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古城めぐり(神奈川) ブログトップ
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青木城(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00755.JPG←青木城遠望
 青木城は、小田原北条氏の重臣多米氏の居城である。三河の土豪多米元益は、伊勢宗瑞(北条早雲)にその勃興時より従った伊勢七騎の一として活躍し、小田原城奪取でも先鋒を務めたと言われる。その子元興(周防守か?)は、天文年間(1532~55年)に青木城を構えて居城としたらしい。この時、1510年の権現山合戦の舞台となった権現山城の一部本覚寺山を中心郭として、新たに取り立てられたと考えられている。その後の1569年、武田信玄の小田原侵攻の際に、多米周防守は、北条氏と姻戚関係にあった名族吉良頼康の本城蒔田城を防衛するため、自身の居城青木城を捨てて蒔田城に詰めて武田勢を防いだ。1590年の小田原の役の際には、元興の子多米周防守長定は、御幣山砦の守将大谷帯刀左衛門公嘉と共に上野西牧城に籠って戦い、討死した。北条氏の滅亡に伴って廃城になったと思われる。
 青木城は、JR神奈川駅のすぐ西側の本覚寺の建っている付近にあったと推測されている。段丘上に位置し、明確な遺構はないが、墓地の一部は腰曲輪だった可能性がある。また周囲の道路は空堀跡であろうか?今となっては、勝手に想像を巡らすほかはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.471960/139.626693/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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中田加賀守屋敷(神奈川県横浜市保土ヶ谷区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00702.JPG←屋敷地周辺の現況
 中田加賀守は、小田原北条氏の家臣で小机衆に属していた。矢上城を本拠とし、その他にも井田城など多くの所領を持った大身で、この保土ヶ谷の川島村も領していた様である。1590年に北条氏が滅びると、加賀守は矢上城に戻り、同年に没した。その子藤左衛門は川島村に陣屋を移して居を構え、正観寺を建てて父加賀守の分骨を納めたと言う。その後、江戸時代にはその子孫が当地に住んで名主となった。
 中田加賀守屋敷は、環状2号線と国道16号線という主要道の立体交差の近くにある。かつては堀も巡らされていたというが、現在は市街化で遺構は残っていない。中田藤左衛門が開基となったという正観寺には、中田一族の墓所と多数の寄進物がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.473340/139.572405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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鳥山館(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00632.JPG←鳥山町の八幡宮
 鳥山館は、源頼朝の家臣で、近江源氏佐々木氏の嫡流佐々木定綱の弟高綱の居館と言われている。高綱は、兄達と共に頼朝の挙兵より従って大功を挙げた。その後も、平家討滅の軍に従い、宇治川の戦いで梶原景時の嫡男景季と先陣争いをしたことで知られている。
 鳥山館の場所は正確には不明であるが、鳥山町の八幡宮付近と言われている。八幡宮は、比高10m程の丘陵地を控えた地勢に築かれており、中世の居館を置くには好適であったと思われるが、遺構はなく、詳細は不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.502116/139.601802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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池辺大丸(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00628.JPG←大丸という地名の残る住宅地
 池辺大丸は、日本城郭全集では池辺城と呼ばれる城である。小田原北条氏の家臣で矢上城を本拠としていた中田加賀守の関連した城とも言われるが定かではない。池辺町の周囲の広い範囲に、大丸・小丸・二の丸・三の丸・中丸等の地名が残っている。ただ、地名の散在する範囲が広すぎ、地形としても丘陵地であるとはいえ、これほどの範囲となると全体としての要害性が低いことから、どうも城ではなさそうに思う。完全に市街化しており、当然遺構は存在しない。城としての存在が不確実であることから、ここでは「池辺城」という城郭の名ではなく、日本城郭大系の記す「池辺大丸」という名称を採用した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.540084/139.557320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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川和城(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00594.JPG←城地付近からの眺望
