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古城めぐり(千葉) ブログトップ
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御茶屋御殿(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9843.JPG←南門の土橋と空堀
 御茶屋御殿は、東金への鷹狩の為に、徳川家康の命によって土井利勝が造営した休息所である。1513年12月、家康は翌月14年正月の鷹狩を東金とする計画を決め、土井利勝を呼び寄せて、街道整備を命じた。利勝は、直ちに東金新道(御成街道)の普請に着手し、近郷90ヶ村の農民を動員して10日ほどで完成させたと言う。御茶屋御殿も同じ頃に造営されたと考えられており、同様な御殿は、御成街道の起点である船橋に船橋御殿、お狩場である東金に東金御殿が築かれた。徳川将軍の東金鷹狩は、家康2回、秀忠9回、家光1回が行われたが、その後は鷹狩は行われず、4代家綱の寛文年間(1661~72年)には東金御殿が取り壊されており、同じ頃に御茶屋御殿も配されたと思われる。

 御茶屋御殿は、現在市の史跡に指定されて整備されており、夏でも遺構がよく確認できる。高さ3m程の土塁と深さ2m程の空堀で囲繞された方形館で、その規模は大豪族の居館レベルで、さすが将軍様の御殿である。南北2ヶ所に虎口があり、わずかに枡形の土塁跡が微高地となって残っている。虎口の外には土橋が掛かり、将軍の命を狙う刺客などの万一に備えた厳重な警備をしていたことが伺われる。尚、南北の虎口にあった門は、金光院と宝泉寺という2つの寺に移築されているが、いずれも非常に簡素な形態の四脚門である。将軍の休息所といえど、質素な作りであったことが伺われ、冬場の農閑期の普請と狩猟など、民情視察だけでなく、民間にお金を落とす公共工事的色彩の強い催事であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.615891/140.215370/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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金野井城(千葉県野田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9823.JPG←三ノ郭北側の堀跡と土塁
 金野井城は、鎌倉幕府の御家人野本将監が鎌倉時代に築いたと言われている。その後、結城氏の支配を受け、室町時代後期には古河に遷座した古河公方の勢力下に入り、その重臣で関宿城主であった簗田氏の支配下に入った。戦国前期には、扇谷上杉氏を駆逐しつつあった小田原北条氏の勢力下に入ったと推測されている。

 金野井城は、3つの曲輪を東西に連ねた連郭式の平城であったが、現在は主郭・二ノ郭は浄水場に、三ノ郭は西福寺の境内となっている。しかし昭和20年代の航空写真と見比べても、大規模な改変にもかかわらず郭跡の塁線はほぼそのまま残っている様で、ほぼ城の形状をなぞることができる。主郭周囲には埋められた堀跡も道路や小道となって残り、西福寺の北側には車道沿いに堀跡と土塁が残っている。あまり期待していなかったが、思ったより城の形が残っていたのは嬉しい誤算であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.989636/139.824819/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平城
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木野崎城(千葉県野田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9799.JPG←天満宮脇の土塁状の土盛
 木野崎城は、幸手一色氏の後裔で、徳川幕府の旗本・高家に列した一色氏の居城である。幸手一色氏の事績については一色氏館の項に記載する。木野崎城がいつ頃築かれたかは定かでなく、戦国時代末期に幸手一色氏の一族が既に城を築いていた可能性もある。徳川家康が関東に入部すると、一色義直は徳川氏に仕えて旗本となり、幸手を賜り木野崎城を居城とした。1698年、一色氏は三河国設楽郡に転封となり、木野崎城は廃城となった。その後は、一色氏の家老青木氏がこの地に残って、今に至るまで居住していると言う。

 木野崎城は、利根川西岸の比高5m程の台地先端に築かれている。標柱は建っているが、明確な遺構はほとんど無く、民家と畑に変貌している。台地の北端付近の天満宮脇に土塁状の土盛があり、唯一の遺構である可能性がある。また台地の東西に降っている車道は、かつての堀切であったかもしれない。いずれにしても、標柱以外には城跡を思わせるものは見当たらない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.963971/139.913139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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松戸城(千葉県松戸市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9764.JPG←櫓台跡とされる高台
 松戸城は、戦国時代に小金城主高城氏の支城であった。元々は、千葉氏の重臣原氏の持ち城で、1466年に原信濃入道がこの城に拠っていたことが知られている。1538年の第一次国府台合戦では、相模台城に陣を敷いた小弓公方足利義明に対して、小田原の北条氏綱の一軍が松戸城を拠点としたと言う。また、1582年には、高城氏の一族高城筑前守が城主となった。高城氏が、北条氏と共に滅亡すると、松戸城には徳川家康の家臣高木筑後守正次が入り、1657年まで高木氏の館が構えられていたと伝えられている。

 松戸城は、常磐線のすぐ東に位置する比高20m程の段丘上に築かれた城である。現在は、戸定が丘歴史公園と千葉大学の敷地となっており、明確な遺構は殆ど無い。大学敷地に西から切通し状に伸びる道路が空堀跡とされ、その北側には櫓台跡とされる高台も残る。明確な遺構には乏しいが地勢は健在で、往時の雰囲気を垣間見ることができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.777136/139.899181/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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船橋御殿(千葉県船橋市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9731.JPG←御殿跡に建つ東照宮
 船橋御殿は、鷹狩りを好んだ徳川家康の為に造営された御殿の一つである。東金周辺への鷹狩りの途次に、各所に「御茶屋」「御殿」と称される休憩所や宿泊所が設けられたもので、この他に東金御殿御茶屋御殿が知られている。家康は、1614年に土気・東金で狩猟を行ったが、船橋御殿もその頃に造営されたと考えられており、翌15年11月に家康はここに宿泊した。家康の宿泊は1回だけであったが、2代将軍秀忠も狩猟の度に船橋御殿に立ち寄ったと考えられている。将軍家の東金狩猟が1630年頃に終焉した後も船橋御殿は存続していたが、1670年代頃に廃止されたらしい。その後、この地は船橋大神宮神職の富氏に払い下げられ、開墾されて畑となったが、かつての御殿中心部に富氏によって東照宮が建立された。

