So-net無料ブログ作成
古城めぐり(群馬) ブログトップ
前の30件 | -

丹生東城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8070.JPG←東側の腰曲輪跡らしい平場
 丹生東城は、丹生城の出城である。しかし城の歴史ははっきりせず、いつの時代のどの城主によって築かれたのか、詳細は不明である。
 丹生東城は、丹生湖の西側にある標高245m、比高35m程の丘陵上に築かれている。残念ながら、10数年前の耕地整理で破壊され、現在は地勢以外に遺構を留めていない。この地は城山と呼ばれ、畑となった丘陵の東と北に、一段低く帯状に平場が廻っているが、これがかつての堀や腰曲輪の跡であるらしい。耕地整理前の発掘調査では、ここに畝堀が見つかっているというので、小田原北条氏の上州進出後に関連する勢力によって改修された可能性も考えられる。いずれにしても現在では、現地に標柱も何もなく、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266248/138.824165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

丹生城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7902.JPG←主郭背後の二重堀切
 丹生城は、岩松氏が築いたと推測されている。後閑氏の系図では、新田義貞の末弟に新田四郎義重なる人物がいて、足利方として戦功を挙げて丹生を与えられたと言うが、そもそも新田四郎義重の実在が確認できない。しかも新田一族の多くが敵対し続けた足利氏に、義重だけが属したと言うのも奇異である。後閑氏による系図の創作であろう。実際には岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を与えられて丹生城を築いたと考えられている。岩松氏は、新田氏と足利氏の両方の流れを汲み、足利氏に従って軍功を挙げ、新田嫡流家が南北朝内乱で滅亡すると、新田氏に変わって新田荘を支配し、後には新田姓を称した。1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略し、59年には武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。以後は後閑城が本拠となり、丹生城の帰趨は不明である。

 丹生城は、標高290m、比高90mの山上に築かれている。北尾根の先に車道が通っており、案内板が出ているので、訪城は容易である。城内は一部の曲輪が整備されているものの、少々薮が多い。広い城域の城で、山頂に主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪を廻らし、南・南南東・南東の3つの尾根に曲輪群を築いている。ところどころ堀切が穿たれているが、規模は大きくなく、全面に土塁を盛ってちょっとした障壁の様な形で築かれているものもある。南東の先端のピークには物見曲輪が築かれている。主郭の北側腰曲輪から東に伸びる尾根が大手筋で、切り通し状の坂虎口や曲輪の先の長い尾根に、4~5本の堀切が穿たれている。この尾根は、一部が墓地などに改変されているが、堀切はよく残っている。この他、主郭の背後には二重堀切が穿たれ、その先に二ノ郭群、三ノ郭が続き、また小さな二重堀切を挟んで四ノ郭があり、その先を北端の堀切が穿って城域が終わっている。全体に多数かつ比較的大きな腰曲輪群が築かれているが、横矢掛かりはほとんど無く、あまり技巧性は感じさせず、面白みにはやや欠ける。ただ二重堀切が多用されているところなどは、武田氏勢力による普請の可能性を感じさせる(静岡などは、二重堀切と言うとほとんど武田氏の専売特許の様になっていたので)。
大手尾根に残る堀切→IMG_8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264380/138.815260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長井坂城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7035.JPG←主郭・二ノ郭間を通る沼田街道
 長井坂城は、沼田城攻略の拠点となった城である。1560年、関東に出陣した上杉謙信は、沼田城攻略に当たり、沼田を迂回して長井坂に布陣したとされる。この当時、小田原北条氏が関東管領山内上杉氏を関東から駆逐したことで、上野の国衆の多くが北条氏に降っていた。沼田氏では家中で内訌があり、これに北条氏が介入して前当主の沼田顕泰を越後に逐い、北条綱成の次男が入嗣して沼田康元となって沼田城を守備していた。しかし謙信の出馬によって形勢不利と判断した康元は沼田城から退去し、沼田城は謙信に攻略された。謙信死後の1580年、沼田城を攻略した武田氏の部将真田昌幸は赤城西麓を南進し、長井坂城を守備していた白井長尾氏の家臣牧弥六郎・須賀加賀守を駆逐し、これを占領した。1582年10月、武田氏滅亡・本能寺の変後に鉢形城主北条氏邦が5000余騎で長井坂城を囲み、真田方守将の恩田越前守・下沼田豊前守は奮戦の後脱出した。その後、長井坂城は北条氏の属城となり、氏邦の家臣猪俣邦憲が在城して、沼田城攻撃の拠点としたと言う。

 長井坂城は、利根川と永井川に刻まれた比高210mの急崖の上に築かれた城である。棚下砦と同じ段丘が、北端に突き出た部分に当たる。崖端城の通例と異なり、方形郭を並立させた珍しい縄張りとなっている。しかも城の中央部を沼田街道が貫通しており、街道を城内に取り込んだ形態も有している。崖に面した街道西側に主郭を置き、街道東側には二ノ郭を配置している。街道はちょうど2つの曲輪の間の堀底道となっている。主郭も二ノ郭も、基本は方形郭であるが、主郭は街道に向かって横矢の張り出しを設け、二ノ郭も南東角に横矢の張り出しを設けている。また主郭は崖側以外の三方に土塁を築き、南東部に空堀に繋がる大型の虎口を設けている。二ノ郭も街道側以外の三方に土塁を築いており、いずれの曲輪も東に広がる平地からの攻撃に対する防御を強く意識している。主郭・二ノ郭の外周には空堀が廻らされ(但し、二ノ郭北側のみ湮滅)、主郭北側には角馬出が配置され、その周囲にも空堀が穿たれている。主郭・二ノ郭の南側には三ノ郭が置かれ、その南側も土塁と空堀で防御している。三ノ郭は中央を街道が貫通しているので、東西で別郭となっているが、相対する虎口が確認できるので、三ノ郭東西は木橋で連結していたと考えられる。木橋を街道上に架けることによって、防衛線にもなるわけである。東三ノ郭の土塁は高さ5m程もある大土塁で、しかも横矢掛かりを持ち、重厚な防衛陣地となっている。三ノ郭の東にも空堀が伸びて台地東端まで掘り切っており、城の中枢部の東から北にかけて四ノ郭を設けている(現地標柱では三の丸だが、四ノ郭が正しいと思う)。この他、北側は断崖なのに腰曲輪も築かれている。以上が長井坂城の縄張りで、畑となっている二ノ郭以外は史跡として整備されているので、薮も少なく遺構が見やすい。横矢掛かりを多数設けた、戦国末期の築城技術を堪能できる。
 尚、縄張図に関しては、『日本城郭大系』のものより『中世城郭事典』のものがより正確である。
主郭南側の空堀→IMG_7120.JPG
IMG_7048.JPG←二ノ郭の横矢掛かりの土塁・空堀
三ノ郭の大土塁→IMG_7063.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585157/139.065220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