 川和城は、歴史不詳の城郭である。鶴見川の支流谷本川の東岸の丘陵地に位置し、日本城郭大系では谷戸に築かれた居館と一体となった山城ではなかったかと推測している。また川和城は、小机城の西北西4kmに位置しており、小机城の支城であった可能性もある。
 川和城は、妙蓮寺の背後の丘陵上にあったと言われている。かつては土塁も残っていたと言われているが、川和団地の開発等の市街化と採土で破壊されている。また丘陵上は妙蓮寺の墓地となり、一部に土盛らしき高台があるが、遺構ではないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.525433/139.553136/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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恩田城(神奈川県横浜市青葉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00555.JPG←堀の内の丘陵地遠望
 恩田城は、恩田堀の内とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。福昌寺東側一帯の丘陵地の斜面上にあった城の様で、「あかね台.net」というHPによれば、あかね台が開発される直前の1984~86年に行われた発掘調査で、杉山神社から福昌寺にかけての尾根に空堀が発見されたと言う。これが「新編武蔵国風土記稿」に記載される「から堀」であろう。
 恩田城は、現在は完全に宅地化されてしまい、遺構らしいものは地表には存在しない。立地的に足利基氏陣所に似た構造で、一時的な陣城であったものであろうか。現地には今でも堀の内の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.541289/139.491209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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長津田陣屋(神奈川県横浜市緑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00540.JPG←陣屋跡地の幼稚園
 長津田陣屋は、徳川家旗本の岡野平兵衛房恒の陣屋である。岡野氏は、執権北条氏の流れを汲むと言われ、最後の得宗北条高時の遺児北条時行の末流とされている。伊豆田方郡狩野庄田中を領し、泰行の代に田中氏を称した。戦国時代になると小田原北条氏に仕え、田中融成は北条氏政の命で板部岡氏を継いだ。後に剃髪して江雪と号した。板部岡江雪は、北条家中に於いて主に外交を担当した重臣で、岩槻城主北条源五郎の死後、岩槻城を守った。また、北条氏政・氏直が出陣する際は、必ず江雪を留めて小田原城を守らせたと言われる程の信任を受けた。戦国末期、織田信長の天下一統の覇業を継いだ豊臣秀吉と北条氏との関係が緊迫してくると、江雪は上洛して秀吉に謁し、和睦の交渉に当たった。その甲斐虚しく1590年に小田原の役となり、北条氏が滅びると、秀吉は江雪の才を惜しんで家臣とした。この時、秀吉の命で岡野に改称した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原合戦の際、小早川秀秋の内応交渉に当たって功を挙げた。江雪の子が房恒で、房恒もまた岩槻城主北条氏房に仕え、小田原の役の際は、小田原城に入った主君氏房に代わって、岩槻城の新曲輪に籠って奮戦した。北条氏滅亡後は関東に入部した徳川家康に仕え、長津田を賜り陣屋を構えた。以後、徳川家の旗本となって幕末まで存続した。

 長津田陣屋は、現在の長津田幼稚園付近にあったと言われている。市街化で遺構はないが、背後に丘陵地を控えた地勢で、周囲には岡野氏縁の寺社が点在している。特に江雪の菩提を弔うために建立された大林寺には、岡野家の歴代墓所があり、そこの石碑にその由緒が刻まれている。私はそれを読んで、初めて岡野氏が北条得宗家の末裔だと知った。遺構はなくても、重要な歴史を秘めた場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.527930/139.495779/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
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亀之甲山陣城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00503.JPG←陣城から見た夕暮れの小机城
 亀之甲山陣城は、長尾景春の乱の際に、太田道灌が小机城攻めの為に築いた陣城である。景春の父、長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年6月、家宰職は景信の弟・忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、 反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力豪族を味方に誘い込み、大規模な反乱となった。武蔵の豪族豊島氏も景春方に付き、石神井城練馬城平塚城等に立て籠った。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。戦術に巧みな道灌は関東を転戦し、1477年、豊島泰経の拠る石神井城を落とし、泰経が敗走して籠った平塚城をも攻め落とした。泰経は更に景春方の矢野兵庫助らが立て籠もっていた小机城に逃れて抗戦を続けた。道灌は小机城を攻囲するに当たって、亀之甲山陣城を築いて本陣とした。そして2ヶ月の攻囲戦の末に小机城を落城させた。