 船橋御殿は、現在は市街化の中に完全に埋没している。御殿跡に建つ東照宮は、細い路地の奥に立つ小さな社で、その場所は非常にわかりにくい。そこにあると知らなければ、通り掛かることもないだろう。それでも市の史跡に指定され、解説板も建っており、わずかに歴史の息吹を現代に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.698946/139.989252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鷺沼城(千葉県習志野市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9705.JPG←城址公園の入口
 鷺沼城は、歴史不詳の城である。『吾妻鏡』には、石橋山の戦いで大敗し安房に逃れた源頼朝が、「鷺沼旅館」に逗留して軍勢を整えたとされ、その鷺沼旅館が鷺沼城であったと考えられている。また、正応年間(1288年~93年)には鷺沼太郎源太光義の居城であったとも言われる。その他は不明点が多く、明確にはできない。
 鷺沼城は、比高10m程の段丘上の縁に位置しており、現在は城址公園となっている。しかし城址公園とは名ばかりで、明確な城趾遺構はなく、2基の古墳が残っているだけである。地元の有志が建てた鷺沼源太満義の碑が建つ他には城を伝えるものはない。馬加城等と同様、早くに遺構が失われたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.678404/140.025803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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長胤寺館(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9698.JPG←長胤寺
 長胤寺館は、千葉氏の庶流武石氏の一族武石小二郎長胤の居館である。千葉常胤の3男三郎胤盛は武石郷に分封されて武石氏を称した。その後裔武石長胤は武石城に居住していたが、1259年に長作の地を領し、新たに長胤寺館を築いて移り住んだ。1262年に長胤は、館に寺(現在の長胤寺)を建立したと言う。
 長胤寺館は、現在は長胤寺となっている。この城館は、その存在を知らずにたまたま通りかかって、その「長胤」の名から千葉氏関係の寺だろうということで立ち寄ったものである。境内に土塁が残るとのことであるが、かなり改変されており、知らずに行った時はとても遺構とは思わなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.675758/140.069482/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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馬加城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9696.JPG←城址のあった段丘
 馬加(まくわり)城は、下総の名族千葉氏の有力支族馬加氏の居城である。千葉満胤の庶長子康胤は、当初常陸大掾氏の養子になったが、間もなく離縁して下総に戻り、馬加村に館(馬加城)を構えて馬加氏を称した。そして1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱、享徳の乱が勃発した。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、成氏方の康胤は、同族の小弓城主原胤房と共に、上杉方に付いた宗家千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この事態を受けて京都の将軍足利義政は、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁を下総に下向させ、千葉氏内訌の鎮定に当たらせた。常縁は、国分・大須賀・相馬らの千葉一族を始め、下総国中の兵を動員して康胤を討伐し、馬加城・千葉城(猪鼻城)を相次いで攻略し、康胤は上総八幡に追い込まれ敗死した。その後は康胤の庶子輔胤が千葉宗家の名跡を継いだ(後期千葉氏)が、内訌により弱体化した千葉氏は里見氏らの圧迫を受け、文明年間(1469~86年)に新たな拠点として本佐倉城を築城して本拠を移したと言う。

 馬加城は、宗家を滅ぼすほどの勢威を持った庶子家の城であったが、現在は遺構は全く残っておらず、どのような規模の城だったのかも明確ではない。馬加城の位置は、武石城があったのと同じ台地の西端に当たり、現在は大型マンションが建っている。周辺も民家や畑に変貌しており、段丘という地勢以外に城らしさを残すものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.668991/140.057432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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武石城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9692.JPG←武石城付近の現況
 武石城は、下総の名族千葉氏の庶流武石氏の居城である。千葉常胤の3男三郎胤盛が武石郷に分封されて武石氏を称した。武石城がいつ頃まで存続したかは定かではない。
 武石城は、花見川に面した真蔵院背後の比高10m程の台地辺縁部に築かれた城である。城と言っても実質的には居館であったろう。台地上は早くに耕地化が進み、遺構は完全に湮滅している。真蔵院に、わずかに武石氏の足跡が伝えられているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.666499/140.065179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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和良比堀込城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9663.JPG←二重土塁と空堀
 和良比堀込城は、歴史不詳の城である。臼井城主臼井氏の一族和良比(蕨)氏の城と推測されている。この地は、千葉常胤の所領である千葉荘か千葉北荘の一部と考えられており、室町時代には千葉氏一門の重臣原氏による臼井荘の支配下にあった。また小弓公方足利義明が里見義通に宛てた書状に現れる「蕨」が、この和良比堀込城のことではないかと言われており、それが正しいとすると和良比堀込城はこの頃には小弓公方の前進拠点であったと考えられる。第一次国府台合戦での小弓公方滅亡後は、小田原北条氏に属した原氏がこの地域を奪還し、和良比堀込城もその有に帰したと思われる。

