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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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柳沢城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3196.JPG←2郭の上にそそり立つ主郭
 柳沢城は、岩鼓の要害とも呼ばれ、岩櫃城の支城である。城の歴史については不明で、城主は柳沢治部少輔の名が伝わっているが、詳細はわからない。一説には、2代目・岩櫃城主斎藤行禅は、重臣の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、3代行弘のときに安吉は反乱を起こし鎮圧されたとも言われる。

 柳沢城は、標高540m、比高120m程の観音山に築かれている。谷戸を挟んで、岩櫃城の出丸である「天狗の丸」と相対する位置にある。その位置関係から見ても、岩櫃城と一体運用された出城だと思われるが、ただの出城にしては普請が本格的で、独立性の高い縄張りとなっている。南西麓に不動堂があり、そこから登山道が整備されている。修験の山だったということで、急な岩場を登り、更に大岩を迂回する細道を通って尾根まで出る必要がある(但し途中に梯子もある)。柳沢城は南端に物見の曲輪を置き、その北に最高所の主郭、その北西斜面に腰曲輪状の2郭、更に各々堀切を挟んで3郭・4郭・5郭と並んだ連郭式の縄張りを基本としている。主郭は小さな曲輪であるが、物見と言うほど小さくはなく、石祠が祀られている。主郭の前後に小郭が数段見られ、斜面下方に広い2郭がある。主郭と2郭の高低差は大きく、主郭の山は二ノ郭の上にそそり立っている。3郭・4郭・5郭は、いずれも北東斜面と南西斜面に腰曲輪群を伴っており、それぞれの腰曲輪は堀切から落ちる長い竪堀で分断されている。また北東斜面の腰曲輪群は、なかなか急な斜面に段々に築かれているので、高低差が物凄く大きく、登り降りするのが大変である。また竪堀は数箇所でわずかな屈曲が見られ、上方の腰曲輪塁線上からの横矢掛かりを意識している。これほど明確に横矢を掛けた竪堀を見るのは、相模大庭城以来だと思う。この他、3郭には北東辺に大土塁が築かれている。この様に柳沢城は、ただの出城と思っていたら、本格的な普請がされた山城で、非常に見応えがある。
3郭の堀切→IMG_3262.JPG
IMG_3318.JPG←竪堀正面に隅櫓台がそびえる

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.566978/138.812642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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岩櫃城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2863.JPG←二ノ郭から落ちる長大な竪堀
 岩櫃城は、戦国後期に上州に進出した真田氏の重要な支城であり、岩殿城・久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々は、鎌倉時代から南北朝時代にかけてこの地を領した吾妻氏が築城したとも言われ、南北朝期に吾妻太郎行盛が城主であったとも伝えられるが明確ではない。伝承では、1349年に行盛は南朝方の里見義時に攻められて討死し、その子千王丸(後の斎藤越前守憲行)は逃れて、安中地方の斎藤梢基の養子となり、斎藤氏を称したと伝えられる。1357年、上杉憲顕は里見義時らを追討し、憲行は上杉氏に従って岩櫃城を奪還し、以後山内上杉氏の幕下となったという。(しかし時代的にはこの説は史実と合わない。1357年といえば、将軍足利尊氏が存命中で、観応の擾乱の余波で尊氏と足利直義の養子直冬の対立が燻っており、直義党であった上杉憲顕は信濃に落ち延びていたまま復権していなかったはずである。もし里見氏討伐が事実であれば、それは上杉氏復権後の1362年以降であろう。)以後、斎藤氏は吾妻地方東部を支配し、岩櫃城は6代越前守憲広まで斎藤氏歴代の居城となった。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。憲広は堅城に拠って抵抗したが、ついに落城し、憲広は上杉謙信を頼って越後に逃れ、子の城虎丸を嵩山城に立て籠もらせて抵抗を続けた。しかし1565年、嵩山城も落城し、斎藤氏は滅亡した。信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は一族の海野幸光・輝幸兄弟を岩櫃城代とした。1574年に幸隆が没すると、その嫡男信綱が真田氏の家督を継いだが、翌75年の長篠の戦いで信綱・昌輝兄弟が討死し、3男の昌幸が真田氏の家督を継いだ。1580年に昌幸は沼田城を攻略し、沼田城代として叔父の矢沢頼綱を置き、岩櫃城はその支城となった。翌81年、昌幸は海野兄弟を謀叛の罪で誅殺した。82年、織田信長の武田征伐が始まると、既に高天神城を見殺しにしたことで信望を失っていた武田勝頼から離反する信濃の国人衆が相次いだ。築城途中の新府城では支えきれないと判断した勝頼に対して、昌幸は岩櫃城への籠城を献策して一旦は容れられ、勝頼を迎え入れる為に仮御殿の造営を行ったが、勝頼は途中で小山田信茂の岩殿城へ行き先を変更し、その途中の笹子峠で信茂に裏切られて天目山で自刃し、武田氏はあっけなく滅亡した。武田氏滅亡後、上野には信長の重臣滝川一益が入り、真田氏も滝川氏に従ったが、わずか3ヶ月後に信長は本能寺で横死し、一益は北条氏直によって上野から逐われ、本領の伊勢に逃げ帰った。天正壬午の乱を経て、徳川・北条両氏の和睦が成り、その条件として上野の真田領は北条氏に割譲されることとなったが、昌幸はこれに抵抗し、半独立勢力として上田城・岩櫃城の二拠点を中心に上杉・北条・徳川の諸将と集合離反を繰り返した。1589年、豊臣秀吉の裁定によって、沼田領は北条氏に引き渡され、矢沢頼綱を岩櫃城代とした。1590年に北条氏が滅亡すると、真田氏は秀吉に服属し、昌幸の嫡男信幸が沼田城主となり、重臣の出浦対馬守が岩櫃城代となった。1600年の関ヶ原合戦では、岩櫃城は東軍に付いた信幸の支配下となり、戦後も信幸の属城として続いたが、元和の一国一城令で岩櫃城は破却された。

 岩櫃城は、峻険な岩櫃山の東の尾根途中に築かれた城で、標高594m、東麓の国道145号線からの比高210m程の位置にある。さすがは昌幸が武田勝頼を迎えようとした城だけあって、広大かつ大規模な普請を加えられた山城である。北東中腹に駐車場と観光案内所が整備され、城内もハイキングコースが整備されているので、訪城に困ることはない。東尾根上に西から順に主郭・二ノ郭を置き、東下方の緩斜面に中城と呼ばれる三ノ郭を配置している。主郭は「いだて(居館)」と呼ばれ、東西に長い広い曲輪で、北辺に土塁を築き、北東部に櫓台を備えている。主郭の北西部と南西部に枡形虎口が設けられているが、破却のせいか形状がやや不明瞭である。主郭の南側から東側にかけて横堀が廻らされ、そのまま二ノ郭との間を掘り切っている。二ノ郭周辺を中心に、規模の大きな竪堀・横堀のネットワークが形成され、城内通路・登城道は基本的に堀底道となっている。中でも二ノ郭直下から東尾根に平行して落ちる竪堀は長大で、上部で腰曲輪の横堀とY字状に合流し、延々と中城まで落ちて、先端は直角に折れ曲がって北斜面に落としている。またその他の横堀や南東斜面の腰曲輪からも何本も竪堀を落としている。一方、主郭西側の岩櫃山山頂に続く尾根にも物見らしい小郭群を置いており、北斜面にやはり竪堀を穿っている。また主郭北西の桝形虎口の下にも土壇や堀が構築されており、搦手・尾根上の物見付近まで一切手を抜かない縄張りとしている。おそらくは戦国末期の北条氏との緊張状態を如実に示しているのであろう。このほか、北東斜面にも水曲輪と言う曲輪群が段々に配置され、その側方に横堀が穿たれ、搦手への登城道となっている。その名に違わぬ屈指の堅城で、横堀・竪堀の巧妙なネットワークは素晴らしい。この他、南斜面下方や東斜面下方にも何段もの広い曲輪群があり、「殿屋敷(海野長門守屋敷)」「出浦対馬守屋敷」と称されている。
 岩櫃城は、関八州で私が訪城していなかった最後の大規模城郭であったが、期待通りの素晴らしい遺構だった。ちなみに登ったのは4月上旬で、春の早かった今年は既に桜が咲いており、青空も出ていたが、駐車場に車を駐めたところで突然雪が降り出したのには、驚かされた。雪が出迎えてくれたように思えた。
主郭南側の横堀→IMG_3018.JPG
IMG_3049.JPG←背後の尾根の竪堀
主郭の櫓台→IMG_2994.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.559136/138.804359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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横尾八幡城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2735.JPG←主郭の土塁と虎口
 横尾八幡城は、沼田・吾妻地域に進出した真田昌幸の支城である。元々は大永年間(1521~28年)に尻高三河守によって築かれたと言われている。後に塩原源太左衛門が城代となった。1580年に武田勝頼の部将、真田昌幸が吾妻地域に進出するとその持城となり、富沢豊前守が配された。1582年に武田氏が滅亡し、その後上州を支配した織田信長の部将滝川一益も本能寺の変の後、神流川の戦いで大敗して本領の伊勢に逃れると、北条氏が上州を手に入れた。その際、天正壬午の乱での徳川家康との和睦の条件で、真田氏の沼田・吾妻領が北条氏に割譲されたが、真田昌幸はこれを拒絶して抵抗した。1584年に上田城を築いて居城とした昌幸は、嫡男信幸に利根・吾妻2郡の守りを命じ、信幸は北条氏の侵攻に備えて吾妻の武士達を横尾八幡城の番衆にして守らせた。1589年、鉢形城主北条氏邦の家臣猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とした、いわゆる名胡桃城事件を契機に始まった吾妻合戦の時、北条氏邦は岩櫃城を攻め、北条方の部将富永助重は300騎を率いて横尾八幡城に攻め寄せたが、真田方は富沢豊前守らが固く城を守り、また岩櫃城から後詰めも出て、北条勢を撃退した。この後、豊臣秀吉の小田原の役となったため、北条氏の軍勢は撤退した。