 亀之甲山陣城は、小机城の北東1.4km程の高台に位置している。鶴見川北岸の丘陵の先端に当たり、鶴見川を天然の外堀とし、眺望にも優れ、小机城の動きを見張るのに絶好の陣場である。現在城跡は新横浜テクノヒルズ企業団地という工場団地となっており、遺構は湮滅している。しかし地勢は残っており、今でもこの地からは小机城がよく望見できる。折しも夕暮れ時に訪城したため、夕空に浮かぶ富士山をバックに小机城が見え、美しい光景だった。道灌もこの景色を見ていたのかと思うと感慨深かった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.517155/139.608389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大曽根城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00493.JPG←大曽根城付近の遠望
 大曽根城は、大曽根砦とも呼ばれ、小田原北条氏の重臣笠原氏が築いたと言われる城である。笠原越前守信為は、北条氏の始祖伊勢宗瑞の古参家臣で小机城主となった。そして信為の庶子と言われる平六義為が、小机城の支城として大曽根村に砦を築き、小机出張城と唱えたと「新編武蔵国風土記稿」に記載されていると言う。その後の歴史は不明である。
 大曽根城は、「字殿谷の上の丘陵」にあるとされるが、地図上は地名が残っておらず場所がよくわからない。しかし大曽根地区は、鶴見川が北から東へ大きく蛇行する位置にあり、要害としての地勢を残している。地勢上は太尾見晴らしの丘公園付近が最も城砦を築くのに好適と思われるが、眺望には優れ、鶴見川を天然の外堀とはしているものの、なだらかな丘陵地で城塞としての要害性にはやや心許ない。とりあえず地図には、この公園の場所をリンクしておく。尚、近くの龍松院は小机城2代目城主笠原能登守康勝が開基の寺である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532488/139.622144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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安達義景別荘〔附、鶴見原古戦場〕(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00462.JPG←別所にある熊野神社
 安達義景別荘は、鶴見別荘とも呼ばれ、安達藤九郎右衛門尉景盛の子秋田城介義景の別邸であった。吾妻鑑には、1241年に将軍藤原(九条)頼経が武蔵野開発の方違の為に安達義景の鶴見別荘に出掛けたことが記載されていると言う。

 安達義景別荘の所在地は明確ではないが、鶴見区北寺尾に別所の地名が残っており、この地の丘陵上にある熊野神社の付近ではないかと推測される。谷戸地形に面した丘陵地であるが、一面の住宅地で遺構は残っていない。

 尚、この地は交通の要衝であったため、南北朝期に2度の合戦の舞台となっている(鶴見合戦)。一度目は、1333年5月。上野で挙兵した新田義貞は、鎌倉街道を一路南下し、関東諸豪を糾合しつつ鎌倉に迫った。これに呼応して、下総有数の豪族千葉貞胤が鎌倉目指して進軍し、これを迎え撃った幕将金沢貞将と鶴見の地で合戦となった。貞将は惜敗し、鎌倉に退き引いた。二度目は、1335年の中先代の乱の時である。建武の新政が開始された後、北条方残党は得宗北条高時の遺児北条時行を奉じて関東で大規模な叛乱を起こした。その経緯は井出の沢古戦場の項に記載する。鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向け、鎌倉目指して南下する北条方の別働隊と、迎え撃つ鎌倉側の佐竹一族が鶴見付近で合戦となった。この戦いで佐竹貞義の5男義直が討死にしたと言う。現在の一面の住宅地からは、古戦場であったことなど想像もつかない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.515286/139.662226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場 居館
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諏訪馬之助館(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00451.JPG←館跡付近の現況
 諏訪馬之助館は、小田原北条氏の家臣諏訪氏が築いた居館である。諏訪三河守は、永享年間(1429~40年)に寺尾城を築いた時、寺尾城の北東に伸びる丘陵の突端にこの館を築いたと言われている。この館に居住した諏訪馬之助(午之丞ともされる)は、一説には三河守の子とも言うが定かではない。尚、諏訪氏の事績については寺尾城の項に記載する。
