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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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大袋城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06024.JPG←大袋城遠望
 大袋城は、館林城の前身で、1470年頃に関東管領山内上杉氏の家臣赤井氏が築いたと言う。享徳の乱の最中の1472年には、長尾景信・太田道灌らが攻囲70余日にして足利成氏方の赤井文三・文六を降したと言う。後に赤井照光が館林城を築いて移るまで、ここが館林の拠点であった。
 大袋城は、城沼に面した半島状に突き出した平地に築かれた城で、かつては土塁や堀跡が残っていたようであるが、現在はほとんどが民家となり遺構は完全に湮滅している。周囲の沼には釣り人が多く、ここがかつて城跡だったことを忘れさせる風景が広がっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.52.7N36.14.6.2&ZM=9
タグ:中世平城
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前橋城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02861.JPG←本丸の土塁
 前橋城は、室町・戦国時代には厩橋城と言い、戦国後期に上杉・北条・武田という三大強国の係争地帯となった上州の動乱の中心にあり続けた城である。

 蒼海城主総社長尾忠房は新たに石倉城を築いたが、利根川の氾濫により押し崩され、後に箕輪城主長野氏の一族、長野賢忠が崩れ残った残片を頼りに新城を築いたのが、厩橋城であると言う。以後、箕輪城の支城として機能したが、1551年に関東管領山内上杉憲政が小田原の北条氏康の圧迫を受けて越後に亡命すると、賢忠の子道安は北条氏に従い、北条氏家臣の福島頼季・師岡山城守らが進駐した。1560年、上杉謙信が越山して関東に進出すると、厩橋城の長野氏はこれに呼応し、謙信は厩橋城に本陣を置いて関東経略の前線拠点とした。関東管領職を譲り受けた謙信は、以後1578年に急死するまでの18年間に、厩橋城を前進基地として13回とも言われる関東出陣を行った。厩橋城代には、1563年に北条(きたじょう)高広を任命し、以後北条氏が厩橋を支配した。1578年に謙信が死去すると、後継を巡って御館の乱が勃発し、北条高広とその子景広は北条氏康の子で謙信の養子となっていた上杉三郎景虎に与した。しかし景勝方に敗れて景広は討死し、主君景虎は鮫ヶ尾城で自刃し、主家を失った高広は武田勝頼に従った。勝頼は、厩橋城を足掛かりに東上州に侵攻して膳城を陥とし、城主河田備前守を討ち取った。1582年に勝頼が織田信長に滅ぼされると、織田信長の武将・滝川一益が関東管領として厩橋城主となった。しかしそのわずか3ヵ月後に信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直は神流川の合戦で滝川一益を破ってこれを追い落とし、厩橋城は北条氏の支配下に入った。1590年の小田原の役では、北国勢に攻められて落城し、北条氏が滅んで関東に入部した徳川家康は、譜代の平岩親吉を厩橋城に封じた。関ヶ原合戦後は酒井重忠が厩橋城に入部した。

 徳川家の譜代の重臣酒井氏は、9代150年にわたって北関東の要である前橋城を支配した。この間に城は大改修されて近世城郭に生まれ変わり、名も厩橋城から前橋城と改められた。1749年に酒井氏は姫路城に移封となり、徳川家康の次男結城秀康の後裔松平朝矩が前橋城に入った。しかし前橋城は利根川による侵食が甚だしく、1767年に朝矩は川越城に移り、前橋城は取り壊されて陣屋となった。幕末になると不穏な国情から前橋城再築の必要が生じ、1863年に着工され、3年8ヵ月後の1867年に完成した。再築された前橋城は、旧三ノ丸を本丸とした渦郭式の縄張で、細部には西洋式の稜堡様式を取り入れた。城を取り巻く土塁の要所に砲台を設け、火砲の射程に合わせて「折」を延ばし、丸馬出しは規模を拡大し、大手の角馬出しは五稜郭のものに近似した構造とした。しかし完成を急いだ為、城門や建物は簡素なものだったと言う。そしてこのまま明治維新を迎えることとなった。

 このような複雑な歴史を持つ前橋城は、明治以降の市街化で本丸以外の遺構は壊滅してしまっている。現在本丸跡には群馬県庁が置かれ、その周囲には土塁だけがかつての雄姿を残している。この土塁は折れの部分の形状が角張っているが、これは幕末に改修された新しい土塁だからなのであろう。その他では本丸東側の大通り沿いに、前橋新城の車橋門の渡櫓の石垣がわずかに残っているのみである。本丸土塁が残っているだけ宇都宮城よりマシとは言うものの、かつて関東7名城の一に数えられた堂々たる城は、残念なことに時の彼方に消えてしまっている。
車橋門跡の石垣→DSC02886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.50.0N36.23.16.2&ZM=9
タグ:近世平城
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石倉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02842.JPG←かつての外堀跡の道路
 石倉城は、1485年に上野守護代の蒼海城主総社長尾忠房の嫡子憲景が築城した城である。憲景は1512年の新井城の戦いで戦死し、三男長景が城主となった。1563年、武田信玄が西上野に進攻すると、長景は厩橋城の守りについたが、留守となった石倉城を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。1565年には越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還したものの、翌66年、再度信玄に攻め取られ、信玄の重臣で保渡田城主の内藤修理亮昌豊親子が城将を兼帯した。その後、昌豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、その家臣寺尾左馬助(石倉治郎)がこれを守った。1590年の小田原の役では、松平修理太夫康国率いる徳川勢の進攻に対し、寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。康国はこの戦いで討死し、弟の松平新六郎が一千余騎で猛攻を掛け、左馬助以下残る城兵は城を枕に討死し、石倉城は落城したと言う。
 尚、この歴史は、現地の石碑に記されたものに拠ったが、日本城郭体系では1565年に信玄が築いた城とされ、小田原の役の際の落城の経緯も異なったものが書かれており、どちらが正しいのかは分からない。

