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真壁城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2602.JPG←主郭周囲の土塁
 真壁城は、白井城の支城である。白井長尾氏の重臣神谷三河守が城主であったと伝えられる。八崎城の繋城として築かれ、暫く上杉謙信の勢力下にあったが、御館の乱の後は武田氏に属し、武田氏滅亡後は北条氏の支配下に置かれ、1590年の小田原の役で白井城と共に落城した。

 真壁城は、利根川東岸のなだらかな丘陵頂部に築かれた単郭の城である。城と言うより砦と言う方が適している。南のゲートボール場から薮をかき分けて行くと、すぐに主郭に至る。主郭は東西に横矢の掛かった土塁で囲まれており、周囲は空堀で囲繞されている。横矢掛かりの部分では、土塁のクランクも明瞭にわかる。しかし丘陵上の遺構はそれだけで、周りは緩斜面で囲まれているだけである。昭和20年代の航空写真を見ても、周囲に特に遺構らしいものは確認できないので、恒久的な城と言うよりは臨時的な陣城や物資の備蓄基地の色彩が強いように感じられる。尚、東麓の根古屋部分は南に向かって三角形に張り出しており、台地基部に空堀が穿たれているようだが、薮もあり民家の裏にあることもあって、車道脇から除くぐらいしかできなかった。真壁城は、要害地形にあるとは言えず、往時にどのように使われたのか興味深い城である。
 ちなみに帰ってからネットを調べたら、主郭には「立入禁止」の看板が立っていたらしい。私が訪城した時は見当たらなかったが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.469691/139.036424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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剣城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2580.JPG←畑に残る段差
 剣城は、文治年間(1185-90)に比企氏の館として創築されたと伝えられる。戦国初期には長尾景俊が在城したとされる。その他の歴史は不明である。
 剣城は、かつては上越線の線路の西側に堀で囲まれた方形に近い曲輪があったと言うが、現在は遺構は完全に隠滅している。僅かに南東隅部だけ畑の中に切岸跡の段差と、東側に堀の名残と思われる水路があるだけである。それでも手製の城址標柱が建ち、踏切や架線に剣城の名が記されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.457775/139.019880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


長尾景仲 (中世武士選書26)

長尾景仲 (中世武士選書26)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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桃井城(群馬県吉岡町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2541.JPG←北出曲輪周囲の土塁
 桃井城は、南北朝時代の武将桃井播磨守直常の居城であったと伝えられている。桃井氏は足利一門で、鎌倉時代にはここを本貫地として居住していたとされる。直常は当初は新田義貞に従って鎌倉攻めに参陣したが、後には足利氏に従った。『太平記』によれば、将軍足利尊氏の執事として絶大な権勢を誇った高師直に戦功を無視されたため、徹底的な反尊氏派・反師直派となったとされる。その後、尊氏の弟直義に従い、石堂頼房と並んで直義党の最強硬派で、尊氏との和睦に徹底して反対し、観応の擾乱で尊氏方と激しく干戈を交えた。勇猛な武将ではあったが、その振る舞いには『太平記』や今川了俊の『難太平記』などに批判的な記事も見られる。長らく越中守護であったため、弟の直和と共に越中を拠点としていたが、直義やその養子直冬(実は尊氏の庶子)が敗退して観応の擾乱が収束すると、消息を絶った。一説には、故地の上野国に戻り、榛東村播磨に隠棲したとも言われる。

 桃井城は、標高247.5m、比高30m程の丘陵上に築かれている。近代になってから農地開放で耕地化されたとのことで、城内は大きく改変されている。現在は、給水設備が建つ他、整備途上の公園となっている。山頂には主郭があったと思われるが、ここもかなり改変が見られる。北東の北出曲輪の周囲にだけ土塁が残っている。その外周には横堀があったらしいが、今は歩道が舗装されて堀跡らしさは消えてしまっている。尚、城跡から東方約600mの所に、直常夫妻の墓と伝えられる桃井塚がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439341/138.996470/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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柏原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2488.JPG←外郭に建つ温泉施設
 柏原城は、白井城の支城である。1509年、白井城主長尾景春が上杉憲房の攻撃を受けて、柏原城に逃れ、翌年白井城を復したと言う。1573年、白井城主長尾憲景は、武田信玄の死去に乗じて柏原城を攻め、守将湯本左京進・植栗河内を駆逐し、吉里・野村・飯塚・福島らの諸士を置いた。1580年、岩櫃城代海野幸光が柏原城を攻略したが、1589年には北条氏麾下の白井勢が柏原城を押さえていたらしい。

