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その他の史跡巡り ブログトップ
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根無藤古戦場(宮城県蔵王町) [その他の史跡巡り]

IMG_8421.JPG←一戦場の首塚
 根無藤古戦場は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の際の古戦場である。藤原氏4代泰衡は、阿津賀志山に築いた長大な防塁を奥州防衛の最前線とし、その後方に幾つもの城砦を築き、根無藤にも城郭(根無藤館)を築いて鎌倉勢を迎え撃った。阿津賀志山防塁を激戦の末に鎌倉勢に突破され、前線の総大将藤原国衡(西木戸太郎)までが討死し、奥州勢は総崩れとなったが、金十郎・勾当八・赤坂次郎らが大将となって、なおも根無藤楯に立て籠もって頑強に抵抗した。四方坂から根無藤に向かって進撃した鎌倉勢の別働隊は、四方坂から根無藤との間で奥州勢との間で7度に及ぶ激戦が展開された。鎌倉方の武将、三沢安藤四郎・飯富源四の兵略によって金十郎は討死し、その後は奥州勢は敗退して勾当八・赤田次郎以下30人が捕虜となった。こうして奥州合戦の大勢は決した。後世、この激戦のあった根無藤の地は「一戦場」と呼ばれる様になったと言う。
 尚、根無藤の名は、安倍貞任が馬の鞭に使っていた藤の枝を銀杏の木に差して置いていったところ、その藤の枝が銀杏に絡まって大木になったという言い伝えから、この地名が付いたと伝えられる。

 根無藤古戦場は、蔵王町役場から北に2.4km程の位置にある。車道の脇には「一戦場の首塚」と呼ばれる塚が残っているが、標柱も解説板もなく、忘れ去られている。また、首塚の西の丘陵上には金十郎らが立て籠もった根無藤館があるらしいが、付近の地元の方も、山の地主さんも、全く根無藤の戦いのことをご存じなかった。根無藤館の踏査は、地主のお爺さんから猪などが多くて危険なのでやめた方がよいと忠告された為、仕方なく断念した。こうして歴史が忘れられていってしまうのは、何とも残念なことである。

 場所:【一戦場の首塚】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/38.117998/140.651264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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伊達政宗灰塚(宮城県仙台市) [その他の史跡巡り]

IMG_9425.JPG
 仙台城の北方2.9kmの位置にある大願寺には、伊達政宗の灰塚がある。戦国末期から江戸初期にかけての時代を独特の才覚で乗り切った政宗は、1636年5月に江戸桜田の仙台藩邸で波乱の生涯を終えた。遺骸はすぐに仙台に運ばれ、遺命により経ヶ峰(瑞鳳殿付近)に埋められた。伊達家には藩主や夫人の遺骸を死後すぐに埋葬し、49日の間に原野で空棺による葬礼を行うという独特の風習があり、政宗の葬礼は当時原野であったこの地で行われた。棺を焼いた灰を埋納して塚を築き、周囲に土塁と周濠を廻らせた。これが灰塚である。灰塚を護るため大願寺が建立された。5代藩主吉村の時、戦国時代の遺風であり無益であるとして廃されたと言う。尚、2代藩主忠宗、3代藩主綱宗の灰塚も北山にあったが、現存していないそうだ。

 大名の灰塚としては、以前に加賀前田家3代利常の灰塚にお参りしたことがあるが、これは実際に遺骸を火葬した際に出た灰を塚に埋めたものであった。大名の灰塚自体が残っている例が少なく珍しいが、伊達家の様に空棺を焼いた灰塚というのは、確かに他に例がないだろう。希少な史跡である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.278188/140.852988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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将門関連史跡 その4 [その他の史跡巡り]

 以前に茨城県内の県西地域の将門関連史跡について紹介したが、守谷・取手市域にも将門伝説が色濃く残っている。これは勿論、平将門の裔を自称した守谷城を本拠とした下総相馬氏の影響によると思われる。

<平将門・七騎石塔>(茨城県守谷市)
IMG_7986.JPG
 守谷の海禅寺には、平将門と7人の武者(七騎武者)のものとされる8基の石塔が残っている。1664年に守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によれば、海禅寺は931年に平将門が創建したと伝えられ、将門の母や弟将頼が寺に住んでいたと言う伝説も残っているらしい。将門には7人の影武者伝説があり、現在残る石塔は、937年に将門が京から帰国する途中、平良兼・貞盛軍に待ち伏せされ、将門の身代わりとなって討死した7人の影武者の供養塔と言われている。しかし江戸時代に建てられたものと言われ、あくまで伝説の域を出ない。しかし将門の影武者の墓というのは全国的にも珍しいらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930005/139.986634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<桔梗塚>(茨城県取手市)
IMG_7991.JPG
 桔梗塚は、将門の愛妾であった桔梗御前が亡くなった場所とされる。桔梗御前については諸説あるが、よく知られているのは、将門と7人の影武者のどれが本物かを見分ける方法を、桔梗が敵に教えてしまったために将門が討死したというものである。ここの桔梗塚に伝わる伝説では、将門が討たれたと聞いてここまで逃げて来た桔梗御前が、敵の追手に捕まりここで殺されたとされ、その恨みによってこの地の桔梗は花が咲かないと言う。元よりこれも伝説の域を出ない。
 場所は、国道294号線の脇で、交通量の多い幹線道路脇にこの様な史跡がぽつんと残っているというのは、何とも不思議なものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925661/140.022640/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<朝日御殿跡>(茨城県取手市)
IMG_8000.JPG←大日山古墳に建つ岡神社
 朝日御殿は、将門の愛妾桔梗御前の御殿跡と言われている。岡台地の東端には平場が広がり、中央の一段高い土壇の上に岡神社が鎮座している。この土壇は大日山古墳で、県の指定史跡となっている。頂部からやや降ったところにも平場が広がっているが、御殿があったということ自体が伝説に彩られているので、遺構かどうかを詮索するのも野暮というものであろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925400/140.050814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伝平国香供養塔>(茨城県龍ケ崎市)
IMG_8054.JPG
 地元では古くから、将門の伯父平国香の供養塔と伝えられている。その形態から鎌倉後期から室町前期にかけて造られたものと推測されている。かなり大型の宝篋印塔であると同時に、全体が太い寸胴で、笠の部分に反りが見受けられるなど,一般的な宝篋印塔と比べて珍しい形状をしている。この地域は、平安後期~南北朝期にかけて「相馬御厨」と呼ばれる荘園に属しており、下総相馬氏が支配していた。そのような背景から、相馬氏一族に連なる有力な在地領主が創建に関わっていた可能性が指摘されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.921925/140.139627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※過去の将門関係史跡巡りはこちらこちらこちら
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師直塚(兵庫県伊丹市) [その他の史跡巡り]

IMG_7733.JPG
 師直塚は、足利尊氏の執事として辣腕を振るった高師直とその一族を祀ったとされる塚である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。鎌倉時代の足利氏は、執権北条氏一門以外の外様では最大の勢力を有した御家人だっただけあって、諸国に膨大な所領を持っており、これらを管轄・統治するために政所・奉行所・御内侍所といった統治機構が整備されていた。あたかも小幕府とも言うべき規模で、これら全体を統括していたのが高氏であった。殊に南北朝動乱初期の激変する社会情勢と勢力図の中で、これらを破綻なく統括し続けていたことは並の能力ではなかったはずで、師直がいかに切れ者であったかが想像できる。
 尊氏が将軍となってからは、執事施行状という形式を発案して将軍権力を支えると同時に、将軍の親衛軍団長として各地の戦いで抜群の戦功を挙げた。戦場での機動性を高めるために「分捕切棄の法」を初めて採用し、北畠顕家を討死させた。四条畷の戦いでは、細川顕氏・山名時氏といった猛将を相次いで撃破した恐るべき知略をもった楠木正行をも撃ち破り、自刃に追い込んだ。『太平記』ではこの時の師直を、敵の偽装撤退を見抜いた「思慮深き老将」と評している。また、正行の奇襲に混乱に陥った自軍を押しとどめたり、師直の厚情に感激した上山左衛門という武士が、師直の身代わりとなって盾となり討死したエピソードも語られている。
 一方で師直には専横の振る舞いも多かったらしく、戦功を無視された桃井直常など、恨みを持つ武士も多かったとされる。それが遂に室町幕府を主催してきた足利直義との党派対立に発展し、観応の擾乱へと突き進むこととなった。摂津打出浜の合戦で弟直義に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦を結んだが、先年師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。『太平記』によれば、この時殺されたのは師直・師泰以下、一族家臣合わせて14人に登った。太平記の記述を読む限り、能憲は予め誰が誰を殺すか用意周到に決めており、しかも和睦して武装解除された敵将を、実際に養父殺害に関わった師直・師泰だけでなく14名も抹殺したのは、虐殺というべき所業であった(家来を含めるともっと多かったはずである)。太平記の描いた殺伐とした時代でも、この様な虐殺行為は他に例を見ない。この行為を黙認した直義は、自軍に付いた武士達からも早くに信望を失ったのだろう(生粋の直義党の武将は別として)。それが結局、打出浜合戦での大勝からわずか半年での直義の京都脱出、そして八相山合戦・薩埵山合戦での敗北へと繋がっていくことになったと個人的に推測している。
 尚、これ以後も高氏の傍系は細々と続いたが、師直時代の様に燦然と輝く事績を残す機会は、遂に再び廻ってくることはなかった。