 和良比堀込城は、谷戸に面した比高10m程の段丘先端に築かれている。大きく東西2郭から成る城で、外周に空堀や土塁を廻らし、南側に二重構造の虎口を有していたと考えられるが、現在は住宅団地の造成により遺構の大半は破壊され、わずかに段丘上の公園にニノ郭土塁・空堀の一部が残っているだけとなっている。全く遺構には期待せずに訪城したが、この僅かに残った遺構が思いの外素晴らしく、良い意味で期待を裏切られる結果となった。残っているのはニノ郭の南西隅に当たり、L字の土塁を含めた二重土塁とその間の空堀、南側の腰曲輪の土塁等が確認できる。それでも残っているのは城全体の1/5程に過ぎず、全体が残っていればさぞかし見応えがあったろうと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.657968/140.166337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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廿五里城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9634.JPG←空堀と思われる窪地
 廿五里(つうへいじ)城は、歴史不詳の城である。谷戸に面した比高15m程の段丘先端に築かれており、現在は大半が殿山ガーデンという施設や民家に変貌している。乗馬クラブから南に小道を進むと脇に空堀と思われる窪地や土塁らしい土盛が確認できる。しかし夏場でもあり、薮で視界が遮られている部分が多く、どのような縄張りだったのかは判然としない。現地の『廿五里南貝塚』の解説板にも、縄文時代の貝塚の解説と共に中世城館の記載がわずかにあり、「殿山」という地名共々、城館遺構としては認識されている様である。おそらくは街道筋を押さえる小規模な城砦だったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.636353/140.140174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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生実城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9568.JPG←生実神社裏に残る空堀
 生実城は、北小弓城とも呼ばれ、千葉氏の重臣原氏が、小弓城に代わって新造したとされる城である。元々原氏は小弓城を居城としていたが、足利義明を奉じた真里谷武田信保に城を奪われ、そのまま小弓公方の居城となっていた。1538年の第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡すると、原胤清は北条氏綱と共に小弓城を奪還したが、翌39年、小弓城の北1.5kmの位置に、新たに生実城を築いて居城とした。1557年、臼井城主臼井景胤はその死に当たり、若い久胤の後見として、同族であった原胤清の子胤貞を臼井城に入れる様遺言し、胤貞は実質的に臼井城主を兼任した。1561年、上杉謙信の関東出陣に呼応して、里見方の大多喜城主正木時茂は下総に侵攻し、臼井城、次いで生実城も攻め落とし、胤貞は城を捨てて逃れた。しかし謙信が越後に帰国すると、再び北条氏は奪われた城を奪還し、胤貞も生実城に帰城したと思われる。1564年、北条氏康が第二次国府台合戦で里見氏に勝利すると、胤貞は臼井城を奪還した。1571年、生実城は再び里見氏に攻略され、原胤栄は本拠を臼井城に移した。後に、胤栄は生実城を奪還したが、1590年の小田原の役の際に徳川家康の重臣酒井家次と野田十門字野で戦い、討死したと言う。その後は、徳川幕府の直轄領などを経て、1627年に森川出羽守重俊が生実藩に一万石で入部し、旧城の一郭に陣屋を構えた。そのまま陣屋は森川家共々幕末まで存続した。

 生実城は、低湿地帯に囲まれた段丘先端に築かれた城である。昭和40年代初頭までは城の主要部を始めとする多くの遺構が残っていたが、その後の宅地造成によって遺構の殆どは湮滅し、かつてのニノ郭に当たる本城公園などの名前にその名残を残すに過ぎない。しかし、生実神社の裏には陣屋東側の大規模な空堀が一部残存するほか、県道66号線のかつての大手口付近には、石碑の後ろに土塁が残り、その外側に堀跡が窪地となって残っている。全部とはいかなくても、せめて城の中心部だけでも遺構の破壊が免れていたらと今更ながら惜しまれる。
大手口の土塁→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.566755/140.145304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小弓城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9481.JPG←外郭の大空堀
 小弓城は、戦国前期に房総半島で勢威を誇った小弓公方足利義明の居城として名高い城である。元々は千葉氏の支城で、千葉城(猪鼻城)築城の頃に南部の守りの要衝として築かれ、一族で重臣であった原氏を小弓城に置いて守らせた。時代は下って室町後期の1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では千葉氏内部に内訌が生じ、小弓城主原胤房は成氏方に付いて、馬加城主馬加康胤と共に上杉方の宗家千葉胤直・胤宣父子を攻撃した。千葉胤直・胤宣は千葉城を逐われ、敗走した胤直は弟胤賢と共に志摩城に立て籠もり、嫡子胤宣は多古城に立て籠もった。しかし両城共に攻囲されて落城し、胤宣は付近の阿弥陀堂で自刃し、胤直も東禅寺に逃れて自刃し、千葉宗家は滅亡した。以後、馬加康胤の系統が千葉介となって宗家に取って代わった(後期千葉氏)。原胤房の跡は、嫡子胤隆が跡を継ぎ、1509年には連歌師宗長が胤隆に招かれて、小弓館で猿楽や連歌に興じたことが知られている。1517年、原氏と抗争を繰り広げていた真里谷城主武田信保は、古河公方足利高基の弟義明を擁立して小弓城を攻撃し、攻略することに成功した。この後、足利義明は小弓城を居城とし、ここに小弓公方足利氏が成立した。以後、1538年の小弓公方滅亡まで、房総半島において大きな勢威を振るった。1534年、小弓公方の後ろ盾であった真里谷武田氏家中で内訌が生じ、跡目を巡って小弓公方と小田原北条方とに分裂して抗争を開始した。小弓公方足利義明は、里見氏も傘下に従え、大軍で椎津城を攻略し、1537年に造海城をも攻め落とし、真里谷武田氏家中の北条方勢力を一掃した。又この時、北条氏綱が援軍として派遣した大藤金谷斎栄永の拠る真里谷新地城も攻め降し、氏綱は義明に懸命に詫び言を入れて、北条方将兵の帰還を許された程であった。義明は家格もさることながら、勇将の器であったらしく、この時代の房総半島はまさに小弓公方を中心にして動いていた感がある。そんな義明も、翌年あっけない幕切れを迎えることとなる。1538年、古河公方足利晴氏と対立していた義明は軍を率いて北上し、相模台城に陣を敷いた。一方晴氏は、当時既に関東最大の勢力にのし上がっていた北条氏綱に義明討伐を要請したとされる。上意を受けた氏綱は、進軍して松戸台に陣を敷き、相模台城を中心に両軍で激戦が展開された(第一次国府台合戦)。北条勢は合戦に勝利し、小弓公方勢は当主義明以下、嫡子義純、弟基頼らが討死し、小弓公方家は滅亡した。その後、原胤清は北条氏綱と共に小弓城を奪還し、間もなく北方に新城(生実城)を築いて本拠を移したとされる。