棚下砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6983.JPG←丸馬出
 棚下砦は、棚下御殿砦とも南雲御殿遺跡とも呼ばれ、上杉謙信に関連する城砦と考えられている。長井坂城津久田城との間に位置し、沼田城から厩橋城に至る要路中間を押さえる砦であったとされる。永禄年間(1558~70年)の北条景広宛上杉輝虎書状に「棚下之寄居」の表記があり、それが棚下砦のことであろうと推測されている。

 棚下砦は、利根川東岸の比高170mの断崖上に築かれている。北と南に深い谷が刻まれた天険の要害そのものの地形にある。遺構も見事で、先がすぼまった防弾形の主郭と、土橋で連結された細長の丸馬出で構成されている。東の車道から歩いていくと、空堀で区画された丸馬出が前面に見えてくる。丸馬出は、北面から東の先端部まで土塁を築き、独立堡塁として機能するように構築されている。馬出外周の空堀は、主郭との間を分断する堀切に接続し、更に主郭北側に回り込む横堀にも屈曲しながら繋がっていて、横矢を掛けている。主郭は東に土塁を築き、中央南寄りに櫓台らしい土壇を設けている。前述の主郭北側の横堀は、途中で竪堀となって落ち、その西側は帯曲輪となって主郭先端まで伸びている。主郭の先端(西端)には物見台があり、眼下には利根川の曲流部が一望できる。この他、丸馬出の東側の平場は、『日本城郭大系』の縄張図によればニノ郭で、東端に土橋の架かった堀切があった様だが、現在は車道が建設されて堀切が破壊されている。棚下砦は小規模な城砦であるが、丸馬出や大きな空堀が見事で、一見の価値がある。
馬出し・主郭周囲の空堀→IMG_6954.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572630/139.060650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名の山城を歩く

戦国大名の山城を歩く

  • 作者: 小和田 泰経
  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2019/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

津久田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6946.JPG←城址中心部の現況
 津久田城は、白井長尾氏の支城である。築城時期は不明であるが、永禄年間(1558~70年)に津久田地衆によって築かれたと推測されている。1580年8月、沼田城の真田昌幸は、海野輝幸らに命じて、3千余騎でこの城に迫り、城将牧弥六郎、須田加賀守らを白井城に逐って、津久田城を占領した。1582年に武田氏が滅び、織田信長の重臣滝川一益が上野を与えられると、その甥滝川義太夫が沼田城に入城し、津久田城は白井長尾氏の支配に戻って、牧和泉守が守った。本能寺の変後、一益は神流川合戦で北条氏直に大敗して本領の伊勢に逃れ、その際に沼田城は真田氏に返還された。この時、白井長尾氏は北条氏に帰属し、津久井城も北条氏の支配下に入った。沼田城代となった真田氏の重臣矢沢頼綱は、中山右衛門尉らに津久田城を攻撃させたが、返って敗れ討死したと言う(牧和泉守の奮戦は、猫山城にも伝わっている)。その後の歴史は不明であるが、北条氏の属城として続き、小田原の役で廃城になったのだろう。

 津久田城は、利根川と沼尾川の合流点南東の比高50m程の段丘上に築かれている。広大な平地の北西端部に築かれ、主郭の周囲に空堀で囲まれた曲輪群を東西と南に連ねた、群郭的な縄張りとなっていた。しかし城内は、昭和42年の土地改良事業で破壊され、現在は宅地と農地に変貌し、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに住宅裏の西斜面と北斜面に腰曲輪が残っているようだが、西の腰曲輪も杉の倒木で進入不能となっており、北の腰曲輪には到達できなかった。また住宅の裏に城址解説板があるのが辛うじて見えたが、民家の方にお断りをしないと、そこまで到達することもできない。昭和20年代の航空写真でははっきりと堀跡と曲輪の形状が確認でき、昭和42年に破壊されるまでは遺構が完存していたことがわかる。惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553344/139.043527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

猫山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6910.JPG←堀切と西郭群
 猫山城は、猫城とも言い、白井長尾氏の支城である。「猫」は根古屋の転訛らしい。当初は戸丸甚右衛門が在城し、1582年には牧和泉守が城を守り、牧氏は北条方として上杉方の真田勢と戦ったと言う。但し、牧氏の奮戦は津久田城にも伝わっており、城の遺構を見る限り、津久田城が攻撃を受け、攻撃中の真田勢を猫山城から出撃した軍勢が背後から急襲したと言う辺りが実相のような気がする。