 石倉城は、総社城などと同じく利根川西岸に築かれた崖端城で、利根川の浸食によりかつての本丸跡はかなり崩壊してしまっている。梯郭式に近い囲郭式の城で、本丸の周囲に二ノ丸があり、二ノ丸の西側外周を三ノ丸で囲んでいたようである。現在は市街化によって遺構は完全に湮滅し、わずかに二の丸公園や外堀公園にその名を残すだけである。しかし国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真によると、耕地の中に本丸や二ノ丸周囲の堀跡が見られ、最も明瞭に残っているのは外郭の外堀であった。現在の外堀公園東側に隣接する道路が、この外堀跡だったようだ。戦国後半の関東三国志の渦中の城も、今ではすっかり市街化の中に埋没してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.30.5N36.23.22.2&ZM=9
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総社城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02821.JPG←櫓台が置かれた遠見山古墳
 総社城は、近世初期に秋元長朝が築いた平城である。秋元氏は元々、深谷上杉氏の三宿老の一人として活躍し、後には小田原北条氏の家臣となった。その事跡は秋元氏館の項に記す。1590年に北条氏が滅びると浪人となったが、後に井伊直政の推挙により徳川家康に仕えた。1601年に関ヶ原合戦の功績で総社に1万石で入部すると、長朝は蒼海城を放棄して新たに総社城を築いた。秋元氏は総社城に居る間に天狗岩用水などを開削し、新田開発に大きな足跡を残した。そして、2代泰朝の時、1633年に加増されて甲州谷村城に転封となり、以後総社城は廃城となった。
 総社城は、総郭南北780m、東西750mの同心円状の縄張りで、遠構えの西は天狗岩用水を大堀とし、各郭は濠と丸野面積みの石垣で被覆されていたと言う。しかし現在では、本丸と二ノ丸の半分は、利根川の浸食によって崩壊し、それ以外の曲輪も宅地化と耕地化によって遺構は完全に湮滅している。城域内に遠見山古墳が残るが、総社城の櫓台として使われたことからその名が付いたとされる。周囲にはほとんど城らしい痕跡は残っておらず、どこが城跡かかなり迷うほどである。よく見て回れば、あちこちに大手跡や木戸跡などの標識があるようだが、回る気力も起きず今回はパスした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.56.6N36.24.27.6&ZM=9
タグ:近世平城
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蒼海城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02811.JPG←本丸跡の土塁
 蒼海城は、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の本拠である。長尾氏と言えば、上杉謙信(長尾景虎)を輩出した越後長尾氏が有名であるが、これと同族である。長尾氏は足利氏の有力な姻族である上杉氏(足利尊氏の母清子の実家)の家臣として南北朝期より台頭した。足利直義の股肱の臣、上杉重能の家臣長尾景忠は、1337年に上野守護代となり、その4男忠房は総社を与えられて総社長尾氏の祖となった。忠房は、元々国府があったと思われる地を城塞化して、蒼海城とした。
 関東管領を世襲するようになった山内上杉氏の家宰には同族の白井長尾氏が就いていたが、1473年に長尾景信が亡くなると、山内上杉顕定は家宰に景信の嫡子景春ではなく、景信の弟で惣社長尾氏を継いだ忠景を任じた。これは顕定が白井長尾氏の勢力伸張を警戒したためとされる。これを不満とした景春によって、長尾景春の乱と呼ばれる大乱を招くことになった。
 戦国時代に入り、駿河から伊豆に入った伊勢宗瑞(北条早雲)が勃興して小田原北条氏を興し、2代氏綱が勢力を伸張させると、1524年ごろ総社長尾顕方は北条氏に通じた。しかし箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業に挟撃されて苦しみ、ついに長野氏に降って上杉方に復帰した。後に長野業政の計らいで総社長尾景房が白井長尾氏を継いだが、以後、総社長尾氏は全く衰え、1566年に蒼海城は武田信玄に攻略され、総社長尾氏は上杉謙信を頼って越後へと退去した。その後、蒼海城は荒廃した。
 1590年に北条氏が滅んで徳川家康が関東に入部すると、諏訪頼水が総社に入部した。しかし蒼海城は、国府跡に築かれた為か、地形に拘束された縦横列郭構造の不合理な城であったらしく、長尾景行の子忠房さえ放棄して石倉城を築城したほどで、諏訪氏も入城せず、諏訪氏が諏訪高島へ移ると、秋元長朝が入部したが、新たに総社城を築城して移り、蒼海城は廃城となった。

 蒼海城は現在はほとんど宅地化され、往時の地形を知ることはほとんど不可能である。しかし御霊神社が置かれた地はかつての土塁上と考えられ、その南東には本丸跡の土塁が残っている。中は畑になっているようだが周囲を民家で囲まれており、中を見ることはできないようだ。早くに失われた城の為、遺構がほとんど残っていないのも致し方ないところなのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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保渡田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02774.JPG←かつて本丸櫓台だった天子塚古墳
 保渡田城は、甲斐武田氏の重臣内藤昌豊が築いた平城である。1566年、武田信玄は西上州に侵攻し、最後まで抵抗を続けていた西上州の豪族長野氏を滅ぼして箕輪城を制圧し、西上州を手中に収めた。そして、内藤昌豊を箕輪城代としたが、昌豊は保渡田に新城を築き、そこに在城して西上州を支配した。長篠の戦いで多くの武田氏重臣と共に昌豊が討死すると、子の大和守昌月が跡を継いで保渡田城に居城したが、武田氏が滅び、更に織田信長が本能寺で横死して旧武田領が権力の空白地帯となると、北条・徳川両軍が旧武田領に侵攻し、両者の講和の結果、西上州は北条領となった。昌月もこの時北条に降ったと言われているが定かではない。以降の事跡は城共々不明である。
 保渡田城は、武田信玄の重臣内藤昌豊の城としては、いささか小さな城である。かつての城域はほとんど宅地に変貌している。しかしその遺構は断片的にではあるが、本丸周囲の土塁や堀跡のほか、北城と呼ばれる曲輪の土塁、堀跡が比較的明瞭に残っている。本丸南側には天子塚古墳があるが、櫓台として使われたようである。武田氏特有の丸馬出しも見られず、縄張も比較的平凡なので、その規模からしても、おそらく居館としての機能を主とした城だったと思われる。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
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北新波砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02744.JPG←横矢の掛かった土塁と空堀
 北新波砦は、西上州の豪族長野氏の築いた砦である。この長野郷は長野氏の発祥の地で古くから勢力を持ち、箕輪城周辺に多くの砦を築いて、武士団を統率していたと考えられる。その数なんと23もの環濠遺跡群が確認されており、北新波砦もその一つである。その歴史は定かではないが、武田信玄の西上州侵攻における箕輪城落城の際に殉死した新波新左衛門が、砦の将とも伝えられている。
 北新波砦は、平地に築かれた小さな砦であるが、ほぼ方形に土塁と空堀を廻らした遺構が良好に残っている。南側には出枡形状の突出部があり、突出部のすぐ横にある南に開いた大手虎口を防御していたものと考えられる。大手虎口は土橋で郭外に通じていたようである。また南東に隣接する満勝寺にも土塁と堀跡が残り、複郭の砦であったようだ。小さいながらもこうした遺構が公園化されて良く保存されていることは、非常に喜ばしいことだと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.58.25.3N36.21.44.5&ZM=9
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北城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02725.JPG←畑の中に残る外堀跡
 北城は、北爪の砦とも呼ばれ、関東管領山内上杉氏の麾下で勇名を馳せた西上州の豪族長野氏の拠る箕輪城の直衛支城であった。1560年頃に築かれたとされ、守将の北爪土佐守は、武田信玄の西上州侵攻の際、箕輪城で戦って討死した。箕輪城の落城で長野氏は滅亡し、それに伴って北城は廃城になったと思われる。
 北城は、二重の堀で囲まれた、ほぼ方形の環郭式の平城であった。現在は城の中央を南北に道路が貫通し、城内は宅地や畑に変貌している。主郭はうどん屋さんのある辺りである。城域の西半分は遺構が比較的明瞭で、畑の中にわずかに堀跡が残っている。東半分は民家が並び、その痕跡すら失われている。日本城郭体系によれば、かつては虎口も明瞭であったようだが、今ではほとんど分からない。しかし、地元の人にはここが城跡であったことがしっかりと伝えられているようだった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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高崎城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02677.JPG←南側の高土塁
 高崎城は、徳川家康の重臣井伊直政が築いた近世城郭である。元々この地には、鎌倉時代に和田正信が築いた和田城があった。和田氏は、室町時代には上野守護も兼帯した関東管領山内上杉氏に従い、小田原北条氏によって山内上杉氏が越後に追われると、甲斐武田氏に臣従。その後、武田氏が滅びると北条氏に従ったが、1590年の小田原の役で北国勢の大軍に降り、廃城となった。北条氏滅亡後、関東に入部した徳川家康は、1598年に中山道が開通して碓氷峠の戦略的重要性が増すと、同年、これを押さえる拠点として井伊直政に命じて、和田城の故地に高崎城を新たに築かせた。直政はその後、関ヶ原の戦功によって在城わずか2年半で近江佐和山に移ると、蒼海城主諏訪頼水が5年間所管するなど城主の幾多の変遷を経て、高崎藩主の居城として幕末まで存続した。