 横尾八幡城は、名久田川西岸の標高420m、比高60m程の丘陵上に築かれている。町の指定史跡なので、城への登り口に解説板が立ち、城の西尾根まで車道が延びており、訪城は容易である。しかし残念ながら、主要部以外は藪だらけで、腰曲輪等はほとんど未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭を中心に2段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りで、更に東尾根に舌状曲輪を置いているようである。しかし前述の通り主郭と西側の腰曲輪部分以外は薮が酷くて遺構の確認ができない。主郭は外周に土塁を築き、北辺以外の三方に虎口を開いている。腰曲輪には土塁や井戸跡が確認できるが、特に目を引く様なものではない。横尾八幡城は、基本的には小規模な城砦で、多くの兵を籠められたとも思われず、このレベルの小城を北条勢が落とせなかったのは本気で落とす気がなかったからではないかなどと想像してしまう。それにしても折角の指定史跡が薮で埋もれているのは、何とも勿体無い限りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.607140/138.871179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

  • 作者: 黒田 基樹
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タグ:中世平山城
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稲荷城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2677.JPG←主郭西側の空堀と切岸
 稲荷城は、吾妻氏の家臣大野新三郎の居城と伝えられている。吾妻氏は、承久の乱の時に四郎助光が宇治川で討死して没落し、実権は家臣の大野・塩谷・秋間の3氏の手に移り、大野氏はこの稲荷城を居城としたと言う。大野憲直の時に、塩谷・秋間両氏を圧倒し、新たに岩櫃城を築いて居城を移したと言われている。また南北朝時代に討死した吾妻太郎行盛は、稲荷城で生まれたという伝承もある様だ。その後の歴史は不明であるが、現在残る遺構からすると戦国期まで使われたと推測され、岩櫃城防衛の為に改修された城と考えられている。

 稲荷城は、四万川と須郷沢川に挟まれた丘陵先端部に築かれている。城のある台地の南東端には稲荷神社があり、その裏から小道が城跡まで伸びている。民家の真裏を通る上、主郭の南側の曲輪も畑となっているので、城に行くには注意が必要である。台地北東端に五角形の主郭を置き、西と南に曲輪を配置した梯郭式に近い縄張りとなっている。主郭は南面に虎口があり、その西側側方に主郭南西隅の土塁が張り出して櫓台となり、横矢を掛けている。主郭周囲は立派な土塁で全周が囲繞され、特に西側の二ノ郭に面した土塁は規模が大きい。しかもここでは塁線が緩く弓なりに曲がっており、ここでも横矢を意識している。主郭周囲の空堀もしっかりと穿たれており、外周から見た空堀と主郭の切岸は見応えがある。空堀は東端も北端も彫り切った先で竪堀となって斜面を降っている。主郭の北と東の下方には帯曲輪が巡っており、これらの竪堀はこの帯曲輪に連絡している。二ノ郭は西側に一直線に土塁を築き、空堀を穿っている。またこの土塁の外、北西角に土塁で囲まれた方形の曲輪がある。その周囲も空堀で囲まれ、二ノ郭の空堀と繋がっていて、空堀はちょうど小文字の「h」の形となっている。城内はきれいに整備されているので、遺構の見事さと相まって見応えがある。尚、『日本城郭大系』の縄張図は主郭の形状などが正確さに欠け、『境目の山城と館 上野編』の宮坂先生の縄張図の方が正確である。
二ノ郭西側の土塁と空堀→IMG_2692.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.581349/138.825560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
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タグ:中世崖端城
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高野平城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2607.JPG
↑三ノ郭から見た堀切・二ノ郭・主郭

 高野平城は、岩櫃城主斎藤氏の支城であったと言われ、岩櫃城の北を守る砦と伝えられる。しかし詳細な歴史は不明で、真田幸隆による岩櫃城攻めでもこの城がどの様な役割を果たしたのか、わかっていない。

 高野平城は、標高737mの峻険な山上に築かれている。まともに麓から登ると比高が高く大変だが、幸い城のすぐ南中腹にきれいに整備された車道が延びてきており、比高は稼げる。この車道は、国土地理院地形図でもGoogleMapでも南からしか道が繋がっていないように記載されているが、GoogleMapの航空写真を見ると、山田城に至る車道がそのまま南に伸びてこの車道と繋がっており、実際にきれいな山道として整備されている。この車道から城までの登道は、行きは道が見つからず、適当な斜面から西の尾根に直登して訪城したが、帰りは城の南斜面に消えかかったわずかな林道が残っており、楽に車道まで戻ってくることができた。登道は下記リンクの辺で、薮にちょっとだけ分け入ると、左手に進む小道がある。
【登り口】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.580850/138.795068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
 高野平城は、頂部に長方形の主郭を置き、東に二ノ郭、更に堀切を挟んで三ノ郭が築かれている。その先にも平場らしいものはあるが自然地形に近くはっきりしない。一方、主郭の西側には堀切を挟んで2段の曲輪があり、更に少し尾根を降った下に2段の段曲輪が確認できる。きれいな連郭式の縄張りで、北斜面は斜度がきついので曲輪はないが、南斜面には帯曲輪が築かれている。主郭は北辺以外の3面に低土塁を築いており、東西の曲輪からはしっかりとした切岸でそびえている。城内の2本の堀切はいずれも浅く、鋭さがない。西側の堀切は帯曲輪と繋がっており、城内通路としても機能していたらしい。また主郭の南東下方には竪堀が落ちている。全体に普請の規模はあまり大きくないが、城の形はしっかりしている。城内は薮もなく歩きやすい。
帯曲輪と繋がる西側堀切→IMG_2626.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.582159/138.795519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世山城
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山田城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2507.JPG←少し周囲より高い主郭
 山田城は、古城とも呼ばれ、岩櫃城主斎藤氏の家臣山田氏の居城ではなかったかと推測されている。即ち、岩櫃城の支城ということになる。山田氏は斎藤氏の一族で、1563年の真田幸隆による岩櫃城攻撃によって、越後に落ちてゆく斎藤越前守の供をして国境まで行き、嵩山城に拠る末子城虎丸のことなど後事を託された。山田城主は山田源太左衛門尉と伝えられて、斎藤氏没落後の動向は不明。一説には、永禄年間(1558~69年)に成田氏と戦って討死したとも言う。いずれにしてもこの頃に廃城になった様である。

 山田城は、標高509m、比高120m程の丘陵上に築かれている。起伏はあるものの、全体的になだらかな地形で、あまり城を築くのに適地とは思えない感じである。城自体の作りもかなり大雑把で、とらえどころがない。内山城と同様、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、城までの誘導標識・表示がわかりやすく掲示されており、城までの道に迷うことはない。城の西側を通る車道脇に標柱と解説板が建っており、そこから小道を東に進んでいくと、主郭に至る。城内は、東西に伸びる舌状丘陵が北と南にあり、その中央に低地を挟んでいる。北の丘陵部が主城域で、中央に方形に近い高台となった主郭を置き、西に二ノ郭が広がっている。主郭と二ノ郭の段差はわずかである。二ノ郭の西側にも何段かの腰曲輪が築かれている。一方、主郭の東側には堀切を挟んで三ノ郭が広がっている。この堀切は浅く、傾斜も緩く、鋭さはない。三ノ郭の中央付近にはわずかな土塁があるが、意図は不明である。三ノ郭の東側に数段の腰曲輪が築かれて、先端は谷戸に落ち込んでいる。これらの主城部の南側には低地があり、東に向かって傾斜し、下方には池が残り「水の手曲輪」の標柱が建っている。その東にはY字状の谷が刻まれている。これらの低地の南に、高台となった南曲輪群がある。南曲輪群の先端部には、西端に高台を築き、東に平場を伴った曲輪を設け、背後に堀切を穿っている。この堀切も前述のものと同様、傾斜が緩く鋭さはない。その西側には延々と平場が広がり、一部に区画の段差や、南辺に短い土塁も見られるが、全体にダラーッとした感じである。平場群の北辺近くに往時のものと思われる城道が東西に走っていて、西側の曲輪の段差部で、城道が屈曲して虎口を形成している。
 遺構から推測すると、山田城は山田氏の居館として築かれた城館で、周りの平場には山田氏家臣団が集住していたものであろう。ということは近くに有事の際の詰城があったはずであり、それが桑田城だったのか、高野平城だったのか、今後の考究が望まれる。
中央の低地にある水の手曲輪→IMG_2522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.589180/138.804123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世平山城
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桑田城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2441-001.JPG←主郭群北東斜面の竪堀
 桑田城は、岩櫃城主斎藤氏の支城である。城主は山田氏で、斎藤氏の一族とされる山田氏が山田城主を務めており、山田氏一族が守った城だろう。山田氏は吾妻七騎に列したが、永禄年間(1558~69年)に山田源太左衛門尉は成田氏と戦って討死し、城は放棄されたと言う。