 師直塚は、武庫川東岸の国道171号線の側道脇にある。大正4年に建てられたという立派な石碑がここに移されている。周辺は市街化が進んで往時の面影は全く見られないが、石碑だけが動乱の歴史を今に伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.774023/135.384264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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打出浜古戦場〔大楠公戦跡碑〕(兵庫県芦屋市) [その他の史跡巡り]

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 打出浜古戦場は、南北朝時代の古戦場である。普通、打出浜合戦と言えば観応の擾乱の際に足利直義の軍勢と戦って足利尊氏・高師直が敗れた合戦を指すが、それ以前にもあり、合わせて前後2回の合戦が行われている。

 最初の合戦は、1336年。竹之下合戦で新田義貞率いる朝廷軍を打ち破り、西上した足利軍は、第1回目の京都争奪戦に敗れ、逃れた尊氏は丹波経由で兵庫津に陣を移した。ここで、態勢を立て直して反攻を期す足利軍と、追撃してきた新田義貞・北畠顕家・楠木正成らの朝廷軍とが再度激突した。その戦いの経緯は『太平記』と『梅松論』とで記述が異なっているが、いずれにしても旗色の悪かった足利勢は敗れて西へ指して引き退き、室泊の軍議を経て九州へと落ち延びることとなった。

 2度目が有名な観応の擾乱での戦いである。1350年、将軍足利尊氏と執事高師直は、西国で猛威を振るい始めていた足利直義(恵源)の養子直冬(実は尊氏の庶子)を討伐するため、軍勢を率いて西に向かった。この隙を突いて、政務を辞し出家に追い込まれていた直義(恵源)は京都を脱出して河内石川城に入って、師直打倒の兵を挙げた。驚いた尊氏は備前国福岡より軍を引き返し、石見三隅城を攻撃していた高師泰の軍勢も急遽引き返させて、播磨の書写坂本で合流した。1351年2月、尊氏・師直方と直義方の両軍は摂津打出浜で激突した。戦意旺盛な直義方が尊氏・師直勢を圧倒し、尊氏の親衛隊長とも言うべき師直・師泰兄弟が負傷して戦意を喪失して、尊氏方が敗北した。『太平記』によれば、この時尊氏を始め高一族など主要な武将たちは自刃を覚悟したが、尊氏の小姓饗庭命鶴丸の奔走で師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦が成り、尊氏以下の諸将は上洛の途に付いた。しかし先年、師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。

 尚、南北朝時代には街道の要衝で度々合戦が行われた為、打出浜に限らず、同じ要地で何度も干戈が交えられた。

 打出浜古戦場は、現在国道2号線北側に楠公園があり、そこに大楠公戦跡と刻まれた立派な石碑が建っている。これもまた全国によくある南朝方礼賛の石碑と解説板で、皇国史観全盛で日本が右傾化していた昭和11年(2・26事件のあった年)に建てられている。その為、楠木正成の事績のみを大々的に記し、「逆賊」足利氏の内訌については何ら記載するところがない。また朝廷軍と足利軍の戦いについても、主将は新田義貞であったので、本来は「新田義貞戦跡」と書かれるべきであろう。この辺りが、皇国史観の「虚偽観念」という史実無視の発想らしい。尚、歴史的には観応の擾乱での合戦の方が重要であり、現代ならばそれについての補足説明を加えても良いと思うのであるが・・・。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.734921/135.317810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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朝日山古戦場〔赤松塚〕(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6519.JPG←朝日山合戦に関連した赤松塚
 朝日山合戦は、天文年間(1532~55年)に生起した赤松氏と浦上氏の抗争である。嘉吉の乱で一旦は滅亡した赤松氏は、旧臣達の努力で再興されたが、戦国時代に入ると重臣の浦上氏が勢力を伸ばして、主家赤松氏を凌ぐようになった。1534年、赤松・浦上両氏の間で朝日山において激戦が行われた。櫛橋左京亮・上月右京亮など多くの赤松重臣が討死し、播磨島津氏も当主忠長が討死して断絶した。尚、現地の石碑によれば、朝日山での合戦は複数回あった様である。

 朝日山合戦の行われた朝日山の南西約1kmの位置の公園の一角に、赤松塚が残っている。石碑の解説文によれば、朝日山合戦で多くの赤松一族・将兵が、或いは討死し、或いは自刃し、爾来この地で鍬入れなどをすると祟りがあり、病気や災難に遭うと言い伝えられていると言う。赤松氏に所縁深い土地であることが窺える。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.811275/134.580932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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青山古戦場(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6512.JPG←石碑と解説板
 青山古戦場は、後に智将として勇名を馳せた黒田官兵衛孝高の初陣となった戦いである。青山の戦いは、赤松宗家とその庶流龍野赤松氏の対立に端を発している。宗家の置塩城主赤松義祐と龍野城主赤松政秀の対立は、織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いという周辺諸豪を巻き込む騒乱に発展した。そして1569年8月、政秀は3000の兵を率いて、赤松義祐に属した御着城主小寺政職の家老黒田職隆・孝高父子の守る姫山城(後の姫路城)に向けて進撃した。孝高は、父職隆から離れて土器山に布陣し、最前線で政秀軍を迎え撃った。不意撃ち・挟み撃ちなど秘策を尽くし、悪戦苦闘の末に政秀軍を追い詰めてこの地まで撃退し、青山で最後の決戦となった。数に勝る政秀軍を撃退することに成功した孝高は、奇襲の作戦技もあって有名になったと言う。
 青山古戦場は、千石池の南東の袂に石碑と解説板が建っている。住宅地の奥の突き当りで、千石池の背後の丘陵はゴルフ場に変貌している。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.842364/134.626100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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将門関連史跡 その3 [その他の史跡巡り]

 「将門関連史跡 その2」の続きである。前回同様これらの史跡については、「将門ブログ」に記載されている膨大な量の情報から多くの知見を得た。

<子飼の渡し古戦場>(茨城県下妻市)
IMG_5447.JPG←子飼の渡し付近の現況
 子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
 子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされ、橋の西の袂に標柱が建っているが、日に焼けてしまって解説文の文字を読むことができない。せめて解説板だけは直して欲しいところである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.148505/140.002770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鎌輪の宿>(茨城県下妻市)
公民館裏の石碑→IMG_5450.JPG
 鎌輪の宿は、将門の元々の根拠地で、その居館の地である。一時期、上京して太政大臣藤原忠平に仕えたが、在京12年にして都の腐敗に幻滅して、故郷の下総国相馬御厨に戻った。そして豊田郡の鎌輪に新たな本拠を定め、民衆と共に原野を開拓して新たな国造りに努めたと言う。しかし、叔父たちの執拗な攻撃に遭い、居ること7年にしてやむなく石井に本拠を移した(石井営所)。その後、ちょっとした行き違いから天慶の乱の首謀者となってしまい、そのまま坂東の地を席巻して新皇を称したが、平貞盛・藤原秀郷の軍に敗れ、非業の最期を遂げた。将門の死後、残党狩りは過酷を極め、鎌輪の宿も人は去り、舎屋は焼かれ、歴史の彼方に埋没したと言う。将門の居館は、古老の伝えるところでは大字鎌庭字館野(新宿地内)にあったとされる。

 鎌輪の宿は、旧千代川村にあった。現在の航空写真ではわかりにくいが、戦後の航空写真を見ると、この地はかつて鬼怒川が東に向かって大きくUの字に蛇行していた内側の平地であり、三方を川で囲まれた要害の地であったことがわかる(現在、河道は改修され、まっすぐ南流している)。鎌輪の宿を伝えているものが2ヶ所あり、一つは千代川公民館裏に立派な石碑が建ち(ここは旧河道である)、もう一つはそこから西北西に700m離れた鎌庭香取神社境内の前に解説板が建っている。実はそれ以外にもう一つ、千代川中学の北西の水田地帯の中に「居館跡」と書かれた立看板があるらしいので、後日再訪してみたい。この看板の地が、古老の伝える居館跡なのであろう。