 高崎城は烏側東岸に築かれた城で、明治期に他の多くの城と同様、城内に陸軍の兵舎が置かれたため、城内の遺構は隠滅している。しかし三ノ丸周囲の土塁と水堀が、ほぼ全周にわたって見事に残っている。この土塁と水堀は、最外郭に当たる為か、1ヶ所突出部を設けるほかはほとんど直線的に配置されている。土塁は一様な高さではなく、南側の方が高くなって規模も大きく、5m程の高さがあって見応えがある。それ以外では、本丸に4つあった隅櫓の内、乾櫓だけが現存し、三ノ丸土塁上に移築されている。市街化によって往時の面影はかなり失われているものの、外郭だけが見事に残る近世城郭である。

 尚、城の西に架かる和田橋のたもとに和田城の唯一の遺構の櫓台土塁が残っているそうだが、今回は見逃してしまった。いずれ再訪してみたい。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
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倉賀野城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02618.JPG←住宅地の中に残る堀跡
 倉賀野城は、武蔵七党児玉党に属する倉賀野氏の居城である。倉賀野氏は、治承年間に秩父三郎高俊がこの地に入部して倉賀野氏を称したのに始まり、南北朝時代に倉賀野頼行が倉賀野城を築いたと言う。倉賀野氏は結城合戦以降、関東管領山内上杉氏に従い、戦国関東の重要な画期となった河越夜戦の際にも山内上杉憲政に従ったが、倉賀野行政は乱戦の中で討ち死にした。行政の死後、倉賀野十六騎と呼ばれる重臣達が幼主を助けて倉賀野城を守った。しかし倉賀野衆内部には内紛分裂があったようで、1559年秋、倉賀野十六騎の内、金井秀景が武田信玄に従ったと言う。1560年、小田原北条氏に追われて越後に逃れた上杉憲政の請いを受け、長尾景虎(後の上杉謙信)が越後から関東に出馬すると、倉賀野左衛門五郎尚行はこれに従って小田原城まで遠征し、一方、その後巻き返しに出た北条・武田両軍は倉賀野城を攻撃した。尚行は橋爪若狭守に助けられて敵を撃退したが、1565年には武田信玄の西上州侵攻によって、箕輪城に先立って遂に落城した。以後、倉賀野城は甲斐武田氏の持ち城となり、1570年には金井秀景が倉賀野城主となって、倉賀野淡路守秀景と名乗った。1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされると、秀景は厩橋城に進出した織田信長の家臣、滝川一益に従った。本能寺の変で信長が横死すると、上野に侵攻した北条氏直は神流川合戦で一益を破り、一益は残兵を倉賀野城に収容した後、伊勢に逃げ帰った。その結果、倉賀野城は北条氏の手中に帰し、以後、秀景は北条氏直に従い、倉賀野城には垪和伯耆守が駐留して北武蔵と上野の国務に当たった。1590年の小田原の役では、秀景は小田原城に籠城し、倉賀野城は北国勢の大軍の前に降伏開城し、以後廃城となった。

 倉賀野城は烏川北岸に望む断崖上に築かれた城で、かつては幾重にも外堀を廻らした広い城であった。三ノ丸北側には丸馬出しもあったようで、おそらく武田氏によって改修されたものであろう。しかし現在では市街化によってほとんど湮滅し、往時の姿を想像することは難しい。しかしよく歩いてみると、住宅地の合間にかつての堀の名残が残っていて、ここが城であったことをわずかに伝えている。尚、現地に掲げられている縄張図に拠れば、西の林西寺周辺には西城と呼ばれる出城があったようである。しかし、ここも遺構はほとんど確認できなかった。かつては関東三国志の争奪の只中の城であったが、時の彼方に消えてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.51.9N36.17.27.8&ZM=9
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館林城 その2(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSC09283.JPG←加法師町交差点の南の土塁と堀
 正月明けてから、城の再訪が続く。今回は、実家に行った帰りに寄った館林城
 年末に会社が休みに入ってから、国土変遷アーカイブをじっくりと見る機会ができたので、GoogleやYahooで表示される現在の航空写真と比べてみると、街中の城でも結構遺構が残っていることがわかった。館林城もその一つ。
 以前に行った時は、加法師町交差点の横と館林一中の周りの土塁を見たが、それ以外の部分でも土塁と堀跡が2ヶ所残っていた。一つは加法師町交差点から南に150mほど離れたところにある加法師曲輪遺構。もう一つは朝日町交差点の80mほど南の城町地区内の外曲輪遺構。どちらも薮化が激しく中に入るのが一苦労だが、高さ2~3mの土塁とその前面の堀跡がしっかりと残っている。特に後者の方は200m程の長さにわたって土塁が残り、なかなか見事なものである。ただ、東の方は宅地開発中らしく、重機で土塁が崩され始めているところだった。このまま行けば数年でこの土塁遺構は消え失せてしまうかもしれない。大変残念なことではあるが、街中の近世平城の宿命であろうか?
 なお、どちらも思いっきり住宅街の中なので、見に行く方は不審者に間違われないよう注意して欲しい。
朝日町交差点の南の土塁と堀跡 →DSC09306.JPG