 小弓城は、平坦で広大な段丘上に築かれた城である。城内は、大半が畑に変貌し、一部は宅地や墓地となるなど改変が激しく、明確な遺構はほとんど残っていない。古城という地名の残る城趾南西端が主郭で、この周囲に空堀があったらしいが、これも既に埋められてしまっており、全く確認できない。主郭跡の墓地周辺にわずかに土塁が残っているが、どこまで往時のまま残っているかは判断が難しい。最も明確な遺構は千葉市埋蔵文化財調査センターの裏にあり、外郭を区切っていた大きな空堀と物見台らしい大きな土壇が残っている。この他、北門跡とされる部分にも土塁や、切通し状の小道が残り、また八剣神社周辺にも堀状の車道や天神社の鎮座する土壇が確認できる。一時期、房総半島を席巻した城であるが、今となってはその遺構の多くは時の彼方に消えてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.554414/140.150776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小浜城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9458.JPG←南尾根の堀切
 小浜城は、万喜土岐氏が築いた支城である。1493年に万喜城主土岐頼定が、伊南領を守る為に家臣の鑓田(槍田)美濃守に小浜城を築かせたと言われている。戦国末期には、鑓田氏は里見方となっていたらしく、『房総治乱記』によれば、1588年に小浜城主鑓田美濃守勝定は、里見義頼の命を受けて相模国三浦に遠征して北条勢と干戈を交えたと言う。しかし、その虚に乗じて北条方の上総勝浦城主正木頼忠が小浜城を襲い、攻め落としてしまった。里見義頼は、老将山川豊前守の軍勢を送って奪還を図ったが果たせず、慌てて戻った勝定も為す術がなかった。翌年、勝定は夜陰に乗じて小浜城を奇襲し、奪還を果たした。1580年に北条氏が滅び、徳川家康が関東に入部すると、重臣の本多忠勝が大多喜城主となり、同じ頃忠勝の軍勢によって小浜城は攻略され、以後廃城となったと言う。

 小浜城は、城山と呼ばれる八幡岬先端の丘陵上に築かれている。山頂の小さな主郭には小浜八幡神社が祀られ、周囲の曲輪は一部は公園化されているが、その他は多くの薮でその形状を確認することはおろか、突入することすらできない。しかし公園化されている部分だけでも、曲輪の形状が明瞭で、特に主郭の西側に当たる青年館の建てられた曲輪は、ニノ郭だったと思われ、そこそこの居住性を持ち、西側外周には大土塁が残り、入口には切通し虎口が開かれている。公園化による改変もあるが、この構造は金山城のものと全く同様のものであったと思われる。その他、主郭の周囲にも腰曲輪らしい平場が残っている。一方、神社参道の途中から東の岬に向かって遊歩道が伸びているが、主郭東側の尾根上まで来たところで道が堀切状となっており、実際に先端の出丸を分断する堀切となっていたと思われる。またニノ郭西側の公園化された腰曲輪を奥に少し進んでから薮に突入すると、ニノ郭から南に伸びる稜線を断ち切る、垂直切岸の堀切を確認することができる。ここだけが唯一、改変を受けずに残った明確な城趾遺構である。小浜城は規模は比較的小さな城だが、南に深く入り込んだ入江に水軍を擁した、水軍基地だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.250418/140.405994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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天津城(千葉県鴨川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9391.JPG←一段高くなった本堂周辺
 天津城は、鎌倉時代に天津の領主であった工藤左近尉吉隆の居城である。吉隆は、鎌倉幕府に出仕中に四条金吾・池上宗仲等と共に日蓮に深く帰依した。1264年、日蓮が母の病気見舞いに小湊に帰郷した際、吉隆の館を訪ねる道すがら、かねてより日蓮に恨みを持っていた地頭東条景信に東条の松原で襲撃され、重症を負った(小松原法難)。この時、救援に駆けつけた吉隆は討死したと言う。吉隆の嫡子日隆は、父の菩提を弔う為、吉隆の館を寺にしたと伝えられている。これが現在の日澄寺である。
 天津城は、城とは言うものの実質的に居館で、前述の通り現在の日澄寺に当たる。背後に山を控えた一段高い高台に本堂があり、鎌倉時代の武士の居館の典型的な立地となっている。明確な遺構はなく、寺の門前に「工藤吉隆之舊趾」と刻まれた石碑が建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.124555/140.163253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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石堂城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9364.JPG←堀切と小郭
 石堂城は、歴史不詳の城である。国の重要文化財に指定されている石堂寺の尾根続きの峰にあり、石堂寺は安房4氏の一、丸氏一族の強力な支援によって再興されたことから、丸氏の居城丸城の出城として築かれたのではないかと言われている。
 石堂城は、前述の通り石堂寺の尾根続きの標高126mの峰に築かれた城である。この付近は起伏の多い地形で、石堂寺の境内自体が城郭の様な構えをしている。寺の北東の城址には展望舎があり、境内北東の大きな土壇に登っていく遊歩道が城跡まで通じている。尾根筋には堀切のような地形や物見台の様な土壇も見られるが、自然地形に近く造作ははっきりしない。一方、山頂の主郭は平坦に削平され、北側には明確な堀切と馬出し状の小郭が築かれている。一方、主郭南側はわずかに数段の段差で区切られた緩斜面が広がっているだけで、普請は不徹底である。堀切と小郭の存在から、城砦があったことは疑いないが、非常に小規模な物見砦程度のものだったと思われる。ここへは城というより、石堂寺の多くの重文建築を見に行った方が良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.052629/139.961326/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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平松城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9301.JPG←主郭の堀状窪地と櫓台
 平松城は、安房の豪族安西三郎景益の居城と言われている。1180年、頼朝は、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げたが、攻め寄せた大庭景親らの平家軍と石橋山で戦い、衆寡敵せず大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の手引によって真鶴の岩海岸より小舟で脱出し、安房へ落ち延びた。猟島に上陸した頼朝は、北条時政、三浦義澄らに迎えられて合流した。この時、房総諸豪の中で最初に参向したのが安西景益であったと言われる。この後、房総一の兵力を擁していた上総介広常の元へ向かうべく、長狭に移動し、ここで平家方の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破して、景益の館に入ったと言う。この頼朝が入ったのが平松城ではないかとする説が提起されている。その後の平松城の歴史は定かではないが、戦国期の里見氏時代に、その家臣安西式部の城館であったともされる。一方、安西氏の居城としては、勝山城が知られており、平松城との関係には不明点がまだ多い様である。