 猫山城は、標高340m、比高100m程の山上に築かれている。東西に伸びる尾根上の2つに峰にまたがって築かれており、東郭群と西郭群から成る一城別郭式の縄張りである。『日本城郭大系』では、西郭群が本城で東郭群が別城(出城)としているが、東郭群の方が標高が高いので、こちらが本城のはずである。縄張りは全体的に簡素である。東郭群は長円形の主郭の周りに2段の腰曲輪が半周囲繞しているだけである。上段は幅が広いが、下段は帯曲輪状となっている。この東郭群の北に鞍部の自然地形が続き、北端に小堀切を挟んで西郭群が築かれている。西郭群あり、最上段の西主郭に城址標柱が立っている。その西側に小堀切を挟んで、猫山城では最大の面積を持っている西ニノ郭が広がっている。尾根は西ニノ郭の先で北に折れて伸び、そこにやはり堀切を挟んで西三ノ郭が築かれて、城域が終わっている。この他、城の築かれた尾根の北斜面下方にも傾斜の緩い平場が見られ、腰曲輪であった可能性がある。薮は少なく、遺構はよく確認できるが、普請の規模の小さいささやかな遺構で、恒常的な城砦と言うより、作戦上臨時に取り立てられた城砦と感じられた。
 尚、私は城まで北の谷筋の車道から斜面を直登したが、山上から遠望した限りでは西の車道から西尾根筋を登っても来られそうに見えた。それができれば、西からのアクセスの方が楽だと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.529795/139.039557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

不動山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6784.JPG←三ノ郭から見た主郭
 不動山城は、見立城とも言い、白井長尾氏の重要な支城である。長尾氏の居城白井城から利根川を隔てて東方に位置している。元々は地衆見立氏らの寄居として築かれたが、白井城が攻撃された時には、二度も白井城主が不動山城に逃れて再起を図っている。1590年の小田原の役の際、前田・上杉らの北国勢によって攻め落とされ、廃城となった。

 不動山城は、利根川東岸の標高330m、比高130mの段丘上に築かれている。段丘先端に築かれた城としてはちょっと変わった縄張りで、空堀で段丘基部を分断しているのは普通だが、その先の段丘平坦面を2段に築き、上段を主郭・ニノ郭とし、下段をそれらに付随する腰曲輪状の三ノ郭としている。主郭・ニノ郭は、三ノ郭の上で堀切によって区画されている。三ノ郭の外周には広幅の空堀が穿たれ、その外側にL字状の四ノ郭が置かれている。三ノ郭の空堀には横矢掛かりのクランクも見られ、西端部でもクランクしながら斜面に落ちている。四ノ郭は内部が2段に分かれており、北端部が下段より3~4m程高い平場になっている。四ノ郭の外周にも空堀が穿たれている。三ノ郭南西角には坂土橋が付いて腰曲輪に通じ、更にもう一つの坂土橋で外郭に繋がっている。この他、北東に出曲輪が築かれ、四ノ郭との間の空堀は、北端でL字に折れている。出曲輪から北に伸びる尾根には、小郭群と堀切があり、北端に多重桝形虎口が築かれている。以上が不動山城の遺構で、一部耕地化による改変があるものの、遺構はほぼ完存している。主郭等の主要部は見やすいが、三ノ郭・四ノ郭は竹薮がひどいのが残念である。
三ノ郭の坂土橋→IMG_6796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.516190/139.031253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


土の城指南

土の城指南

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2014/06/18
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八崎城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6669.JPG←主郭の空堀
 八崎城は、白井長尾氏の支城である。本城である白井城の南方を押さえる重要な支城で、長尾景春・憲景などがしばしば在城し、長尾景仲も城主となったことがある。しかし普段は城代を置いて守らせていたと推測されている。戦国後期には、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城と共に八崎城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。

 八崎城は、利根川とその支流東川に挟まれた段丘先端部に築かれている。南端に主郭を置き、その北側にニノ郭・三ノ郭があり、それらの西側に西曲輪、更に主郭から東川の深い渓流を挟んだ南東の段丘上に新曲輪を築いている。現在明確にその姿を残しているのは主郭だけである。主郭の北側には深さ5m程の規模の大きな空堀が穿たれ、しかも西側で横矢掛かりのクランクが見られる。主郭東側は東川によって削られた断崖絶壁となっている。主郭内は民有地で廃屋が残っているが、現在は入口に解説板が立ち、空き地となって開放されている。ニノ郭以降の曲輪は、住宅地に変貌し、堀跡は車道に変貌していてほとんどその痕跡を見出すことはできない。新曲輪も耕地化で遺構は失われている。ちなみに解説板によれば、度重なる風水害で大部分が崩れ去っているとされ、主郭や西曲輪はもっと規模が大きかったらしい。いずれにしても主郭周りの僅かな遺構しか残っておらず、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.484141/139.025331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/01/15
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

有馬城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6644.JPG←主郭西側の空堀
 有馬城は、歴史不詳の城である。利根川西岸の282.1mの段丘先端部に築かれている。北東端に主郭を置き、西と南に空堀を穿ち、外周にニノ郭を廻らした縄張りとなっている。しかしニノ郭は農地や工場・民家などに改変されており、西側に段差や土塁状の土壇が見られるが、どこまでが城域であったかも定かではなく、主郭南側の空堀もほとんど隠滅している。主郭は全体に薮が酷く、踏査が大変である。それでも西側の空堀は確認でき、主郭の北東側に腰曲輪が1段築かれているのが確認できる。主郭の北辺は大きく内側に湾曲し急崖に面しており、『日本城郭大系』の縄張図とは、主郭の形状は異なっている。昭和20年代の航空写真では、大系の縄張図に近い形状が見えるので、豪雨などで崖が崩れたものの様である。縄張図にある南東部の張出し部は薮が酷くて形状が確認できない。ニノ郭西側に描かれている馬出しは、前述の通り既に湮滅している。有馬城は、遺構の残存状況があまり良くなく、縄張り的に目立った特徴もなく、おまけに薮城なので、薮を強行突破してまで無理して行く城ではなかったのが残念。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.466352/138.993659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

