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上川田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9627.JPG←主郭の堀切
 上川田城は、沼田城主沼田氏の支城である。その歴史には諸説あり、沼田景家が築城し、その後は発知氏が居城とした(『日本城郭大系』)とも、或いは沼田氏3代景盛の子三郎景宗が発知城に分家して発知氏を称し、その弟兵部為時が上川田城を築いた(「発智兵部左金吾平為時の墓」の解説板)とも言われている。いずれにしても、沼田氏の一族が築き、後には同じ沼田一族の発知氏の居城となったという点では共通している。天正年間(1573~92年)には、発知氏は沼田に進出した真田昌幸に属して、北上してきた小田原北条氏の軍勢と戦っている。

 上川田城は、利根川西岸の比高50m程の段丘上に築かれている。東先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一列に並べ、主郭の南側には南郭を置いた縄張りとなっている。主郭と南郭との間には空堀が穿たれ、薮がひどいが堀底に降りると堀の東端部は規模が大きいことがわかる。主郭は外周に一段低く帯曲輪を廻らし、東端部に一段低く腰曲輪を置いている。主郭の西側には、二ノ郭との間を分断する深い堀切が穿たれているが、北半分しか残っていない。ニノ郭も西側に三ノ郭との間の堀切がわずかに残るが、これも北半分しか残っていない。三ノ郭は宅地になっており、改変されている。この他、南郭から北に上る道の脇に土塁らしきものが見られ、虎口の土塁であった可能性がある。上川田城は、広い城域で遺構も部分的によく残るが、多くが耕作放棄地となっており全体に薮がひどい。特に主郭先端や主郭の堀切付近は激薮で糖鎖が大変である。史跡として整備してくれるとよいのだが・・・。
虎口の土塁?→IMG_9645.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.649639/139.015718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


読む年表 利根沼田の歴史

読む年表 利根沼田の歴史

  • 作者: 金子蘆城
  • 出版社/メーカー: 上毛新聞社 出版部
  • 発売日: 2016/11/24
  • メディア: 単行本


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川田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9533.JPG←主郭
 川田城は、下川田城とも言い、沼田城主沼田氏の庶流川田氏の居城である。沼田氏系図によれば、沼田景久の子、景信が川田氏を称したのが始まりとされ、その後、信光・信清・光清・光行と続いたとされる。1552年の小田原北条氏による沼田進攻により川田氏は滅亡したと考えられている。その後、天文年間以降は山名義季が城主であったが、1582年に武田勝頼・織田信長が相次いで滅びると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野の大半が北条氏の勢力下となった。そして北条氏が中山城を築いて拠点化すると、川田衆に動揺が走り、北条方へ離反する者が増えた責めを負って山名氏は沼田へ移され、替わって禰津幸直が城主となった。沼田城の西の守りとして、北上州を押さえる真田氏と、上州の完全制圧を目指す北条勢氏との間での激戦地となり、山名主水(義季の子)ほか地侍が多く討死にした。1590年に北条氏が滅亡すると、真田信幸が沼田城主となり、一領国一城により廃城となったと言う。

 川田城は、利根川西岸の比高20m程の段丘上に築かれている。主郭は民家の裏にあり、訪城にはこのお宅の許可が必要だが、解説板が立っているぐらいなので、声掛けすれば快く了解頂ける。五角形の主郭の周囲に空堀を巡らし、更に帯曲輪を築き、東には半月形の小郭を置いている。しかし北辺以外の主郭空堀はかなり湮滅しており、主郭の南も東もわずかな段差しか残っていない。北側の堀・帯曲輪はよく残るが、薮がひどくて形状把握が困難である。西側は堀跡がややはっきり残っている様である。激戦が行われたとは信じられないほど小規模で単純な城であるが、それでも戦国期の歴史に名を残している。
 尚、東の小郭に建つ薬師堂の奥には、戦国後期の沼田・吾妻の歴史を綴った『加沢記』の著者、加沢平次左衛門の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631767/139.031446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ダイアプレス
  • 発売日: 2014/10/30
  • メディア: ムック