 柏原城は、吾妻川南岸の段丘先端部に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図では二の郭の先に堀切で分断された主郭があり、更にその先に笹曲輪が置かれ、名胡桃城と似たような構造であったらしい。しかし現在は台地端部は削られて改変されている他、台地基部に広がる外郭部にも「根古屋乃湯」と言う温泉施設が建っており、大きく変貌してしまっている。従って、遺構は望むべくもない。僅かに温泉の名前にだけ、城の痕跡を留めるだけの悲しい状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547415/138.944585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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植栗城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2464.JPG←主郭西側の堀跡
 植栗城は、この地の土豪植栗氏の居城である。岩櫃城を築いた吾妻太郎の一族とも言われる。応仁年間(1467~69年)には植栗安芸守が城主で、1468年に植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れたと言う。永享の乱の前後より斎藤氏の庶流大野氏の勢威が宗家を凌ぎ、岩櫃城に入城して吾妻郡を支配した。大野憲直は、植栗河内守元吉と諍いを起こし、同族の岩下城主斎藤憲次に植栗氏討伐を命じたが、憲次は返って大野氏に反逆し、岩櫃城を急襲して大野氏を滅ぼした。憲次はそのまま岩櫃城主となって吾妻郡を支配し、元吉は憲次に従った。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃したが、この時植栗安房守元信は斎藤方として戦った。斎藤氏没落後、植栗氏は真田氏に従った様で、長篠合戦では植栗河内が手傷を負ったと言う。

 植栗城は、吾妻川南岸の段丘辺縁部に築かれている。畑地の中に三角形の主郭が一段高く残っている。主郭西側には堀跡が低地となって残っている。主郭南側は一面の水田になっているが、外郭があった可能性がある。その他には遺構はなく、ほぼ単郭の小規模な城である。主郭に城址標柱が立ち、主郭から南東にやや離れて植栗安芸守の石碑が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578661/138.865471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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吾妻城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2437.JPG←城跡の現況
 吾妻城は、岩櫃城の支城と伝えられている。当初は北条氏が築いて、伊豆を本領とする家臣の狩野和泉守が在城したが、後に真田氏に降った。沼田真田氏が改易になると帰農し、剣持氏に改姓したと言われる。

 吾妻城は、吾妻川の支流枯木沢川の北岸の台地に築かれている。小規模な城砦で、しかも城跡はほとんど民家に変貌し、地勢は残っているもののほとんど遺構を残していない。現在も剣持氏宗家が住む部分は「オクリ」の屋号が残り、それより上段の部分の屋号は「オカタ」と言い、「お館」の転訛の可能性があると言う。また、ここより北西にある諏訪神社付近は高台となり、「中城」の地名が残り、ここにも城があった様である。物見の様に民家が建ち、いかにも城跡らしい雰囲気が残っているが、余りに規模が小さく、どのように機能していたのか推測するのは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585312/138.839121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


タグ:中世平山城
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小城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2428.JPG←笹曲輪らしい平場
 小城は、北条氏と武田氏による争奪の場となった境目の城である。天正年間(1573~92年)初頭に白井城の出城として築かれたと伝えられる。武田方の部将真田昌幸が支配する岩櫃城と、北条方が支配する白井城との間にあって、激しい攻防が繰り広げられた。『吾妻記』によれば、1580年12月、北条方の尻高摂津守・同庄次郎ら140~50人が立て籠る小城を、真田昌幸の家臣池田佐渡守・海野郷左衛門ら200余騎が夜襲を掛け、摂津守は深手を負って自刃し、庄次郎は白井城に逃れて、城を奪われた。1589年12月、岩井堂の砦を抜いて進撃してきた北条方の白井勢に対し、この城を守っていた武田方の蟻川入道・桑原大蔵らが迎え撃ち、飯塚小六郎を撃ち取って撃退した。翌1590年2月、白井方の神庭三河・飯塚大学が蟻川入道を追い出して城を占領したが、同2月20日頃、岩櫃方の小渕次郎右衛門・一場茂右衛門は10人計で夜討ちを掛け、城を奪還したと言われる。
 但し、1589年12月以降の時期は既に豊臣秀吉から北条討伐の宣戦布告がされ、北条領国全体が秀吉の大軍の来襲に備えて軍備を固めていた時期であり、この様な小競り合いをしている余裕はなかったはずで、これらの伝承には疑問がある。