 桑田城は、四万川を挟んで内山城の南に位置する、標高538m、比高138mの山上に築かれている。南東麓から登道が整備されており、迷わず登ることができる。この城も内山城と同様、城内に2基の高圧鉄塔が立っているので、良い目印になる。登山道を登っていくと、南東の大手の尾根筋にいくつかの平場が散見され、その上に『境目の山城と館 上野編』の縄張図で言う5郭群がある。5郭群は東西に長く、3段程に分かれており、東西両端に高圧鉄塔が建っている。5郭群の北東に鞍部の曲輪と小堀切を挟んで物見台の曲輪があり、更にその先の北西の尾根にいくつかの段曲輪が築かれている。一方、5郭群の背後には、鉄塔建設で破壊を受けているが、堀切が残存し、その上に数段の帯曲輪があって、主郭に到達する。主郭内は2段ほどの段に分かれており、神社が祀られている。主郭は広く居住性もあるが、土塁などは見られず、外周に数段の帯曲輪を巡らしただけの構造となっている。帯曲輪群の北東斜面には、明確な竪堀が1本長く落ちていて、東の大手から接近する敵兵の斜面移動を制約する目的だったと考えられる。主郭の西側背後には浅い堀切が穿たれ、二ノ郭が築かれている、二ノ郭は削平が甘くほとんど居住性がない細長い曲輪である。二ノ郭の背後にも浅い堀切が穿たれ、三ノ郭があり、その先も小堀切で城域が終わっている。前述の堀切はいずれも浅いが、両側が竪堀となって長く落ち、主郭群から続く帯曲輪を貫通している。この他、主郭群の北の支尾根には、帯曲輪から下に段曲輪群が築かれている。
桑田城の遺構は以上で、普請は小規模であるが遺構はよく残っており、城内も薮が少なく歩きやすい。主郭群手前の竪堀だけが目立つ城である。
堀切と主郭→IMG_2455.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.596468/138.799639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世山城
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内山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2267.JPG←2郭群背後の二重堀切の内堀
 内山城は、仙蔵城(仙蔵の要害)とも呼ばれ、武田氏の部将真田幸隆が嵩山城攻めの本陣とした城である。元々は岩櫃城主斎藤憲広に属した成田氏の城であった。1565年、真田幸隆は斎藤城虎丸が立て籠もる嵩山城攻撃の足掛かりとする為、300騎でこの城に駆け上がり、軍の指揮を執った。(いつ内山城が真田氏の支配下に入ったかは不明。)嵩山城が落城した後、折田将監は成田氏に代わって城を預けられ、関東無双の剛兵と呼ばれたと言う。しかしその後は存在意義が薄れ、まもなく廃城となったとされる。

 内山城は、嵩山城から胡桃沢川を挟んで西に広がる広大な台地の西側に突出した、標高584.9m、比高160m程の山稜上に築かれている。中世に吾妻地区から信濃に向かう本道であった沢渡・暮坂越えの街道を眼下に押さえる要地にある。城内には高圧鉄塔があるので保守道が整備されており、登り口さえ見つければ、主郭までは迷わずに登れる。登り口も、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、わかりやすく表示されている。内山城は、大きく西側に湾曲した尾根上に多数の曲輪群を築いた連郭式の城で、城域はかなり広い。保守道を登って尾根に至ると、そこから北西の尾根に曲輪群が築かれているが、反対の南東にも物見台らしい小郭が散見される。主尾根を南西に登っていくと、鉄塔のある二ノ郭群に至る。多段式の曲輪で、南面から東面に扇形に曲輪を展開している。ここから派生する東尾根にも堀切と曲輪群があり、先端付近の斜面には2本の竪堀も穿たれている。2郭群の最上部には小さな土壇があり(櫓台?)、背後に二重堀切が穿たれている。この二重堀切を以って、城域は南北に大きく分割されており、一城別郭の城と評価されている。その上に主郭があるが、登道自体は大きく東に折れて、主郭の東尾根から登坂するルートとなっている。これは往時の城道のままのルートなのだろう。主郭東尾根にも堀切2本が穿たれ、腰曲輪群が構築されている。北斜面には竪堀群も穿たれている様である。ここから西に登っていくと、いくつかの曲輪を経由して、鉄塔の立つ主郭に至る。主郭は長円形の曲輪で、周囲にいくつかの腰曲輪を築き、背後にも堀切を穿って尾根筋を分断している。主郭の北の尾根には、一列に曲輪が連ねられ、それぞれ小堀切で区画されているが、この主尾根上の曲輪群は薮が多く、踏査が困難で辟易してしまう。この主郭背後の主尾根から西・北西・北の三方に派生する支尾根にも曲輪群が築かれている。これらの支尾根曲輪群では、普請がはっきりしない自然地形に近いものもあるが、最もはっきり普請されているのは真ん中の北西尾根曲輪群で、段曲輪群が一列に連なっている。尚、主尾根の北東端は林業用の林道開削で改変されてしまっている。
 以上の様に内山城は、城域は広いが、基本的に普請の規模は大きくなく、堀切も小さいものが多い。嵩山城攻めの本陣となった城ではあるが、真田氏も臨時の陣城として利用しただけの様に感じられた。
北西尾根の段曲輪群→IMG_2344.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.606132/138.798501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ダイアプレス
  • 発売日: 2014/10/30
  • メディア: ムック


タグ:中世山城
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城峰城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2157.JPG←主郭背後の土塁
 城峰城は、城峰塁とも呼ばれ、歴史不詳の城である。位置的には、中世初期には吾妻三家の一、塩谷氏一門の領域で、その後、大野氏、岩櫃斎藤氏、真田氏と支配者が変転している。しかし一般には永禄年間(1558~69年)の嵩山合戦の際に、斎藤氏の立て籠る嵩山城の支城となっていたと考えられている。

 城峰城は、比高50m程の丘陵先端付近に築かれている。背後に当たる西側に福祉施設があり、また城自体が町の指定史跡で誘導標識もあるので、車で迷わず城跡まで行くことができる。基本的に単郭の簡素な城砦で、主郭の背後に土塁が築かれ、後ろには堀切が穿たれている。主郭の外周には1段の腰曲輪が廻らされている。また北側斜面にはもう1段、帯曲輪が築かれている。西側の台地基部から主郭に入るルートは、現在は土塁を迂回するように北側に設けられているが、一方で土塁中央部は窪んでおり、堀切に木橋が架かっていた可能性もある。これが城の本体であるが、ここから東に150m程離れた所に旗塚があって、物見台として利用された古墳跡だったと考えられている。塚の周りは腰曲輪状の平場が取り巻いている。『境目の山城と館 上野編』の縄張図では、塚の背後は堀切とされるが、あまり明瞭ではない。いずれにしても城峰城は、遺構は明確であるが、極めて簡素な作りの小城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.593281/138.836524/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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嵩山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2057.JPG←小天狗から見た嵩山城全景
 嵩山城は、岩櫃城主斎藤氏滅亡の城である。斎藤氏は岩櫃城を拠点に勢力を張り、関東管領山内上杉氏の麾下に属していた。上杉氏が小田原北条氏に逐われて没落すると、斎藤越前守憲広は勢力拡大を狙って、三原庄の鎌原氏と争うようになった。鎌原氏は甲斐の武田信玄を頼り、一方の憲広は白井長尾氏を通じて越後の上杉謙信を頼った。1563年、信玄は真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。10月に岩櫃城が落城すると、憲広は謙信を頼って越後に逃れたが、末子の城虎丸を池田佐渡守重安と共に嵩山城に入れて守らせ、武田方の拠点となった岩櫃城と対峙した。翌年より武田勢による嵩山城攻撃が開始された。65年には、憲広の嫡男憲宗が上杉勢の加勢を得て嵩山城に入った。一方、武田勢の主将真田幸隆は、嵩山城の支城である仙蔵城(内山城)を攻略し、ここに本陣を置いて嵩山城を攻撃した。幸隆は斎藤方の池田重安父子を調略し、11月半ばに五段田原で斎藤勢と激戦を交えた。その翌朝、真田勢は朝駆けして嵩山城一の木戸を激闘の末に突破し、嵩山城に攻め上がった。夜には憲宗は自刃し、城虎丸と一族郎党・女房子供は大天狗の岩上より身を投げて斎藤氏は滅亡した。

 嵩山城は、吾妻地域で特異な威容を誇る、標高789.2m、比高240mの嵩山に築かれている。南麓に道の駅があり、またハイキングコースも整備されているので、城へのアクセスは非常に良い。2つの登山道の内、西の表登山道から登ると、入口付近に何段かの平場があり、これが激戦の展開された一の木戸である。一部公園化で改変されているが、ほぼ往時の形態を留めている様である。ここから延々と登山道を登ると、嵩山の尾根南西部の鞍部に至る。ここには尾根に沿って段々に曲輪群が見られ、城内では最も居住性のあるエリアである。山上には、南西から順に小天狗・中天狗・大天狗と呼ばれる突き立った岩塊があり、それらの間の尾根に曲輪を築いて城としているが、あまり城兵のいるスペースがない。主郭は「実城の平」と呼ばれる小さな平坦地で、その下に二ノ郭と思われる平場が広がっている。その他、派生する尾根に曲輪群が見受けられるがいずれも大した規模ではない。また山自体が峻険な岩塊でできているせいか、堀切は自然地形をそのまま利用したもの以外は普請されていない。遺構としては大したものではなく、滅亡間近の悪あがきの城だった様である。それにしてもこの嵩山は、吾妻地域のどの城からもよく見え、また目立つ山なので、武田方に対しての精神的な嫌がらせにはもってこいだったろうと思う。山上からの眺望は素晴らしいので、城としてよりハイキングに適した城である。
主郭の「実城の平」→IMG_2099.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.612625/138.830130/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