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権田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9445.JPG←主郭背後の空堀
 権田城は、大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守の居城である。伝承によれば、当初は権田淡路守の居城であったとされる。その後、大戸氏の支配となり大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守が城主となった。1564年頃、武田氏の家臣真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、大戸城主大戸真楽斎と権田城主大戸但馬守は幸隆に降伏し、人質を出して武田氏に降った。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となり、権田城もその支配下となったと考えられる。

 権田城は、烏川の北岸、鉄火集落背後の標高556mの丘陵上に築かれている。最高所に方形の主郭を置き、その前後を空堀で分断し、南に伸びる斜面に沿って段々に曲輪を築いている。城内はほとんど畑となっているため、遺構の細部が失われているので、城域は明確ではない。『境目の山城と館 上野編』によれば概ね5つの曲輪で構成され、主郭から先端の5郭までの東側に大きな空堀が穿たれて、鉄火集落側との分断を図っている。南端付近の曲輪は耕作放棄地となっていて、深い薮に埋もれている。権田城は、緩斜地を利用した城で、要害性よりも居住性・当地拠点としての機能を優先した城だった様である。縄張りとしては少々面白みに欠ける。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447989/138.776615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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大明神山の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9436.JPG←主郭下方の2本の円弧状堀切
 大明神山の砦は、駒形城とも呼ばれ、歴史不詳の城砦である。確証はないが、吾妻を領有していた真田昌幸が、1582年から始まった小田原北条氏の侵攻に備えて築いたものと考えられている。烏川を望む断崖の上にあり、烽火台としても利用されたと言う。戦国時代には麓に浅間寺があり、そこの修験者達がこの城の烽火師を務めたと伝えられる。隣接する天狗山の砦と併せて、別城一郭を為している。

 大明神山の砦は、標高570m、比高80mの山上に築かれている。山麓に浅間神社があり、その裏から遊歩道が整備されているので訪城はたやすい。小規模な城ではあるが、天狗山の砦よりも一回り大きく、普請も徹底されている。頂部の主郭には西と南に土塁が築かれ、主郭の南西には合計4本の堀切が穿たれている。1本目は、主郭の下方を南から西側まで横堀となって廻らされている。2本目は南西尾根に円弧状に穿たれており、1本目との間に馬蹄形のニノ郭を置いて、堀底への防御陣地としている。2本目の更に外側に穿たれた2本の堀切は、間に方形の小郭を置いているが、堀切はいずれも浅い。また1本目と2本目の堀切の東端部は腰曲輪となり、浅間神社から伸びる大手道を防衛する曲輪群として機能している。この他、主郭の北側下方にも小郭が置かれている様である。
 標高は低いが烏川沿いの街道監視に好適な大明神山の砦は、天狗山の砦より大型で防御も固い。天狗山の砦はより高所にあるが小規模であり、大明神山の砦の情報をより遠方に伝達する烽火台として機能したのであろう。両者の機能の違いがその縄張りから推測できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.444986/138.768632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田幸綱・昌幸・信幸・信繁―戦国を生き抜いた真田氏三代の歴史

真田幸綱・昌幸・信幸・信繁―戦国を生き抜いた真田氏三代の歴史

  • 作者: 柴辻 俊六
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2015/11
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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天狗山の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9339.JPG←二ノ郭と主郭
 天狗山の砦は、歴史不詳の城砦である。確証はないが、吾妻を領有していた真田昌幸が、1582年から始まった小田原北条氏の侵攻に備えて築いたものと考えられている。隣接する大明神山の砦と併せて、別城一郭を為している。
 天狗山の砦は、標高600m、比高120mの山上に築かれている。主郭に角落山権現社が祀られているため山麓から参道があるとされるが、実際には参道とは名ばかりで、急な尾根筋の直登で階段もなく、わずかな踏み跡だけしかない。苦労して尾根を登っていくと、標高570m付近で東尾根の緩斜地となり、大手の曲輪であったと考えられる。更に登っていくと、数段の腰曲輪の先に主郭がそびえているのが見えてくる。主郭は三角形の曲輪で、周囲に低土塁を築き、更に外周に帯曲輪を廻らしている。主郭南西には二ノ郭が置かれ、小堀切で南西の尾根を区画している。その先は自然地形の尾根である。遺構としてはこれだけで、極めて簡素な城砦である。標高は低いが烏川沿いの街道監視に好適な大明神山の砦が、より大型で防御が固いのに対して、天狗山の砦はその規模・構造から考えて岩櫃城方面への烽火台として機能したのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.440032/138.767281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