 場所:
 加法師町交差点の南:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.8.9N36.14.45.0&ZM=9
 朝日町交差点の南:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.42.5N36.14.47.9&ZM=9

金山城 その2(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC09193.JPG←八王子山の横堀
 金山城には以前行っているが、本城以外にまだ見逃している遺構があったため、今年の正月に再訪した。今回訪れたのは、比丘尼坂筋違門、北八王子山矢倉台、中八王子山矢倉台、大手門の各遺構である。
 比丘尼坂筋違門は、東の山麓から山道を登ってくると到達する。ここへは、大八王子山矢倉台から石塁と空堀が到達して、筋違い虎口を形成していたようであるが、終戦後の失業対策で遺構を壊して切通しとし、車道を通したという。現在では土塁の残欠らしきものはあるが、遺構かどうかよくわからない。
 北八王子山矢倉台は、この比丘尼坂筋違門から登山道が伸びており、それに従って登っていくと到達する。遺構としては大したものではなく、ちょっとした平場があるぐらいである。しかし重要なのはここからである。この北八王子山から中八王子山まで横堀が尾根筋に沿って伸びているのが明瞭に残っているのである。この横堀は、中八王子山まで来るとY字状に分岐して矢倉台南側を取り巻くようにして防御している。中八王子山矢倉台は数段の平場から構成されており、切岸の一部には石垣の跡と思われる石積みもわずかではあるが散見される。現地解説板では埋門跡があったということだが、確認できなかった。
 この八王子山から北の本城との間の谷間に向かって、石塁が竪土塁のように伸びている。
 大手門跡には竪土塁(実際は石塁らしいが確認できなかった)とその北側に「桜の井戸」と呼ばれる井戸跡が残っている。
 なお、現在大手門跡付近の平地に、城址資料館を建設中である。
竪土塁状の石塁→DSC09177.JPG

 場所:
 比丘尼坂筋違門:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.59.8N36.18.38.3&ZM=9
 中八王子山矢倉台:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.49.0N36.18.30.4&ZM=9
 大手門:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.42.5N36.18.33.4&ZM=9
 

大胡氏館(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07391.JPG←養林寺境内に残る堀と土塁
 大胡氏館は、大胡城から西に200m程のところにある。現在の養林寺がその跡とされ、大胡氏の初期の居館があったとされている。浄土宗の開祖法然と親交のあった大胡太郎実秀は、ここに居を構えていたという。境内の北と西周囲には土塁と堀跡が残っている。おそらくは単郭の方形居館であったのだろう。
 なお境内には、徳川将軍5代の供養塔と大胡城主牧野康成の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.9.33.7N36.25.2.3&ZM=9
タグ:居館

大胡城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07323.JPG←本丸の土塁と空堀と土橋
 大胡城は、平将門討伐で功を挙げた鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利氏の庶流大胡氏の築いた城である。足利成行の重俊が勢多郡大胡に入部して大胡氏を称した。大胡氏は源平の争乱時には源頼朝に従って功を挙げたが、南北朝期から室町時代にかけての時期に惣領家は滅び、その一族が存続し続けた。戦国期に入ると関東管領上杉氏に従っていたが、河越夜戦で小田原北条氏が一気に南関東の覇権を握った後、大胡勝行は由良氏の圧迫を受けて北条氏に下り、江戸牛込に移り住んで以後牛込氏と称した。(→牛込城参照)その後、越後の上杉謙信が上野に進出してくると、大胡城に北条高広を入れた。謙信の死後、高広は武田勝頼に下り、更に勝頼が織田信長に滅ぼされると、最終的には小田原北条氏に従った。1590年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、関東には徳川家康が入部し、大胡城には牧野康成が2万石で入った。1616年に牧野氏が移封になると廃城となった。

 大胡城は荒砥川沿いの台地上に築かれた、この地方に多い丘城である。山上城などと同じく、南北に長く曲輪を連ねている。各曲輪は堀で分断されており、城のちょうど中央の最高所に本丸を置く。本丸は周囲の二ノ丸より5m程高くそびえていて、その周囲に空堀で防御している。本丸内の外周には比高の高い土塁が取り巻いている。本丸東側は絶壁となっている。本丸と二ノ丸は公園化されていて、遺構もほぼそのまま残っている。二ノ丸内には枡形虎口の石垣も残る。二ノ丸から西に下っていくと、玉蔵院跡という平場があり、その外側に外堀(小川)が残っている。本丸から深い堀(小川)を挟んで北にある北城には現在大胡幼稚園が置かれている。かつてはこの敷地の中に、堀で区画された馬出しがあったらしい。更にその北には幅の広い堀を挟んで近戸郭があるが、堀底には道路が通り、郭内には大胡神社が鎮座する。一方、二ノ丸の南には深い堀(小川)を挟んで三ノ丸があるが、テニスコートに変貌している。更にその南の南郭には前橋市役所大胡支所が置かれており、かつての面影はない。城の東側の平地部はかつての根小屋で、地名としても残っており、牧野氏の時代に家臣団の屋敷地として整備されたのであろう。

 市街化で当時の面影が失せている部分も多いが、周囲の堀跡など全体に遺構は良く残っていて、とくに本丸周辺の遺構は一見の価値がある。現在でも十分要害性を感じることのできる、良好な遺構である。
本丸と北城の間の堀跡→DSC07320.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.9.44.4N36.24.59.0&ZM=9
タグ:中世平山城