  • 作者: 小川 由秋
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/01/06
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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行沢城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1996.JPG←堀切と二ノ郭
 行沢城は、高田小次郎の家臣田村山城守が城主であったと伝えられる城である。田村氏の事績は不明であるが、東方の諸戸川対岸の段丘上に田村氏館とされる古立の館があり、高田氏の下で付近の城砦群と連携して街道筋を守っていたと考えられている。

 行沢城は、行沢地区背後の比高わずか20m程の丘陵先端部に築かれている。大きく4つ程の曲輪を一直線に並べた連郭式の城で、東端の四ノ郭に配水所が建てられているので、配水所に登る北側斜面の階段から城内に入れる。四ノ郭は前述の通り配水所建設で改変されているが、その上の三ノ郭からは無傷で残っている。三ノ郭は馬蹄形の曲輪で、背後に主郭の切岸がそびえている。主郭は広いが、南が一段低くなっていて、2段で構成されている。主郭の背後には土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれている。堀切の西には方形の二ノ郭があり、二ノ郭の裏にも堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭にかけての北側には武者走りが通っており、2本の堀切などを繋いでいる。全体に遺構はよく残っているが、主郭の周囲や南斜面は冬でも薮が多くて、ほとんど遺構が確認できない。縄張り的に平凡で、素朴な形態の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292091/138.784533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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諸戸城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1914.JPG←主郭南東角の堀切
 諸戸城は、歴史不詳の城である。しかし位置的にはこの地の土豪高田氏の勢力圏であり、高田氏の持城の一つであったと考えられている。近隣の行沢城・古立館・菅原城等と連携して、妙義地域を守っていたと推測されている。

 諸戸城は、諸戸川北岸の標高370m、比高70m程の丘陵上に築かれている。南麓の吾妻神社付近からも登れるようだが、地形図には東尾根に道が記載されているので、私は東尾根から登城した。この東尾根の林道は明確で、迷わずに城まで行くことができるが、林道建設の際に東尾根の遺構が破壊を受けているのが惜しい。諸戸城は、長方形の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に堀切を穿ち、各尾根上に曲輪を配した縄張りとなっている。主郭は北東から南西に細長く伸びており、北東角に低土塁と虎口が築かれ、北西角には竪堀状の通路を持った枡形虎口が築かれている。この桝形虎口の外には武者走りが通り、北西の堀切と南西の堀切を繋ぐ通路となっている。主郭角の堀切はいずれも明確で、深さ3~4m程ある。堀切の外には、いずれの尾根も細尾根上に曲輪が築かれている。北西尾根の曲輪は2段に分かれ、下段の曲輪には北辺に土塁が築かれている。北東尾根の曲輪は林道でやや破壊を受けているが、先端に堀切が残り、側方に尾根と平行に帯曲輪が築かれている。南西尾根の曲輪はほとんど自然地形に近いが、先端に物見台の様なものが見受けられる。南東尾根の曲輪は堀切の外に土壇の様な小郭があり、その先の東尾根はダラダラと続いている。この東尾根上に3本の堀切が穿たれているが、前述の通り林道建設で破壊を受けており、側方の竪堀部がわずかに残るだけで、痕跡はわずかでしかない。以上が諸戸城の遺構で、菅原城や桐の木坂城など、厳しい岩場の山に築かれた城と比べると、大きく趣を異にしている。しかし街道に近い位置にあることから、至近にある行沢城と共に街道を監視し、押さえる役目を負っていたことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292247/138.775241/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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菅原城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1770.JPG←西尾根の二重堀切
 菅原城は、この地の土豪高田氏の重要な支城である。高田氏は関東管領山内上杉氏に仕え、武田氏の侵攻に備えて、松井田城の前衛として菅原城を構えていた。武田信玄が佐久制圧を目指して志賀城を攻撃した時には、上杉氏の援軍として高田遠春父子が志賀城に入ったが、落城して討死した。その後も高田氏は、箕輪城主長野氏の下で武田氏に抵抗していたが、1561年末頃には武田氏に服属した。武田氏が滅ぶと北条氏に従い、北条氏が滅亡すると、高田直政はこの地を離れ信濃に移住した。この間の菅原城の歴史は明確ではないが、上州と信州佐久を結ぶ重要路に接していることから、街道確保のために重視され、戦国末期まで使われた城と推測されている。

 菅原城は、県道51号線に向かって西から張り出した、標高452m、比高110m程の山上に築かれている。ネット上では過去にこの城に行っている人の多くは南東の急崖を登っている様だが、往時にそんな道を登城路としたとは考えにくいし、地形図を見ると西尾根近くに登る山道が北麓から伸びている様なので、そちらからアタックした。一部消えかかってはいるものの辛うじて林道が残っており、こちらのルートからならば苦労することなく西尾根近くに行くことができた。またこのルートを選択すると、『境目の山城と館 上野編』などの各種の縄張図に描かれているよりも西側に遺構が広がっていることも確認できた。『境目の山城と館 上野編』の縄張図で言うと、堀切カの更に西側に当たる。この西側遺構が記載されているのは、家に帰ってから調べた限りでは飯森康広氏の「戦国期の富岡市妙義町菅原城と高田氏」所収の縄張図だけの様である。鞍部に二重堀切(但し外堀は、両側に竪堀を落としているだけ)を穿ち、その東側に櫓台がそびえている。櫓台から更に平らな尾根を経由して南東に城道が伸び、動線制約の竪堀を抜けて西出曲輪に至る。西出曲輪は西側に腰曲輪を築き、先程の城道はこの腰曲輪に通じている。西出曲輪の背後には土塁と大きな櫓台がそびえ、その背後に城内最大の堀切カがある(以後、曲輪等の符号は『境目の山城と館 上野編』に準じる)。堀切カの東に2郭がそびえ、堀切からの城道は北西斜面を経由して堀切オに通じている。つまり堀切オは、虎口を兼ねているわけである。堀切オの北尾根にもいくつかの小曲輪群が見られる。一方、2郭の南東尾根には2本の堀切と3郭があり、そこから岩尾根を抜けて、主郭群に至る。主郭群はほとんど居住性のない小さな曲輪群の集合体で、頂部は物見台状となっていて、その周りを腰曲輪が取り巻いている感じである。主郭の北にはやや広めの馬蹄形曲輪があり、その先に3本の堀切と北尾根曲輪群がある(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では堀切2本となっているが、その先にももう1本、両側に竪堀を落としているだけの小堀切が確認できた)。また主郭群の南東尾根も細長い曲輪が続き、先端に宝篋印塔がある。その先にも物見の曲輪があるらしいが、斜度の厳しい岩尾根の様だったので、踏査しなかった。一方、主郭群の南西斜面には規模の大きな曲輪群が築かれている。最上段の5郭が最も大きく、実質的な城の中心部であろう。その下の東西にも馬蹄段や腰曲輪が築かれている。城巡りの先達・余湖さんの図では、その下にも中央を大土塁で仕切った曲輪がある様だが見落としてしまった。
 菅原城は、厳しい岩山を利用した城砦で、地勢自体が最大の防御となっている。尚、城の大手は2郭の北尾根とされているが、私が見た限りではより防御構造が厳重な西尾根の方であったと思う。
動線制約の竪堀→IMG_1774.JPG
IMG_1779.JPG←西出曲輪の土塁・櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.271949/138.772752/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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桐の木坂城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1749.JPG←主郭背後の堀切
 桐の木坂城は、国峰城主小幡信貞の持城と伝えられる。小幡氏以前には、この地域一帯を領した高田氏の城であったと推測されている。高田大和守繁頼は桐の木坂城以外にも西牧地区に多くの城砦を築いて甲斐武田氏の侵攻に抗したが、1561年には高田氏は武田信玄に降っており、それ以後は桐の木坂城を含むこれらの城は放置されたと思われる。1582年の武田氏滅亡後、小田原北条氏が上野をほぼ手中に収めると、小幡氏は北条氏に降り、この頃に高田氏の城を修築したか、或いは新規築城によって桐の木坂城が整備されたと考えられている。天正壬午の乱での対陣後、徳川家康との和睦が成った北条氏直は信濃から兵を引き、上野・信濃国境の松井田西牧両城を直轄地として強化し、この時期に両城の連絡と後方の備えとして桐の木坂城を築城したとも推測されている。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城に奥平信昌が入城していることから、この頃には桐の木坂城は廃城になったと思われる。