原の内出(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6621.JPG←内出地区の民家群
 原の内出は、丹波屋敷とも呼ばれ、横尾丹波守が守った砦と伝えられる。「内出」の地名は上州では砦の別称であり、原の内出もそうしたものの一つである。横尾丹波守は、1547年の小田井ヶ原合戦で山内上杉方として参陣し武田勢と戦って敗れた横尾信光の子で、敗戦後にこの地に逃れ、小幡氏に属してこの砦を守ったとされる。後に小幡氏は武田氏に服属したので、横尾氏も同じく武田氏に属したと推測される。

 原の内出は、打越川北岸の原集落の中にある。明確な遺構はなく、県道48号線の北側に何段かの段差で民家が並んでいるだけである。『境目の山城と館 上野編』では、横尾丹波守の屋敷を中心にして若干の防備をして街道を監視し、連絡に当たったものと推測しており、民家を囲む石垣の中には、往時のものも含まれる可能性があるとの見解を示している。尚、内出地区の東端の墓地には、横尾丹波守の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.254846/138.815603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高田城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6606.JPG←主郭の土塁
 高田城は、この地の土豪高田氏の本城である。高田氏の祖は、源頼光の曾孫盛員(もりかず)と言われ、盛員は甘楽郡菅野荘高田郷を領した。その10代の後裔高田憲頼は、関東管領山内上杉憲政に仕え、1547年、佐久に侵攻した武田信玄が笠原清繁の志賀城を攻撃した際、親族の笠原氏を助けて志賀城に立て籠もり、討死にした。その子繁頼は、西牧地区の諸城に拠って信玄の上州侵攻に抵抗したが、1561年に降伏した。繁頼の子信頼は、武田氏滅亡によって北条氏に服属したが、信頼の子直政の時に北条氏も滅亡し、関東に入部した徳川家康に仕えて300石を給され、旗本となって存続したと言う。

 高田城は、高田川南岸の丘陵地帯の中の245mのピークに築かれている。『境目の山城と館 上野編』に「現状は荒廃の極にある」と記されている通り、竹薮・笹薮でひどい状況にある。山頂の主郭から北東に伸びる尾根に段々に曲輪群が築かれ、先端に大手があったと見られるが、先端の道路から曲輪内に突入すると、そこは物凄い竹薮地獄で、一部に櫓台や堀切の痕跡はあるものの、そこから先への突破は不可能であった。仕方なくゴルフ場に至る西の車道脇から谷戸を越えて主郭を目指して登り直した。主郭周囲には数段の腰曲輪が築かれ、その上に主郭がそびえている。主郭は全周の2/3程を高さ1.5m程の立派な土塁で防御しているが、ここも竹薮が酷い。主郭全体の形は、南北に長く、中央部が狭くなった形をしている様である。南西に堀切があった様だが、ゴルフ場造成で消滅している。以上の様に、遺構は残っているものの、激薮で踏査はかなり困難で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266958/138.840237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高田上の城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6511.JPG←東尾根の腰曲輪群
 高田上の城は、高田氏の支城の一つとされる。本城の高田城から北西にわずか300m程しか離れておらず、側面を防御する城砦として機能したと考えられる。
 高田上の城は、高田川南岸の丘陵地の中の標高250mのピーク上に築かれている。城跡までの明確な登道はないが、北麓に高太神社があり、比高わずか30m程でそれほど傾斜もきつくない斜面なので、適当に登れば城域に至る。城は主郭を中心に、三方の尾根に腰曲輪を配しただけの比較的単純な縄張りである。しかしこの手の小城砦にしては腰曲輪群は規模が大きめで、大手に当たる東尾根の曲輪群は4段程築かれ、主郭もそこそこの広さを有している。北側の腰曲輪では低土塁も築かれている。また南尾根と西尾根には堀切が穿たれているが、南の方は手前の腰曲輪に柵が設けられており(おそらく裏にあるゴルフ場との境の柵)、近づくことができなかった。構造としてはこれだけの城であるが、普請は全体にしっかりしており、城内は薮も少なく歩きやすい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.268601/138.837898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宇田城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6377.JPG←三ノ郭背後の堀切
 宇田城は、国峰城主小幡氏の庶流小幡図書介景純(景定)の居城と伝えられている。戦国時代、小幡憲重・信貞父子は関東管領山内上杉氏の宿老であったが、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信貞は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信貞は国峰城主に復帰したと言う。また一説には、甘楽大夫友政が宇田城主であったともされる。

 宇田城は、標高250m、比高65m程の山上に築かれている。東西に並ぶ2つの峰から南東にそれぞれ伸びる尾根上に曲輪群を展開しており、比較的規模の大きな山城である。城の主部は西側の峰から伸びる尾根上にある。居館跡(宇田西城)とされる神守寺方面から登道が付いており、登り始めてすぐに大手の多段曲輪群が現れる。結構規模の大きな曲輪も多く、兵舎や倉庫群が並んでいたと想像される。大手曲輪群の最高所が三ノ郭で、後部に櫓台を築き、背後を堀切で分断している。その北側がニノ郭で、更に堀切を挟んで最高所の主郭群がある。ニノ郭から主郭群の東斜面には整然と腰曲輪が築かれている。三ノ郭背後の堀切は竪堀となって腰曲輪を貫通・分断しているが、ニノ郭背後のものは腰曲輪に連結しており、東西の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの主郭~二ノ郭の東側腰曲輪群は構造がやや複雑で、段差でいくつもの曲輪に区画され、竪堀状の通路で下部の腰曲輪と繋がっている。主郭は南側に虎口小郭を張り出し、外周に腰曲輪を廻らしている。北西尾根に段曲輪を設け、堀切とされる尾根鞍部の先に物見台の峰がある。一方、主郭群から北東の尾根には比較的規模の大きな二重堀切が穿たれ、その先に北城がある。北城は、最高所に、南東の尾根に段々に曲輪群を連ねている。一部に堀切も見られるが、北城は全般的に薮が酷く、遺構の確認が難しい。以上が宇田城の構造で、それほど技巧的な縄張りではないが、全体的に整然とした縄張りで構築されており、特に主城の方は薮も少なく、遺構を堪能できる。
大手曲輪群→IMG_6334.JPG
IMG_6436.JPG←二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.261594/138.847575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宇田西城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6321.JPG←館跡とされる神守寺
 宇田西城は、宇田城の山麓居館と推測されている。現在の神守寺の位置にあったと考えられている。東の平地に対して段丘の上に位置しているが、遺構は全く確認できない。宇田城に登るために車を停めさせてもらったついでに寄る程度の城であろう。尚、普通なら「宇田館」と呼びそうなものだが、わざわざ「西城」と名付けられている理由は何なのだろう?江戸時代からの呼称だと思うが、不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.258757/138.847210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高林城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6228.JPG←竪堀状の虎口
 高林城は、歴史不詳の城である。一説には、小野篁の後裔で上野権守となった小野氏が鎌倉時代に居城としたとも言われるが、明証はない。現在見られる遺構は戦国時代後期のものと考えられる。