 場所:【千代川公民館裏の石碑】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155678/139.963074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【鎌庭香取神社】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.158121/139.955778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御所神社>(茨城県八千代町)
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 御所神社は、平将門を御祭神として祀る神社で、将門の館跡(仁江戸の館)であったとの伝承があるらしい。「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたと伝えられている様だ。しかし将門の居館として『将門記』に記載されているのは、鎌輪の宿と石井営所なので、実際に仁江戸に館があったのかは不明。居館ではなく、将門によって郷村統治の為の陣屋が置かれた可能性もあるだろう。また一説には堀田道光と言う人の居館であったともされるが、堀田氏の事績も不明である。いずれにしても「御所」の名が示す通り、将門伝説を語り伝える地の一つであることは間違いない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.161231/139.932722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<常羽御厨兵馬調練の馬場跡>(茨城県常総市)
IMG_5471.JPG
 常羽御厨(いくはのみうまや)は、平良持・将門2代に渡る牧場である。元々この付近には官牧であった古牧(現・古間木)と大牧(現・大間木)があり、古牧が手狭となったため移転した大牧の馬見所が、この馬場であったと言われている。東西に飯沼の入江を控え、南北に大路が貫通して両牧場に通じる要地で、馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であったとされる。937年、子飼の渡しの合戦で将門軍を破った良兼は、将門の本拠地豊田郡を蹂躙し、常羽御厨など多数の人家舎宅を焼き払った。これは、将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であった為に狙われたものと言われている。
 現在は、馬場地区にある交差点の脇に、「常羽御厨兵馬調練之馬場跡」と刻まれた石碑と解説板が建っているだけである。
 尚、西方の入江に接した白山(城山)の地に、将門の陣頭で上野守に任命された常羽御厨の別当多治経明の居館があったと伝えられている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.133404/139.920577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<下総国亭跡>(茨城県常総市)
IMG_5476.JPG←石碑・解説板と筑波山
 下総国亭(国庁)の地は、平安前期~中期の頃、北総最初の開拓地で、鬼怒川と飯沼川の水便を利用できる地勢であったため、早くから開拓基地として栄えていた。昌泰年間(898~901年)に鎮守府将軍平良将がこの地に進出して居を構え、下総開拓の府として国庁を置いた(現在の地名「国生(こっしょう)」は、国庁を置いたことに由来すると言われる)。良将は、後にこの地の下流に当たる要害地・向石下に豊田館を築いて居住し、902年に豊田館で将門が生まれたと伝えられる。しかし国庁は、良将・将門父子の時代を通じてこの地に置かれていたとされ、939年11月に鎌輪の宿に還った将門は、捕虜の常陸長官招使をこの地の一家に住まわせたと『将門記』に記載されている。また常陸介藤原維幾父子に与えられた一家も、この地内にあったとされる。但し、「国庁」とは言っても国府ではなく、国府の下位にあって地域支配を行うための出先機関としての官衙であったろう。
 下総国亭は、鬼怒川西岸の台地上の畑の只中に、石碑と解説板が建っているだけである。この台地の西を流れる鬼怒川支流の小河川は、その名も将門川と言い、将門伝説に所縁深い地であることを伺わせる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.129929/139.948654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<六所塚>(茨城県常総市)
IMG_5482.JPG
 六所塚は、古代の前方後円墳で、将門の父良将が下総国庁を本拠とした際に「六所の宮」を勧請して祭祀を行ったことから、六所塚と呼ばれるようになったと伝えられる。また別説では、六所塚は良将の墳墓で、元の名を御所(五所)塚と呼んだが、940年の将門滅亡後に逆賊の汚名が高まるに連れて六所塚と改称されたとも言われる。東側の通称六所谷と称される地は、将門討死後にその遺骸を埋葬した地とも伝承されていると言う。
 六所塚周辺には、かつては85基もの古墳があり御子埋古墳群と称されていた。現在では盗掘や開発によってほとんどが姿を消したが、当古墳群中で最大の前方後円墳である六所塚は、古くから畏敬されてきたため、現在までその姿を残している。農道脇に標柱と解説板が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.100634/139.958739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平親王将門一族墳墓之地>(茨城県常総市)
IMG_5487.JPG←堤防下の石碑と解説板
 平親王将門一族墳墓之地は、将門の父平良将と兄将弘らの墳墓の地であったと言われている。将門の討死後、豊田の郎党は主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて密かに逃れ来て、この一族の墓側に葬ったと伝えられている。この墳墓の地一帯の台地は御子埋と称され、古くから石碑群があり、「馬降り石」と呼ばれて、その前を通る時は必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。また御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されてきたと言う。これらの石碑は、鎌倉中期の1253年に時の執権北条時頼が民生安定の一助とするため、自ら執奏して勅免を受け、下総守護千葉胤宗に命じて一大法要を営ませて建碑したものを始め、その翌年以降に縁者伴類多数の講中が豊田・小田(時知)両氏の助力を得て建碑したものなどである。現在は蔵持城付近の「赦免供養之碑」と西福寺の「菩提供養之碑」として、移されて現存している。

 平親王将門一族墳墓之地は、立派な石碑と解説板が建っているのだが、場所が非常にわかりにくい。堤防下にあるという情報だけを頼りに周辺を歩き回って、ようやく探し当てた。六所塚古墳から東南東に250m程の位置にあり、鬼怒川堤防の西側直下にある。石碑と解説板以外はただの藪に覆われた台地である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.100045/139.961550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平将門菩提供養之碑>(茨城県常総市)
IMG_5494.JPG

 前述の通り、平親王将門一族墳墓之地にあったものが、新石下の妙見寺に移され、明治4年の妙見寺廃絶の後、寺縁によって西福寺に移されたものと伝えられる。1254年の将門の命日(2月14日)に建碑供養されたものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.109008/139.973116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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山王堂古戦場(茨城県筑西市) [その他の史跡巡り]

IMG_5420.JPG←謙信が本陣を置いた山王堂
 山王堂の戦いは、1564年に越後の上杉謙信が常陸の小田氏治を破った戦いである。これに先立つ1561年、小田原北条氏の本拠地小田原城を、関東諸将を率いて攻撃し、その帰途鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲られた。上杉方の関東諸将の中には小田氏治も参陣していたが、謙信が越後に帰還すると、北条氏康による関東諸将の切り崩しが行われ、翌62年に氏治は北条方に付いた。1563年、氏治が府中城主大掾貞国を攻撃して打ち破ると、小田氏と対立関係にあった佐竹氏・真壁氏らは連名で上杉謙信に氏治の背信を訴え、謙信の出馬を要請した。それが引き金となって謙信による小田氏攻撃が行われることとなった。翌64年4月、上野国平井にいた謙信は、出陣要請に応えて軍勢を率いて出陣し、驚くべき速度で進軍し、短時日で常陸国の山王堂に着陣した。あまりの速さに、上杉方の関東諸将・常陸の諸将の援軍が間に合わなかったほどだと言われている。謙信着陣の報を受けた氏治は、慌てて軍勢を整えて小田城を出立し、山王堂近くの芦原に布陣した。間もなく上杉勢の突撃によって戦闘が開始され、小田勢もよく凌いだが、激戦の末に敗れ、氏治は小田城に敗走して立て籠もった。勝ちに乗った上杉勢は小田城を大軍で攻撃し、氏治は藤沢城に逃れ、代わりに残って戦いの指揮を執った小田氏の老臣信太治房は自刃し、小田城は落城したと言う。

 山王堂合戦の際に謙信が本陣を置いた山王堂は、海老ヶ島城の南南東約1.8km、大川東岸の低台地の辺縁部にあった。下館市街から筑波方面に通じる県道14号線からやや西に外れたのどかな農村風景が広がる土地で、往時の光景を想像するのは難しい。両軍がどのように布陣したのかも詳らかではないが、大川を挟んで両岸に対峙したものであろうか。いずれにしても、泥田内での激突であったらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239955/140.043883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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将門関連史跡 その2 [その他の史跡巡り]

 以前、2010年に平将門の本拠地石井営所など将門関連の史跡を訪ね歩いたが、その他にも茨城県内南西部には各所に将門にまつわる史跡が散在していることが、その後わかっていた。今年の初夏、久しぶりにこうした将門関連史跡を廻ってみた。尚、これらの史跡については、「将門ブログ」に記載されている膨大な量の情報から多くの知見を得た。

<三国三公頌徳碑>(茨城県結城市)
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 三国三公頌徳碑は、平貞盛・藤原秀郷・結城朝光の3人の武将の業績を讃えた石碑で、戊辰戦争の際に旧幕臣を組織して函館政府を樹立した榎本武揚の撰になる碑文である。尚、この石碑の隣には水戸城主江戸氏の最後の当主江戸重通の碑が建っている。

 平貞盛は、常陸大掾平国香の嫡子で、将門の従兄弟に当たる。将門の乱の際に、将門討伐軍の将となり藤原秀郷と共に将門を打ち破った。貞盛の系統は桓武平氏の嫡流となり、伊勢平氏や常陸大掾氏などを輩出した。