 小城は、吾妻川北岸の段丘東端に築かれている。往時は空堀で囲まれた方形の主郭とその北側に広がる二の郭が築かれていたが、現在は城の主要部は宅地化されて遺構はほぼ完全に隠滅している。東側先端には古城公園があり、先端が一段低い平場となっていて、往時の笹曲輪であった名残りと思われる。公園の西の道路は空堀跡の様にも見えるが、果たしてどうであろうか?公園の名前に城の名が付いているものの解説板もなく、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584123/138.860192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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並木城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2389.JPG←主郭周囲の切岸・腰曲輪
 並木城は、長尾尻高氏の居城尻高城の内、平時の居館として築いた里城に当たる。1401年に白井城主長尾重国(景春)の家臣が築城し、2年後に完成すると、重国の3男重儀が城主となり尻高左馬頭を称した。以後、尻高・大塚・平・赤坂・市城までの2024石を領して勢威を誇ったが、戦国後期になると上杉・北条・武田3大名の三つ巴の抗争の狭間にあって苦難を続けた。この頃、吾妻郡では岩櫃城主斎藤氏が最大の勢力を持ち、長尾尻高氏も斎藤氏に属していたが、1563年に武田信玄の命で真田幸隆が上州に侵攻し、岩櫃城・嵩山城を攻め落として斎藤氏を滅ぼした。尻高氏は一時的に武田氏に降ったが、間もなく上杉方に転じて反抗し、1574年に幸隆の攻撃によって尻高城は落城した。この時、城主尻高左馬介景家は討死したとされる。1578年に謙信の急死でその後継を争う「御館の乱」が越後で勃発すると、上杉景虎(北条氏康の7男)支援のため北条勢は越後へ進軍し、尻高左馬介義隆は北条方に付いて猿ヶ京城を守った。しかし1580年に武田勝頼の部将真田昌幸配下の海野輝幸に攻略され、尻高氏は滅亡した。

 並木城は、本宿地区にある比高10m程の段丘上に築かれている。現在郭内は畑に変貌しており、平場以外に明確な遺構を見出すことはできない。段丘辺縁部の南辺と東辺には一段低く腰曲輪・武者走りがあり、主郭の周囲は切岸となっている。民家脇の畑には堀切跡の様なわずかに低い畑があるが、はっきりしない。いずれにしても、古い形態の段丘上の居館であった様だ。南西の登り口に解説板・標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619592/138.898773/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)

守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)

  • 作者: 三池 純正
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2009/05/02
  • メディア: 新書


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猿ヶ京城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2163.JPG←横矢の掛かる主郭の大空堀
 猿ヶ京城は、宮野城とも言い、関東に出馬した上杉謙信に所縁の城である。築城年代は不明であるが、1560年に謙信は宮野城に一泊し、吉夢を見て宮野を猿ヶ京に改めたという伝説がある。古文書では1570年の謙信から家臣の栗林政頼宛の書状に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出とされる。その後、1578年の謙信の急死でその後継を争う「御館の乱」が勃発し、上杉景虎(北条氏康の7男)支援のため、北条勢は越後へ進軍し、途中の猿ヶ京城を支配下に置いた。しかし1580年に武田勝頼の部将真田昌幸配下の海野輝幸に攻撃され、北条方の城将尻高左馬介義隆は降伏した。以後、真田氏が領主となり、武田氏の持城となった。武田氏滅亡後も真田氏がそのまま城を維持して北条氏に対抗した。廃城時期は不明。江戸後期の寛政年間(1789~1801年)に徳川幕府は三国街道の猿ヶ京関所を設置した。戦国時代から江戸時代まで、猿ヶ京は関東と日本海側の境界を守る要衝であり続けた。