  • 作者: マコト出版
  • 出版社/メーカー: マコト出版
  • 発売日: 2016/08/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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鑰掛城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9280.JPG←堀切と主郭切岸
 鑰(かぎ)掛城は、歴史不詳の城である。一説には三ノ倉城の詰城であったとも、また別説では相間川沿いに信濃に抜ける善光寺道と称する間道の押さえの砦であったとも推測されている。

 鑰掛城は、相間川の流れる渓谷の北にそびえる標高690m、比高140mの山上に築かれている。ここから烏川沿いの平地まで直線距離でも3km以上もあり、全く眺望も効かない奥地に立地している。相間川沿いの未舗装の林道(途中から未舗装)の先に城まで伸びる分岐の林道があり、そこを歩いて登っていけば城跡まで行くことができる。苦労はしないで済むが、残念ながらこの林道が城内を走っており、堀切や腰曲輪が破壊を受けてしまっている。基本的には尾根に沿って東西に曲輪を連ね、堀切で各曲輪を分断した連郭式の縄張りである。頂部に主郭があり、祠が数基散在している。土塁はなく、それほど大きな曲輪ではない。主郭の東には堀切を挟んで二ノ郭があり、二ノ郭の東にも先端の曲輪があるが、前述の林道が先端曲輪の基部を走っており、やや改変されている。基部の北側に竪堀が確認できる。また主郭の南にも5郭があるが、ここも林道が貫通している。主郭背後(西側)には堀切を挟んで数段に分かれた三ノ郭群があり、西端が最も高い曲輪となっている。その背後にも堀切・四ノ郭・堀切と続くが、ここの2本の堀切は林道を通すために掘り広げられてしまっている。大きな城ではなく、縄張りも比較的単純であるが、一定の籠城戦には堪えられる程度の普請はされていた様である。

 さて、集落もない寂れた間道の上にある鑰掛城は、一体何のために築かれたのだろうか?西股総生氏の『「城取り」の軍事学』という著書では、街道との関係では読み解けない場所にある城について、「敵に不本意な兵力運用を強要するための戦術拠点」との見方を示している。即ち、侵攻軍がわざわざ兵力を割いて、このように街道筋から外れた城を攻略せざるを得なくすることで、侵攻速度と兵力集中を遅らせる効果が期待できると推測している。鑰掛城もこうした役割を負っていたものだろうか?或いは、村人たちの逃げ込み城であった可能性も考えられる。鑰掛城は、街道から外れた奥地の城の役割を考察する上で好適な材料である。
林道で破壊された三ノ郭堀切→IMG_9306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.416534/138.752818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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三ノ倉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9219.JPG←土塁が築かれた主郭
 三ノ倉城は、栗崎城とも言い、大戸城(手子丸城)の支城である。木部氏か浦野氏(大戸氏)が築いたと推測されるが定かではない。三ノ倉地区は、室町期には木部氏の支配下にあり、麓の全透院は1489年に木部新九郎が開基しているので、この時には三ノ倉城が築かれていた可能性がある。その後、この地は大戸の浦野氏の支配下となり、その支城となったと推測される。北西にある権田城も浦野氏の一族が城主であった。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。その後、三ノ倉城には北条氏の家臣小笠原長範が入った。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となった。1600年の関ヶ原合戦の際、近正は伏見城の守備に就いて、鳥居元忠と共に西軍の攻撃を受けて討死した。近正の子・一生は、父の軍功によって一万石に加増され、下野国板橋へ転封となり、三ノ倉城は廃城となった。

