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鑰掛城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9280.JPG←堀切と主郭切岸
 鑰(かぎ)掛城は、歴史不詳の城である。一説には三ノ倉城の詰城であったとも、また別説では相間川沿いに信濃に抜ける善光寺道と称する間道の押さえの砦であったとも推測されている。

 鑰掛城は、相間川の流れる渓谷の北にそびえる標高690m、比高140mの山上に築かれている。ここから烏川沿いの平地まで直線距離でも3km以上もあり、全く眺望も効かない奥地に立地している。相間川沿いの未舗装の林道(途中から未舗装)の先に城まで伸びる分岐の林道があり、そこを歩いて登っていけば城跡まで行くことができる。苦労はしないで済むが、残念ながらこの林道が城内を走っており、堀切や腰曲輪が破壊を受けてしまっている。基本的には尾根に沿って東西に曲輪を連ね、堀切で各曲輪を分断した連郭式の縄張りである。頂部に主郭があり、祠が数基散在している。土塁はなく、それほど大きな曲輪ではない。主郭の東には堀切を挟んで二ノ郭があり、二ノ郭の東にも先端の曲輪があるが、前述の林道が先端曲輪の基部を走っており、やや改変されている。基部の北側に竪堀が確認できる。また主郭の南にも5郭があるが、ここも林道が貫通している。主郭背後(西側)には堀切を挟んで数段に分かれた三ノ郭群があり、西端が最も高い曲輪となっている。その背後にも堀切・四ノ郭・堀切と続くが、ここの2本の堀切は林道を通すために掘り広げられてしまっている。大きな城ではなく、縄張りも比較的単純であるが、一定の籠城戦には堪えられる程度の普請はされていた様である。

 さて、集落もない寂れた間道の上にある鑰掛城は、一体何のために築かれたのだろうか?西股総生氏の『「城取り」の軍事学』という著書では、街道との関係では読み解けない場所にある城について、「敵に不本意な兵力運用を強要するための戦術拠点」との見方を示している。即ち、侵攻軍がわざわざ兵力を割いて、このように街道筋から外れた城を攻略せざるを得なくすることで、侵攻速度と兵力集中を遅らせる効果が期待できると推測している。鑰掛城もこうした役割を負っていたものだろうか?或いは、村人たちの逃げ込み城であった可能性も考えられる。鑰掛城は、街道から外れた奥地の城の役割を考察する上で好適な材料である。
林道で破壊された三ノ郭堀切→IMG_9306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.416534/138.752818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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