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白井城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2788.JPG←主郭虎口の石垣
 白井城は、関東管領山内上杉氏の重臣、白井長尾氏の居城である。南北朝期の1337年に鎌倉府の執事であった上杉憲顕が上野・越後両国の守護となると、長尾景忠が守護代を務め、上野に入部したとされる。しかし当初から白井に本拠を置いていたわけではなく、白井城が築城されたのは室町中期の景仲の代であったと考えられている。景仲は山内上杉氏の家宰を務め、享徳の大乱では山内上杉氏の主力として活躍した。景仲の孫景春は、主君山内上杉顕定が家宰職を景春の叔父の総社長尾忠景に継がせたことに反発し、鉢形城を築いて挙兵した(長尾景春の乱)。景春の攻撃によって、古河公方勢に対する上杉氏の五十子陣は崩壊し、この後数年に渡って景春と扇谷上杉氏の家宰太田道灌との間で関東平野を広範に巻き込んだ戦闘が繰り広げられた。この間顕定の兄、越後上杉定昌は白井城に本陣を移した。一時期、道灌も白井城に来城したらしく、主郭虎口に残る石垣は道灌の指導で築かれたとの伝承がある。4年に渡る反乱が鎮定されると白井城は再び白井長尾氏の本拠となったが、山内上杉氏と越後上杉氏との連絡を担う重要拠点として機能し、度々山内上杉氏も白井城に本陣を置いた。戦国時代に入ると、山内上杉憲政は北条氏康に駆逐され、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。謙信が関東に出馬すると、白井長尾氏は謙信に従った。その後、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。徳川家康が関東に入部すると、白井城は家臣の本多広孝に与えられた。1624年に本多氏が無嗣除封となると、白井城は廃城となった。

 白井城は、利根川と吾妻川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。南端から笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭・北郭・外郭を配置し、更に主城部の南東の低地に南郭・新曲輪を築いていた。遺構は、低地の曲輪や外郭は湮滅しているが、それ以外の北郭までの部分はかなり明瞭に残っている。特に主郭と笹曲輪は城址公園として整備されている。笹曲輪先端には櫓台が築かれている。主郭外周には土塁が全周し、北側の二ノ郭との間には大きな堀切が穿たれている。中央に土橋が掛かり、右方は塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の虎口は大型の枡形虎口となっていて、前述の通り石垣が残っている。二ノ郭との間の堀切は、塁線の折れに伴ってL字状に折れているが、現地解説板ではこれを三日月堀と称している。しかし実際はL字に折れているだけであり、三日月堀でも何でもない。飯山城のところでも書いたが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは悪しき風習である。二ノ郭から北郭までは畑となっているが、堀跡は良く残っている。土塁は北郭の虎口脇だけ残っており、城山不動尊が建てられているのが櫓台跡であろう。この他、主郭から三ノ郭にかけての東斜面に横堀と帯曲輪が延々と築かれ、二ノ郭の堀切との合流点には土橋も掛けられている。遺構は以上であるが、外郭の東と北の堀跡の木戸跡に北遠構・東遠構の石碑が建っている。広範に遺構が残り、規模も大きく、しかも草枯れにはまだ早い初秋の時期でも整備が行き届いており素晴らしい。選地や城の構造・規模は大庭城とよく似ている。いずれも印象に残る名城である。
主郭のL字の堀切→IMG_2848.JPG
IMG_2857.JPG←主郭東斜面の横堀・帯曲輪
ニノ郭の空堀→IMG_2978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.508808/139.010546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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