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三ノ倉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9219.JPG←土塁が築かれた主郭
 三ノ倉城は、栗崎城とも言い、大戸城(手子丸城)の支城である。木部氏か浦野氏(大戸氏)が築いたと推測されるが定かではない。三ノ倉地区は、室町期には木部氏の支配下にあり、麓の全透院は1489年に木部新九郎が開基しているので、この時には三ノ倉城が築かれていた可能性がある。その後、この地は大戸の浦野氏の支配下となり、その支城となったと推測される。北西にある権田城も浦野氏の一族が城主であった。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。その後、三ノ倉城には北条氏の家臣小笠原長範が入った。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となった。1600年の関ヶ原合戦の際、近正は伏見城の守備に就いて、鳥居元忠と共に西軍の攻撃を受けて討死した。近正の子・一生は、父の軍功によって一万石に加増され、下野国板橋へ転封となり、三ノ倉城は廃城となった。

 三ノ倉城は、標高460m、比高60m程の全透院の裏山に築かれている。小規模な城で、細長い長方形の主郭と、その周囲の1~2段の帯曲輪が遺構のほぼ全てである。主郭は、北東部に虎口を設け、北面以外の三方は土塁で防御している。帯曲輪は、東と南の2辺では2段築かれている。南の尾根には大手の段が見られ、城の背後に当たる西尾根には鞍部に堀切と、尾根上に小堀切1条が穿たれている。鞍部の堀切の外側には桝形虎口が築かれていた様である。又、全透院には居館があったとされる。
北条氏の支配を経て近世まで使われた城にしては、古い形態を留め、しかも規模も普請もささやかに過ぎ、歴史と城の縄張りがアンマッチである。山上の城はあくまで詰城で、基本的には山麓居館が城の本体として機能していたと思われる。
東側の2段の帯曲輪→IMG_9203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.419970/138.801913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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