 猿ヶ京城は、赤谷湖北岸に突き出た台地上に築かれている。しかし赤谷湖は戦後の人工湖なので、往時は湖はなく、谷戸に突き出た断崖上の城であった。三角形の台地を2つの堀切で分断した縄張りで、南端が主郭、北側に二の郭を配置している。主郭には現在湖城閣というホテルが建っている。主郭内部は2段に分かれており、そのままの地勢でホテルの温泉施設が建てられている。主郭北側には立派な土塁と大空堀が残り、この堀切は東側では横矢の屈曲が見られる。二ノ郭は民家などが建っており、中を探索することは不可能だが、遠目に土塁が辛うじて分かる。また張出し櫓台跡と思われる土壇上に民家が建っている。私は今回、湖城閣に宿泊したので、遠慮なく主郭内を歩かせてもらったが、そうでない人はホテルの方に断ってから探索して欲しい。また猿ヶ京は温泉でも有名で、湖城閣で入った夕闇の露天風呂は、折しも煌々と輝く月が湖面に映え、美しい光景だった。もしかしたら謙信もこんな景色を眺めたのだろうかと思うと(当時は湖がなかったにしても)、なんとも感慨深かった。
西斜面に落ちる主郭大空堀→IMG_2173.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.722873/138.888216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上杉謙信 (シリーズ・実像に迫る14)

上杉謙信 (シリーズ・実像に迫る14)

  • 作者: 石渡洋平
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/12/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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【重要!!】国土地理院地図のリンク切れのお知らせ [日記]

いつも当ブログをご愛読いただきありがとうございます。

当ブログの古城めぐりのページでは、
記事の最後に場所を国土地理院地図のリンクで明示してあるのですが、
ちょっと古い記事だと地図のドメインが、「cyberjapan.jp」となっています。
(現在のドメインは「maps.gsi.go.jp」です。)

今月4日で、この「cyberjapan.jp」が運用停止となってしまったため、
2014年7月以前の記事では、地図リンクのリンク切れが発生しています。
現在、時間を見つけて鋭意修正中ですが、
修正が完了するまで暫くの間ご迷惑をお掛けすることとなりますので、
ご了承ください。


尚、未修正のリンクで、下記の方法で手入力でアドレスを変更すると、
現在の「maps.gsi.go.jp」ドメインでの地図が表示されますので、
お試しください。

(例)http://cyberjapan.jp/?lat=35.641111&lon=140.452954&z=16&did=std&crs=1
       ↓
   手入力で、赤字の部分を下記の通り修正。
   https://maps.gsi.go.jp/#16/35.641111/140.452954&z=16&did=std&crs=1
   リンクを修正後にEnterキーを押すと、地図が表示されます。


【2019-4-5更新】
cyberjapan.jpのリンク切れの修正が完了しました。
今後とも引き続きご愛顧のほど宜しくお願い致します。
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森下城(群馬県昭和町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2138.JPG←主郭付近の現況
 森下城は、沼田城を防衛する城砦群の一である。後に真田氏、北条氏によって前衛の砦として利用された。1582年、鉢形城主北条氏邦に攻められ、守将の加藤丹波守が奮戦、自刃したと伝えられている。
 森下城は、片品川南岸の段丘上に築かれている。東にそびえる断崖上に築かれた阿岨城と異なり、低地の川縁に位置している。阿岨城とは指呼の間にあり、このことから断崖上を押さえる阿岨城と一対となって、片品川の渡河点を扼していたと推測される。現在は畑の中に城址標柱と解説板が立っている。周りには段差が残っており、『日本城郭大系』の縄張図では主郭の周りに堀を廻らした環郭式の城であった様だが、縄張りは正直言ってよくわからない。この城も阿岨城と同じく、片品川によって城の中心部が削られてしまっている様である。尚、東北東400m程の民家脇に城将の加藤丹波守の腹切り石と言うものが残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.623347/139.053655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

  • 作者: マコト出版
  • 出版社/メーカー: マコト出版
  • 発売日: 2016/08/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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阿岨城(群馬県昭和村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2118.JPG←主郭周囲の堀跡
 阿岨城は、阿曾の砦とも呼ばれ、沼田城を防衛する城砦群の一である。現地解説板によれば、1573年に沼田城主沼田万亀斎(顕泰)は愛妾・ゆのみの兄・金子美濃守にこの城を与えた。その後、1582年に鉢形城主北条氏邦が長井坂城、阿岨城、森下城を次々に攻略した際、阿岨城は北条の兵3000騎に夜討ちされ、金子美濃守は騎馬もろとも谷を滑り落ち、沼田城へ逃れたと伝えられていると言う。