山上城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07231.JPG←北曲輪西側の堀と土塁
 山上城は、藤沢川と山田川という小河川に挟まれた台地上に築かれた、いわゆる丘城である。鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利成行の孫の五郎高綱がこの地に入封して山上氏を称し、この城を築城したといわれる。高綱の子太郎高光は源頼朝に仕えた。その後も山上氏は勢力を維持し、室町時代に上杉氏が関東管領となっていた頃には、由良氏・薗田氏・桐生氏などとともに東上州の四家として重きをなしたと言う。その後、戦国後期になると、山上城は膳城などと共に北条・上杉・武田3氏による争奪の舞台となり、天正18年の北条氏滅亡に伴って廃城となったという。このことから最終的には北条氏の勢力下に入っていたようである。
 山上城は近くにある膳城とほとんど同じような立地条件にある。この地域の城は、おおむね上毛電鉄の線路を境に北側は丘城、南側は平城と、立地条件が変わるという。殊に山上城は南北に長い台地上にあるため、南北に曲輪が連なり、防御の弱くなる東西側面を腰曲輪を築いて防御性増強を図っている。現在城跡公園となっているが、完全公園化しているのは三ノ丸だけで、それより北の曲輪はほぼ原状維持されているようだ。本丸は城内最高所に置かれ、周囲を空堀と帯曲輪で防御されている。二ノ丸とは堀も介さず連続しているのだが、面白いのは西側だけ二ノ丸との間に堀を設けていることである。北曲輪は最も防御が厳重で、東以外の三方に空堀を設け、更にその先に土塁や笹曲輪を作って防御性を高めている。二ノ丸と三ノ丸の間は空堀で分断し、三ノ丸は広大で、現在一面の芝生公園となっている。三ノ丸の南側は低地となっていて畑や宅地となっているが、ここからは近年武田氏系城郭の特徴である丸馬出しが発見された。笹曲輪から三ノ丸までの西側には数百mに及ぶ長い土塁と空堀が構築され、本丸より北では土塁と空堀は二重となっていて厳重に防御している。西側にここまで徹底的な防御施設を構築しているのは、東側は眼下に藤沢川が迫って天然の外堀となっているのに対して、西側は平坦な地形が続き防御が弱かったからであろう。このほかに更に南側にも櫓台跡とされる高台が残っている。
 膳城とは近く立地条件も似ているが、全体に城の構築思想は大きく異なっており、あまり技巧性のない縄張りである。城域は広く、多数の兵員を置くことのできる軍事駐屯地だったようである。遺構は非常に良く残っており、ほぼ全ての縄張りが復元可能なレベルで一見の価値がある。
本丸・二ノ丸と東側の帯曲輪→DSC07250.JPG
DSC07237.JPG←西側の長大な堀と土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.51.8N36.25.30.3&ZM=9
タグ:中世平山城

膳城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07129.JPG←複雑に横矢の掛かる堀
 膳城は、2本の小河川に挟まれた台地上に築かれた城である。この地域に多い、いわゆる丘城である。築城年代は定かではないが、膳氏の居城であったのではないかといわれている。膳氏は悲しい歴史の一族で、周辺土豪との争いで何度も城を落とされて逃亡し、20年近く桐生氏に奪われていたこともあった。最終的には1572年に由良氏に攻められて城を落ち延び、以後城に戻ることはなかった。その後、上州を舞台に繰り広げられた北条、上杉、武田という強豪3氏による関東三国志の中で城主は変遷する。その中で城も整備拡張され、規模の大きい城となった。
 膳城で有名なのは1580年の武田勝頼による膳城素肌攻めである。すなわち、東上州を攻略しつつあった武田勝頼は家臣と平服で巡行していたところ、酒に酔って喧嘩を始めた城兵がこの一行に襲い掛かり、怒った勝頼一行はそのまま甲冑を着けずに城を攻め落としたというのである。伝承の域を出ないが、勝頼の剛勇ぶりを良く伝える逸話である。名門武田家を滅ぼしたことでとかく評価の低い勝頼であるが、武将としてはやはり傑出していたのだろう。
 城は現在本丸とその周囲のみが公園化されて残り、それ以外は宅地化されてしまっているが、この本丸周辺だけでも見ごたえがある。公園化といっても、変な改変の手を加えることなく原状維持と散策路案内を主眼としているので、史跡保存の見本としたいレベルである。各曲輪は複雑に横矢を掛け、堀は屈曲しながら曲輪間を分断し、土塁や櫓台、土橋も明瞭に残っている。道路から土橋を渡るとすぐ本丸になるが、本丸の四周は空堀で防御されている。本丸東側は馬出しだったようである。本丸西側には二ノ丸などの曲輪が続き、本丸南側には大きな櫓台を伴った三ノ丸がある。また本丸から道を挟んで東側にも堀跡の一部が残っているがこれは前述の馬出しの遺構であろう。とにかく素晴らしい遺構群で、とても言葉で伝えられるものではない。この地域の軍事的緊張感をまざまざと見せ付けられる見事な遺構である。すぐ近くの山上城などと比べると、かなり高度な縄張りであるので、地域防衛の重要拠点となっていたのではないだろうか?後でGoogleMapの航空写真などで調べると、大手虎口跡なども民家の裏に残っているようなので、もう一度再訪したい。
道の反対側にも堀跡が残る→DSC07146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.33.8N36.25.6.1&ZM=9

中村城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07058.JPG←主郭北側の堀と土橋
 中村城は、方形居館跡と考えられる城址である。歴史的由来は定かでなく築城者は伝承で中村右馬之丞とされるだけで、古文書や発掘調査でも城の来歴を示すようなものは見つからず、よくわからないようだ。
 水田の広がる平野の真っ只中にある平城で、現在は北と西側の土塁と空堀だけが残っている。北側の堀には虎口の土橋跡が見られる。西側の土塁は単純な直線形ではなく、南端で主郭側に大きく曲がりこんでいる。これは搦め手虎口の跡であるらしい。主郭跡は現在民家になっているので、外回りから眺めるだけである。南側に民家に入る道が伸びているが、これはかつての大手道の跡であるらしい。ちょっと道が屈曲しているところが、大手虎口の跡と考えられる。主郭南には一段低く南曲輪が、北にも狭い帯状の北曲輪があったというので、単なる単郭の居館ではなかったようだ。
 遺構はよく残っているが、歴史が定かでないので何とも感想を言いかねる城である。おまけに場所がメチャクチャわかりにくい。もっと案内板を整備してもらえればと思う。

 お城評価:☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.56.9N36.25.18.1&ZM=9
タグ:居館

女渕城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07004.JPG←池(水堀)に面した曲輪
 女渕城は、水堀を多用した平城である。誰がいつ城を築いたかは定かではないが、足利直義(将軍尊氏の弟)の名と共に古文書に城の名が登場するらしい。北条・上杉・武田による関東三国志の動乱の中で、幾多の城主の変遷を迎えた。最終的には武田氏滅亡後、小田原北条氏が南上野を領国化して北爪氏をこの城に配したが、天正18年の北条氏滅亡に伴って廃城となった。
 女渕城の西に隣接して大きな貯水池が残るが、これは当時からのものであり、その広さから考えて人工のものではなく、もともとこの地にあった池をうまく縄張りに組み入れたものであろう。城は連郭式の縄張りで、南北に連なる4つの曲輪(北から北曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸)と池を挟んで西曲輪の計5つの曲輪から構成されていたようである。現在は公園・畑・宅地および御霊神社境内となっている。かなり改変を受けてはいるが、往時の縄張りはほぼ追うことができる。水堀も一部は埋め立てられているが、その形状を残している部分が多く、二ノ丸南の道路も元は二ノ丸と三ノ丸を分断する水堀跡だったようである。道路際に三ノ丸の土塁跡も残っている。残念なのは、三ノ丸西の池が全て埋め立てられて公園になってしまっていたことである。また本丸などの池に面した切岸が護岸工事でコンクリートに変貌しているが、これはやむを得ないところであろう。当時の縄張りをほぼすべて追うことのできる、数少ない貴重な街中の平城である。
北曲輪の堀跡、→DSC07021.JPG
    ここが一番城跡らしく見える
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.19.4N36.24.37.3&ZM=9