 三ノ倉城は、標高460m、比高60m程の全透院の裏山に築かれている。小規模な城で、細長い長方形の主郭と、その周囲の1~2段の帯曲輪が遺構のほぼ全てである。主郭は、北東部に虎口を設け、北面以外の三方は土塁で防御している。帯曲輪は、東と南の2辺では2段築かれている。南の尾根には大手の段が見られ、城の背後に当たる西尾根には鞍部に堀切と、尾根上に小堀切1条が穿たれている。鞍部の堀切の外側には桝形虎口が築かれていた様である。又、全透院には居館があったとされる。
北条氏の支配を経て近世まで使われた城にしては、古い形態を留め、しかも規模も普請もささやかに過ぎ、歴史と城の縄張りがアンマッチである。山上の城はあくまで詰城で、基本的には山麓居館が城の本体として機能していたと思われる。
東側の2段の帯曲輪→IMG_9203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.419970/138.801913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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原城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9129.JPG←豪快な円弧状の二重空堀
 原城は、戦国後期にこの地の土豪長壁道観が、賓将の斎藤半兵衛竜政と共に築いた城と伝えられている。竜政は、美濃の蝮と恐れられた美濃の戦国大名、斎藤道三の末流とされるが、確かなことは不明。どのような経緯でいつ頃この地に移って来たかもよくわからないが、この付近の斎度原は、元亀年間(1570~73年)に竜政の提唱によって開拓されたと伝えられることから、1567年に織田信長によって美濃が攻略されて斎藤竜興が没落した際に、上野に逃れてきたものであろうか?その他の原城の歴史については、不明である。

 原城は、標高428mの段丘西縁部に築かれている。台地から大きな空堀で分断された、南北に細長い独立堡塁を主郭としている。主郭とは言うものの、郭内は傾斜し、居住性はほとんど無い。また東の畑となっている外郭(中屋敷の地名が残る)の南西部に、円弧状に土塁が伸び、その南側にも大空堀が穿たれて、大型の円弧状二重空掘となっている。中間土塁の西端部も小さな独立堡塁となっており、背後を土塁で防御している。この他、外郭(中屋敷)の北辺には土塁が僅かに残り、その北側は水路が流れる堀となっており、主郭の北側まで掘り切られている。小規模な城ではあるが豪快な二重空堀があり、見応えがある。縄張りも特異で、貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.401959/138.828285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)

斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)

  • 作者: 横山住雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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松山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9072.JPG←堀切と二ノ郭
 松山城は、1582年に小田原北条氏の家臣上田信善(信義)によって新造された城である。時に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、権力の空白地帯となった上野国は北条氏の勢力下に入った。しかし吾妻郡には依然として真田昌幸が独立勢力として割拠し、北条氏の上野全域制圧にとって目の上のたんこぶとなっていた。そこで武州松山城主上田安独斎朝直の子、信善にこの城を築かせ、吾妻真田領の大戸城・岩櫃城攻略の足掛かりとしたと言う。しかし北条氏は真田方の頑強な抵抗に遭い、岩櫃城を攻略できないまま1590年の小田原の役を迎えることとなった。前田・上杉連合軍による北国勢が来襲し、松山城は無血開城したと言う。尚、松山城の名は上田氏の本拠であった武州松山城に由来している。