 平松城は、県道296号線の北側にそびえる標高70m、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。市指定史跡となっているが、明確な遺構には乏しい。県道から小道を登って行くと、やがて堀切状の切通し道に至り、解説板と標柱が建っている。ここからの登道はおそらく往時の虎口だったと思われ、側方に段曲輪らしい平場を伴っている。その上は果樹園となった緩斜面で、ニノ郭に当たる平場と考えられる。その先は再び登道となり、頂部の主郭に至る。しかし明確な切岸はなく、周囲に腰曲輪らしい平場もあるが、後世の耕地化による改変の可能性も考えられ、遺構かどうかはっきりしない。また主郭南端には堀切状の窪地の先に櫓台状の土壇がある。明確な城郭遺構と呼べるのは、このぐらいのものである。かなり古い形態の城で、戦国期には砦程度の機能しかなかったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.028543/139.912017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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飯野陣屋(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9200.JPG←大手の横矢掛かり
 飯野陣屋は、長州徳山・越前敦賀と並び、日本3大陣屋に数えられる広大な陣屋である。1648年、信州高遠城主保科正直の3男、保科弾正忠正貞によって築造された。正貞は、早くから徳川家康に仕え、大坂夏の陣で大いに活躍した。飯野藩は、禄高2万石であったが「城主」の格式を許されず、陣屋を構えた。またその所領は、飯野周辺は3千石に過ぎず、大部分は関西地方にあったと言う。飯野保科家は、会津藩の分家筋に当たる為、幕末に会津藩が相模・房総沿岸の警備を命ぜられた時、飯野藩が名代となって房総沿岸警備を命ぜられた。又、飯野藩主は、大坂定番、加番や江戸城門番等を勤めることが多く、陣屋には代官が置かれた。明治の廃藩置県までの223年間、飯野藩主の居所として存続した。

 飯野陣屋は、日本3大陣屋と言われるだけあって広大な規模の陣屋で、本丸・ニノ丸・三ノ丸を備え、大手には「左袖」に当たる横矢張出しまで築かれ、陣屋とは名ばかりでほとんど平城の構造となっている。全周に水堀が残り、南中央部に折歪みを有している。これは南に隣接する亀塚古墳を避けて堀を築いた為らしい。この他、本丸の大手虎口には桝形土塁の一部が残存している。また陣屋内西部に三条塚古墳という大きな前方後円墳があり、古墳の周濠を水堀に利用しただけでなく、物見台として活用したと思われる。陣屋内は宅地などに変貌しているものの、外周の土塁と水堀は完存しており、近世陣屋の遺構としてはほとんど奇跡に近い残存度である。
本丸の大手枡形土塁→IMG_9244.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.320879/139.863626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:陣屋
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大倉城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6052.JPG←主郭周囲の空堀
 大倉城は、大崎城主国分氏の一族大蔵氏の居城である。国分三河入道寿歓(胤詮か?)の子孫大蔵弾正之忠胤親が築いたと伝えられている。或いは、胤親の父に当たると思われる大蔵定胤が大蔵城に居たとも言われる。胤親は戦国中期の1565年に清宝院を創建したと伝えられ、その子胤利が跡を継いだとされる。大崎城等と同様、1590年の小田原の役で落城したのだろう。

 大倉城は、JR成田線水郷駅の西600mに位置する比高30m程の丘陵南端に築かれている。南端に主郭を置き、東にニノ郭、北に三ノ郭を構えた縄張りで、主郭の北から東にかけての外周には空堀が穿たれて、曲輪間を分断している。この空堀は北側では変則的な二重堀切に変化しており、二重堀切中間の帯曲輪はそのままニノ郭に繋がっている。主郭と三ノ郭は畑になっているが、ニノ郭は山林で、内部は数段に区画され、南端に竪堀状虎口を構え、櫓台を備えている。この他、各曲輪の外周には腰曲輪が廻らされて防御を固めている。特に主郭西側の腰曲輪には竪堀も穿たれている。城址北西の清宝院近くから登道が付いているので、訪城は容易である。薮もそれほど酷く無く、遺構も良好に残っているので、見易い城である。
三ノ郭の腰曲輪→IMG_5983.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.883752/140.563567/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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下小野城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5922.JPG←西側の長い横堀
 下小野城は、歴史不詳の城である。唯一、『山室譜伝記』に「香取近在小野落城、山倉播磨守等五百人討死」とあることから、山倉播磨守という武士が城主であったと推測されている。

 下小野城は、水田地帯に半島状に張り出した比高35m程の城である。城への登り道がわからなかったので、先端近くの東麓から適当に当たりをつけて直登した。物凄い藪城で、遺構の確認はかなりの困難を伴う。比較的小規模な曲輪群で構成されているが、かなり技巧的な縄張りの城で、段差で区画された3つの曲輪を台地北端に置き、南の台地基部の尾根に沿って曲輪を連ねている。北端の3つの曲輪は、東から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭とされている。周囲には腰曲輪が取り巻き、一部は横堀状となっており、先端部には段曲輪が築かれている。三ノ郭は背後に堀切が穿たれて台地基部の曲輪群と分断し、そのまま東側で横堀に変化している。台地基部の曲輪群も、Ⅳ郭~Ⅵ郭の3つの曲輪が連なっている様だが、郭内は藪がひどく、全く形状が確認できない。この曲輪群の西側には長い横堀が穿たれ、途中で数ヶ所横矢のクランクが掛かり、横堀外側の帯曲輪の要所は櫓台となって防御を固めている。Ⅵ郭の南端は二重堀切が穿たれ、特に外側の堀切は西側に長く竪堀となって落ちており、側方に竪土塁を伴っている。ここからやや南に離れたところにも横堀が穿たれて城域が終わっている。下小野城は、往時の集落と隣接して築かれていることから、一説には村の城とも言われるが、実戦的な技巧的縄張りであり、正規の軍事集団の拠った城と思われる。但し曲輪や横堀などの各パーツは小さい上、藪がひどくて城域の半分は踏査不能である。せっかくの良質な遺構なので、史跡に指定して整備の手を入れて欲しいものである。
Ⅵ郭南の堀切から落ちる竪堀→IMG_5947.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮の分、星一つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.860612/140.534472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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香取要害城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5817.JPG←主郭
 香取要害城は、歴史不詳の城である。香取神宮の境内の一角、参道北側の段丘上に位置しており、一方、永禄年間(1558~69年)に安房里見氏の部将正木氏が東総に侵攻し、一帯を席巻したとされるが、香取大禰宜家文書にその当時の緊迫した状況が記載されていることから、正木勢に備えて神社側が築いた防衛陣地であった可能性が指摘されている。