 高林城は、標高259.5m、比高約100mの山上に築かれている。北麓の黒岩小学校脇の墓地裏から登山道が整備されており、迷うことなく城まで行くことができる。主郭を中心とした環郭式の縄張りを基本形とするが、北側にはニノ郭・三ノ郭が連なり、部分的に連郭式となっている。主郭は眺望の良い平場で、西には妙義山や浅間山がよく見える。主郭の外周には腰曲輪が廻らされ、更に東側にはもう1段の腰曲輪があって、二ノ郭に通じている。この上下の腰曲輪間の通路は竪堀状の虎口となり、上部で屈曲して上段の腰曲輪に通じている。ニノ郭は、西辺と北辺に土塁が築かれ、北には中規模の堀切が穿たれている。堀切の北には東西に長い三ノ郭があり、後部の堀切沿いに土塁を築いている。三ノ郭の北と北西の尾根にはそれぞれ段曲輪が築かれている。この他、主郭腰曲輪の西と南に堀切が穿たれ、南では小ピークが物見台となっている。南の堀切は外周を巡る最下段の腰曲輪を繋いでおり、この腰曲輪は東側から北東部にかけて横堀となっている。前述の登道は、この横堀部分に繋がっているが、三ノ郭と北段曲輪はこの登城道の西側にそびえて防御線となっている。また北段曲輪の北の尾根も堀切状になり、物見台の様なピークも見られる。高林城は、大きな城ではないが、横堀・堀切・腰曲輪・竪堀状虎口など整然とした形態を示している。縄張りの形態から考えると武田氏の築城の様に感じられた。
ニノ郭北側の堀切→IMG_6260.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.277009/138.882401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

天王山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6172.JPG←主郭北側の堀切
 天王山城は、永禄年間(1558~70年)に須藤氏が築いて居城としたと伝えられている。城主としては須藤安房守の名が伝わっている。永禄年間と言えば、ちょうど武田信玄の上州侵攻の時期に当たり、武田氏に服属してからその命で天王山城を築いた可能性がある。須藤氏については、信玄が1567年に生島足島神社に奉納した起請文に、安中衆として須藤縫殿助久守の名が見える。武田氏滅亡後、上野が北条氏の支配下に入ると須藤氏も北条氏に属し、北条氏滅亡後は帰農したと言う。天正年間(1573~92年)に碓氷郡野尻へ移ったと言われているので、それはこの北条氏滅亡後のことであったかもしれない。江戸時代には、中山道安中宿の本陣を勤めた名家であった。

 天王山城は、標高270mのなだらかな丘陵上に築かれている。7~8年程前までは薮払いがされていたようだが、現在は全くの未整備で全山酷い薮に覆われている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に長い樽型の主郭と、南に笹曲輪(馬出し?)を設けており、それぞれ堀切で区画されている。しかし薮が酷く、辛うじて堀切・土橋がわかる程度で、曲輪の輪郭を追うのも困難である。主郭内部は削平が甘く、居住性のある城ではなく、番兵を置いた物見の砦という感じである。とにかく丘陵全体がド薮に覆われ、北西麓の安中市ふるさと学習館から途中までは登道があるものの、そこから城跡までのアクセスも困難である。遺構としても見るべきものは少ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆(薮で減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.289912/138.896070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

内小山の砦(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3291.JPG←砦跡の現況
 内小山の砦は、後閑館を防衛する砦である。後閑館の東側に隣接する台地の突端に築かれており、北端に堀切があるらしい。後閑館の脇から台地上に登る小道がある。現在砦跡の大半は畑となっており、北端部は山林となっている。おそらくこの山林内に堀切が眠っていると思うが、訪城したのがまだ草枯れの時期には早く、しかも民家の裏で丸見えだったので、それ以上の探索は諦めた。尚、『日本城郭大系』では「内小山」とは「内出」の誤写ではないかと推測している。確かに古文書ではありがちな、字の写し間違いの可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684871/138.997757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

後閑館(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3275.JPG←館跡の土塁と石垣
 後閑館は、南北朝時代初頭に後閑次郎祐房が築いた居館と言われている。後に内小山砦(内出)を附加した。祐房以後、後閑氏は7代続き、1554年に民部泰良が亡くなると、その家系は娘婿の増田正雲斎が相続した。その後、1681年まで増田氏により庄屋職が継承されたと言う。
 後閑館は、利根川東岸の段丘上に築かれている。後閑集落の一角にある民家が館跡で、西側に石垣、北側に土塁が残っている。この土塁には虎口跡らしい切れ目があり、土塁内側は石垣になっている。北西の角に標柱が立っている。館跡奥の 増田堂というお堂の脇に解説板があったらしいが、見逃した。というか、民家の敷地なので無断では入れなかったと言うのが正しい。石垣は後世に積み直されていると思うが、館跡を囲っていることは明瞭で、しっかりした遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683443/138.997307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