 諏訪馬之助館は、寺尾城より北東に約2kmの位置にある。現在は一面の住宅地に変貌しているが、段丘状の地勢は残っている。現地解説板の図によれば、段丘の北側を巡る急坂が旧諏訪坂で、その南側の宅地に館があった様である。かつては古井戸も残っていたらしい。その西側の道路は空堀跡とされる。この道路の南端には崖を降る歩道があり、竪堀の名残かもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.515636/139.670724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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潮田館(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00446.JPG←館跡の光永寺
 潮田館は、小田原北条氏の家臣潮田氏の居館である。潮田氏は駿河今川氏の庶流で、入野将監光興の嫡男光行の頃に潮田郷に入部して、潮田氏を称したと言う。潮田光行は、北条氏康に従ってこの地を領し、1568年に没した。
 潮田館は、潮田光行の嫡子左馬介光永が開基した光永寺の境内にあったと伝えられている。館跡は鶴見川河口近くの東にあり、かつては海に近い平地であったが、現在は海岸は埋め立てられて工場地帯となっており、寺の周囲も完全に市街化し、遺構は完全に湮滅している。おまけに館跡とされる光永寺は最近建て替えられたらしく、あまり寺らしくない外観でちょっと残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.500526/139.688448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小田殿屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00438.JPG←小田地区の日枝大神社
 小田殿屋敷は、歴史不詳の城館である。小田地区には殿屋敷という地名が伝承されていたと「新編武蔵国風土記稿」に記載されていると言う。また同書によれば、この付近には馬場先代官目という地名があり、殿屋敷に住む飯田七郎右衛門という百姓の家を「馬場先の代官」と呼んでいたことから、日本城郭大系では鎌倉期からの支配者の居館があった可能性を指摘している。尚、小田原北条氏支配時代には、江戸衆小菅摂津守の所領であったが、殿屋敷との関連は不明である。
 小田殿屋敷は小田地区の中にあったが、現在は完全に市街化しておりその場所もわからなくなっている。ここでは仮に日枝大神社の付近としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.514675/139.700099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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上杉憲幸館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00429.JPG←殿町にある水神宮
 上杉憲幸は、室町時代中期より関東管領を世襲した山内上杉氏の一族と考えられる武士である。伝承によれば、上杉憲幸は山内上杉氏の武蔵北鎌田の城の城代を務めていた。後に家臣荒金国貞・貞経兄弟と共に小田原北条氏を迎え撃つため大師河原に城を堅め、稲田新田殿町に館を構えた。これが上杉憲幸館である。しかし1538年、関東管領上杉憲政の命で城を北条方に明け渡し、憲幸は上総姉ヶ崎の松原氏の元に預けられたと言う。これは、北条氏綱が、第一次国府台合戦で小弓御所足利義明・里見義堯らの連合軍を破って、武蔵を掌握した時期に当たる。その後、憲幸は本人の願いで北条氏に引き取られ、大師河原近くの藤崎に居館を構えた。その後、安房里見氏が鎌倉に乱入した際、迎え撃って討死にしたと言う。その子式部大輔氏幸が跡を継ぎ、北条氏は相模六浦の武田氏の息女を娶せた。憲幸・氏幸父子はその貴種性から、北条氏家中において「御牢人」と呼ばれる客分扱いとされ、六郷殿と尊称された。その居館は北鎌田にあったとされる。1590年に北条氏が滅亡すると氏幸も浪々の身となり、小机領星川に移住したと言う。

 上杉憲幸館は、現在は多摩川河口付近の南岸の殿町という地域の中にあったとされる。かつての多摩川は、殿町の南を流れていたと考えられていて、往時は多摩川の北岸に位置し、本拠地北鎌田を防衛する拠点であったことが推測されると言う。しかし現在は、一面の住宅地で遺構は残っていない。正確な場所は不明であるが、ここでは仮に水神宮付近としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.540171/139.745418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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河崎氏館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00419.JPG←河崎氏縁の稲毛神社
 日本城郭大系では「川崎堀之内」と記載されるが、ネット上でこの名前を検索するとあらぬ関係のサイトが大量にヒットするので、ここでは河崎氏館としておく。
 河崎氏館は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流河崎氏の居館である。河崎氏は、秩父別当武基の孫基家が河崎庄に入部し、河崎冠者を称したことに始まる。また河崎冠者基家は渋谷氏の祖でもあり、基家の孫重国が相模国渋谷庄に移って渋谷氏となったと言う。この渋谷氏と縁を持った佐々木氏が、後に河崎氏に代わってこの地を領した。