 香取要害城は、前述の通り香取神宮境内の段丘上に築かれた城砦である。現在、護国神社が建てられているのが主郭で、周囲には腰曲輪や堀、土塁などが見られ、形は城郭そのものである。神社の境内に築かれた城郭というのも珍しいが、南北朝動乱の頃には寺院を城塞化した寺院城郭があちこちに築かれたので、神社勢力が出城を築くということも無い訳ではないだろう。この他にも砦らしい地形が参道の東側にも見られたが、境内なので勝手に登るわけにも行かず未踏査なので、ここではその可能性を指摘するだけに留めておく。

 尚、正木氏の東総侵攻についてであるが、1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測されるが、それ以外にも連年侵攻した様な記事が見受けられるが、これは個人的には少々疑問に思っている。小田原北条氏と里見氏の攻防はその時々で一進一退があり、三船山合戦などで北条氏が劣勢に置かれても、千葉氏一族の勢力が取り敢えずも健在で、しかも上総にも万喜土岐氏が北条方として割拠し、里見氏の家臣であった勝浦正木氏さえも第二次国府台合戦後に北条方に付いてしまったことなどから考えれば、1564年以降に里見勢が東総の奥深くまで安々と侵攻したとは考えにくいのではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.884411/140.527893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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山崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5791.JPG←主郭背後の櫓台
 山崎城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』によれば、飯篠氏の居城であったと伝えられているとされ、山崎に住した剣豪、飯篠長威斎がこの城と関係があったのではないかとの説を提示している。一方、『図説 房総の城郭』では香取神宮社家の大禰宜家か大崎城主国分氏の関係を推測している。

 山崎城は、香取神宮から北北東にわずか600mの距離に位置する、水田地帯に突出した比高20m程の丘陵先端部に築かれた城である。非常に小規模な城で、神社の祀られた三角形の主郭と、周囲の腰曲輪、背後の尾根状の小郭から構成されている。主郭前面には高土塁が築かれ、側方に大手と搦手の2つの虎口が開かれている。大手虎口の前には馬出し郭が置かれている。主郭は外周を低土塁で囲まれ、背後に向かって上り勾配となり、最上部に土塁を伴った立派な櫓台が築かれている。主郭背後の尾根には合計3本の堀切が穿たれている。一方、搦手虎口の先、主郭の北東には堀切で分断された櫓台が築かれ、周囲に腰曲輪群が広がっている。主郭の東側は腰曲輪との間に横堀が穿たれ、この横堀は前述の主郭背後の堀切に繋がっている。横堀の外周は帯曲輪となっている。小さな城であるが、普請はしっかりしている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.890592/140.532121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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荒北城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5586.JPG←空堀と前衛の腰曲輪
 荒北城は、歴史不詳の城である。一説には東伊予守朝胤が城主であったとされるが出典も明確ではない。勢力圏の位置関係と主郭内に妙見神社が祀られていることから考えれば、千葉氏の一族がこの城にいた可能性が高い。

 荒北城は、栗山川の西岸、荒北集落背後の比高15m程の半島状台地先端部に築かれた城である。ほぼ単郭の城で、主郭内は一面の畑となっているが、遺構は比較的良く残っている。主郭の北側外周部に低土塁が残り、その外側に空堀が延々と半周程にわたって取り巻いている。北西部では二重空堀となっていた様だが、現在外堀は車道建設で損壊してしまっている。内堀は主郭の北側で大きく屈曲して横矢が掛かり、そのまま北東の台地先端部まで掘り切っている。その先には前衛となる腰曲輪が築かれている。また主郭南の畑入口部はかつての虎口だったらしく、わずかに土塁も残っている。
 以上が遺構の現況であるが、国土地理院の空中写真閲覧サービスで昭和20年代前半の写真を見ると、現在民家建設などで改変されている主郭南側の部分にニノ郭があったらしく、主郭の塁線に横矢が掛かり、舌状に伸びた平場が確認できる。いずれにしても小規模な城であるが、横矢掛かりなど少なくとも戦国中期までは使用されたと思われる。尚、民家裏から畑に登るので、民家の方への事前のお断りは必須である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.817452/140.489109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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大友城(千葉県東庄町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5449.JPG←政所台の現況
 大友城は、長元の乱を起こした平忠常の居城と言われている(居城は大椎城であったとの説もある)。元々は忠常の祖父で、坂東八平氏の祖となった平良文平将門の叔父)が、一時期居城としたとも伝えられる。忠常は祖父以来の地盤である両総地域に広大な所領を有し、大友城のある東庄町周辺は最も有力な拠点の一つであったと考えられている。1028年、忠常はこうした強大な勢力を背景に受領と事を構えて騒乱に至った。朝廷は追討軍を派遣したが、忠常は頑強に抵抗して容易に鎮定できず、乱は房総3ヶ国に及んで大いに疲弊した。業を煮やした朝廷は追討軍の大将平直方を解任し、新たに源頼信を追討使に任じてようやく忠常を降伏させた。尚、頼信の子が前九年の役を起こした源頼義で、孫が後三年の役を起こした八幡太郎源義家である。頼信が忠常を降伏させたことで、坂東武士との間で主従関係を持つようになり、後の源氏発展の礎を築いたとされる。その後の大友城の歴史は定かではないが、忠常の子孫に当たる東氏等によって幾度となく城として使用されたと推測されている。