 桐の木坂城は、小坂川東岸の山上に築かれている。『境目の山城と館 上野編』に「下仁田地区の城は、山が険しく、十分な広さを確保できないために、山上の砦は物見烽火台として使われ、主要部分が中段及び山麓に置かれる例が多く・・・」と記載されている通り、山麓台地上の緩斜面の高台に居館を置き、その背後の細尾根に小城砦を築いている。この城に登るには、南西麓の県道196号線脇から民家の前を通る坂小道が伸びているので、それを登るとよいのだが、傍目には民家の私道のような道なので、ちょっと登るのに躊躇してしまう。道を登りきると、広い緩斜面に出る。耕作放棄地となっており薮に覆われているが、ここが馬場平と呼ばれる下曲輪である。特に明確な遺構は見られない。そこから北西に笹薮を抜けると、切岸に囲まれた中曲輪群に至る。中斜度の斜面上に何段もの曲輪を築いており、最上段は小さな方形の区画となっている。見るからに屋敷地という感じで、井戸跡らしい窪みも残っている。ここから北側の細尾根に道が伸びており、尾根上に虎口が築かれている。この尾根上に小城砦が築かれているが、主郭以外は「尾根上は幅1mほどで曲輪としては殆ど用をなさない」(『境目の山城と館 上野編』)と記されている通りの状況である。細尾根の西端や主郭に向かう途中には物見台が築かれている。唯一平面的な広さを持った主郭は、東西両端に堀切を穿ち、北西辺に低土塁を築いている。しかし小屋掛け一つ建てれば、それでいっぱいになってしまう程度の広さしかない。主郭の東も細尾根で、結局山上の砦でまともに兵が置けるのは主郭だけである。桐の木坂城は、中段の中曲輪を主体とした城だった様である。
 尚、山上の砦に登った時、主郭に鹿が2頭いたらしく、ダッシュで逃げていくのが遠目に見えた。
中曲輪の上段平場→IMG_1724.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の中曲輪】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.261949/138.748505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【山上の砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262451/138.749020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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西牧根小屋城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1650.JPG←主郭
 西牧根小屋城は、小田原北条氏の家臣庭屋安芸守直成か、その子直澄が築いたとされる城である。『境目の山城と館 上野編』によれば、庭屋氏は藤原道長の7代の孫親能の3男親直が源頼朝の近習として仕え、武功によって上野国多胡郡・群馬郡・緑野郡の3郡を拝領し、甘楽郡新屋の庭屋に入部して、庭屋氏を称したとされる。その後、執権北条氏が新田義貞の鎌倉攻めで滅亡すると、庭屋直常も討死して、残された一族は安芸国厳島に落ち延びた。戦国時代になると、厳島に居た庭屋右衛門直尹は伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)を頼って父祖の地、上野へ下向した。その後を継いだ安芸守直成は、小田原北条氏2代氏綱の近習となり、重臣として活躍した。氏綱が没すると直成は殉死し、子の安芸守直澄が跡を継ぎ、北条氏康の命を受けて西上州平定のため新屋の庭谷城と西牧根小屋城を築いた様である。1559年、直澄は庭谷城で武田氏の間諜に殺され、嗣子右衛門太夫直元が根小屋城主となった。1565年、武田信玄が倉賀野城を攻略すると、この地は武田氏の支配下に入り、国峰城には小幡憲重を入れ、支城の庭谷城へは上原図書入道随応軒と庭屋左衛門尉大夫兼行を西上州7郡の惣横目(監視役)に任じて配置した。その為、直元も武田氏に服属して庭谷城の副将となった。その後、武田氏が滅び、織田氏の部将滝川氏も没落して上野国の大半が北条氏の支配下となると、直元は北条氏に従い、1590年の小田原の役で北国勢の別働隊、真田安房守昌幸の攻撃を受け、根小屋城は落城した。直元は城を逃れ、1605年に没したと言う。以上が『境目の山城と館 上野編』の記載であるが、北条氏が重臣を勢力圏から外れた地に移封したということも解せないし、庭屋直成という武士の事績も手元の文献やネット上では確認できないので、どこまで事実なのか何とも判断し難い。
 尚、西牧城の項で記載した通り、小田原の役の時、北条氏が派遣した武蔵青木城主多米周防守長定と相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉俊の2将は、共に西牧城を守ったとも、西牧城と根小屋城に分かれて守ったとも言われている。

 西牧根小屋城は、標高520m、比高140mの山上に築かれている。西麓の街道筋には源太屋敷と呼ばれる居館部があり、その背後に屹立する天狗岩を物見台とし、山稜上に小規模な詰城を築いた、この地域の城に多い構造となっている。まず居館の源太屋敷は、現在は畑となっているが、段が築かれ石垣が築かれている。石垣は往時の遺構とは見做し難いが、遺構の石垣も全くゼロではないかもしれない。源太屋敷の南端に榛名神社があり、その裏を登っていくと斜面上に段がいくつも築かれ、そこにも石垣がある。しかしさすがにこれは畑の石垣だろう。この斜面を登りきると、城の西側の尾根に至る。この尾根の西端が天狗岩で、物見台と腰曲輪が築かれ、祠が置かれている。この祠は庭屋安芸守が建てたと言い伝えられているらしい。一方、尾根を東に進むと詰城に至る。西尾根からの城道は大きく南に斜面を迂回して、主郭の南尾根の段曲輪群に通じている。『境目の山城と館 上野編』の縄張図にある「片流れの堀切」は、実際には前述の城道が繋がる虎口である。また主郭の南斜面には何段かの帯曲輪が築かれている。南尾根曲輪群から主郭へは斜度がきつく、直接主郭に道が通じていたのではなく、この帯曲輪を経由して主郭東側の堀切へ通じていたらしい。この堀切の西側上方に1段腰曲輪があり、その上に主郭がある。主郭は大きくはないが、西牧城の砦よりは遥かに広い。主郭の北西や西側には腰曲輪が見られるほか、小規模な石積みも確認できる。主郭の東尾根には二ノ郭・三ノ郭が築かれ、それぞれ小堀切で区画されているが、いずれも細尾根の狭小な曲輪である。三ノ郭の東に小郭が置かれて城域が終わっている。遺構は以上で、西牧根小屋城は、山麓居館と詰城が一体運用された城だった様である。ちなみにこの城では、立派な鹿のツノをGetすることができた。

 尚、この城は各種城郭本では単に「根小屋城」と呼称されるが、群馬県内には同じ名の城が多いので、ここでは便宜上、「西牧根小屋城」と表記した。
源太屋敷の石垣と屹立する天狗岩→IMG_1599.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【源太屋敷】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.250217/138.706212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【山上の詰城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.250157/138.708529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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西牧城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1558.JPG←御殿跡とされる山麓の平場
 西牧城は、小田原の役の際に小田原北条氏が北国勢に備えた城である。永禄年間(1558~69年)の武田氏侵入時代に既に存在していたとも言われるが、砥沢城との混同もあり必ずしも明確ではない。元々この地は土豪の高田氏の支配領域であり、武田氏侵入以前に高田氏によって城砦が築かれていたとも考えられている。1582年の武田氏滅亡後、北条氏が上野をほぼ手中に収めると、信州境を押さえる要地として、西牧城は松井田城と共に北条直轄地として重視され、強化されたと言われている。小田原の役の時には、歴戦の部将である武蔵青木城主多米周防守長定と相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉俊が西牧城に配されたが、小諸城主松平康国・康寛兄弟(依田信蕃の子)に攻撃され落城、多米・大谷両将は討死したとも捕らえられたとも伝えられる。但し、2人の大将が西牧城を守ったのではなく、西牧城と根小屋城に分かれて守ったとする説もある様だ。

 西牧城は、市ノ萱川南岸に築かれている。川沿いの段丘上の平場を主城域(居館)とし、その背後に屹立する山上に小城砦を築いている。まず段丘上の平場は現在耕地化され、何段もの平場に分かれ、石垣が築かれている。しかしこれらは耕地化に伴うものとも考えられ、どこまで往時の形を留めているかはっきりしないが、『境目の山城と館 上野編』の縄張図によれば最上段の平場に御殿があったらしい。また東の沢を渡る小橋が架かっているが、これが往時の大手らしい。一方、山上の小城砦は、古くは「鐘撞堂」と呼ばれたと伝えられ、物見と烽火台を兼ねた施設であったと推測されている。しかしこの小城砦は断崖に囲まれ、登坂路を見つけ出すのが難しい。北面の断崖を行きつ戻りつして迷った挙げ句、ようやく断崖と断崖の狭間にある急斜面に僅かな踏み跡を見つけて登ることができたが、この城の縄張り図を書いたお歴々はどうやって登り道見つけたんだろうか?と、驚いてしまう。山上には居住性のほとんどない小さな平場群だけで構成された砦がある。平場は全部で6つ。2郭には2基の石祠が祀られ、その背後に最上段の1郭があるが、本当にただの物見台である。1郭の南支尾根に狭小な南郭があり、武者走りで2郭と繋がっている。2郭の北東に3郭・4郭が段々に連なり、3郭の南に5郭があって、その脇に小竪堀が落ちている。いずれにしても詰城にもならない広さである。
 西牧城は、北条氏が重視したという伝承とは不釣り合いなほど、ささやかな遺構である。ただ山麓の居館部自体が川と沢筋で街道から隔絶されており、そうした地形を利用して守りを固めていたことは十分に考えられる。
 なお山上の砦への道が見つけられなければ、危険なので無理に登らない方が良い。
山上砦の3郭から見た2郭→IMG_1567.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の主城部(居館)】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.238190/138.696148/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【山上の砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.237186/138.695612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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西平城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1510.JPG←堀切と半月状の独立堡塁
 西平城は、大島上城とも言い、歴史不詳の城である。北麓の平野部には大島下城があり、その詰城であった可能性がある。大島下城は国峰城主小幡氏の家臣小間氏の城であるので、西平城も小幡氏の持城であった可能性が高いと言う。