 河崎氏館は、川崎の堀之内地区にあったと言われている。しかし河崎基家の堀之内在住の直接的な証拠はないらしい。伝承地の堀之内地区は完全に市街化し、関東有数の風俗街となっている。ただ私が行ったのは平日昼間であった為もあってか、風俗街は再開発と不況でうら寂びれて見えた。尚、堀之内地区の南には基家が勧進した稲毛神社がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532960/139.705893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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間宮豊前守信盛居館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00413.JPG←居館跡の宗三寺
 間宮豊前守信盛居館は、川崎塁とも呼ばれ、小田原北条氏の重臣で、後に笹下城を築いて居城とした間宮氏の古い居館である。元々この地は渋谷氏の祖河崎冠者基家、その子平三重家の領地であったが、鎌倉時代になると、幕府創業の功臣佐々木高綱の一族が領したとされる。間宮氏はこの近江源氏佐々木氏の後裔であった為、いつの頃からかこの所領を伝え得たものであろう。そして間宮豊前守信盛は、永正大永(1504~27年)の頃、伊勢宗瑞(北条早雲)・北条氏綱に仕え、ここを居館とした。間宮氏の事績については、笹下城の項に記載する。
 間宮豊前守信盛居館は、現在の宗三寺の地にあったと言われている。この地は京急川崎駅のすぐ横に当たる市街地の只中で、遺構は当然残っていない。多摩川の河口に近く、古くから交通の要衝であったらしい。間宮氏が中興開基したという宗三寺には、間宮氏の家紋(=佐々木氏の家紋)、四つ目結が付いている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.532715/139.701644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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丸子城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00404.JPG←日枝神社付近の現況
 丸子城は、日本城郭大系では丸子陣場と記載され、長尾景春の乱の際に登場する城である。景春の父、長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年6月、家宰職は景信の弟・忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、 反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力豪族を味方に誘い込み、大規模な反乱となった。武蔵の豪族豊島氏も景春方に付き、石神井城練馬城平塚城等に立て籠った。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。戦術に巧みな道灌は関東を転戦し、1477年、豊島泰経の拠る石神井城を落とし、泰経が敗走して籠った平塚城をも攻め落とした。泰経は更に小机城に逃れて抗戦を続けたが、この時豊島氏残党の一部が立て籠もったのが丸子城である。城主の名は不明であるが、「新編武蔵国風土記稿」では古河公方足利成氏に属する武将と推測している。

 丸子城は、日枝神社から上丸子小学校にかけての付近にあったと伝えられている。現在は市街化で全くその痕跡を残していない。多摩川西岸の平地に当たり、要害地形ではないことから、「城と言うより臨時で取り立てたもの」との推測もなされている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.578941/139.667848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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泉沢寺砦(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00395.JPG←構堀の名残の二領用水
 泉沢寺砦は、足利氏に連なる名族、武蔵吉良氏の築いた寺院城郭である。吉良氏は、御一家衆として鎌倉公方足利氏より格別の待遇を受け、その家格故に扇谷上杉氏家宰太田道灌などからも「吉良殿様」と尊称された。その事績は、世田谷城の項に記載する。世田谷城主吉良頼康は、1549年、火災で消失した烏山の泉沢寺を、上小田中に移転再建した。この地は中原街道に面した交通の要衝で、頼康は寺の周囲に「構堀」と呼ばれる水堀を廻らして、城砦としての機能も持たせていた様である。多摩川流域の稲毛領に進出する拠点として築いたか、或いは、もう一つの拠点であった蒔田城と世田谷城との間の繋ぎの砦として築いたものかも知れない。
 泉沢寺砦は、現在でも泉沢寺として残っているが、明確な遺構はない。寺の北と東には二領用水が流れているが、これが構掘の名残とのことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582449/139.649481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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今井館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00383.JPG←今井西町の現況