 大友城は、兼田貯水池の南東に位置する比高40m程の丘陵上に築かれている。南北に並立した大きく2つの平場から成り、北側が「政所台」、南側が「遠所台」と呼ばれている。いずれも現在は畑と耕作放棄地となっており、ただの平場が広がっているだけで遺構らしきものは確認できない。政所台には塚と思われる土壇が数ヶ所残されているだけである。2つの平場の間は細くくびれた地形で、天然の土橋となっている。遠所台の南西隅付近には、金明水という井戸跡があるらしいが、腰曲輪と城道がある以外はよくわからなかった。いずれにしても平安時代の古い城らしく、あまり明確な普請はされておらず、自然地形をそのまま利用したものだったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.798940/140.658498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古代城郭
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沼闕城(千葉県東庄町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5433.JPG←ニノ郭北東角の堀切と腰曲輪
 沼闕城は、千葉氏の一族、東六郎胤頼の3男盛胤の居城と伝えられている。盛胤は、長兄胤行の養子となってこの城に入り、後に本城の中島城に移ったが、沼闕城は引き続き盛胤の子孫が領有したと言う。

 沼闕城は、標高55m、比高45m程の丘陵地中程に築かれた城である。比較的単純な縄張りの城で、東西に並置された主郭・ニノ郭と主郭南の三ノ郭、その周囲の帯曲輪から構成されている。主郭には福聚寺が建ち、二ノ郭・三ノ郭は公園化されている。主郭とニノ郭の間には空堀が一部残っており、往時は堀で完全に分断されていたと思われる。この堀に沿って主郭側には土塁が築かれ、堀が埋められた先に櫓台も築かれている。この櫓台の塁線を延長すると、丁度福聚寺の山門前に通じるので、元々は山門前に堀かあったのかもしれない。ニノ郭の東下方には横堀と腰曲輪が築かれ、特に北東角では堀切となって腰曲輪との間を分断している。ここからニノ郭〜主郭の北側外周に帯曲輪が築かれ、途中に竪堀が穿たれている。また主郭の西端角では堀切が穿たれて、腰曲輪との間を分断している。一部、ニノ郭塁線からの横矢掛かりなども見られるが、基本的には戦国前期頃までの素朴な形態を留めている。
主郭~ニノ郭間の空堀→IMG_5363.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.784602/140.675318/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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中島城(千葉県銚子市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5332.JPG←台地上の水堀
 中島城は、下総の名族千葉氏の一族海上氏の本城と考えられている。千葉介常兼の5男常衡が海上氏を称し、建久年間(1190~99年)に中島城を築いたと言われている。海上氏はその後一旦廃絶となったが、後に千葉介常胤の6男東胤頼がこの地を継承し、その孫胤方が海上氏を称し、東氏流海上氏が成立した。以後、千葉宗家の重臣として勢威を振るい、室町時代の関東各地の戦乱で活躍した。戦国時代には千葉宗家と共に小田原北条氏に属したと思われ、1590年の小田原の役の際に中島城は落城して、海上氏も滅亡した。

 中島城は、利根川南岸の氾濫原に面した比高30m程の平坦な台地上に築かれた城である。台地上は一面の畑となっているため遺構の湮滅が進んでいるものの、辺縁部の土塁や堀跡の畑が見られ、往時の城の縄張りを概ね想像することができる。台地の南東端に主郭を置き、主郭に小さな城址碑があり、主郭周囲には空堀が一段低い畑となって残っている。主郭の東先端は、藪の中に堀切を挟んで物見郭が配置され、その外周には何と大きな水堀が築かれている。台地上なのに水堀があるとは驚きで、おそらく湧き水があるのだろうが、非常に神秘的な雰囲気が漂っている。この他、三ノ郭の南東角にも横堀があり、三ノ郭南西角には腰曲輪群と堀底道を兼ねた空堀が穿たれている。中島城は、台地上の遺構はわずかであるが、藪の中を探索すると、外周部に良好な遺構が眠っている。
主郭外周の堀跡→IMG_5321.JPG
IMG_5314.JPG←三ノ郭南東角の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.750286/140.764797/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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見広城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5197.JPG←堀切と櫓台
 見広城は、嶋田三河守義広の居城と伝えられている。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木時忠が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時、見広城も落城し、嶋田氏は滅亡したと言われている。

 見広城は、台地のヘリに突き出した比高50m程の要害山に築かれている。西方には現在、一面の水田地帯が広がっているが、かつては椿海という湖沼が広がっており、湖に面した水運を掌握する城であった。遺構はよく残っており、雷神社から城への遊歩道が整備されている。台地突端の城と台地基部の間は自然地形を利用した大堀切が穿たれ、そのまま城の北東まで掘り切っている。その先の城域最頂部に南北に長い主郭があり、背後に土塁と櫓台が築かれ、石碑が建てられている。主郭の全面にも小さな土塁が築かれ、その下に数段の腰曲輪群が綺麗に築かれている。その下にやや起伏に富んだニノ郭が広がり、先端部がやや高くなっていて、櫓台であったと考えられている。ニノ郭の一段下に三ノ郭が築かれ、ここも先端部にガサ藪の物見台が築かれている。三ノ郭の脇から麓に向かって城道が残っており、虎口を防衛したと思われる腰曲輪群が藪の中に確認できる。この他、ニノ郭の東側にも腰曲輪があり、竪堀が穿たれている。見広城は、台地突端の高低差のある地形をうまく利用して築かれた、連郭式の城である。
主郭背後の土塁→IMG_5209.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.738740/140.696734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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網戸城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5174.JPG←北側の堀跡
 網戸城は、小田原の役後に下総に入部した信濃の豪族木曾義昌の居城である。元々の創築は、小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によるとされるが、詳細は不明。一方、木曾義昌は、信濃木曾谷に本領を持ち、木曾義仲の裔を称した豪族で、武田信玄が信濃を制圧した時、木曾氏も武田氏に属した。そして武田勝頼の時代に、義昌は織田信長に通じて武田氏から離反し、このことが信長による甲州征伐、つまり甲斐武田氏滅亡の引き金となった。1590年、徳川家康が関東に入部すると、義昌は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったという理由で下総国阿知戸(網戸)一万石に転封となり、5年後にこの地で波乱の生涯を終えた。その子義利が跡を継いだが、1600年に叔父義豊殺害の事実が露見し、その咎によって除封廃藩となり、網戸城は廃城となった。