 藤原秀郷は、俵藤太とも呼ばれ、現在の栃木県佐野市付近に本拠を持った豪族で、平貞盛と共に将門を打ち破った。その功績によって鎮守府将軍となり、渡良瀬川流域に広くその子孫が蟠踞した。中でも特に藤姓足利氏と小山氏は「下野の両虎」と称され、その勢力を競っていたが、源頼朝の挙兵の際の去就によって、足利氏は滅んだ一方で小山氏は大きくその勢力を伸ばし、以後は小山氏が秀郷流藤原氏の嫡流と目せられた。

 結城朝光は、小山朝政の弟で結城氏の祖である。源頼朝が挙兵した際、かつて頼朝の乳母であった母の寒河尼に連れられて、武蔵国隅田宿の宿所で頼朝に対面し、以後は頼朝の寵遇を受けた。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.296216/139.844799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<結城諏訪神社>(茨城県結城市)
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 940年、朝廷からの平将門討伐の宣旨を受けた藤原秀郷は、この地に諏訪神社を勧請して戦勝祈願を行ったと伝えられる。そして見事に将門を討ち取った秀郷は、翌年諏訪神社を創建した。以後、その子孫からの尊崇厚く、源頼朝の奥州合戦に出陣する小山朝政・結城朝光兄弟は当社に戦勝祈願をしてから出立したと言う。境内には「勝負岩」という大岩があり、将門の軍勢の矢から秀郷を守ったと伝えられる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.243122/139.871879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伝・源護館>(茨城県下妻市)
IMG_5403.JPG←大串の富士神社
 源護は、筑波山西麓に広く勢力を有していた豪族で、平国香以前の常陸大掾職を務め、娘を平国香・平良兼・平良正らに嫁がせていた。935年、息子の扶、隆、繁ら3兄弟が将門と争い、野本合戦で悉く敗死して、護の本拠も将門に焼き払われたと言う。大串の富士神社付近には、その居館があったとされる。この地は大宝城の南続きの台地上に位置し、周囲には往時は大宝沼が広がっていた事から、居館を築くに適した要害の地であったと推測される。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.197768/139.973631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<石田館(平国香館)>(茨城県筑西市)
長光寺→IMG_5408.JPG
 筑西市東石田は、将門の伯父で常陸大掾であった平国香の本拠があった。現在長光寺の建つ付近一帯が、平国香の居館があった場所と伝えられている。国香は源護の娘婿であったため、935年に護の息子たちが将門と争うと、国香は源一族の側に付いて自ら軍を率いて参戦した(野本合戦)。しかし将門の精鋭軍に敵わず、石田館に逃げ帰ったが将門軍は追撃して石田館を攻撃した。傷を負っていた国香は、館に火をかけられて敗死したと言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.220881/140.048218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平国香墓>(茨城県筑西市)
IMG_5415.JPG
 石田館跡とされる長光寺の南東550m程の畑の中に、平国香の墓と伝わる石塔がある。畑への入口脇に解説板が昨年設置され、場所がわかりやすくなっていて助かった。石塔の背後には雄大な筑波山の山容を望むことができる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.217869/140.053046/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<弓袋山古戦場>(茨城県石岡市)
奥の山が湯袋山→IMG_5426.JPG
 937年9月、将門は平良兼の居館のある服織の宿に向けて進軍し、良兼の館やその家臣の館を焼き払った。良兼は、将門が来る前に一族と軍勢を率いて筑波山中の弓袋山(湯袋山)に逃げ込み、山中に隠れた。将門は陣を堅固に作って敵襲に備える一方、山中の良兼を攻めようとするが、互いに持久戦となり、勝敗を決しないまま軍勢を引き上げたと言う。
 弓袋山合戦は、県道150号線が筑波山北東の山稜を横切る湯袋峠付近であったのだろう。この地は、北西に伸びる山稜の先端付近にあったとされる平良兼館方面から道1本で繋がっており、確かに急場しのぎで良兼一族が立て籠もるには、都合が良かったのだろう。藪だらけなので、山中には入らず、峠付近の近景と麓から湯袋峠付近の遠望だけ写した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.241011/140.124457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御堂の越の碑(将門供養碑)>(茨城県桜川市)
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 后神社の東南100m程の丘の上の墓地に、御堂の越の碑と呼ばれる将門供養碑がある。伝承では、将門を滅ぼして乱を鎮定した後、平貞盛が将門供養の為に建立したものだと言う。現在は一般の方の墓の真裏に数個の墓石や石碑があり、多分これだろうということしかわからない。一般墓地と20cm程しか離れておらず、なんかあまりにも可哀想な状態だった。もし貞盛が立てたという伝承が本当だったら、極めて貴重な文化財と思うのだが、全く信用されていないのか、何らの保護措置も案内板の設置もされていないのは悲しいことである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.325317/140.079074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<后神社・きさきの井>(茨城県桜川市)
IMG_5430.JPG
 后(きさき)神社は、将門の妻「君の御前」を祀った神社である。解説板によれば、承平の頃に平真樹と言う豪族が、この大国玉字木崎に居を構えていた。真樹は、将門の父良文の遺領大国玉地方を領しており、その娘が将門に嫁いだ。前常陸大掾・源護の子・扶、隆、繁らは君の御前に懸想し、これを略奪しようとして将門を襲った。しかし戦は将門・真樹の勝利となり、扶、隆、繁らは敗死し、源一族に援軍として加わっていた将門の伯父平国香も自殺した。以後、将門は伯叔父たちと相争うこととなった。937年7月、服織に住む叔父平良兼が、将門を攻撃した。同月18日、猿島郡陸閑において、君の御前とその子が良兼の配下によって斬殺された。死後祭祀の礼を享け、后神社と称したと言う。ご神体は平安時代五衣垂髪の女人木像で、君の御前の木像であるらしい。尚、現在この地を「木崎」と呼ぶのは、后の転訛であると言う。
 また、后神社の裏の道路を挟んで東の斜面下には、大国玉七井の一つ「きさきの井」の井戸跡がある。
IMG_5435.JPG←きさきの井
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.325645/140.078151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<将門宝塚>(茨城県桜川市)
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 将門宝塚は、将門が財宝を埋めた塚だと言われている。后神社の北東200m程の位置、河岸段丘東端部の山林内に円墳状の塚があり、頂部に祠が祀られている。土地の人からは、「宝塚さま」と呼ばれていると言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.326942/140.079632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御門御墓>(茨城県桜川市)
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 御門御墓は、平将門とその一族の墓と伝えられている。ここは将門の居館があったところと言われ、将門らの霊を供養するため、後年五輪塔を建立したものと推測されている。4基の五輪塔が残っているが、これらは鎌倉初期の作とされている。尚、「みかど」の地名は、新皇を僭称した将門の居た所から、当初は「帝」の字を当て、その後、「御門」→「三門」と変遷した。三門の集落続きの木崎が、古くは「后」の字を当てていたのと一対になっており、天慶の古い歴史を今に伝えていると言う。
 尚、「将門ブログ」の管理人の方が、『将門の御墓(東向き)は、将門の妻「君の御前」を祀る后神社(西向き)と向かい合うように建っています。これは偶然ではないでしょうね。』とコメントしておられるが、ものすごく鋭い観察眼であり、恐れ入るばかりである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.330105/140.068903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


※この続きは「その3」へ。
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光得寺五輪塔(栃木県足利市) [その他の史跡巡り]

IMG_5150.JPG←前列左が南宗継の供養塔、
                          前列右が高師直の供養塔
 光得寺は、源姓足利氏3代義氏が開基となったとされる寺で、ここには樺崎寺(足利氏の菩提寺)にあった五輪塔群が移されている。明治初年の廃仏毀釈によって樺崎寺が廃寺となった際、法縁によって光得寺に移されたと言われている。全部で19基もの五輪塔群で、ほとんどは刻文が摩滅して誰のものか不明であるが、明確に読み取れるものが4基あり、足利尊氏と考えられるもの(「長寿寺殿」(=尊氏の法名)と推測されるが、一字が不明のため不確定)、その父・貞氏のもの、そして尊氏の執事を務め、各地の南朝方との戦いで絶大な軍功を挙げた前武州太守・高師直のもの、高氏の庶流で師直が観応の擾乱で滅ぼされた後に、一時期尊氏の執事を務めた南宗継のもの、がある。