 松山城は、滑川北岸の標高265m、比高50m程の山上に築かれている。北条方が真田攻撃の橋頭堡とした城にしては、コンパクトで簡素な縄張りの城となっている。金比羅神社の鎮座する山頂が主郭で、堀切を挟んで東側にあるのが二ノ郭である。堀切の南側は二ノ郭に入る桝形虎口となっている。主郭・二ノ郭の南斜面から東を回って北斜面まで、段々に腰曲輪群が築かれており、下野皆川城の様な縄張りである。南東尾根の段曲輪基部には堀切も穿たれている。松山城の築かれた山と北の山地とを結ぶ尾根鞍部はほとんど自然地形のままであるが、西斜面に二重竪堀が落ちている。
 縄張りとしては以上で、大した技巧性もなく大きな城でもない。しかし、北条氏は堅固な鷹留城を敢えて使わずに簡素な城砦である松山城をわざわざ新たに築いて利用したのである。宮坂氏も指摘している通り、鷹留城では街道(=軍道)から奥まっているため軍勢の集結に不便で、積極的な攻勢に出るに当たっては適さなかったことが考えられよう。この城は、戦国期の作戦面での城の使い方を考察する上で格好の材料を提供してくれている。
北斜面の腰曲輪→IMG_9043.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.388366/138.884976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


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上里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8996.JPG←墓地裏の堀跡
 上里見城は、歴史不詳の城である。一説には里見義時の本拠の要害城であったとも言われるが、確証はない。里見義時は南北朝期の武将とされ、1349年に吾妻に進攻して吾妻太郎行盛を討ったが、1357年に新田義宗の味方をして上杉憲顕によって滅ぼされたと言われる。しかし里見義時なる武将の実在は確認されておらず、詳細は不明である。但し、里見氏の一族の者が南北朝期にこの地に拠っていたことは十分あり得る話で、上里見城も里見氏関連の城であった可能性がある。
 上里見城は、烏川南方の丘陵中腹にあり、街道を見下ろす要地にある。北方には松山城鷹留城が良く見える。城跡は墓地や畑となってかなり改変されており、あまり城跡らしさを感じられないが、墓地の北側は窪地になっており、堀跡であるらしい。そのほかは明確な遺構はなく、段々になった平場が曲輪と推測されるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.376722/138.885448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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雉郷城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8935.JPG←主郭の堀切
 雉郷城は、伝承等不明の城である。箕輪城主長野業政に属した里見河内守が築城したと言われ、里見城の詰城であったともされる。いずれにしても鷹留城防衛の重要拠点かつ最前線で、1566年の武田信玄による箕輪城攻撃の際、雉郷・里見両城は武田勢の先鋒によって真っ先に攻略されたと言われている。

 雉郷城は、烏川南方に秋間地区との間に横たわる山稜上の標高373.7mの峰に築かれている。城の北中腹まで車道が通っており、登道も付いているので簡単に登ることができる。車道の通っている北の広幅の尾根も城域で、道路の北側は最下段の曲輪で現在は堆肥置き場となり、道路の南側は3段程に分かれた梅林となっている。その上には中央に虎口を設けた小さな土塁があり、その先を登っていくと主城部に至る。基本的には東西に伸びる山稜上に曲輪を連ね、それぞれ堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭…と連ね、東端は6郭となる。主郭の北側下方には7郭があり、前面に堀切が穿たれている。7郭から竪堀を挟んで東に腰曲輪が長く伸び、その東端は二ノ郭~三ノ郭間の堀切が竪堀となって腰曲輪を貫通して落ちている。その西側には竪堀道から登る桝形虎口が形成され、下段の腰曲輪に通じている。前述の堀切から落ちた竪堀が腰曲輪を貫通している部分は、雰囲気が朝日山城によく似ており、武田氏による改修の可能性も考えられる。雉郷城は、標柱や解説板など城を示すものはないが、遺構がよく残る上、城内は薮払いされてきれいに整備されている。地主さんに感謝!である。
竪堀道から登る桝形虎口→IMG_8974.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.360688/138.894439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


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里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8847.JPG←主郭東側の堀切
 里見城は、戦国期にこの地を領した里見氏の居城である。永禄年間(1558~70年)頃に里見河内守が箕輪城主長野業政に属して、この城を築いたらしい。河内守は、安房里見氏の一族であったとも言われるが、系譜は不明。一説には、河内守の名は宗義、その父は里見家連と言い、家連は東上州の仁田山城主であったが上杉謙信に城を攻められ討死し、子の宗義はこの地に逃れて里見城を築いたとも言われる。いずれにしても1566年、里見城は箕輪城落城に先立って武田勢の攻撃を受け、落城したとされる。
 尚、里見城の築城には別説があり、新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に分封されて里見氏を称し、里見城を築いたとも言われるが、確証はない。

