰囲気をよく残している。
 尚、城の西方にある慶恩寺に庭屋氏のものと推測される五輪塔群が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.264795/138.945765/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1




タグ:中世崖端城
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