 阿岨城は、片品川東岸にそびえる比高150m程の台地辺縁部に築かれている。堀跡がよく残り、綺麗に整備されているので、夏でも訪城可能である。小規模な主郭の周囲に堀を廻らし、その外周にニノ郭を配し、その周りにも堀を廻らしていた様だが、ニノ郭は耕地化で一部を残して湮滅している。また城域の北西側半分ほどが、段丘崖の崩落で失われている様で、主郭は中途半端な形をしている。伝承では、北条方の沼田城攻撃の拠点の一つとなっていた様なので、往時はもっと異なる姿を見せていたのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.626498/139.066079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


読む年表 利根沼田の歴史

読む年表 利根沼田の歴史

  • 作者: 金子蘆城
  • 出版社/メーカー: 上毛新聞社 出版部
  • 発売日: 2016/11/24
  • メディア: 単行本


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幕岩城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1936.JPG←三ノ郭の空堀跡
 幕岩城は、沼田氏の沼田城以前の居城である。沼田氏は最初は荘田城を本拠としていたが、1405年頃に小沢城に居城を移し、更に1519年に沼田泰輝が幕岩城を築いて本拠を移した。以後、1544年に泰輝の子顕泰が沼田城を築いて居城を移すまで、沼田氏の本城となった。

 幕岩城は、沼田城と同じ沼田台地の北の突出部に築かれている。沼田城と同様に比高50m以上の断崖で囲まれている。直線的な空堀で区画された主郭・ニノ郭・三ノ郭で構成され、北端の断崖沿いに主郭がある。現在城内は民家や畑が並び、遺構の大半は失われているが、戦後の航空写真では堀跡がはっきりと残っている。主郭先端は空き地となり、土塁と窪地状の地形が見られる。そこには墓が多数建っているが、誰のものかはよくわからない。卵塔があるので寺があったものの様である。二ノ郭入口は車道がクランクしており、虎口の名残であろう。その東側に掘跡が残っている。ちなみにニノ郭の堀は、この虎口の西側で大きく横矢掛かりの屈曲があったが、現在は宅地に変貌して湮滅している。三ノ郭の堀も一部が明確な窪地となっており、分かりやすい。三ノ郭内の宅地跡(現在は空き地)の門跡に、個人で立てた「幕岩城二の丸跡」と刻まれた丸い石碑が残るが、実際は三ノ郭内に当たる。この他、主郭の北東の断崖下に「殿様清水」という湧水も残る。尚、どこかに城の解説板があるらしいが、見つけることができなかった。もっと遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.655630/139.048247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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寄居山城(群馬県片品村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1850.JPG←公園化された主郭
 寄居山城は、歴史不詳の城である。鎌田集落の西端に位置する比高10m程の小丘に築かれている。片品川に面した断崖上の小山で、現在は公園化されて大きく改変されており、明確な遺構はほとんど見られない。公園頂部は2段の平場に分かれているが、元々は単郭の城で周囲に腰曲輪が廻らされていただけらしいので、公園化の際にかなり改変を受けていると思われる。西には断崖に面した細尾根があるが、城砦の一部として機能していたのかどうかははっきりしない。結局、「寄居」という城郭関連地名を残すことだけが城があったことを伝えているだけである。鎌田宿入口を押さえる、関所的な砦であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.769727/139.224801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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福山城(広島県福山市) [古城めぐり(広島)]

IMG_1473.JPG←御湯殿と伏見櫓
 福山城は、江戸時代前期に新規築城された近世城郭である。元和の一国一城令後の1619年から築城が開始され1622年に完成した、近世初頭の大規模新造城郭では最後の城である。1619年に広島城主福島正則が武家諸法度違反で改易となると、徳川譜代の大名で家康の従兄弟であった水野勝成が、西国の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」の任を受けてこの地に入部した。入封時の本城は神辺城であったが、内陸に偏し落城の歴史もあったことから、福山城が新造されたと言う。以後、水野家が5代続いた後に無嗣断絶となり、松平家1代の後、阿部家10代の居城となった。幕末には老中首座となって幕政改革を推し進めた阿部正弘を輩出した。明治維新後の廃城令で城は廃された。