 これらの五輪塔群は、長いこと修復整備のために足利市が寺から他所に移していたため、近年までお参りすることができなかった。ようやく昨年あたりに修復が完了し、立派な覆屋が建てられてお参りできるようになったのを、「高 師直: 室町新秩序の創造者(吉川弘文館)」という本に写真が載っていたのを見て初めて知り、さっそく初夏に訪問した。最初に光得寺を訪れたのは2008年。それから9年も掛かって、ようやく念願の対面ができた。足利は高氏一族の本拠地であり、光得寺はその庶流南氏の本拠であった名草に近い。おそらく南宗継やその子孫が建てた供養塔と思われるのだが、あれほど日本史に名高いのに、太平記による師直悪玉論によって功名を消し去られた師直の墓(供養塔)は、全国的にも多分ここしか無い(その他では、師直が惨殺された武庫川辺に「師直塚」というものがあるだけ)。その意味で、歴史的に極めて貴重な供養塔である。その他の無名の五輪塔も、一部がもし南氏が建てた供養塔だとしたら、武庫川で滅亡した高氏一族(師泰、師夏ら)の菩提を弔う供養塔であった可能性もあるだろう(南氏一族の墓は名草の清源寺にあるので、光得寺のものは観応の擾乱で滅亡した高氏宗家の諸将を供養したものではないだろうか)。南北朝時代の重要な歴史を再認識させる、貴重な文化財である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.359314/139.482293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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高天原古戦場(茨城県鹿嶋市) [その他の史跡巡り]

IMG_3795.JPG←鹿島義幹の墓
 高天原古戦場は、鹿島氏内訌の古戦場である。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、一部の近臣の専横を許し暴政を行った為、重臣達は鹿島氏同族の島崎城主島崎利幹と通じ、更に府中城の大掾氏、水戸城の江戸氏らを引き込んで、当主廃立を謀った。その結果、義幹は追放され、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏(千葉氏の一族)を頼って東庄城(須賀山城か?)に逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、敗れた義幹は南方の鉢形野において自刃した。この時、義幹の宿老の内野氏・飯塚氏も節を守ってこれに殉じたと言う。またこの戦いでは、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪塚原卜伝の師でもある)も通幹方として激闘の末、討死している。松本備前守の弟子の塚原卜伝も参戦していたが、卜伝は無事に帰還した。

 高天原は、鹿島神宮の東方に今でもその地名が残るが、具体的にこの付近のどこが戦場になっていたのかは判明していないらしい。しかし、そこから南方の鉢形には敗れた鹿島義幹の墓があり、その近くに内野氏・飯塚氏の墓も建てられている。義幹の墓は、なんと焼肉屋の真裏にある。実際は墓があるのではなく、墓碑が墓代わりとして建っている。道路を挟んで南の向かいに内野氏の墓があり、こちらも墓碑が墓となっているが、東に70m程離れた飯塚氏の墓には碑がなく、ほとんど丸坊主にされた木が植わっているだけである。車の通りの多い、市街地と化しているが、わずかに500年前の歴史が残されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.965112/140.649033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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阿久利川事件跡(宮城県栗原市) [その他の史跡巡り]

IMG_3001.JPG←解説板の建つ一迫川畔
 阿久利川事件は、前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と俘囚長安倍氏との本格的な戦闘が始まる画期となった事件である。朝廷への貢納を怠るようになった安倍頼良は、1051年の鬼切部の戦いで勝利した翌年、朝廷からの大赦布告によって罪を免ぜられ、新任の陸奥守源頼義に服属して名を頼時と改めた(頼義と同音であるのを避けるため〔避諱〕)。しかし1056年の夏、任期が間もなく終わる頼義が、鎮守府の胆沢城から国府多賀城への帰途、阿久利川のほとりに宿営した際、頼義配下の権守藤原説貞の子光貞・元貞の陣屋が何者かに襲撃され、元貞の人馬が殺傷される事件が発生した。将軍頼義は詮議の結果、安倍頼時の子貞任の仕業と断定し、一方的に貞任を罰しようとした。貞任の出頭を命ぜられた頼時はこれを拒絶したことから、武力衝突が始まった。
 尚、この事件は、早くから西国に勢力を扶植して中央政界でも立場を強めつつあった平家に対し、出遅れていた源氏の棟梁頼義が、源氏の勢力を伸ばすために奥州制覇の野望があり、陸奥守の任期を伸ばして安倍氏を攻撃するために仕掛けた謀略との説が古くから根強い。そしてその野望は、子の源義家に引き継がれ、頼朝に至って結実することとなる。

 阿久利川事件跡は、正確な場所は必ずしも明確ではないが、近年の研究によって宮城県栗原市の築館と志波姫の境、一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力とされている。この地から川を挟んですぐ北西には奥州街道が通り、古代城柵でもある伊治城があることから、古くからの交通の要衝でもあり、軍団の宿営地として考えるには十分な説得力がある。現在は一迫川の堤防内を通る車道脇に解説板が建っている(以前は標柱もあったようだが、現在は失われている)。伊治城に行く途中で、知らずにたまたま通りかかって解説板を見つけたのだが、こんなところで日本史の画期となる事件が起こっていたとは、地元の人にもあまり知られていないであろう。尚、解説板には「古戦場跡」と記載されているが、合戦があったわけではなく襲撃事件であるので、一般に広まっている「事件跡」という呼称を採用した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.762399/141.041965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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佐沼合戦旧蹟(宮城県登米市) [その他の史跡巡り]

 登米市の佐沼地域には、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった佐沼合戦に関わる史跡が残されている。佐沼城を訪城した折、これらの旧蹟を巡り歩いた。

<伊達政宗陣場>
IMG_0024.JPG←陣場跡
 豊臣秀吉より葛西大崎一揆討伐の命を受けた政宗は、米沢城を出陣して6月25日に加美郡宮崎城を攻略、同月28日には一揆勢の本拠である佐沼城への攻撃を開始した。頑強な抵抗を排して、7月3日の朝には城を占領したと言う。この時政宗が本陣を敷いたのがこの陣場で、佐沼城西館の目と鼻の先にある。石碑が建てられている頂部は土壇となっているが、遺構であろうか?この他、周囲にも腰曲輪状の平場が確認できるが、非常に小規模な陣場である。佐沼城外郭の外堀となっていた長沼川を挟んで、西館の要害と指呼の間に対峙する比高10m程の丘陵地で、いかに伊達軍といえど、最初からここに本陣を敷くことはできなかったであろう。おそらく、もはや残るは本丸だけとなった佐沼合戦の最終盤に、合戦の最後を見届けるために政宗が本陣をここまで進めてきたのだろう。それは一揆を裏で扇動した自身の謀略の痕跡を消し去るために、一揆勢が一人残らず殲滅されるのを見届けるためであった。戦国武将とはいえ、これ程冷徹に何千もの民衆を葬り去るというのは、政宗とは恐ろしい男である。背筋が凍る思いである。尚、国道398号線から脇道に入った右手上方にも「伊達政宗陣地跡」の石碑が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696178/141.191826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<首壇>
IMG_0279.JPG
 1591年7月、伊達軍は佐沼城に立て籠もった一揆勢を討伐し、城を落城させると「屈強の侍500余人、その他百姓など2000余人」(政宗文書)を撫で斬り(要するに皆殺し)にし、その首を塚を築いて葬った。登米市役所北西の丘陵上の車道脇にあるが、案内板などが何もなく、場所が非常にわかりにくい。もう少し誘導標識などを設置してくれるとありがたい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.692712/141.185668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<兵糧山>
IMG_2054.JPG←長沼に突き出た丘陵地
 佐沼合戦の際に、伊達軍は長沼の水運を利用してこの地に兵糧を運んで集積したことから、兵糧山と呼ばれるようになった。先日、東京オリンピックでのカヌー競技の候補地として話題になった、長沼ボート場のすぐ北東にあり、長沼に突き出た丘陵地である。周りを沼で囲まれているので、敵襲を受けにくいことからこの地が選ばれたのだろう。現在は公園となっており、遺構は特にないが、史跡看板が立っている。


 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.698824/141.147151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<千葉越前道胤の墓>
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 千葉越前道胤は、奥州千葉氏の一流下油田千葉氏の出で、葛西氏の重臣であり石越の西門館主であった。葛西大崎一揆の際に旧臣達を糾合して挙兵し、佐沼城に立て籠もった。しかし伊達軍の攻撃を受け、佐沼城から迫川を渡ったこの地で戦死したと言う。現在残る墓は8代目の子孫が建てたものだと言う。ここも場所が非常にわかりにくい。GoogleMapの航空写真から、多分ここじゃないかとアタリをつけて訪問したところ、ドンピシャだった。民家の下にひっそりと歴史が眠っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.697778/141.200173/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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玉ノ木原古戦場(宮城県七ヶ宿町) [その他の史跡巡り]