 今井館は、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族小宮筑後守入道重康の居館と言われている。小宮筑後守の事績は不明であるが、「新編武蔵国風土記稿」が書かれた江戸時代後期にも、その子孫が村の里正を務めていたと言う。
 今井館の伝承地は不詳であるが、今井村の西の方とされる為、今井西町の付近であったと推測されている。一帯は全て市街化し、中世の館跡らしい雰囲気は微塵もない。尚、今井上町にある今井神社は、かつては山王社と呼ばれ、鎌倉時代初期に小宮筑後守の霊を祀り創建したと伝えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.575119/139.648687/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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赤堀屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00376.JPG←住吉神社
 赤堀屋敷は、赤堀入道某という武士の居館であったと伝えられている。時代も定かではないが、おそらく鎌倉時代のことであろう。戦国時代には、小田原北条氏の家臣中田彦七郎がこの地を知行していたが、中田氏と赤堀屋敷の関連については不明である。
 赤堀屋敷は、現在の東急東横線元住吉駅の近くにある住吉神社の付近にあったとされている様だ。神社付近は駅に近いこともあり、渋川と言う小河川が流れる他は一面の市街地で、屋敷の名残すら感じさせない。遺構など望むべくもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.565781/139.654480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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本間五太夫陣屋(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00374.JPG←陣屋跡地付近の遠望
 本間五太夫は、「新編武蔵国風土記稿」によれば、鎌倉幕府の時代に井田村に住んでいた武士であった。鎌倉時代で本間と言えば、厚木の本間氏を思い浮かべるが、或いはその一族であったかも知れない。陣屋の伝承地は、市立井田病院の立つ丘陵地の北麓の谷戸で、前面には矢上川を天然の外堀として構え、陣屋背後に高台を備えた中世の屋敷地として相応しい場所である。現在は住宅地と化し、地勢以外に遺構は残っていない。尚、屋敷地の北方400mの場所にあるクリーニング屋さんは、屋号を陣屋と言い、かつては陣屋跡に住んでいたためその名があると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.561295/139.641348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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桃井播磨守館(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00360.JPG←天神原の台地からの眺望
 桃井播磨守館は、「新編武蔵国風土記稿」によれば、「桃井播磨守某の館跡」と言われている。桃井播磨守と言えば、太平記にも名高い足利一族の武将桃井播磨守直常がすぐ頭に思い浮かぶが、風土記稿にわざわざ「某」と名前を濁している所から類推して、有名な直常ではなく他の桃井一族の武将の拠った館跡なのであろう。但し伝承地は明確に出来ず、地元での伝承自体も既に途絶えている様である。
 桃井播磨守館は、天神原と呼ばれる現・高田小学校付近にあったと伝えられている。この地は比高20m程の高台になっており、台地南東端には高田天満宮(天神社)があって、地勢から考えてこの辺りまで館域だった可能性が考えられる。尚、高田小の東隣にある興禅寺は「元応2年時の領主桃井播磨守直常によって再興された」と言われているが、元応2年と言うと鎌倉末期の1320年で、上野を本領とした桃井氏が既に鎌倉末期にこの地を領していたのかどうか、今後検証の必要があるかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.556163/139.619311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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有馬城山(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00341.JPG←有馬城山付近の丘陵部
 有馬城山は、小田原北条氏の家臣窪田又五郎に関連すると推測される城館である。窪田又五郎は有馬を領し、北条氏の御馬廻衆一手持であったと言う。