 西平城は、標高300mの山上に築かれている。北中腹を上信越道が貫通していて、北麓の遺構は湮滅しているが、それ以外の遺構はよく残っている。この城へは、上信越道の側道から登道が付いている。山頂に主郭を置き、背後の西尾根に小堀切を挟んで二の郭を配置し、主郭の北側から東側にかけて何段もの腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭は南辺に土塁を築き、東側には虎口を兼ねた堀切を穿っている。堀切の外側には半月状の独立堡塁がそびえ、その下方にも堀切と腰曲輪がある。東の腰曲輪群と北の腰曲輪群は明確な武者走りで繋がっている。一方、主郭背後の二ノ郭は細尾根の曲輪で、西端が高くなっていて物見台になっていたと考えられる。ここには小祠が祀られている。その西には城域を区切る堀切が穿たれている。この他、北尾根の東も、あまり明瞭ではないが曲輪群とされており、塚状の土壇や平場が見られる。その東下方、前述の側道からの登道の東側にも土塁や物見台状の土壇が見られ、遺構と考えられる。
 西平城は、腰曲輪群で構成された小城砦であるが、曲輪間の繋ぎの武者走り・城道が明確である。ちなみに、この城から降りる際に相方が倒木で負傷してしまうというアクシデントがあった。個人的にいわく付きの城となってしまった。
土塁のある主郭→IMG_1507.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.235005/138.861995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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内匠城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1441.JPG←横矢掛かりの大空堀
 内匠城は、国峰城主小幡氏の家臣倉股大炊助の居城である。倉股氏は小幡氏家中の旗頭と伝えられるが、詳細は不明。1590年の小田原の役の際、上杉景勝軍の別働隊が国峰城を攻略した時、別働隊を率いた藤田能登守信吉がしばらく在城したのが内匠城であったと推測されている。

 内匠城は、鏑川の南に横たわる離山(はなれやま)丘陵の南東端、標高221.6m、比高50mの段丘上に築かれている。城のすぐ北側を上信越道が貫通しており、最北の空堀だけ損壊を受けているが、大部分は幸いにも無傷で残っている。内匠城は、南東端に主郭を置き、その北から西にかけてニノ郭を廻らし、更にその北と西に北三ノ郭と西三ノ郭を配置した梯郭式の縄張りとなっている。主郭も二ノ郭も大手は北側に付いており、それぞれの曲輪は大きな空堀で分断されている。主郭は南西角部が高台となり、その上に更に土壇が築かれており、さながら天守台の様である(現在は神社が建っている)。しかも空堀に対して西側に張り出しており、堀底へ横矢を掛けている。主郭北西部も塁線が内側に折れて横矢掛かりが見られる。主郭の南と東の斜面には帯曲輪が築かれ、更に南東下方には堀切と土壇・段曲輪が築かれて、下方への防備を固めている。二ノ郭は西側に土塁が築かれ、外周には幅広の大空堀が穿たれている。この空堀は、二ノ郭の北西部で、北三ノ郭の櫓台が西に張り出し、横矢を掛けている。この北三ノ郭櫓台の北側でも空堀が屈曲している。西三ノ郭は畑になっており、立入禁止になっていたので未踏査であるが、その外周も空堀が穿たれている様だ。
 内匠城の作りは、西上州の他の城とは大きく趣を異にしており、台地辺縁部を利用した中規模の城であること、ダイナミックな横矢の大空堀があるなど、小田原北条氏の城に多い特徴を色濃く持っている。織田信長横死後の天正壬午の乱の後、北条氏がこの地を支配した時に改修を受けた可能性が大きいと思う。
主郭の天守台らしき土壇→IMG_1375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239159/138.903108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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大山城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1262.JPG←二ノ郭外周の横堀
 大山城は、国峰城主小幡氏の家臣野宮氏の歴代の居城である。野宮氏は、野宮淡路守信勝から28代駿河守信詮まで続いたと伝えられる。信詮の母は小幡氏の出であったので、野宮氏は小幡氏の親戚筋でもあった。信詮は1590年の小田原の役の際に、叔父の小幡則信と共に上方勢に抵抗し、国峰城落城後は小幡信昌(国峰城主小幡信貞の弟)に従って加賀に移り、1618年に没したと言う。

 大山城は、鏑川南岸に突き出した比高60m程の段丘上に築かれている。この場所は上信越道のすぐ北に当たり、行き方が少々わかりにくいが高速道路の側道を進むと、その脇から城への散策路が整備されている。遺構は完存し、城内は綺麗に整備されているので、非常に良好な遺構を見ることができる。但し、城内には絶滅危惧植物が自生しており、ロープで規制された部分には立入らないよう注意書きが立っているので、注意が必要である。城は、大きく3つの曲輪から構成され、北西に張り出した方形に近い形の曲輪が主郭、その南側背後に二ノ郭、更に主郭とは竪堀で分断された三ノ郭が北東に突き出している。更にこれらの曲輪の外周には腰曲輪が築かれ、二ノ郭西側では3段の腰曲輪が確認できる。また二ノ郭の南西外周には横堀が穿たれているが、埋もれているのかかなり浅い堀である。主郭と二ノ郭の間は段差で区画されているが、西端部だけ堀が穿たれ、主郭にはこの堀に沿って土塁・櫓台が築かれている。三ノ郭も後部の曲輪とは段差だけで区切られている。二ノ郭の南東部には、背後の尾根と分断する堀切が穿たれ、尾根側に2~3段の段曲輪が築かれて城域が終わっている。近くまで車でアクセスでき、綺麗に整備されているので、おすすめの城である。
主郭から見た竪堀と三ノ郭→IMG_1281.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239142/138.842576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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馬山西城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1154.JPG←二ノ郭の上にそびえる主郭
 馬山西城は、馬山東城に対する詰城(要害城)である。東城と共に別城一郭の構えを為し、国峰城主小幡憲重の持城であったと伝えられる。

 馬山西城は、馬山東城が築かれた台地の南方に横たわる、標高330m、東城からの比高60m程の山上に築かれている。下仁田・南牧地域の城によく見られる通り、曲輪が小規模で居住性をほとんど持たない詰城の様相を呈している。しかしその中では比較的城域が広く、東西に伸びる尾根上に約150~60m程に渡って遺構が残っている。東城から南西に畑道を進み、畑の奥の藪に埋もれた小道を見つけて南下すると、主郭北尾根の曲輪群に至る。2段の曲輪を経由して上に登ると二ノ郭に至る。二ノ郭は虎口を築き、その前面に小郭を設けている。二ノ郭の上には4m程の切岸で主郭がそびえている。主郭は小さく土塁もないが、2基の祠が祀られ、城址碑が建てられている。主郭の西尾根には明確な遺構が見られないが、東尾根には尾根上に6つ程の曲輪群が連なり、所々を小堀切で防御している。合計で3つの堀切が確認できる。『境目の山城と館 上野編』の縄張図では、4本の堀切があることになっているが、エの堀切は誤認だと思われる。東尾根の先のピークに曲輪7があり、その南に伸びる細尾根の先に物見台があって、祠が祀られている。城内は藪が少なく歩きやすいが、城の北麓だけ藪が多く、道が見つけにくいのが難である。
2本目の堀切→IMG_1172.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219739/138.802192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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馬山東城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1135.JPG←主郭跡とされる米山寺
 馬山東城は、国峰城主小幡憲重の持城と伝えられている。この地は、東の小幡氏に対して北から高田氏、西から武田氏の勢力を背景に市川氏が進出し、その接壌地帯となっていたことから、小幡氏にとって重要な拠点であったと考えられている。尚、南方の山上に馬山西城があり、東城を居館とし、西城を詰城とした別城一郭の構えであった。
 馬山東城は、道の駅しもにたの東の比高35m程の台地上に築かれていた。平坦地が延々と広がるかなり広大な台地であるが、米山寺の位置に主郭があったらしく、周囲より一段高くなっている。そこから北に向かって舌状台地が伸びているが、畑や墓地に変貌しており、段差や腰曲輪状の地形が確認できるが、改変が激しく遺構かどうかはわからない。結局明確な遺構は無いが、米山寺に建つ城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.223045/138.804102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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吉崎城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1117.JPG←北東尾根の堀切の一つ
 吉崎城は、桜井丹後守の出城で、その家老桜井右近将監が居城していたと伝えられている。桜井丹後守は、鷹ノ巣城の城代であったらしい。鷹ノ巣城主小幡三河守貞政は、関東管領兼上野守護の山内上杉氏に仕えてほとんど鷹ノ巣城を留守にしており、城代桜井丹後守が鷹ノ巣城を守り、吉崎城には家老の桜井右近将監が置かれたと推測されている。吉崎城は、鷹ノ巣城築城後にその防衛力強化のために築かれた様である。桜井丹後守は、山内上杉氏没落後、武田氏・滝川氏・北条氏とこの地域の支配者の変遷に伴ってこれに従い存続を図っていたが、1590年の小田原の役では、上杉景勝軍の別働隊、藤田能登守信吉の軍勢によって西牧城根小屋城と共に攻略され、同年徳川領になると廃城となったと考えられている。