IMG_9619.JPG←標柱が埋もれた草むら
 玉ノ木原古戦場は、奥州の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の際に、伊達政宗と上杉景勝の軍勢が戦った古戦場である。1600年、徳川家康による上杉討伐とその隙に乗じた石田三成による徳川討伐の挙兵によって、天下を二分する合戦が生起した。下野国小山まで東下した家康は、三成挙兵の方に接し、ここで反転して西へ向かった。一方、石田三成と呼応した上杉方の総大将直江兼続は、後顧の憂いを断つ為、徳川方の最上領に大軍で攻め寄せた。山形城主最上義光は、山形盆地入口を護る要衝の長谷堂城に精鋭を集めて上杉勢に対する最後の防衛線とする一方、伊達政宗の元に嫡男義康を派して援軍を要請した。政宗はこれに応じ、叔父の留守政景に兵3000を与えて山形城の東方に進出させた。この時、政景は配下の茂庭綱元に別働隊を率いさせて七ヶ宿街道を西進させた。綱元は9月25日に湯原城を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。七ヶ宿は、伊達宗遠・政宗(儀山公)父子が置賜に進出して以来の深い繋がりがあった為、この地の野武士達は伊達方に付いて奮戦したと言う。

 玉ノ木原合戦は、奥羽国境の二井宿峠を押さえる要衝、屋代楯東方の山間の平地で行われた。現在は国道113号線の脇の草むらの中に標柱が建っている。この標柱がまた、草に埋もれていてわかりにくく、普通ならば気付かずに通り過ぎてしまうだろう。古くからの重要な街道の歴史の1ページを伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.0175,140.288072&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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仁木頼章墓所(兵庫県丹波市) [その他の史跡巡り]

IMG_5954.JPG
 仁木氏は足利一門で、元々は吉良氏・細川氏等の一門と同様に足利王国とも言うべき三河国を本拠としていた。仁木氏は一門中では家格が低く、ほとんど家来並みの扱いであったことが『吾妻鑑』の記述から知られる。それが一躍歴史の表舞台で活躍して丹波守護に補任されるまでになったのは、勿論尊氏の挙兵に従ったからである。仁木頼章・義長の兄弟は、丹波篠村での倒幕戦挙兵から観応の擾乱まで終始一貫して尊氏に従って奮戦した為、尊氏から重んぜられ、頼章は晩年の尊氏の執事まで務めている。頼章と丹波の繋がりは、1336年に京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に逃れた際、室泊の軍議に基いて丹波一国の軍事指揮官として派遣されたことに始まる。この時頼章は、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。この後、瞬く間に態勢を盛り返して再挙東上した尊氏が京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、萩野朝忠を守護代とした。しかし尊氏の傍にあって補佐し続けたことを考えれば、頼章自身はほとんど丹波に在府したことはなかっただろう。1343年に守護代の朝忠が突如高山寺城に立て籠もって室町幕府に反旗を翻して討伐されると、頼章は責任を取って丹波守護職を辞し、山名時氏が丹波守護となった。1350年、室町幕府を二分した抗争、観応の擾乱が生起して尊氏・直義兄弟が争うと、山名時氏は直義党の有力者として尊氏に抗して戦い、直義の死後にその養子直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて時氏が京都に進撃した際には(1354年)、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う。しかし直冬は一旦は京都を制圧したものの結局京都争奪戦に敗れて石見に逼塞し、時氏も本拠の山陰に退き引いた。その後は尊氏・義詮による幕政運営の中で、尊氏の執事となった頼章は重要な役割を果たした。頼章が1358年に病没した時、朝廷の公卿洞院公賢が日記『園太暦』の中で、頼章を「武家随分の重人」と評し、頼章の訃報に接して「武家政道いかん」と頼章亡き後の幕政に一抹の不安を持っていることからしても、頼章が執事として尊氏晩年の幕政に重きを成していたことが推し量られる。

 仁木頼章の墓所は、頼章が築いた高見城の東麓にある三宝寺の境内にある。板状の3つの墓と小さな五輪塔があり、どれが頼章の墓かはよくわからないし、その他の墓が仁木氏一族のものかも不明であるが、南北朝動乱を生き抜きた足利一門の武将の足跡がしっかりと伝わっていることに感慨を覚えずにはいられない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.129614,135.042604&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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伝・芳賀氏墓(栃木県真岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_0682.JPG
 真岡市には、県指定の有形文化財になっている、芳賀氏の墓と伝えられる墓石群が残っている。芳賀氏の事績については真岡城飛山城の項に記載する。7基の墓石は一般的な五輪塔ではなく、いずれも層塔型で、鎌倉~室町時代のものとされ、この地域の特色を持った墓石とされる。初めて芳賀氏を称した高澄以下のものと伝えられている。
 尚、ここから程近い所に芳賀氏の最初期の居館とされる京泉館があることから、芳賀氏に所縁深い地であったことが窺われる。

 この墓石群については国道121号線に案内の標柱が建っており、かねてよりその存在は知っていたが、その付近を探しても場所がわからず、近くを散歩していた地元の人に聞いてもわからず、長いことその所在がわからないでいた。今回たまたま近くを通りかかったので付近を捜索し、ようやく探し当てることができた。標柱から750m程も南に下った、五行川沿いの小さな墓地にあった。「京泉鹿島戸観音堂境内にある」とHP「とちぎの文化財」に記載されているが、この観音堂は地図にも一切記載がない程の小さなお堂であった。折角の貴重な文化財でもあり、もう少し場所がわかりやすいような丁寧な案内が欲しいところである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.468958,140.031534&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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五月女坂古戦場(栃木県さくら市) [その他の史跡巡り]

DSC02046.JPG←宇都宮尚綱の供養塔
(2006年12月訪問)
 五月女坂古戦場は、早乙女坂とも書き、戦国時代中期に宇都宮氏と那須氏が激戦を繰り広げた古戦場である。宇都宮氏20代尚綱(俊綱)は、1541年、対立していた重臣の真岡城主芳賀高経を児山城に攻め滅ぼし、家中を統制した。高経の子高照は奥州白河に逃れ、益子氏出身の芳賀高定が尚綱の支持の下、芳賀氏の当主となった。1549年、白河にいた芳賀高照は那須氏の支援を得て宇都宮氏を攻撃し、一方尚綱は、2千余騎と言われる軍勢を率いて、那須氏の拠点倉ヶ崎城(喜連川城)に向けて出陣した。那須氏は兵力わずか500騎であったが、宇都宮勢の進軍路の途中にあった五月女坂に伏兵を潜ませてこれを迎え撃った。奇襲を受けた宇都宮勢は浮足立ったが、危地に陥った当主尚綱を庇って、上三川城主横田綱維ら5兄弟が枕を並べて討死するなど、必死に防戦し双方激戦となった。その最中に、那須方の鮎ヶ瀬弥五郎実光が放った矢が尚綱に当たり、尚綱は討死してしまった。総大将を喪った宇都宮勢は崩れたって大敗し、那須氏の大勝利となった。喜連川の領民は、危機を救った弥五郎への感謝の念を込めて、以後、五月女坂を「弥五郎坂」と呼ぶようになり、現在に至っている。

 五月女坂古戦場は、国道293号線から分岐した間道にある。元々はこちらが本道で、現在の国道は新たに作られた新道である。平野部から喜連川に向かって北東に坂道を登り始めた所に「早乙女坂古戦場」の標柱が建ち、その上に討たれた宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建っている。ここは、下野の戦国史の重要な一コマであり、位置の異なる新道に「弥五郎坂」の名が受け継がれていることは、いかにこの地の人達にとって重要な出来事であったかを物語っている。今ではこの道を通る車は少なく、新道を行き交う人からはその名の由来も忘れられつつあるのだろうが、喧騒よりも静かな風景の方がこの古戦場には似つかわしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.702171,140.007942&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場
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伊達政宗(儀山公)墓(山形県高畠町) [その他の史跡巡り]

IMG_3614.JPG
 伊達氏9代大膳太夫政宗(儀山公)は、伊達氏中興の祖と呼ばれ、戦国末期に彗星の様に現れて奥州を席巻した独眼龍政宗(貞山公)の先祖である。南北朝時代後期に父宗遠と共に周辺地域への領土拡大を積極的に図り、1380年から85年にかけて置賜地方に侵攻して長井氏を滅ぼし、その領土を併呑した。政宗の正室紀氏は、3代将軍として絶大な権力を振るった足利義満の生母の妹であり、将軍の叔父という姻戚関係を背景として、将軍義満と鎌倉公方足利氏満との対立の中、氏満と関係の深い長井氏領へ宗遠・政宗父子で攻め入ったものと考えられている。その勢威を以って鎌倉公方や稲村・篠川御所に抗して3度にわたって兵を挙げ、降伏してからも勢力を保ち続けた。政治的手腕に長け、文武を兼ねた政宗は伊達氏中興の祖と言われることとなった。置賜併呑後、政宗は出羽高畠城(屋代城)に移って、1405年にそこで没したと言われており、高畑の地に政宗夫妻の墓がある。この墓はしばらく埋もれていたらしいが、明治21年に伊達家による歴代当主墓所の調査の際に発見されたと言う。