 里見城は、里見川南岸の標高180m、比高30mの丘陵先端部に築かれている。西端に主郭があり、東側に土塁と堀切を築いて台地基部を分断している。主郭内には廃屋があり、城址標柱と解説板が立っている。主郭の南辺には高さ数mの土塁が築かれ、その下には腰曲輪が築かれている。この他、主郭の東側の平場も曲輪であったと思われるが、耕地化で改変されているので、どこまでが城域だったのかはよくわからない。里見城は、主郭部の遺構はよく残っているものの、単純かつささやかなもので、小土豪の城であったと推測される。それを考えると、里見河内の出自(安房里見氏の出)というのも、少々怪しげに思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.359410/138.914695/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

  • 作者: 小高春雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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神戸の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8822.JPG←高台となった戸榛名神社境内
 神戸の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。戸榛名神社の社人桜沢伊賀守が守っていた。箕輪城の第2の防衛線が、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦という烏川北岸の段丘崖に沿ったラインに構築されていたとされる。1566年の武田信玄による箕輪城・鷹留城攻撃の際、桜沢氏は武田勢に降伏したが、社殿は焼き払われ砦は廃されたと言う。
 神戸の砦は、烏川北岸の標高210m、比高55mの段丘上に築かれている。戸榛名神社の社殿を中心とした平地が砦跡であったらしいが、周囲は一面の耕作放棄地で、深い薮に覆われて全く旧状がわからない。戸榛名神社のところだけ高台となっており、基本的には神社を武装化した簡素な砦であったと思われる。言われない限り、ここが砦跡とは誰もわからないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375167/138.916991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高浜の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8800.JPG←北側の堀切
 高浜の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。守将は匂坂常陸介長信と伝えられる。長野氏の防衛の最前線は、雉郷城を中核とした中核とした秋間境の山嶺に置き、第2の防衛線を烏川北岸の段丘崖に沿った、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦のラインに置かれていたとされる。1566年に始まった武田信玄の箕輪城攻撃は、前哨戦としてまず雉郷城を、次いで高浜の砦への奇襲から開始された。安中・松井田両城を攻略した信玄は、箕輪・鷹留両城間の防衛線を分断するため、那波無理之助宗安に高浜の砦への奇襲を命じた。宗安は、秋間の諸城に次いで雉郷城を突破して里見城に達し、更に烏川を渡河して不意に高浜の砦を攻撃した。時に守将匂坂長信は箕輪城にあって不在であり、小勢の砦は陥落した。宗安は砦に火を放って白岩へ進撃したが、箕輪から出撃した安藤九郎左衛門勝道と交戦し、激戦の末に勝道を討ち取ったが、続いて駆けつけた青柳金王・下田大膳らの援軍に敗れて退却した。翌日午後、武田勢の飯富・小宮山両氏の部隊が白岩に進出したことで箕輪・鷹留両城は分断され、孤立した鷹留城は落城した。この後、箕輪城を攻略し長野業盛を滅ぼした信玄は、高浜の砦に木暮但馬守を守将として配置したと言う。

 高浜の砦は、烏川北岸の標高180m、比高30mの段丘上に築かれている。西側は高浜川に削られた急崖に面しており、要害地形であることがよく分かる。砦内部は耕地と民家になっており、かなり改変されているため、内部がどの様な構造になっていたのかは現状からではわかりにくい。しかし北側の竹林の中には北辺の土塁と堀切がよく残っている。この堀切は、東半分は民家・畑となってほとんど湮滅しているが、僅かな窪地となっており、堀の名残を残している。また砦の東側を通る県道137号線は、かつての東の堀跡を通っており、道路の東側は低地となっている。以上が遺構の現状であるが、高浜の砦は要害地形とは言うものの、郭内はだだっ広い平場が広がっており、これだけ広いとある程度の兵数を籠めないと到底守りきれないだろう。箕輪・鷹留両城の間の防衛線であったと同時に、兵站拠点でもあったものだろうか。この砦の役割について少々考えさせられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368533/138.925231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