 吉崎城は、標高453m、比高213m程の富士山に築かれている。この富士山は、遠目に見ても峻険な山で、最初に山容が見えてきた時、まさかあの山に登るんじゃないだろうなと思ったほど厳しい山容である。一応、富士山への登山道が南西麓の民家の奥から付いているのだが、登山道は消えかかっている上、砂礫と枯れ葉で滑るし木が少なく捕まるところがない、なかなか大変な登城となった。登山道は最初は東方向に斜面を登っていくが、途中から北方向に折れ、尾根と平行に西斜面をトラバースするルートとなる。この西斜面に、西に突き出した物見台らしい平場が3ヶ所確認できる。綺麗に削平されているので、間違いなく遺構であろう。この物見台遺構は『境目の山城と館 上野編』の縄張図には記載がない。これらを通過して進むと、城の北西中腹の腰曲輪に至り、ここには赤い鳥居が建っている。ここから途中腰曲輪を1段経由して登りきった山頂部が主郭で、小祠が鎮座している。主郭は土塁もない狭小な曲輪で居住性はなく、詰城という以上のものではない。主郭の北東の尾根には合計5本の急峻な堀切が執拗に穿たれている。しかしこの尾根は斜度が急な上、砂礫で滑りやすく、捕まることのできる木も少なく、登り降りできる尾根ではない。何でここまで執拗に堀切を作る必要があるのかと思ってしまう。また主郭背後に当たる南尾根は峻険な岩の細尾根で、2本堀切を穿って防御しているが、ほとんど人が通れる場所のない滑落必至の岩塊の堀切で、ここも堀切を穿つ必要があるのか、よく理解できない。『境目の山城と館 上野編』の著者の宮坂先生はこの危険な尾根の堀切まで測量しているが、何歳でここを踏査したのか、驚くばかりである。この他、北西の遥か下方に中段曲輪群があるらしが、体力を予想外に消耗したため未踏査である。
 吉崎城は、遺構はよく残っているが、峻険で危険なちょーヤバい山城である。下仁田・南牧地域の城にはこうした例が多いが、その中でもかなり危険な部類に入る。従って、普通の人でも滑落しかねない城なので、特に高齢者には訪城はお勧めできない。
南尾根のちょー危険な堀切→IMG_1099.JPG
この堀切は極めて危険なので、行かない方が良いです。自己責任で判断して下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(但し、非常に危険!)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.207066/138.801677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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羽沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1037.JPG←腰曲輪の石積み跡
 羽沢城は、砥沢の砦とも呼ばれる。歴史については不明確な部分が多いが、現地では市川五郎兵衛屋敷と表記され、羽沢城の5代目城主として市川五郎兵衛真親の名が伝わっている。真親の前の城主(おそらく真親の父)が右馬介真治で、市川氏本家の砥沢城主市川右近介真乗の弟で、1536年に真乗が25歳で若死にすると、その嫡子久乗が5歳という幼少であったので、その後見を務めて市川氏本家を支えた。真治は、砥沢の関守も兼ね、1588年に73歳で没したと言う。その次の城主真親は1571年頃の生まれと言われ、武田氏・北条氏が滅んで主家を失った後、関東に入部した徳川家康からの仕官の誘いを断り、代わりに1593年12月に家康から鉱山開発・新田開発許可の朱印状を勝ち取った。そして砥沢村(現・南牧村)で砥石山の経営を行うと共に、信州佐久地方へ進出し、私財を投じて用水路を開削、新田開発で多大な功績を挙げた。その名は、今でも五郎兵衛新田や五郎兵衛用水として伝わっており、その功績を伝えるため、佐久市には五郎兵衛記念館が建てられている。
 一方、話が戦国時代に戻るが、国峰城を奪われて武田信玄を頼った小幡憲重・信貞父子は、武田氏の支援によって南牧の砥沢に砦を築いて、国峰城奪還の橋頭堡としたが、その砦が羽沢城ではなかったかとする説もある。しかし現在残る遺構から考えれば、胡桃城裡山砦を含めた砥沢城の方が拠点として相応しいように考えられる。

 羽沢城は、市川氏の本城砥沢城より更に1.3km程奥地にあり、南牧川と星尾川の合流点に築かれている。ここは佐久方面に通じる間道を押さえる交通の要地で、麓の城館と背後の詰城で構成された城であったと推測される。南牧村民俗資料館(旧尾沢小学校)の場所が周囲より一段高い台地となっており、ここに屋敷が置かれていた様だ。校地にした際に大きく改変されているので、どの様な屋敷地だったのかは現状からでは明確にはわからない。一方、その背後の尾根上の詰城は、虎口を兼ねた小堀切とその背後の数段の小郭から構成されただけの小城で、大した兵力を籠めることもできない、ほとんど物見程度のレベルである。それでも一部に石積み跡が見られる。城郭遺構としては見るべきものは少ないが、南牧の歴史を語る上では重要である。尚、城の北東にやや離れて市川五郎兵衛真親の墓が残る他、詰城の登り口に法輪塔が残る。
小堀切→IMG_1031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.161066/138.659005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世平山城
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砥沢城・胡桃城裡山砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0940.JPG←二重竪堀
 砥沢城は、南牧衆の筆頭であった市川氏宗家の居城である。市川氏は、1567年に信州生島足島神社に奉納した起請文に、南牧6人衆として市川氏の兄弟3人が名を連ねている。即ち市川一族だけで6人衆の半分を占めていた。甲斐国八代郡市川を出自とする一族で、市河氏とも表記され、甲斐武田氏と同様に新羅三郎源義光を祖とする。その後、甲斐・信濃に一族が盤踞し、武田氏に従っていた。南牧の上州市川氏もその庶流と推測され、いつの頃か南牧に来住したらしい。武田信玄が信濃に進出すると、上州諸族の中ではかなり早い時期に武田氏に従った。一方、1553年に国峰城主小幡憲重は、留守中に箕輪城主長野業政の支援を受けた同族の宇田城主小幡景定に城を奪われた。憲重は武田信玄を頼り、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入った。これは、元々市川氏の城があったものを、若干の手を加えて小幡憲重・信貞父子が拠り、上州攻略の橋頭堡にしたと考えられている。その後、小幡父子は国峰城の奪還に成功した。
 胡桃城裡山砦は、歴史不詳であるが砥沢城の尾根続きにあることから、武田氏の意向を受けて市川氏或いは小幡氏が改修強化した詰城と考えられている。

 砥沢城は、南牧川と渋沢川に挟まれた標高510m、比高70m程の山上に築かれている。南東麓には市川氏の末裔の屋敷があり、往時のものかはわからないが石垣が確認できる。山上の要害部は細尾根上の狭小な城砦で、一部改変を受けているが、小堀切・小郭が残り、一部に石垣も残存している。
 胡桃城裡山砦は、砥沢城から更に140m程登った、標高650mの西の尾根続きに築かれている。砥沢城同様に細尾根の小城砦で居住性はほとんど無いが、段曲輪群などがしっかりと残っていて普請の規模はより本格的かつ広範囲である。山頂の主郭は東西に細長く、背後に2本の小堀切を穿ち、西端に物見台を備えている。主郭側方には帯曲輪が築かれ、北東端には明確な桝形虎口が築かれている。この枡形虎口は、小城砦には不釣り合いなほどしっかり築かれた大型のものである。主郭の東尾根には数段の段曲輪があって、断崖に接している。これらの山上部から北東に降ると、尾根の北斜面には大型の二重竪堀とL字型の竪堀・横堀の連結構造が見られる。また尾根東の窪地状の部分には2段程の平場が広がり、石垣が明確に残っている。この石垣は耕地化による可能性もあるが、『境目の山城と館 上野編』では遺構と見做している。ここ以外にも数箇所に石積み跡が散見される。更に砥沢城に至る北東下方の尾根にも明確な段曲輪群が所々に築かれている。
 遺構を見る限り、砥沢城と胡桃城裡山砦は一体運用されていたと考えられ、小さな城砦ながら武田氏による改修の痕跡を見いだせる。
枡形虎口→IMG_1013.JPG
IMG_0922.JPG←尾根上土塁の石積み跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【砥沢城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156961/138.669412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【胡桃城裡山砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155661/138.663876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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城之腰砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0854.JPG←主郭の大穴
 城之腰砦は、歴史不詳の城である。しかし目の前には市川氏の居城砥沢城があり、その支城であったことは疑いないとされる。
 城之腰砦は、中道院背後の標高535mの山上に築かれている。中道院の墓地裏から登れるが、なかなか険しい細尾根で、滑落しないよう注意が必要である。小規模な城砦で、山頂に主郭を置き、急崖の南西斜面以外の三方に腰曲輪群を築いた単純な構造をしている。腰曲輪群は西尾根・北東尾根・南東尾根の3つに分かれるが、それぞれ武者走りで接続されていて、兵員の横移動を意識している。主郭には大穴があり、そこから溝が北東の腰曲輪に向かって落ちている。『境目の山城と館 上野編』では竪穴式の小屋掛けの跡と推測しているが、その通りであろう。南東の尾根鞍部には小堀切が穿たれているが、ささやかなものでほとんど防御効果を期待できない。この他に北麓に居館跡らしい平場があるらしいが、存在を知らず見逃してしまった。いずれにしても、山間の小土豪の築いた小さな山塞である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.153651/138.673468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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真下城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0697.JPG←三ノ郭のL字状土橋
 真下城は、譲原城とも言い、関東管領山内上杉氏に属した真下氏の居城である。真下氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・五郎大夫基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。真下氏は、南北朝期に真下春行が南朝方の北畠顕家に従ったが、討死して没落し、残った一族がこの地に移住したらしい。そして天文年間(1532~55年)の頃に、真下伊豆守吉行が真下城を築城したと伝えられている。山内上杉氏に属していたことから、山内上杉氏の居城平井城の支城として機能したと考えられる。1551年、真下吉清が城主の時、河越夜戦の後に関東南半の覇権を握った北条氏康が上州に進撃し、真下城は北条氏に攻略された。その後の歴史は不明であるが、遺構を見る限り、北条氏の下で改修された可能性がある。