 有馬城山は、多摩丘陵支脈の東端に位置し、有馬川北岸の丘陵上にあった。現在は宅地造成によって丘陵上部が10m程削られたらしく、遺構は既に存在しないと言う。城山の場所も今となってははっきりしないが、川崎北高のある付近の台地にあったものと思われる。ここには現在でも高台は残っているが、改変されている様だ。台地の麓には、日本城郭大系で「兵蔵山」の屋号を持つと記されている持田家の居宅が多数あり、古くからこの地に居住した一族であることを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573094/139.586095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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大学屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00325.JPG←上宿の溝口神社
 大学屋敷は、歴史不明の城館である。東急田園都市線溝の口駅のすぐ北方は地元で上屋敷と呼ばれ、その更に北側の溝口神社(旧赤城社)にかけてを上宿、その西側の宗隆寺一帯を下宿と言い、その他にも下屋敷・牢屋敷・猿屋敷などの地名が残っていたと「新編武蔵国風土記稿」に記されている。その為、上下両屋敷が一体となって、「然るべき人の屋敷」(風土記稿の記述)があったと推測されているが、伝承は残っていない。戦国時代の北条氏所領役帳によれば、この地域は海保新左衛門が知行していたことになっているが、関連は不明らしい。
 大学屋敷は、溝の口駅に近い市街地の只中に当たる為、遺構は全くない。宗隆寺背後は丘陵となっていて、往時は屋敷を構える適地であったのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.602375/139.610406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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作延城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00315.JPG←城址の緑ヶ丘霊園
 作延城は、歴史不詳の城である。作延城があったとされる場所は丘陵から東に突き出した要害地形で、城山と呼ばれていた。また城山堀・矢倉塚・天守台等の地名が残っていたと言われ、伝承によれば枡形城主稲毛三郎重成の築いた城であったとされる。作延城は、多摩川南岸に連なる多摩丘陵の一角を占め、小沢城・枡形城などが築かれる相模北方の重要な防衛線に位置している為、鎌倉時代に鎌倉防衛の一翼を担ったことは勿論、戦国期にも小田原北条氏にとって、武蔵の扇谷上杉氏との抗争で重要な役割を果たしたことが想像される。ちなみに北条氏所領役帳によれば、北条氏の時代の上作延村は増田氏が領していたと言う。
 作延城は、現在は緑ヶ丘霊園の一角となり、一面の墓地となって遺構は確認できない。丘陵の先端部に当たる為、周囲への眺望に優れることはわかるが、如何せん景観が変わりすぎていて城の実在を確かめることはできない。霊園内に、城址碑と解説板があるのだけが城の存在を伝えるのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600683/139.598175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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平屋敷(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00306.JPG←葛山平氏縁の東泉寺
 平屋敷は、小田原北条氏の家臣葛山平氏の居館である。「北条氏所領役帳」によれば、葛山平氏は稲毛庄平村を11貫350文で領していたと言う。葛山平氏は、桓武平氏の祖葛原親王の後裔とされるが、その事績は不明である。
 平屋敷は、日本城郭大系によれば、東名高速脇の平地区に「屋敷」「馬場」等の屋号が残っている付近とされる。場所はよくわからなかったが、仮に葛山平氏に縁のある東泉寺付近としておく。周辺は谷戸地形が多く起伏に富んでおり、中世の居館を置くには適していたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.601154/139.578091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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稲毛館(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00288.JPG←傾斜地に建つ広福寺
 稲毛三郎重成は、鎌倉時代初期の御家人である。小山田荘の別当であった小山田城主小山田有重の子で、北条時政の娘(北条政子の妹)を妻としていた。源頼朝とは妻を通じて義理の兄弟に当たっていた為、その寵遇を受け、鎌倉北方防衛の要地の一つであった稲毛荘を領した。この時、枡形城を詰城として築き、その北麓に居館を築いたとされる。これが稲毛館である。しかし頼朝死後、同じく妻方の義兄弟に当たる畠山重忠を讒訴して滅ぼした為に誅殺された。