  • 作者: 近藤 義雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2010/12
  • メディア: 単行本


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第六天の森の墓[伝・阿野全成墓](栃木県益子町) [その他の史跡巡り]

IMG_8756.JPG←祠と2基の五輪塔
 宇都宮氏歴代の墓所から北西に900m程の段丘先端部に、第六天の森の墓というものがある。これは、源頼朝の異母弟、阿野全成とその従者の墓と伝えられている。全成の事績については、阿野館の項に記載する。1203年、全成は2代将軍頼家の命により謀反の咎で幕府に捕らえられ、常陸国に配流となり、下野国で誅殺された。全成が殺されたのが、この第六天の森であったとの言い伝えがある。
 第六天の森は、南の車道から農地の脇の小道を通って行くことができる。小さな森の入口に「大六天の森」と書かれた看板が立ち、その奥に祠と2基の小さな五輪塔が並んでいる。地元だけに伝わるささやかな伝承であるが、頼朝死後に相次いだ権力抗争の中で、非業の死を遂げた貴種の墓としては、このように人知れず静かに祀られている方が幸せなのかもしれない。
第六天の森→IMG_8754.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.456912/140.130014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


源頼朝 (中世武士選書38)

源頼朝 (中世武士選書38)

  • 作者: 菱沼一憲
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:墓所
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尾羽氏館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8741.JPG←地蔵院に残る土塁
 尾羽氏館は、宇都宮氏の家臣で紀清両党の一翼を担った重臣益子氏の庶流尾羽氏の居館である。宇都宮氏3代朝綱は、公田横領の罪で土佐に配流されたが、後に許された。帰国後、朝綱は家督を孫の頼綱に譲ってこの地に隠棲し、尾羽寺を建立して宇都宮家の菩提寺とし、歴代の墓所を造営した。また隣地に土佐の加茂神社を勧請し、綱神社を創建したと伝えられる。尾羽氏は、宇都宮氏墓所の管理を任された一族だったらしい。
 尾羽氏館は、位置が特定されているわけではないが、一説には現在の地蔵院に境内にあったとされる。地蔵院は周囲より5m程高くなった地勢で、北側には大土塁が残っている。裏の綱神社参道から見上げると、確かに大土塁と切岸である。尚この地には、前述の通り綱神社や宇都宮氏歴代の墓所があり、中世宇都宮氏の余映を色濃く残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.450716/140.138898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0&d=v


中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

  • 作者: 市村 高男
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2013/11/07
  • メディア: 単行本


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内出城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8529.JPG←宅地の中にわずかに残る堀跡
 内出城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では秋間地域城の核堡とし、吉良氏・飽間氏の居城であったとしている。即ち、奥州探題であった吉良治家は、鎌倉公方足利基氏に召還されて関東に入り、1356~65年頃に上野国碓氷郡飽間郷に移って、内出城に拠ったとされる。これは、飽間郷には新田義宗の挙兵に応じた南朝方の飽間三郎が勢力を持っていたため、基氏は飽間氏に対抗させるため吉良氏を内出城に入れたというものである。治家の孫の頼氏が世田谷城を築いて飽間を去るまで内出城が吉良氏の本拠で、その後は茶臼山城の飽間氏が内出城に移って居城とし、明応年間(1492~1501年)に飽間氏が讃岐国丸亀城に移ると廃城になったとされる。しかし、足利一門の中でも家格の高い吉良氏の居城としては内出城はあまりに小さすぎ、『安中市史』の伝承には無理があるように思う。又、「地域城」と言う概念にも私は懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。