大室城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06982.JPG←二ノ丸周囲の水堀
 大室城は、もともとこの地の土豪の大室氏が12世紀末頃まで構えた城であったが、この頃は北西500mほどの場所にあったという。室町時代には現在の地に新たに現在の地に築城され、白井長尾氏に属して家臣の牧弾正の居城となった。時代が下って1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると、1601年に酒井氏が前橋城に入封し、家臣の石川氏がこの城を守った。1749年に酒井氏が姫路に移ると石川氏もそれに従い、城の管理を最善寺に任せたという。
 大室城は、東神沢川沿いの台地上に築かれた平城で、本丸には大室神社が、二ノ丸には公民館が置かれている。本丸と二ノ丸は東西に並んでおり、二ノ丸は周囲より一段高く、本丸はそれより更に一段高くなっている。本丸にはそれほどの広さがないので、城主の館は二ノ丸にあったものと思われる。二ノ丸の南北と東の三面には土塁と水堀が残り、よく整備されている。本丸北には堀跡の道を挟んで馬出し状の高台が、また西側にも堀を挟んで土塁が残っている。現地解説板の縄張図では、更に北曲輪・南曲輪があり、城下町を取り込んだ総郭になっていたようだが、現在では宅地化で湮滅している。全体に小規模ながら、よく城跡らしい雰囲気を残している。
 群馬県民は、赤堀城など中小土豪の作った小さい城ながら、市街化で破壊しつくすことなくどれもよく遺構を保存し、丁寧に解説板まで整備している。素晴らしいことだと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.11.23.4N36.22.59.6&ZM=9
タグ:中世平城

毒島城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06923.JPG←島の如く浮かぶ毒島城
 毒島城(ぶすじま)は、その歴史は定かではないが、永禄年間に青木氏が在城したらしい。現地解説板は、規模が小さく防御性も高くないので出城であったとの説を載せている。
 多田山丘陵東側の広い湿地帯の中に、浮島の如く浮かんだ楕円形の城である。現在では周囲の湿地帯は全て水田となっていて、城の中も畑となっている。楕円形の主郭の周りを一段低い腰曲輪がぐるりと全周取り囲んだシンプルな構造で、遺構は良く残っているが、土塁などの防御施設はない。しかし、往時は周囲を湿地帯が囲んでいたので、それだけで十分な防御性を発揮したのかもしれない。
 それにしてもこの城の名前、毒の島。しかも読み方は「ぶすじま」である。すげー名前だ。もし自分の苗字が毒島だったら、なんかすげーヤダな・・・。(世の中の毒島さん、ごめんなさい。)小学校とかでものすごくいじめられそうな名前だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.58.6N36.23.10.0&ZM=9
タグ:中世平山城

天幕城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06898.JPG←本丸遠景、手前は二ノ丸
 天幕城は、赤堀城の支城として築かれた。戦国上野の動乱に翻弄された城らしく、那波氏、桐生氏、由良氏、小田原北条氏と、幾多の勢力の下を変転した。結局、北条氏滅亡に伴って廃城となった。
 天幕城は、蕨沢川とその旧河道の低地に挟まれた台地上に築かれている。その立地条件からして赤堀城と似ているようだ。一番の高地に本丸を置き、その西と北には土塁が明瞭に残っている。西側の土塁は幅が広く、ただの土塁としてではなく、櫓台か曲輪の一緒として使われたのではないかと想像される。この土塁の更に西側にも腰曲輪があり、その南端には水の手曲輪まで残っている。本丸の東と北は二ノ丸が囲み、更にその外側は蕨沢川旧河道の低地を利用した広い外堀となっている。本丸南側には三ノ丸がある。三ノ丸は用水路が東西に突っ切っているので、多少破壊されているようだ。
 城跡は現在では本丸・三ノ丸が畑に、二ノ丸はお花畑になっている。また外堀は「天幕城趾あかぼり蓮園」になっている。この日は初秋の良く晴れた暖かな日で、真っ赤な花が咲き誇ってきれいだった。赤堀城ほどの土塁のダイナミックさはないが、良好な遺構が残る城である。
外堀と二の丸切岸→DSC06894.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.56.9N36.23.40.2&ZM=9

赤堀城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06854.JPG←本丸北側の堀跡と土塁
 赤堀城は、平将門の乱の鎮圧で大功を挙げた鎮守府将軍、藤原秀郷の末裔といわれる赤堀氏の居城である。南北朝動乱の前半期に赤堀直秀によって築かれた。赤堀下野守親綱のときに上野の戦国大名由良氏の幕下となったが、その後由良氏が小田原北条氏の勢力下に組み入れられると、北条氏家臣の小菅氏が在城したという。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、赤堀城も廃城となった。
 赤堀城は、2つの小河川に挟まれた台地上に築かれた城である。本丸内や周囲は畑や宅地となっているが、本丸の北側と東側に土塁と堀跡が良く残っていて、北東側には喰い違い虎口まで明瞭に残っている。この虎口の形状は、鬼門除けの入り隅を兼ねているようだ。南側の県道を跨いだ南側にも堀跡があったようだが、現在では耕地化でかなり埋められていて、わずかな段差が見られるに過ぎない。一方、北側にも曲輪跡と堀跡があったようだが、こちらは更地化で完全に湮滅していた。
 小規模ながら明瞭な遺構の残る、良好な城である。住宅地の真っ只中にこれだけの遺構が残っているのはうれしい。
本丸の土塁→DSC06857.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.33.3N36.22.38.6&ZM=9

国済寺城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC00822.JPG←堀跡?
 国済寺城は、別名道原城ともいい矢場川と渡良瀬川を天然の堀とした平城である。ほど近くにある市場城と共に、由良氏の金山城の支城として築かれた。位置的に、由良氏が足利長尾氏との境界に築いた境目の城であろう。太田市のHPによれば、「室町時代の永禄年間(1558~69)のある時期には、由良国繁の弟(後の長尾顕長)が居住していた」という。
 往時は外郭が東西250m、南北約190mの規模で、東側の堀切は二重の構えとなっており、この堀切の北寄りには、鬼門除けのための「折」が設けられていた。また内郭は一辺約90mの方形で、堀と土居に囲まれており、南側中央にのみ虎口(出入り口)が付けられていたという。しかし残念ながら、現在は主郭は新興住宅地として整備され、周囲の曲輪も市街化で遺構のほとんどは湮滅してしまった。建設会社の裏に竹林があり、その中に堀跡らしき地形は残るが土塁は全く残っておらず、どうもはっきりしない。市場城もそうだったが、行政当局がもう少し史跡保護に積極的であったらと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.24.41.7N36.20.2.0&ZM=9