 丘陵上に置かれた墓は、一風変わった五輪塔で、火輪の上の風輪が縦長に伸びており、空輪は頂部の突出が無く(摩滅したものか?)球形をしている。置賜、特に米沢は、上杉氏の遺跡のみ盛んに宣伝されてよく知られているが、実際にはこうした中世の伊達氏の遺跡が多数残っている。もっと伊達氏の歴史を積極的に宣伝してもよいのにと思う。

 尚、政宗夫妻の墓は資福寺館にも建っている他、福島県伊達市内にも政宗の墓と伝えられている五輪塔が存在する。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.036742&lon=140.213177&z=16&did=std&crs=1
タグ:墓所
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直江石堤(山形県米沢市) [その他の史跡巡り]

IMG_1329.JPG←野面積みの石堤
 直江石堤は、正式には谷地河原堤防と呼ばれ、上杉景勝の執政直江山城守兼続が築いた堤防である。1600年、豊臣秀吉亡き後に独断を強めた徳川家康に対して激しく抗した為、関ヶ原合戦の導火線となった会津の上杉景勝は、関ヶ原合戦で西軍敗戦の後、会津120万石から大減封されて米沢30万石に移された。兼続は、景勝の居城となった米沢城下の町作りの為に、洪水の多発地帯であった最上川に築堤が不可欠と判断して、近くの赤崩山に登って形勢を検討し、この石堤を築いたと言われている。
 また、石堤の上流2.5km程の所に掘立川に導水するための堰、猿尾堰が築かれたが、兼続は堰の着工前に城下の水難火難の無事を祈って、「龍師火帝の碑」を建立したと言う。

 直江石堤は、現在公園化されており、公園の西側に延々と堤防が伸びている。現在の最上川の流路からは結構離れた場所にあるが、これは近年の河川改修によって大きく流路が変えられたためらしい。多くは雑草に埋もれているが、一部に野面積みの石堤がはっきりと見られ、特に県道151号線の下流側は規模が大きく見応えがある。
 また、龍師火帝の碑は中ノ在家楯に程近い場所にあり、城に登る前に立ち寄った。改修された導水路の脇に往時の石碑が整備されて建っており、「龍師火帝」の文字が刻まれているのがはっきりと分かる。少々行き辛い場所にあるが、兼続ゆかりの遺蹟として一見の価値がある。
龍師火帝の碑→IMG_1339.JPG

 場所:【直江石堤】
     http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.86723&lon=140.12122&z=16&did=std&crs=1
     【龍師火帝の碑】
     http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.844968&lon=140.123645&z=16&did=std&crs=1
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有明の松(茨城県石岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_1159.JPG←有明の松、後ろは難台山
 有明の松は、南北朝時代の難台山合戦にまつわる史跡である。難台山合戦は、下野の名族であった小山義政が始めた、前後17年にもわたって引き続いた「小山氏の乱」の一合戦である。その経緯は館岸城の項に記載する。義政の子若犬丸は、小田氏を頼って難台山城に立て籠もり、上杉朝宗率いる幕府軍に攻められ、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に難台山城は落城した。この落城の際に、城主小山五郎藤綱は婦女子を城から逃した。5~6名の従者に守られた婦女子は、敵の包囲する東側を避けて、一旦山頂まで登った後、手足を血だらけにしながら闇の中を西へと降って行った。敵の追撃を避けるため、夜が明けるまでに里に下り、ようやく平地に辿り着いたところで夜明けを迎えた。ここまで来てようやく安心し、道沿いにある大松の下で一休みした時、夜明けの空が爽やかであったので、自分等の行先も、この松にあやかり、長くたくましかれとの念願から有明の松と名付けてここを立ち去ったと伝えられている。
 現在、往時の松は松クイ虫の害で伐採されて残っておらず、新たに植えられた松と石碑が建っているだけである。ここからは東方背後に難台山城が遠望でき、悲哀の歴史を感じさせる。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.289816&lon=140.200689&z=16&did=std&crs=1
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三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市) [その他の史跡巡り]

IMG_0851.JPG
 三ツ木原古戦場は、新興勢力である小田原の北条氏綱と旧勢力である扇谷上杉朝定が戦った古戦場である。父伊勢宗瑞(北条早雲)の創業を受け継いで着々と関東に勢力を広げた2代氏綱は、1524年に要衝江戸城を攻略し、その後武蔵への勢力拡大に向けて扇谷上杉朝興と激しい攻防が続けられた。一旦は、岩槻城蕨城毛呂城などを攻略して河越城に向けて北上を続けた北条勢であったが、扇谷上杉方の激しい逆襲に遭い、これらの諸城を奪還された。しかし天文年間(1532~55年)に入ると、安房里見氏・上総真里谷武田氏の内訌と上杉朝興の死を契機として両勢力の均衡が崩れ、1537年氏綱は、朝興の跡を継いだ上杉朝定が新たに取り立てた深大寺城(神太寺古要害)を攻略し、そのまま河越城へ向けて進撃した。一方、河越城の朝定は、北条勢迎撃のため叔父の上杉朝成を大将とする軍勢を差し向け、三ツ木原で両軍は激突した。氏綱はこの合戦に打ち勝ち、上杉方の大将朝成も生け捕りとなった。この敗戦に、朝定は河越城の維持を諦めて重臣難波田氏の拠る松山城に移り、氏綱はそのまま河越城を攻略した。享徳の乱以来、扇谷上杉氏の本拠であった河越城が落ちたことで、扇谷上杉氏の衰退は決定的なものとなった。

 尚、三ツ木原では、1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際にもこれを迎え撃った幕府軍との間で合戦があったとされる。また現地解説板では、1440年の結城合戦に関連して上杉勢と結城勢の間でも、この地で合戦があったとされるが、詳細は不明である。

 三ツ木原古戦場は、新狭山駅に程近い本田技研の隣の三ツ木公園に石碑が建てられている。周辺は市街化が進み、かつての古戦場らしい面影は微塵もない。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.874893&lon=139.436187&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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苦林野古戦場(埼玉県坂戸市) [その他の史跡巡り]

IMG_0828.JPG←古墳上の石碑と解説板
 苦林野古戦場は、南北朝時代の古戦場である。1351年の観応の擾乱の時、実弟足利直義を破って室町幕府権力の一元化を成し遂げた足利尊氏は、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した宇都宮氏を上野・越後の守護とし、その重臣芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築して鎌倉府の体制を刷新した。しかし尊氏が死ぬと、鎌倉公方足利基氏(尊氏の次男)は、かつて幼い自分を養育した重臣でありながら、直義方に付いたため尊氏に追放された上杉憲顕を、再び執事(関東管領)に復帰させようとした。1362年のことである。その為、まず宇都宮氏の越後守護職を取り上げ、元の憲顕を越後守護に任じた。この処置に守護代であった芳賀禅可が反発し、上杉方と越後で戦った後に南下して上野に入った。一方、基氏は、反旗を翻した禅可を討伐するため平一揆・白旗一揆らを引き連れて武蔵に着陣し、禅可と合戦を行った。これが武蔵岩殿山合戦と呼ばれる戦いで、苦林野はその主戦場であったと『太平記』に記載されている。この戦いに打ち勝った基氏は、宇都宮氏を討伐するためそのまま下野に進軍し、ここで宇都宮氏綱の降伏を受け入れた。これによって薩埵山体制は終焉を迎え、鎌倉府(鎌倉公方・関東管領)の歴史は新たな段階に入ることになった。
 尚、室町後期に生起した長尾景春の乱の際、景春派の討伐に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が、景春の部将矢野兵庫助と1477年にこの地で激突したと伝えられている。

 苦林野古戦場は、善能寺塁から北西に240mの付近にある。小さな前方後円墳の上に、石碑と解説板が建っている。また、古墳の後円部には江戸時代後期に建てられた供養塚が残っている。戦いの規模はそれほど大きくないが、中世関東の歴史の一つの転換点となった場所であり、感慨深い。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.964348&lon=139.352018&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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境根原古戦場(千葉県柏市) [その他の史跡巡り]

IMG_9788.JPG←合戦の首塚・胴塚
 境根原古戦場は、酒井根合戦場とも呼ばれ、室町時代後期に太田道灌と千葉孝胤が一戦を交えた古戦場である。1476年に生起した長尾景春の乱の際に、景春方に付いた千葉一族討伐の為、1478年、扇谷上杉定正は家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤(武蔵千葉氏)らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉孝胤は、原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤ら一族重臣を率いて境根原で迎撃した。合戦の様子は明確には伝わっていないが、『鎌倉大草紙』によれば孝胤の重臣木内氏・原氏らが討死したとされ、相当の激戦の末に孝胤方が敗れ、孝胤は一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城に籠城した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠・千葉自胤を率いて臼井城を攻囲したが、守りが堅く容易に落ちなかった。太田資忠は、ようやく臼井城を落城させたが、自身は乱戦の最中に討死したと伝えられている。