 福山城は、総石垣の城で、本丸の周囲に環郭式に二ノ丸を廻らし、更にその周囲に三ノ丸を廻らした縄張りとなっている。しかしJR福山駅の目の前にある為、市街化で全ての堀跡は失われ、残っているのは中心となる本丸・二ノ丸部分だけである。石垣がよく残る他、伏見城から移築された伏見櫓と筋鉄御門が現存している。また天守・御湯殿・月見櫓・鐘櫓が復元されている。それら以外の櫓台や門跡には残念ながら解説板・標柱はほとんど設置されていない。2009年頃でも駅前整備の発掘調査で地下から見つかった舟入遺構を破壊して、整備計画が強行されており(申し訳程度の復元石垣が作られたが)、市の文化財としての扱いは相当にぞんざいである感じがする。結局、本丸・二ノ丸の石垣と櫓群だけが異彩を放っているものの、城の外郭の全体像は完全に埋没してしまっている。100名城に選ばれているにしては、かなり残念な状況と言わざるを得ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.490464/133.361106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)

日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: 単行本


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稲荷山城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1259.JPG←頂部の主郭跡
 稲荷山城は、勝間反の砦とも言い、本能寺の変の後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」で徳川方が取り立てた城である。1582年、徳川家康は佐久の平定を依田信蕃に命じ、更に同年8月柴田康忠を援軍として佐久に派遣し、中信諸将を集めて勝間反の砦を基地とし、築城の名手松平家忠に城の修築をさせた。徳川方の津金衆は、ここを基地として北条勢を岩崎砦で撃ち破った。1585年には、家康は真田昌幸の拠る上田城を攻撃したが敗退し、この城へ引き上げた。1590年、前山城で討死した伴野刑部の子や相木常林が挙兵した時には、討伐に出た小諸城主松平康国(信蕃の子)が稲荷山城で陣容を整えて相木へ向かったと言う。

 稲荷山城は、千曲川西岸の比高40m程の独立丘陵に築かれている。現在城跡の大半は稲荷山公園に変貌し、その他の部分も宅地などになっており、堀は埋められているなど遺構の大半が失われている。ただ地勢は健在で、公園頂部に建つコスモタワーからは、周囲の眺望に優れる地であることがよくわかる。遺構としては、曲輪跡の平場と切岸らしい地形が見られる程度で、縄張図を見ながらでないと、往時の城の姿を想像することも難しい。きちんと城址公園として整備されなかったことが悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.192374/138.482537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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田ノ口館(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1226.JPG←田口城下の蕃松院
 田ノ口館は、田口城の山麓居館である。田口城を築いた田口氏が当初の館主であった。天文年間の末に田口氏が武田氏の佐久侵攻によって滅びると、武田氏の家臣相木常林が館主となった。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、権力の空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川・上杉による争奪戦が始まった(天正壬午の乱)。信長の重臣であった滝川一益を神流川合戦で撃破して上州を席巻した北条氏直が、碓氷峠を越えて佐久に進軍すると、佐久の国人衆は相次いで北条氏に臣従し、相木氏も北条氏に服属した。一方、徳川家康の元で織田方による武田遺臣狩りから匿われていた依田信蕃は、家康の命で佐久に戻り武田家の旧臣達を徳川方に付ける工作を始めていたが、佐久に侵攻してきた北条の大軍の前に衆寡敵せず、三澤小屋に籠城した。その後、徳川方の援軍を得て、新府城に拠る徳川方と対峙する若神子城の北条勢の後方を脅かし続けた。真田昌幸が徳川方に寝返って、佐久の国人衆が徳川方に付くようになると、信蕃は佐久の平定を押し進め、相木氏は田口城を放棄し、北条氏を頼って上州に逃亡した。その後、信蕃は春日城を奪還し、前山城に移り、更に田口城に入って城下に田ノ口館を構え、家臣を招いて祝宴を張ったと言う。その後、信蕃に抵抗する土豪達が大井氏の岩尾城に終結したため、信蕃はこれを攻撃したが難戦となり、実弟信幸と共に敵の銃撃を受けて討死した。その子康国は小諸城と松平姓を家康から与えられ、父の菩提を弔う為に館跡に接して蕃松院を創建した。