 太田市のHP:http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/maizou/kokusai.html

※2010-11-28:城址位置誤認識が判明した為、再調査の上訂正。

矢田掘城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC04270.JPG←南側の土塁
 矢田掘城は金山城の支城の一つで、金山城主の由良氏一族の泉基国、基茂が城主であった。城とは言うものの、基本的には方形単郭居館に見える。一般的な館跡と違うのは、築かれた土塁が二重土塁であることであろうか。しかし、現地解説板をよく見ると、土塁に囲まれた曲輪内に点線で二重の四角が書かれており、往時は環郭式に二つの曲輪が存在していたのかもしれない。周辺は完全に宅地化しているため、遺構の残り具合は良好とは言えないが、それでも一部の土塁が残っており、特に大手があったと思われる南側の土塁は、二重土塁の形状のまま残っている。また大手道の名残と思われる道は土塁の近辺で屈曲しており、食違い虎口になっていたようである。これ以上、遺構が隠滅しないことを望みたい。
屈曲する大手道→DSC04271.JPG
  食違い虎口の名残と思われる
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.23.8.2N36.19.53.0&ZM=9

小川城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

DSC03633.JPG←横矢の見事な本丸の堀跡
 小川城は、沼田氏の一族小川氏の居城である。沼田景久は、1492年に荘田城の西の押さえとしてこの地に城を築き、次男の景秋を置いて小川氏を称したという。後に小田原北条氏の勢力がこの地に延びてきて小競り合いが繰り返される中で、宗家が戦死して断絶状態になったときもあった。そのころ、播磨の守護大名で三管四職の一家、赤松氏の裔、赤松捨五郎祐正なる者がこの地に流れ来て客分としている内、次第に才を認められて宗家の後家と女合わされて、上杉謙信の裁可を得て小川氏の名跡を継いだ。そして小川可遊斎と号して迫り来る北条勢と対峙して、1580年には北条勢に大勝を博したが、怒った北条氏邦の怒涛の進撃の前についに城を捨て、見城の柵(味城山のこと)での最後の抗戦も虚しく、越後に落ち延びたという。
 城は利根川右岸の断崖上に築かれている。城の構造は名胡桃城に良く似ており、半島状に突き出た断崖上に本丸とささ曲輪を置き、唯一の攻め口である本丸西側の台地を掘り切って二の丸と分断している。本丸は公園化しているが、この堀が非常に良く残っていて、横矢も明瞭である。本丸には櫓台や土塁もあり、本丸周囲の遺構の残り具合は非常に良い。一方、二の丸であるが、国道に分断されているところまで名胡桃城に似ていて、更にその西側は畑と宅地に変貌している。わずかに看板によって、二の丸の堀跡がわかるくらいのものである。二の丸の西にも根小屋などがあり往時はかなり広かったようであるが、現在ではほとんど城跡の痕跡を見出すことはできない。
 新幹線の上毛高原駅のすぐ近くなので、場所はわかりやすい。二の丸以降の曲輪ももっと残っていればよかったのだが。まあ、本丸の堀跡が見事に残っているだけでも良しとすべきか。
先端にあるささ曲輪、→DSC03650.JPG
    その先は断崖絶壁である
DSC03659.JPG←二の丸の堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.59.3.2N36.41.22.4&ZM=9

 それにしても、歴史とは面白いものである。まさか群馬で赤松一族の名を聞こうとは思わなかった。赤松氏は播磨の土豪であったが、元弘の倒幕戦で赤松円心則村が活躍して勇名を馳せた。しかし円心は護良親王に組していたため、後醍醐天皇の寵妃阿野廉子に嫌われ、恩賞をほとんどもらえず怒って播磨に引篭もった。後に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、足利方に付いて終始尊氏を支え続けた。京都争奪戦で一時は大敗した尊氏を強力に支援して、九州落ちから再度の西上まで支え続けて大功を挙げた。そのため足利幕府が開かれると播磨の守護に任命され、3代義満が武家の家格の序列を決めたときには、足利一門以外では京極佐々木氏と並んで四職の家柄となった。

名胡桃城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

DSC03612.JPG←断崖上にそびえる名胡桃城本丸
 名胡桃城は、利根川右岸の高低差50m程もある険しい断崖上に築かれた城である。城の形状は、串焼きの形に似ている。すなわち曲輪を縦に連結して、その間を堀で横一直線に分断し、中央に土橋をかけているという構造である。半島状に突き出た断崖の上に築かれており、しかも周囲は絶壁になっているので三方からはまず攻めることは出来ない。したがって、本丸は先端に近い部分に築かれているが、ここに近づくには西側の台地側から、三の丸、二の丸を経由する以外方法はないであろう。曲輪間の堀はそれほど大きなものではなく、一番広いところでも10mに満たない。薬研掘ではなく箱掘形状のようだ。埋められているのか、深さもかなり浅くなってしまっている。本丸の先にも土橋を通じて、ささ曲輪、物見曲輪などがあるが、実質近づけるのはささ曲輪までで、その先の物見曲輪は手前の堀の薮がひどく、断崖の形状が全くわからないため、夏場には危険で近づくことは出来ない。それ以外に居館部分として、般若曲輪や外曲輪が残っている。外曲輪は、現在国道17号バイパスが分断している。ここは国道の真横にある珍しい城でもある。外曲輪は宅地や畑になっているので、遠目にしか見ることはできないが、中央に堀跡がかなりはっきりと残っている。外曲輪の南の渓谷内には水の手曲輪があるが、これも夏場では薮で近づくことが出来ない。こちらに行くと小規模ながら石垣が残っているらしい。全体に城の規模は小さく、あくまで拠点防衛もしくは敵地への攻撃拠点としての側面が重視されたものであろう。
 名胡桃城はもともと、1492年頃に沼田景久が子息を配置して名胡桃氏を称したことに始まるが、現地解説板によれば、まだこの頃には城はなかったらしい。本格的に築城されたのは、沼田地方が上杉、北条、武田3氏の争奪の場となった時である。1578年に沼田城が北条氏の手に落ちると、利根川左岸の地は北条氏の勢力圏となり、それに対峙する最前線として真田昌幸が築城したものと考えられている。そして、この城を一躍有名にしたのは、1589年に北条方の猪俣邦憲が豊臣秀吉の裁定に反してこの城を攻め落とした事件である。これを契機として豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、北条氏の滅亡、天下統一、戦国の終焉へと時代は移っていくのである。この城はまさに時代の目撃者であった。
本丸~二の丸間の堀と土橋→DSC03563.JPG
DSC03576.JPG←本丸から見るささ曲輪