 稲毛館は、現在の広福寺の地にあったと言われている。枡形城の築かれた枡形山の北麓の傾斜地中腹に当たり、前面の五反田川を天然の外堀とした地勢だった様である。遺構は残っていないので、地勢からその存在を推し量るしかない。尚、広福寺には、稲毛三郎重成のものとされる墓があるが、「新編武蔵国風土記稿」では重成のものとすることに否定的見解を示しているらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.614517/139.559530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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北条氏直館(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00267.JPG←土塁らしき地形
 北条氏直館は、小田原北条氏5代目の北条氏直が旅の館(屋形)を構えたと言われる場所である。比高10~20m程の丘陵地となっていて、本城山と呼ばれている。港南区役所HPの「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」によれば、氏直の時代にこの付近で戦闘があったらしく、1622年に戦死者の供養のため光照院名遍寺が建てられ、再建時の棟札には「北条氏直が旅の館(屋形)を建てて当地にて軍勢を駐屯した。」という意味のことが記されており、巡検時の頓地と考えられているようだ。
 北条氏直館のあった本城山は、現在一面の住宅地となっていて、明確な遺構は確認できない。前述の区のHPには、「台地の平坦地に土塁を巡らした掘割や空濠が遺構を留めている」と記載されているが、どこのことか確認できなかった。ただ、住宅地の脇に土塁らしき地形は見られた。それにしてもこの住宅地、道が狭く車で行くと大変である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.418171/139.562105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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殿屋敷(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00259.JPG←殿屋敷の名が残る丘陵
 永谷高校のある丘陵地には、「殿屋敷」の地名が残っている。「殿屋敷」の名は、韮山で小田原北条氏の家臣団に参入した大津氏の祖が、永禄(1558~70年)の頃、東海道の守りにつく為にこの地に入部したことに由来すると考えられると言う。
 殿屋敷には、特に城館の遺構はなく、現在一面の住宅地として開発され尽くしている。この丘陵地からは、中世の遺構ではなく、縄文時代の大規模な環濠集落と方形周溝墓が発掘されているそうだ。丘陵途中に殿屋敷公園があって、殿屋敷の名を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.413257/139.563071/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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藤原乗国居館(神奈川県横浜市港南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00249.JPG←居館推定地の永野小
 藤原乗国は、宅間憲忠のことと推測されている。宅間氏は、鎌倉府で関東公方足利氏を輔翼した上杉四家(山内・扇谷・犬懸・宅間)の一つで、四家の中では最も勢力が弱かったが、足利家に連なる名門上杉氏の一族であったため、戦国時代に入っても小田原北条氏から「宅間殿」と尊称された。その居館は、上永谷町の「伊予殿根」にあったと推測されているが、「伊予殿根」の地名は、宅間憲忠の子憲方が伊予守を称しことから生じたと考えられている。北条氏支配時代には宅間伊織綱頼が領主で、北条氏の傘下に入っていたと言う。尚、上杉氏は藤原氏の流れであった為、藤原とも呼ばれたのであろう。

 藤原乗国居館は、現在の永野小学校付近と推定されている。港南区のHP「歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記」に、「馬蹄形の丘陵に囲まれて、南口が開き、前には水掘の役目を果たす永谷川が流れる地形は、鎌倉期の城郭を想像させるものがある」と記載されている通りの地勢で、市街化で遺構は望むべくもないが、居館が築かれる地形的条件は揃っていたようである。

 尚、居館推定地南方の天神社・貞松院背後の天神山と呼ばれる丘陵地は、日本城郭大系では宅間氏関連武将の居館と推測し、港南区では宅間氏の詰城と推測している。天神山頂部は平場となっているが、すぐ南に市営地下鉄が通っているために山が削られており、元がどの程度の広さの平場であったのかは、現在では確認できない。独立小丘であるが、近くで見るとなかなか威圧感のある山容である。
天神山頂部の平場→DSC00240.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【居館推定地】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.405544/139.570323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【詰城推測地】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.402833/139.570345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

タグ:居館
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