 真下城は、神流川西岸にそびえる標高310m、比高160mの山上に築かれている。登道は南東麓にあるらしいが、あまり整備されていないという情報だったため、私は東の尾根先端にある給水施設から登った。斜度の緩やかな尾根筋で、藪も少なく、こちらからの登城がお勧めである。広い緩斜面が続くが、途中から登道が土塁状の城道となり、北側に平場が広がるようになる。城に近づくと、眼の前の斜面に腰曲輪群が現れ、城道は坂土橋となって四ノ郭に至る。坂土橋の北側は短い横堀が穿たれ、土橋の動線を制約している。城は、東から順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭と連ねた連郭式の縄張りとなっている。広い三角形状の四ノ郭の奥には三ノ郭があるが、その前面に横堀と土塁が築かれている。土塁の中央は切れていて、横堀に通じる通路となっている。横堀の北側は三ノ郭北側の帯曲輪に通じ、途中で北斜面に竪堀(城道兼用か?)が落ちつつ、三ノ郭背後の堀切まで通じている。一方、横堀の南側では土塁がL字状土橋となって三ノ郭に繋がっている。ここでは前述の横堀に、更に土橋側方に竪堀を穿って土橋の動線を制約した構造となっている。この横堀・竪堀を連携させたL字状土橋の構造は北条氏関係の勢力の城(武蔵天神山城の東出郭・下野唐沢山城の南東遺構群・下野諏訪山城など)によく見られ、真下城も北条氏によって改修された可能性がある。三ノ郭は正方形の曲輪で、後部に低土塁を築き、南西隅に張り出しを設けてL字状土橋へ横矢を掛けている。主郭との間には堀切を穿ち、三ノ郭から土橋を架けて主郭南側の腰曲輪に繋げている。その上の主郭は、やはり後部に低土塁を築き、背後に堀切を穿って、西の二ノ郭と分断している。この堀切は、主郭・二ノ郭の南側の腰曲輪・北側の帯曲輪まで分断している。二ノ郭には土塁がなく、背後の西尾根との間を堀切で分断している。南西には虎口郭を張り出させて、西尾根に通じる土橋を架けている。西尾根は少し先で南東に降る尾根と分岐し、その分岐付近に平場を設けている。『日本城郭大系』ではこれを水の手曲輪としている。この他、主郭の北東尾根にも2段程の段曲輪が築かれるほか、前述の東尾根の城道南側にも何段かの広い曲輪が広がり、その南端に虎口と城道が築かれている。城の形態を見る限り、大手は東尾根だった様である。真下城は、大きな城ではないが、一部に技巧的構造が見られ、神流川流域の山城としては出色である。
堀切と二ノ郭→IMG_0740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.153097/139.041574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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諸城(群馬県上野村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0630.JPG←櫓台から見た堀切と主郭
 諸城(もろしろ)は、歴史不詳の城である。勝山・乙母両集落を繋ぐ桧峠の南の尾根に位置し、武州街道の峠の押さえのために築かれたと推測されるが、詳細は不明。地元の伝承では今井某の居城と言い、木曽義仲の側近今井兼平の伝説も伝わるが、ただの伝説に過ぎないだろう。尚、『日本城郭大系』では「神流川流域最奥の城」とある。
 諸城は、前述の通り桧峠の南の尾根の標高600m付近に築かれている。この尾根にはハイキングコースが整備されていて、いくつかの登り口があるようだが、私は東麓から勝山神社を経由して桧峠に至り、そこから浄水場の脇をすり抜けて尾根伝いに南下するルートを選択した。林道・ハイキングコースの敷設で破壊されている部分が多く、残っているのは城の中心部のみで、尾根筋の曲輪や櫓台などはかなり削られて改変されてしまっている。城の中心部は、北側に櫓台を設け、その南に堀切と主郭、主郭の南辺に土塁と堀切が確認できる。この他に、『境目の山城と館 上野編』の縄張図にある、櫓台北側の尾根上の縦長の曲輪跡とその先端の堀切脇の竪堀が、辛うじて残っている。峠からやや離れて存在するのが不思議であるが、遺構を見る限り、峠の番所と街道の物見を兼ねた性格の城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.082237/138.779812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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尾附城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0593.JPG←東尾根の堀切
 尾附城は、歴史不詳の城である。『境目の山城と館 上野編』では、登戸から尾附に移り、戦国期には武田氏に属した山中衆の土屋山城守高久の城と推測している。
 尾附城は、神流川の湾曲部に突き出た標高556m、比高66mの諏訪山と呼ばれる山上に築かれている。北側の山地との間は谷状地形となり、尾附集落が広がっているため、独立丘となっている。山頂の主郭に諏訪社の小祠があり、そこへの参道が北麓から付いているが、一部で石段が崩れており、気を付けないと滑落の危険がある。途中、2~3段の帯曲輪・腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭を中心に東西に伸びた尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の城であるが、いずれの曲輪も大した広さではなく、主郭も含めて居住性はほとんど無い。西尾根は、腰曲輪と繋がった二ノ郭的な段曲輪の先を小堀切で分断している。この堀切は、規模は小さいが鋭く穿たれ、両斜面に竪堀となって落ちている。堀切の先は自然地形の尾根となっている。一方、主郭の東尾根には2段の段曲輪の先にやはり堀切が穿たれている。『日本城郭大系』の縄張図では「大堀切」と記載されているが、実際の規模は西尾根のものと大差ない小堀切である。その先の尾根の高台に石尊社の小祠が祀られ、その下にやや広い東曲輪があり、北東に降る尾根上にも小郭が築かれている。遺構としては以上で、小平城などと同様、山間の小土豪が築いた詰城の形態を良く留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.090335/138.804789/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世山城
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小平城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0532.JPG←ニノ郭から見た主郭
 小平城は、この地の土豪黒澤氏の城と伝えられている。黒澤氏の事績については黒田城の項に記載する。
 小平城は、古田集落の背後に突き出た標高459m、比高90m程の山上に築かれている。古田集落の家の脇をすり抜けて南の谷戸に入る林道があり、その道の奥まで行けばすぐ右手に城の腰曲輪群が見える。西上州南西部の山間地の土豪の城に多い小規模な城砦で、遺構は完存しているものの居城性はほぼ無い、有事の際の詰城といった感じの城である。山頂に主郭を置き、南東と北側に腰曲輪群を連ねており、これら2つの腰曲輪群を連絡する武者走りが確認できるが、武者走りは途中で竪堀によって分断され、動線遮断を意識していることがわかる。千軒山城でも竪堀による分断が意識されていたので、同じ築城思想であった様である。また主郭の北側下方の腰曲輪には大手道が北麓から通じているが、虎口は横堀状となっている。主郭の南東の曲輪群では、最上段の曲輪はある程度の広さを持っているので、二ノ郭に相当するのだろう。ニノ郭から下の曲輪群は西辺または東辺に削り残しの土塁(というか削り残しの岩盤)を設けている。途中に小堀切が穿たれ、南東尾根の末端の鞍部にも峠道を兼ねたと思われる小堀切がある。この城は、藪が少なく動物には格好の住み家らしく、主郭も腰曲輪も鹿の糞だらけで足の踏み場もないほどである。小平城は、山間の小土豪の城の形態がよく分かる城である。
南東尾根の小堀切→IMG_0564.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.100565/138.887143/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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千軒山城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0415.JPG←主郭
 千軒山城は、一夜ヶ城とも言い、歴史不詳の城である。この地域の土豪であった黒澤氏、土屋氏に関連した城と考えられている。なお歴史不詳とは言いながら、一夜ヶ城と言う名から想像すれば、一夜にしての築城伝説か何かがあったのではないだろうか?一夜にしての築城は在地土豪レベルの小勢力には相応しくない伝説なので、佐久方面より侵攻してきた甲斐武田氏の後援による構築であったかもしれない。あくまで個人の勝手な推測であるが。尚、千軒山城の尾根続きの遥か下方には黒田城があり、関連のあった城であったことも想定される。

 千軒山城は、標高772m、比高432mの千軒山に築かれている。黒田城の尾根続きで、黒田城の西側からハイキングコース(トレイルランのコース)が整備されている。長い尾根筋の途中に広い平場があり(標高630m付近)、小屋や倉庫が置かれた曲輪と考えられる。山頂の城は、東西に伸びる尾根上に4つの曲輪を連ね、各曲輪を堀切で分断した小規模な城砦である。主郭前面の尾根筋に数段の腰曲輪を築いて前衛としている。主郭直下の腰曲輪は、尾根筋で堀切状となり、わずかだが遮断効果を持たせている。この腰曲輪は主郭の南側を帯曲輪状に延々と伸び、主郭背後の堀切まで通じている。途中に竪堀が穿たれ、この竪堀によって腰曲輪を分断している。山頂の曲輪は、東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と配置され、主郭が最も規模が大きいが、それでも居住性はほとんど無い。主郭の北辺だけ土塁が築かれている。二ノ郭・三ノ郭は数人しか入れない程の小規模なものである。堀切はいずれも小規模だが、三ノ郭背後のものは円弧状に掘り切っており、形状として横堀に近い。その先を降った先にある四ノ郭はやや広いが、ほとんど自然地形に近く普請は不徹底である。四ノ郭の西から南には広い平坦地が広がっている。この平坦地は、城の南中腹全体に広がっており、東の尾根まで伸びている。これが居館などの城郭遺構かどうかは微妙で、一見すると植林地か耕作地にしか見えないのだが、平場内部の仕切り土塁に石塁があり、その一部は耕作などで築いたものにしては石のサイズが大きく、しかも虎口状の通路もあるので、この大きい石垣は城の遺構かもしれない。
主郭背後の堀切→IMG_0428.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.119356/138.895340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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