 内出城は、久保川北岸の比高30m程の段丘上に築かれている。この付近に長野新幹線の安中榛名駅ができたため、大々的に宅地造成され、城址一帯は住宅地に変貌してしまっている。従って遺構はほとんど残っていないが、地勢は往時のままで、各所の段差や腰曲輪状の平場など、城の雰囲気が良く残っている。北東部にはわずかに堀跡も残っている。また南斜面の切岸と畑になった腰曲輪も遺構の様である。ささやかではあるが城の名残が感じられるのは良かった。解説板でもあれば更に良かったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355150/138.850772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=v


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世平山城
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後閑城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8473.JPG←主郭北側の二重堀切
 後閑城は、信濃出身の依田忠政によって、嘉吉・文安年間(1441~49年)に築かれたと言われている。以後、約90年に渡って依田氏が城主であったが、1538年、孫の光慶の時に板鼻の鷹ノ巣城に移ったとされる。その後、北条政時が入城したが、1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略した。1559年、景純は武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。信純には3人の男子がいたらしく、1578年に長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去すると次男重政が後閑氏を継ぎ、3男信久は信玄の命で上条家を継いだ。1582年に武田氏が滅び、そのわずか3ヶ月後に織田信長の横死によって上野を支配していた滝川一益が没落すると、上野の大半は小田原北条氏の支配下に入り、信重は厩橋城主北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は北条氏に服属し、信久も後閑の姓に戻り、両後閑と称された。1584年、高広が北条氏直に降って大胡城に移ると、氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。1590年の小田原の役の際には、両後閑氏は小田原城に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の守将大道寺政繁の指揮下に入った。北条氏が滅亡すると、後閑氏も没落し、後閑城は廃城となった。
 尚、後閑信純・信久については、1569年の武田氏による駿河攻撃の際、信純・信久共に今川勢との戦いで討死し、信久の子真純が後閑氏を継いだと言う説もある様だ。いずれにしても後閑氏については、その出自も含めて謎が多い。

 後閑城は、後閑川の東岸に張り出した、標高277m、比高87mの山上に築かれている。城跡は大半が城址公園となっているが、適度な公園化で改変は限定的で、全体に遺構がよく残っている。山頂の主郭を中心に、西・南・南東・東・北の各尾根に曲輪群を配して防御を固めている。まず主郭の東直下には東郭が築かれ、そこから南東に大堀切を挟んで南東尾根に配された二ノ郭群がある。ニノ郭は大型の櫓台があり、ニノ郭先端には小堀切が穿たれ、更に曲輪群が数段続いている。一方、主郭の西側には大型の3段の曲輪で構成された西郭群が築かれ、更にその下方の竹薮の中にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群には残念ながら、軽のバンやたくさんのタイヤが不法投棄されている。西第3郭から南尾根に向かって腰曲輪が伸び、南郭の大堀切に繋がっている。南郭も最上段の平場の他に、西から南にかけて広い平場が広がっている。主郭の北には大きな二重堀切が穿たれ、その北に北郭が築かれている。北郭の西斜面には5段程の曲輪が段々に築かれ、両側を堀切から落ちる大竪堀で分断している。また前述の二重堀切の中間土塁からは、竪堀に沿って竪土塁が落ちている。北郭の北に堀切を介して北尾根の外郭があり、先端に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、東郭の下方に東郭群があり、段曲輪が数段築かれている。
 以上が後閑城の縄張りで、西郭群の下段部と北尾根の外郭以外は全体的に隅々まで薮が伐採されてきれいに整備されている。城址公園と言うと得てして整備しすぎて返って遺構を損壊してしまうことが少なくないが、ここでは節度を持った公園化により、先端の段曲輪群などは薮払いされているが、歩道を無理に作っていないので遺構がよく残っている。妙義山や浅間山などの眺望も素晴らしく、良好で見やすい遺構と相まって素晴らしい城である。
3段の広大な西郭群→IMG_8508.JPG
IMG_8411.JPG←東郭群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329717/138.841760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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