天神城(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3255.JPG←城址の遠望
 天神城は、1557年に沼田万鬼斎顕泰が築いた隠居城である。しかしただの隠居城ではなく、血生臭い沼田氏の抗争の場となり、結局それが沼田氏滅亡の原因となった。万鬼斎は嫡男朝憲に家督と沼田城を譲り、朝憲は上杉方の部将として活躍していた。隠居した万鬼斎であったが、共に天神城に移っていた末子平八郎景義を溺愛し、その母親である側妾(重臣金子美濃守の妹。伝承では「ゆのみ」と言う名であったらしい)の願いを容れて景義を沼田家の当主にする為、1569年正月に朝憲を天神城で誘殺した。朝憲が殺されたことを知った朝憲の一族・家臣達は、万鬼斎父子を討とうと川場に押し寄せ、川場合戦となった。大雪の中で生品を中心に合戦が行われ、小勢の万鬼斎は敗れて、景義と共に会津蘆名氏を頼って落ち延びた。その後、万鬼斎は会津で客死し、景義は葦名氏の庇護を受けて沼田への復帰の機会を窺った。一方、城主を失った沼田城は、上杉謙信の関東経略の際の重要拠点であった為、上杉氏の支配下に置かれた。1578年に謙信が急死すると後継を巡って御館の乱が起こり、沼田城は北条氏の管轄下に入った。しかし1580年、沼田城将の藤田信吉は真田昌幸に通じて武田方に寝返り、沼田城は真田氏の管轄下に置かれた。1581年3月、由良氏の支援で女渕城主となっていた景義は、金山城主由良国繁の後援を受けて沼田城奪還を目指して攻め寄せ、高王山城に本陣を置いて沼田城を窺った。景義の伯父金子美濃守は藤田氏と共に沼田城にあって昌幸の麾下にあり、昌幸から恩賞を約束されて、景義を沼田城へ誘い出し謀殺した。この結果、13代に渡って利根沼田の盟主であった沼田氏は滅亡した。

 天神城は、薄根川と溝又川の合流点に突き出た段丘先端部に築かれている。城址は公園として整備されている。台地基部から城に向かって遊歩道が伸びているが、途中で大きく降った鞍部となっており、堀切の名残と思われる。城自体は狭い主郭だけの単郭の城の様であるが、城址石碑裏の碑文によると、明治の頃までは数倍の広さがあったが、その後の水害による崩落で現在の状況になったらしい。平場しか残っていないが、沼田氏滅亡の原因となった城として、歴史的に重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.682841/139.085219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

勝山城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3240.JPG←解説板が建つ遊歩道
 勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。

 勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大友氏館(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3047.JPG←境内に残る土塁らしき跡
 大友氏館は、川場館とも言い、南北朝時代には鎮西の三豪とも言うべき豪族で織豊期まで存続した戦国大名大友氏の所縁の城館である。特にキリシタン大名として有名な大友宗麟を輩出した大名として知られている。元々大友氏は、相模国足柄郡大友郷を本領としていたが、鎌倉初期には豊前・豊後守護職兼鎮西奉行となり、九州に本拠を移した。『日本城郭大系』には、大友刑部がこの館に住み、南北朝時代の1368年に新田義宗と戦って討死したと記載されており、館跡に建つ桂昌寺の解説板にも同様の記載があるが、これは史実とは見做し難い。大友氏が創建した吉祥寺のパンフレットによれば、川場村には大友氏6代貞宗の庶子即宗や8代氏時の庶子氏能など大友氏の係累が多く居住したとされ、それら大友一族の居館であったのが実態であろう。しかし大友氏と川場村の関係については、河波姫の伝説などに彩られており、実態は不明である。

 大友氏館は、桂昌寺周辺が館跡とされる。土塁が残っていると現地解説板にあるが、かなり改変されているらしく、どれが土塁跡なのか明確ではない。西には細流があって天然の堀となっていたほか、周辺にも水路が流れ、堀の名残を残している様である。また境内には大友氏時夫妻のものとされる墓が残っている。大友氏館は、偶々花が綺麗だということで吉祥寺に行ったところ、なんと大友氏所縁の寺であったことがわかったため、帰ってからネットで調べてみたらその存在がわかったため訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.700184/139.106591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

  • 作者: 八木 直樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/09/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

白井城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2788.JPG←主郭虎口の石垣
 白井城は、関東管領山内上杉氏の重臣、白井長尾氏の居城である。南北朝期の1337年に鎌倉府の執事であった上杉憲顕が上野・越後両国の守護となると、長尾景忠が守護代を務め、上野に入部したとされる。しかし当初から白井に本拠を置いていたわけではなく、白井城が築城されたのは室町中期の景仲の代であったと考えられている。景仲は山内上杉氏の家宰を務め、享徳の大乱では山内上杉氏の主力として活躍した。景仲の孫景春は、主君山内上杉顕定が家宰職を景春の叔父の総社長尾忠景に継がせたことに反発し、鉢形城を築いて挙兵した(長尾景春の乱)。景春の攻撃によって、古河公方勢に対する上杉氏の五十子陣は崩壊し、この後数年に渡って景春と扇谷上杉氏の家宰太田道灌との間で関東平野を広範に巻き込んだ戦闘が繰り広げられた。この間顕定の兄、越後上杉定昌は白井城に本陣を移した。一時期、道灌も白井城に来城したらしく、主郭虎口に残る石垣は道灌の指導で築かれたとの伝承がある。4年に渡る反乱が鎮定されると白井城は再び白井長尾氏の本拠となったが、山内上杉氏と越後上杉氏との連絡を担う重要拠点として機能し、度々山内上杉氏も白井城に本陣を置いた。戦国時代に入ると、山内上杉憲政は北条氏康に駆逐され、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。謙信が関東に出馬すると、白井長尾氏は謙信に従った。その後、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。徳川家康が関東に入部すると、白井城は家臣の本多広孝に与えられた。1624年に本多氏が無嗣除封となると、白井城は廃城となった。