 網戸城は、現在の東禅寺付近にあった平城で、遺構は宅地化によってほとんど湮滅しているが、境内の北と西にわずかに堀跡が残っている。しかしどのような縄張りだったのかは、今ではもうはっきりしない。尚、境内には木曾義昌夫妻の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.723359/140.667905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平城
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大崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5705.JPG←四ノ郭外周の屈曲する横堀
 大崎城は、矢作城とも呼ばれ、下総の名族千葉氏の庶流国分氏の居城である。千葉氏5代千葉介常胤の5男五郎胤通が国分郷に分封されて国分氏を称した。胤通は本矢作城を築いて居城としたが、鎌倉末期頃に5代泰胤が新たに大崎城を築いて居城としたと言う。これは、鎌倉末期から南北朝時代の動乱の中で、より要害性を求めてのことであったと思われる。以後大崎城は、天正年間(1573~92年)の廃城まで、国分氏歴代の居城となった。国分氏は、戦国時代には他の千葉氏一族と同様、小田原北条氏に属して勢力を有した。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木氏が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、これは1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時大崎城も攻め落とされたが、間もなく奪還したとされる。その後国分氏は、1590年の小田原の役で北条氏と命運を共にした。その後、徳川家康が関東に移封になると、その家臣鳥居元忠が大崎城に入ったが、程なく岩崎に居を移したという。

 大崎城は、香西川とその支流の合流点に半島状に突き出した、比高30m程の丘陵上に築かれた城である。大きく4つの曲輪群に分かれており、更にこれらが「城の内」「外城」の大きく2つのブロックに分かれた一城別郭式の広大な城である。尚、現在城域には両総用水の水路が貫通しており、一部遺構が破壊を受けている。
 まず北側の「城の内」であるが、南北に並んだ主郭群とニノ郭で構成されている。主郭群は、北西部の約1/3が前述の通り水路建設で改変されているが、それ以外は段々に曲輪群が残っている。西側や北端に物見台状の曲輪がそびえ、南東部が最も高所に位置し、主殿が置かれていたと考えられる。ニノ郭との間は直線状の巨大な二重堀切で分断され、特にニノ郭側の堀切は上総・安房方面に多い垂直絶壁切岸の深い堀切である。ニノ郭は西辺と南辺を土塁で囲まれた平場となっている。
 次に「城の内」から大きな谷戸を挟んで南に位置する「外城」であるが、本命寺の南にそびえる東西に長い丘陵に三ノ郭群が築かれ、その南西に四ノ郭群が配置されている。三ノ郭群は東側に物見台の曲輪群が築かれ、そこから南辺に沿って土塁が築かれている。三ノ郭の南下方には、横堀も築かれている。三ノ郭群と四ノ郭群の間は堀切で分断されているが、この辺は薮がひどく、踏査が大変である。四ノ郭群はいかにも外郭という感じの広大な曲輪群で、北東側の先端部は自然地形だが、上部の南西部は綺麗に削平された広い曲輪となっている。南東斜面には腰曲輪群が築かれているが、上部に櫓台を置き城道を兼ねた横堀で背面を防御した扇状地形の曲輪群となっている。四ノ郭で出色なのは、南端の外周部に穿たれた横堀で、幾重にも屈曲して横矢の掛かった、比較的規模の大きな堀で厳重に防御されている。ここはいかにも北条的な部分である。この横堀の西端はそのまま竪堀となって斜面を降っているが、竪堀の先に土塁で囲まれた扇型の腰曲輪が築かれており、ちょっと珍しい形をしている。横堀の外の白幡神社までが城域だったらしく、この付近にも幾つもの平場が確認できる。
 大崎城は、当初は「城の内」部分だけで構成されていたものが、北条氏支配時代に拡張され、新たに「外城」部分が追加されたことが遺構を見ても明確にわかる。用水路による改変以外は遺構がよく残っており、特に四ノ郭の横堀は見事である。また垂直切岸の大堀切や一城別郭構造など、遠く離れた千本城との類似点も垣間見られ、興味深い。
主郭二重堀切の1本目→IMG_5133.JPG
IMG_5140.JPG←主郭二重堀切の2本目
三ノ郭の物見台曲輪群→IMG_5611.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.871399/140.488230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鴇崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5037.JPG←大きな主郭堀切
 鴇崎城は、千葉氏の庶流大須賀氏の一族鴇崎氏の居城と言われている。別説では、鎌倉中期以前は大須賀氏がこの地を領し、その後は同じ千葉一族の国分氏が領したとも言われる。その他の城の歴史は不明である。

 鴇崎城は、大須賀川西岸の標高29.1m、比高24mの台地先端部に築かれた城である。南端にひしゃげた長円形の主郭を置き、その北にニノ郭、三ノ郭を配置し、三ノ郭の東に「新館」と呼ばれる四ノ郭を配置している。主郭は外周に腰曲輪を廻らし、南に虎口、北から東にかけて土塁を築いている。主郭内は畑となっている。ニノ郭との間は大規模な二重堀切で分断されているが、2本目は埋もれているのかかなり浅くなっており、鋭さもない。ニノ郭は山林となっているが、内部に謎の土壇があり、何かの塚(古墳?)の様である。ニノ郭と三ノ郭の間も屈曲した堀切で分断され、堀底道となっている。三ノ郭は藪がひどく、冬場でも踏査はできない。三ノ郭の西側には鴇崎氏の奥津城がある。一方、三ノ郭と四ノ郭の間も堀底道の通る堀切で分断されている。四ノ郭も薮で踏査不能であり、しかも東側は採土で破壊されている様である。遺構はよく残っており、特に主郭の堀切は規模が大きく見応えがある。尚、主郭への入口には現在解説板が立っている。
屈曲したニノ郭の堀切→IMG_5071.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.877972/140.438374/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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