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後閑城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8473.JPG←主郭北側の二重堀切
 後閑城は、信濃出身の依田忠政によって、嘉吉・文安年間(1441~49年)に築かれたと言われている。以後、約90年に渡って依田氏が城主であったが、1538年、孫の光慶の時に板鼻の鷹ノ巣城に移ったとされる。その後、北条政時が入城したが、1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略した。1559年、景純は武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。信純には3人の男子がいたらしく、1578年に長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去すると次男重政が後閑氏を継ぎ、3男信久は信玄の命で上条家を継いだ。1582年に武田氏が滅び、そのわずか3ヶ月後に織田信長の横死によって上野を支配していた滝川一益が没落すると、上野の大半は小田原北条氏の支配下に入り、信重は厩橋城主北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は北条氏に服属し、信久も後閑の姓に戻り、両後閑と称された。1584年、高広が北条氏直に降って大胡城に移ると、氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。1590年の小田原の役の際には、両後閑氏は小田原城に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の守将大道寺政繁の指揮下に入った。北条氏が滅亡すると、後閑氏も没落し、後閑城は廃城となった。
 尚、後閑信純・信久については、1569年の武田氏による駿河攻撃の際、信純・信久共に今川勢との戦いで討死し、信久の子真純が後閑氏を継いだと言う説もある様だ。いずれにしても後閑氏については、その出自も含めて謎が多い。

 後閑城は、後閑川の東岸に張り出した、標高277m、比高87mの山上に築かれている。城跡は大半が城址公園となっているが、適度な公園化で改変は限定的で、全体に遺構がよく残っている。山頂の主郭を中心に、西・南・南東・東・北の各尾根に曲輪群を配して防御を固めている。まず主郭の東直下には東郭が築かれ、そこから南東に大堀切を挟んで南東尾根に配された二ノ郭群がある。ニノ郭は大型の櫓台があり、ニノ郭先端には小堀切が穿たれ、更に曲輪群が数段続いている。一方、主郭の西側には大型の3段の曲輪で構成された西郭群が築かれ、更にその下方の竹薮の中にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群には残念ながら、軽のバンやたくさんのタイヤが不法投棄されている。西第3郭から南尾根に向かって腰曲輪が伸び、南郭の大堀切に繋がっている。南郭も最上段の平場の他に、西から南にかけて広い平場が広がっている。主郭の北には大きな二重堀切が穿たれ、その北に北郭が築かれている。北郭の西斜面には5段程の曲輪が段々に築かれ、両側を堀切から落ちる大竪堀で分断している。また前述の二重堀切の中間土塁からは、竪堀に沿って竪土塁が落ちている。北郭の北に堀切を介して北尾根の外郭があり、先端に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、東郭の下方に東郭群があり、段曲輪が数段築かれている。
 以上が後閑城の縄張りで、西郭群の下段部と北尾根の外郭以外は全体的に隅々まで薮が伐採されてきれいに整備されている。城址公園と言うと得てして整備しすぎて返って遺構を損壊してしまうことが少なくないが、ここでは節度を持った公園化により、先端の段曲輪群などは薮払いされているが、歩道を無理に作っていないので遺構がよく残っている。妙義山や浅間山などの眺望も素晴らしく、良好で見やすい遺構と相まって素晴らしい城である。
3段の広大な西郭群→IMG_8508.JPG
IMG_8411.JPG←東郭群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329717/138.841760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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