 境根原古戦場は、現在は光ヶ丘団地に変貌している。最も激戦が展開されたのは麗澤大学附近の小字赤作であったと言われ、赤作の名も一説には、討死した将兵の血でこの付近の野原が真っ赤に染まったことから付いたとも言う。いずれも既に景観が失われて久しいが、団地の中に合戦の首塚・胴塚と伝わる2基の円球状の塚が残っており、往時の歴史を伝えている。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.828336&lon=139.959155&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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源頼朝上陸地(千葉県鋸南町) [その他の史跡巡り]

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 源頼朝上陸地は、石橋山の合戦で大敗した頼朝が、再起を期して安房に逃れた際に上陸した場所である。1180年、頼朝は、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げたが、攻め寄せた大庭景親らの平家軍と石橋山で戦い、衆寡敵せず大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の手引によって真鶴の岩海岸より小舟で脱出し、安房へ落ち延びた。上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされ、頼朝はここで北条時政、三浦義澄らに迎えられて合流した。この後、房総一の兵力を擁していた上総介広常の元へ向かうべく、長狭に移動し、ここで平家方の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破して、安西景益の館(平松城か?)に入った。その後、坂東各地の豪族に書状を送って味方を募り、源氏恩顧の諸豪を従えた頼朝は、鎌倉に入って武家政権樹立の基を築いた。

 源頼朝上陸地には、現在石碑と解説板が建っている。この海岸からは対岸の三浦半島がよく見えるが、頼朝が船出したのは更に遠く相模湾を越えた伊豆半島で、どれほどの時間と労苦を費やしてこの地まで逃れたかは想像に余りある。今では、夏にはのどかにバーベキューなどが行われる浜辺である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.118071&lon=139.828461&z=16&did=std&crs=1
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善得寺跡(静岡県富士市) [その他の史跡巡り]

IMG_9050.JPG←善得寺跡の石碑
 善得寺は、戦国史上に名高い、甲相駿三国同盟が締結された寺である。1363年に下野国那須雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺で、戦国期には駿河東部第一の寺となり、善得寺城も併設されたと言われる。天文年間(1532~55年)、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康の間で駿河東部を中心とした抗争が繰り広げられたが、上洛を目指して西に進出したい義元、北信を巡って越後上杉氏との抗争を行う信玄、関八州制圧を目指して東と北に勢力を伸ばしたい氏康の、3者の思惑が一致し、今川義元の軍師で善得寺の住持でもあった太原雪斎の仲介により、1554年、甲相駿三国同盟が締結された。この時、善得寺で今川・北条・武田の3大名の会盟があったといわれ、「善得寺の会盟」とも称されるが、3大名の当主が一堂に会して、と言うのは史実としては疑わしいとされている。後に武田氏が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、善得寺は尽く兵火により焼失した。

 善得寺の場所には、いくつかの説がある様だが、一つは善得寺城址とされる場所、もう一つは現在の善得寺公園付近である。この公園内には、歴代住持の墓の中に太原雪斎の墓も残っている。現在では小さな公園に過ぎず、場所の比定もされていないものの、戦国史に名高い場所として一度は訪れておきたい場所である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.168872&lon=138.696165&z=16&did=std&crs=1
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木原畷古戦場(静岡県袋井市) [その他の史跡巡り]

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 木原畷古戦場は、三方ヶ原の戦いの前哨戦として行われた戦いの場である。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。信玄は、一説には久野城を攻めたが久野宗能の激しい抵抗に遭ってそのまま通過したと言われ、東海道を西に向かって木原・西島に陣を張った。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。この時、徳川方の偵察隊内藤信成・本多忠勝が木原畷で武田軍と衝突し、小競り合いを行ったとされる。即ち木原畷の戦いは、来るべき三方ヶ原の戦いに至る前の、小規模な局地戦であった。敗れた徳川勢は敗走し、これを追撃した武田勢との間で一言坂合戦が行われ、本多平八郎忠勝が活躍して勇名を馳せることとなった。

 木原畷古戦場は、許禰神社に石碑と解説板が建っている。神社のすぐ南の道路は旧東海道で、近くに一里塚も築かれている。木原畷も一言坂も東海道筋の戦いで、街道を押さえることがいかに重要だったのかを現代に伝えている様である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.743975&lon=137.902087&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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会下山楠木正成本陣跡(兵庫県神戸市) [その他の史跡巡り]

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 会下山は、1336年の湊川合戦の際に楠木正成が本陣を敷いた場所である。この年の正月、京都争奪戦に敗れた足利尊氏は、丹波を経由して、赤松円心の勢力圏であった兵庫まで退き、更に室の津まで落ち延びた。ここで「室泊の軍議」と呼ばれる、今後の行方を左右する重要な軍議が開かれた。即ち、尊氏が一旦九州まで落ち延びてから再挙東上する迄の間、多くの一族武将を西国各地に派遣して、来るべき新田勢による追撃の防衛に当たらせることにしたのである。こうして今後の処置を抜かりなく行った尊氏は僅かな兵を連れて九州に向かい、少弐頼尚に迎えられて筑前に入った。多々良浜の合戦で、兵数的に圧倒的な不利な状況にもかかわらず、大逆転によって勝利した尊氏は、鎮西諸豪を傘下に収め、都での敗戦から僅か3ヶ月で態勢を立て直し東上を開始した。5月10日に備後の鞆の津を発向した足利勢は、尊氏が水軍を率いて海路を進み、弟の直義が大軍を率いて陸路を並進した。備中福山城三石城の新田勢を追い散らし、足利勢は兵庫に迫った。24日、直義は陸路軍を三手に分け、中央の大手軍を直義が直率し副将に高師泰、山の手軍の大将を斯波高経、浜の手軍の大将を少弐頼尚として進撃した。対する新田義貞は、二本松から和田の岬にかけて本軍を布陣して尊氏の直率する水軍の上陸に備え、和田の岬北西に位置する会下山に楠木正成が本陣を敷いて、足利方の陸路軍に備えた。合戦が始まると、足利方は水軍を擁する利点を活かして、細川定禅率いる水軍を新田軍の背後に当たる生田の森に迂回上陸させ、義貞を東西から挟撃する姿勢を示した。義貞は挟撃の危険に晒されて全軍を東に後退させた為、会下山に拠る楠木軍は孤立することとなった。正成は、元々この合戦に臨むに当たって死を覚悟していたと言われ、眼下に迫る足利の大軍を前に一歩も退かず、奮戦して一族もろとも自刃して果てた。尊氏は、正成の死を深く悲しみ、首実検して軍法に従って梟首した後、河内の遺族の元に首を送り届けたと伝えられている。

 会下山は、標高50~60m程の丘陵地で、ここからは義貞が全軍を布陣させた浜手から大阪湾を一望できる要衝で、会下山公園内に東郷平八郎の筆になる「大楠公湊川陣之遺蹟」と刻まれた石碑が建っている。公園付近は急峻な地形と狭い路地が入り組んだ住宅地に囲まれているので、車だと近づくのも容易ではない。往時はなおのこと、近づき難い地形だったことだろう。ここに布陣した正成の心中はいかばかりであったろうか。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.67776&lon=135.157463&z=16&did=std&crs=1
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上杉氏発祥地(京都府綾部市) [その他の史跡巡り]

IMG_7628.JPG←「上杉姓氏発祥之地」の石碑
(2014年4月訪問)
 上杉氏は、勧修寺流藤原氏の流れより出た中級官人の家柄であった。その祖、勧修寺(藤原)重房は、鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向した。重房は丹波国何鹿郡上杉荘を賜り、上杉氏を名乗った。その子頼重の娘清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏の姻族として飛躍する機会を得た。清子の兄憲房は、若き尊氏の良き相談相手となって1336年正月の京都争奪戦で尊氏を庇って討死にし、その子憲顕は、初期の室町幕府を兄に代わって主宰した直義から絶大な信任を得て鎌倉府の執事となり、以後上杉氏の活動の拠点は関東と守護管国であった越後に移った。憲房の系統を主として、山内・扇谷・詫間・犬懸の4つの上杉氏が勢力を有し、「上杉四家」と呼ばれた。当初、関東管領には上杉四家が相次いで就いたが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。戦国時代に入ると、小田原北条氏が勢力を伸ばし、3代氏康が河越夜戦で大勝して一気に関東南半の覇権を握ると、山内上杉憲政は領国の上野も支えられず、越後守護代の長尾景虎を頼って落ち延びた。景虎は憲政の請いを容れて関東に出兵、北条氏の居城小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎(後の謙信)と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 この上杉氏の発祥の地が、綾部市にある。国道27号線の上杉交差点の付近で、線路を越えて東側に「上杉姓氏発祥之地」の石碑が建っている。ここから一山越えれば、そこはもう丹後の舞鶴で、上杉荘は丹波の北端に位置していることがわかる。南北朝フリークにとっては避けては通れない史跡の一つである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.360925/135.317252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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