 白井城は、利根川と吾妻川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。南端から笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭・北郭・外郭を配置し、更に主城部の南東の低地に南郭・新曲輪を築いていた。遺構は、低地の曲輪や外郭は湮滅しているが、それ以外の北郭までの部分はかなり明瞭に残っている。特に主郭と笹曲輪は城址公園として整備されている。笹曲輪先端には櫓台が築かれている。主郭外周には土塁が全周し、北側の二ノ郭との間には大きな堀切が穿たれている。中央に土橋が掛かり、右方は塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の虎口は大型の枡形虎口となっていて、前述の通り石垣が残っている。二ノ郭との間の堀切は、塁線の折れに伴ってL字状に折れているが、現地解説板ではこれを三日月堀と称している。しかし実際はL字に折れているだけであり、三日月堀でも何でもない。飯山城のところでも書いたが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは悪しき風習である。二ノ郭から北郭までは畑となっているが、堀跡は良く残っている。土塁は北郭の虎口脇だけ残っており、城山不動尊が建てられているのが櫓台跡であろう。この他、主郭から三ノ郭にかけての東斜面に横堀と帯曲輪が延々と築かれ、二ノ郭の堀切との合流点には土橋も掛けられている。遺構は以上であるが、外郭の東と北の堀跡の木戸跡に北遠構・東遠構の石碑が建っている。広範に遺構が残り、規模も大きく、しかも草枯れにはまだ早い初秋の時期でも整備が行き届いており素晴らしい。選地や城の構造・規模は大庭城とよく似ている。いずれも印象に残る名城である。
主郭のL字の堀切→IMG_2848.JPG
IMG_2857.JPG←主郭東斜面の横堀・帯曲輪
ニノ郭の空堀→IMG_2978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.508808/139.010546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

渋川城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2779.JPG←民家の裏の土塁と堀跡
 渋川城は、1572年に真田幸隆らの武田勢が白井城を攻略した際、武田方に与した渋川地衆が築いたとされる城である。しかし白井城を逐われた長尾憲景は、逃れた八崎城より反撃に転じ、武田勢を破ったと言う。
 渋川城は、正蓮寺の境内と民家の敷地となっている。周囲を2つの小河川で囲まれ、3~4m程の段差で区切られた要害地形である。明確な遺構は少ないが、堀跡の水路(前述の小河川)が残り、正蓮寺の西側の民家西には土塁が確認できる。その西側に車道が通っているが、堀切の名残であろう。遺構は僅かだが、正蓮寺に城址の石碑が建ち、城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497942/139.002178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

  • 作者: 小川 由秋
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/01/06
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

漆窪城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2715.JPG←主郭の現況
 漆窪城は、弘治・永禄年間(1555~70年)の頃、総社長尾氏の一族長尾大膳の城であったと伝えられている。その他の詳細は不明である。
 漆窪城は、赤城山の南西に広がる広大な裾野の一角、段丘の先端部に築かれている。城跡はほとんど畑に変貌しているが、曲輪間の段差が残るほか、主郭北側には堀切が車道となって残っている。『日本城郭大系』では4本の堀切で分断されていたと記載されているが、現在その姿を残すのは、前述の主郭北側のものだけである。その他は埋められてしまったらしい。また先端の笹曲輪との間の堀切は農地の先端にあるため確認できていない。主郭の北東角から東斜面に小道が降っており、大手であったらしい。木戸跡のような土壇とその両側には腰曲輪が確認できる。主郭の北には堀跡の道路を挟んで三ノ郭があり、林となっている。ただの平場であるが、両側が主郭に向かって張り出しており相横矢になっていた様である。主郭の角に城跡の石碑と解説板が建てられているが、全体に遺構の残存状況は余り良いとは言えない。少々残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465351/139.071615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

箱田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2676.JPG←南西辺の横矢の張り出し
 箱田城は、戦国時代に上野守護代で白井城主であった白井長尾氏の出城として、箱田地衆によって築かれたと考えられている。しかし詳細は不明である。
 箱田城は、標高208mの独立丘陵である城山に築かれている。曲輪の規模は大きいが単郭の城で、南西辺で横矢の張り出しを持ち、主郭外周に土塁と空堀が築かれている。空堀は全周しているわけではなく、一部は腰曲輪となっている。主郭内には「たちばなの郷 城山」と言う温泉施設が建っているが、周囲の遺構はよく残っており、城址標柱・解説板の他、大手・搦手等の表示もある。その為、草枯れにはまだ早い初秋の時期でも訪城でき、遺構の損壊が少ないやり方に好感が持てる。縄張り・立地など真壁城と似ており、同じ築城主体であった可能性が考えられるが、なぜ至近に似たような城を築いたのかは不明である。真壁城の項でも記載した通り、恒久的な城と言うより、臨時の陣城や作戦上の物資備蓄基地の色彩が強いように思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.462340/139.041038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

真壁城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2602.JPG←主郭周囲の土塁
 真壁城は、白井城の支城である。白井長尾氏の重臣神谷三河守が城主であったと伝えられる。八崎城の繋城として築かれ、暫く上杉謙信の勢力下にあったが、御館の乱の後は武田氏に属し、武田氏滅亡後は北条氏の支配下に置かれ、1590年の小田原の役で白井城と共に落城した。