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
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荘田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC03539.JPG←水掘と曲輪跡?
 沼田氏の出自は、いくつかの説があって、どれが本当か定かではないらしい。現地解説板では、北条時頼に滅ぼされた三浦氏の一族中の一人がこの地に逃れて来て沼田景泰と称し、、縁類の大友氏の所領を統治したとされている。そしてこのとき本拠地として築いたのが、この荘田城である。後に小沢城に移るまで、158年間の居城であったと言う。
 城跡は現在、地図にも載っていないような小さな城址公園となっているが、城としての遺構ははっきり言ってよくわからない。公園の入り口は傾斜地の下にあるが、城はこの傾斜地の上にあったらしい。そこも公園の一部で広場になっているが、溝跡が発掘されて残っている。城の遺構かどうかは、解説がないので良くわからない。広場の南に小さな坂道があるが、形状からして堀跡らしく見える。また傾斜地の下には小川が流れていて、曲輪と水掘跡のように見えるが、これも後世の改変があって本当に遺構かどうかはわからない。正直、城址公園と言う割にはぱっとしない城跡だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.1.31.3N36.39.50.8&ZM=9

小沢城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC03518.JPG←外堀と土塁
 小沢城は、沼田氏が荘田城から1405年に移り住み、以来1519年に幕岩城へ移るまでの居城であった。小沢川という渓流沿いの崖上に築かれており、城の南側は小沢川の渓谷がそのまま外堀として機能している。現在は法城院という寺の境内になっているが、周囲には土塁と空堀が良く残り、明確な横矢も掛かっている。境内の中、東の虎口と思しき付近にも土塁があり、内堀があったようである。北側に開いているのが往時の大手口であったとの事で、やや離れてはいるが、横矢はこの大手を守るために作られていたようである。
 こじんまりしているが明確な横矢も残っており、中世の城郭跡として貴重なものである。なお境内には、沼田平八郎景義の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.36.3N36.39.37.3&ZM=9

沼田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC03421.JPG←本丸~捨曲輪間の堀切
 沼田城は、利根川とその支流の薄根川によって削られた険しい断崖上に築かれた上州北部の城である。城としての歴史は比較的新しく、沼田氏が1529年から1531年にかけて築いた城で、以後その本拠地とした。時まさに関東戦国の雄、小田原北条氏の勢力伸張の時に当たり、1545年に河越夜戦で一気に南関東から管領上杉氏をはじめとする旧勢力を駆逐して関東南半の覇権を確立すると、この城が北上野争奪の重要拠点としてクローズアップされることとなった。すなわち、越後の上杉謙信、相模の北条氏康、更にそこに碓氷峠を越えて進出してきた甲斐の武田信玄と、三者入り乱れての関東三国志の中心地となったのである。特にこの城が有名になるのは、甲斐武田氏きっての謀臣真田昌幸が進出してからである。このころにはすでに謙信はこの世になく、越後上杉氏の影響力は北関東から退き、更に武田氏が織田信長に滅ぼされると、独立領主の道を歩み始めた昌幸と、更に勢力拡大を目論み北上を続ける北条氏との対立が尖鋭化した。そして、このことが後に北条方による名胡桃城奪取、更に豊臣秀吉の小田原攻めへと通じる導火線となっていくのである。
 城は現在公園化され、野球場やテニスコートなども作られたため、当時の面影を残す遺構は思いのほか少ない。しかし発掘された西櫓台跡の石垣や、曲輪間を切り刻むように走る渓谷状の深い堀切など、見所が残っていることも確かである。また城跡から利根川を望むと、その大きな高低差に要害性の高さを実感できる。江戸期に幕府によって破却されたせいもあって、天守台などもほとんど壊滅的な状態なのが残念だが、所々に残る土塁や堀跡がここが城であったことを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.31.4N36.38.43.6&ZM=9
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新田の庄 その2(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

 太田市周辺は、知る人ぞ知る新田源氏一族の史跡の宝庫である。南北朝の動乱で、足利方にすり潰されて没落した新田一族であるが、さすがは左中将義貞殿の由緒の地。朝廷に庇護されて・・・、何てことではなくて。実際には、徳川家康が新田一族の裔を称したため、江戸時代を通じて保護されてきたのと、もう一つは昭和の国粋主義、皇国史観の中で、南朝側の新田氏が称揚されたこと。
 南北朝フリークの私は、この地には何度も足を運んでいるが、ブログとして取り上げるのは2回目。今回でほぼ回りつくしたはず・・・。

<大館館>
 大館氏は新田氏の一族で、義貞の鎌倉攻めの際、極楽寺坂で戦死した大館宗氏が有名である。現在は一面畑となっていて何も残っていない。
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 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.7.4N36.15.2.5&ZM=9

<薮塚館>
 薮塚氏も新田氏の一族である。近くにある藪塚温泉は義貞の隠し湯などと呼ばれているらしい。館跡は畑の真ん中にぽつんとある長円寺の境内であるが、よく見ると周囲には土塁や堀らしき名残が見られる。ただ改変が激しいので、本当に遺構かどうかは微妙。
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 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.19.1.6N36.21.51.6&ZM=9

<伝薮塚氏墓>
 東武桐生線沿いにあるのだが、なんと墓があるのが民家の庭先という、何とも気まずい場所にある。
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 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.52.1N36.21.33.2&ZM=9

<長楽寺>
 新田氏の一族、得川義季の開基と伝わる。境内には得川義季一族の墓所がある。
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 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.43.6N36.15.35.3&ZM=9

<世良田東照宮>
 徳川幕府が、系図を騙った新田得川氏のゆかりを示すため、世良田の地に立てた東照宮。もともとは2代将軍徳川秀忠が日光に最初に建てた日光東照宮の建物を、3代家光が豪華さに乏しく東照大権現にふさわしくないとして、新たに立て直す際にこの地に移築したもの。確かにこれでは地味だわ。
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 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.44.1N36.15.32.4&ZM=9

<世良田館>
 長楽寺の裏の公園に、発掘された堀跡が残っているのが世良田館跡とされている。しかし、民家などが建っているため広範な発掘調査ができず、決定打となる証拠は無いらしい。
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 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.39.2N36.15.32.9&ZM=9

<得川義季館>
 縁切り寺として知られる、満徳寺の裏にある八幡宮が館跡とされる。特に遺構は見られなかった。
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 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.17.21.4N36.15.3.6&ZM=9


<新田館>
 現在の総持寺が、元々の新田宗家の館跡とされている。義貞も挙兵はここから起こしたというが、それにしては兵を集結させた生品神社までの距離がありすぎる。新田の庄の伝承は虚実入り混じっていてにわかに確定しがたいが、やはり昔から知っている通り、反町館を義貞の居館と思いたい。現在は何も残っていないが、昭和初期まで土塁などが残っていたようだ。
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 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.31.1N36.15.48.9&ZM=9
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