 真壁城は、利根川東岸のなだらかな丘陵頂部に築かれた単郭の城である。城と言うより砦と言う方が適している。南のゲートボール場から薮をかき分けて行くと、すぐに主郭に至る。主郭は東西に横矢の掛かった土塁で囲まれており、周囲は空堀で囲繞されている。横矢掛かりの部分では、土塁のクランクも明瞭にわかる。しかし丘陵上の遺構はそれだけで、周りは緩斜面で囲まれているだけである。昭和20年代の航空写真を見ても、周囲に特に遺構らしいものは確認できないので、恒久的な城と言うよりは臨時的な陣城や物資の備蓄基地の色彩が強いように感じられる。尚、東麓の根古屋部分は南に向かって三角形に張り出しており、台地基部に空堀が穿たれているようだが、薮もあり民家の裏にあることもあって、車道脇から除くぐらいしかできなかった。真壁城は、要害地形にあるとは言えず、往時にどのように使われたのか興味深い城である。
 ちなみに帰ってからネットを調べたら、主郭には「立入禁止」の看板が立っていたらしい。私が訪城した時は見当たらなかったが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.469691/139.036424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

剣城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2580.JPG←畑に残る段差
 剣城は、文治年間(1185-90)に比企氏の館として創築されたと伝えられる。戦国初期には長尾景俊が在城したとされる。その他の歴史は不明である。
 剣城は、かつては上越線の線路の西側に堀で囲まれた方形に近い曲輪があったと言うが、現在は遺構は完全に隠滅している。僅かに南東隅部だけ畑の中に切岸跡の段差と、東側に堀の名残と思われる水路があるだけである。それでも手製の城址標柱が建ち、踏切や架線に剣城の名が記されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.457775/139.019880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


長尾景仲 (中世武士選書26)

長尾景仲 (中世武士選書26)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桃井城(群馬県吉岡町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2541.JPG←北出曲輪周囲の土塁
 桃井城は、南北朝時代の武将桃井播磨守直常の居城であったと伝えられている。桃井氏は足利一門で、鎌倉時代にはここを本貫地として居住していたとされる。直常は当初は新田義貞に従って鎌倉攻めに参陣したが、後には足利氏に従った。『太平記』によれば、将軍足利尊氏の執事として絶大な権勢を誇った高師直に戦功を無視されたため、徹底的な反尊氏派・反師直派となったとされる。その後、尊氏の弟直義に従い、石堂頼房と並んで直義党の最強硬派で、尊氏との和睦に徹底して反対し、観応の擾乱で尊氏方と激しく干戈を交えた。勇猛な武将ではあったが、その振る舞いには『太平記』や今川了俊の『難太平記』などに批判的な記事も見られる。長らく越中守護であったため、弟の直和と共に越中を拠点としていたが、直義やその養子直冬(実は尊氏の庶子)が敗退して観応の擾乱が収束すると、消息を絶った。一説には、故地の上野国に戻り、榛東村播磨に隠棲したとも言われる。

 桃井城は、標高247.5m、比高30m程の丘陵上に築かれている。近代になってから農地開放で耕地化されたとのことで、城内は大きく改変されている。現在は、給水設備が建つ他、整備途上の公園となっている。山頂には主郭があったと思われるが、ここもかなり改変が見られる。北東の北出曲輪の周囲にだけ土塁が残っている。その外周には横堀があったらしいが、今は歩道が舗装されて堀跡らしさは消えてしまっている。尚、城跡から東方約600mの所に、直常夫妻の墓と伝えられる桃井塚がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439341/138.996470/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柏原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2488.JPG←外郭に建つ温泉施設
 柏原城は、白井城の支城である。1509年、白井城主長尾景春が上杉憲房の攻撃を受けて、柏原城に逃れ、翌年白井城を復したと言う。1573年、白井城主長尾憲景は、武田信玄の死去に乗じて柏原城を攻め、守将湯本左京進・植栗河内を駆逐し、吉里・野村・飯塚・福島らの諸士を置いた。1580年、岩櫃城代海野幸光が柏原城を攻略したが、1589年には北条氏麾下の白井勢が柏原城を押さえていたらしい。

 柏原城は、吾妻川南岸の段丘先端部に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図では二の郭の先に堀切で分断された主郭があり、更にその先に笹曲輪が置かれ、名胡桃城と似たような構造であったらしい。しかし現在は台地端部は削られて改変されている他、台地基部に広がる外郭部にも「根古屋乃湯」と言う温泉施設が建っており、大きく変貌してしまっている。従って、遺構は望むべくもない。僅かに温泉の名前にだけ、城の痕跡を留めるだけの悲しい状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547415/138.944585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

植栗城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2464.JPG←主郭西側の堀跡
 植栗城は、この地の土豪植栗氏の居城である。岩櫃城を築いた吾妻太郎の一族とも言われる。応仁年間(1467~69年)には植栗安芸守が城主で、1468年に植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れたと言う。永享の乱の前後より斎藤氏の庶流大野氏の勢威が宗家を凌ぎ、岩櫃城に入城して吾妻郡を支配した。大野憲直は、植栗河内守元吉と諍いを起こし、同族の岩下城主斎藤憲次に植栗氏討伐を命じたが、憲次は返って大野氏に反逆し、岩櫃城を急襲して大野氏を滅ぼした。憲次はそのまま岩櫃城主となって吾妻郡を支配し、元吉は憲次に従った。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃したが、この時植栗安房守元信は斎藤方として戦った。斎藤氏没落後、植栗氏は真田氏に従った様で、長篠合戦では植栗河内が手傷を負ったと言う。

 植栗城は、吾妻川南岸の段丘辺縁部に築かれている。畑地の中に三角形の主郭が一段高く残っている。主郭西側には堀跡が低地となって残っている。主郭南側は一面の水田になっているが、外郭があった可能性がある。その他には遺構はなく、ほぼ単郭の小規模な城である。主郭に城址標柱が立ち、主郭から南東にやや離れて植栗安芸守の石碑が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578661/138.865471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | - 古城めぐり(群馬) ブログトップ