 田ノ口館は、前述の通り蕃松院が建っている。田口城の南麓に位置し、前面は石垣が築かれた立派な構えで、見るからに居館を置くに相応しい場所である。しかし明確な遺構ははっきりせず、どこまで往時の形を残しているかは不明である。寺の裏から田口城への登道があるが、盛夏なので登城しなかった。いずれ田口城に登る時に再訪することになるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.199179/138.503137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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龍岡城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1159.JPG←稜堡式の水堀の屈曲
 龍岡城は、函館五稜郭と並ぶ幕末の稜堡式城郭である。三河奥殿藩は、信州佐久郡に12000石、三河に4000石の所領を持ち、宝永年間(1704~11年)以来、本拠を三河に置いていた。奥殿藩大給松平家最後の藩主となった松平乗謨(のりかた)は、1862年の参勤交代の緩和を機に、三河奥殿の城地の狭さと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に、幕府の許可を得て本拠を佐久郡田野口村に移し、田野口藩と改名した。乗謨は、20歳代であったが学才識見に優れ、蘭学・フランス語にも精通した開明的な人物で、幕府の若年寄・陸軍奉行・老中格・陸軍総裁に就任した逸材で、他藩に先駆けてフランス式の兵制を採用していた。新城郭の建造にあたっては、17世紀フランスの築城家ヴォーバン元帥の考案した稜堡式城塞を採用し、1863年に縄張りを開始し、1867年に竣工した。しかし大給松平家は城を持つ資格のない「陣屋格」であったため、天守閣などの防備施設を建造することができず、政務と藩主住居を兼ねた御殿と台所、陣屋住み藩士の小屋、番屋、太鼓楼、火薬庫などが城内に建てられたが、既に幕末の動乱が世を覆っていて、堀などは全周しておらず未完の城となった。また乗謨は、明治元年に大給恒と改名し、佐野常民と共に日本赤十字社の前身博愛社を創設した。

 龍岡城は、函館五稜郭と比べればかなり小型の城で、外周の堀や石垣もその気になれば簡単に乗り越えられそうな規模である。そもそも城の北側至近に田口城が築かれていた山があり、そこに砲台を築かれたら軍事的には全くの無力で、何のために築いたのか意味不明である。現地で入手したパンフレットには、「この星型稜堡を有する五稜郭は、(中略)山から遠く離れた平野の真ん中にあってこそ、その機能を十分に発揮できる平城」で、「乗謨の洋学知識では十分わかっていたはずなので、この築城は生涯に一度の夢を託したものであったといえる」とある。幕末の世情不穏な中、藩主の趣味で城などに大金を注ぎ込まれたら、家臣・領民としてはたまったものではないと思うのだが、怨嗟の的になったわけでもなく遺構は綺麗に残されている。前述の水堀・石垣の他、城内外周は土塁が残り、その他の現存遺構として城内に台所の建物や、城から少し北に離れて桝形石垣が残っている。また新海三社神社の近くの民家には、移築門が残っているが、なんとここには移築塀まで残っている!移築門はどこでもよくあるが、移築塀と言うのは初めてである。日本城郭史学会の方から「移築塀っていうのもあるんですよ」とは聞いていたが、これかぁ!と感嘆した。
珍しくも貴重な移築塀→IMG_1145.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.196010/138.501388/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

  • 作者: 八幡 和郎
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:近世平城
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鷹ノ巣城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1065.JPG←主郭と物見のあった大崩山
 鷹ノ巣城は、関東管領山内上杉氏の家臣小幡三河守貞政の居城と伝えられている。築城は先代の三河守通家とされる。貞政は、関東管領兼上野守護の山内上杉氏に仕えてほとんど鷹ノ巣城を留守にしており、桜井丹後守を鷹ノ巣城代としてこれを守らせたと言う。鷹ノ巣城の西方の山上には大崩山物見があり、また東方1.6kmの山上に吉崎城を築いて鷹ノ巣城の防衛力強化を図ったとされる。尚、鷹ノ巣城主小幡氏と国峰城主小幡氏は同族とされ、三河守系(鷹ノ巣城主)と右衛門尉系(国峰城主)の二流に分かれて存在していたことが、細川勝元が出した書状から確認されており、右衛門尉系が嫡流とされていた様だ。1590年の北条氏滅亡後に廃城になったと言う。

 鷹ノ巣城は、南牧川と栗山川に挟まれた段丘上に築かれている。堀も土塁もない、単なる平場を主郭とし、その北と東に一段低い二ノ郭を廻らしていただけの構造であったらしい。主郭は「おくるわ」と呼ばれ、現在吉崎公園と保育園跡地となっている。二ノ郭は畑となっている。あまりに改変されて過ぎているので、どこまで往時の地形を残しているかもはっきりしないが、2つの川で防御された天然の要害という以上の城ではなかった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.206832/138.783256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世崖端城
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弥勒屋敷(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1021.JPG←畑地に残る堀切跡の窪地
 弥勒屋敷は、歴史不詳の城館である。弥勒寺跡であるためこの名が付いている。貫前神社の初期の神主尾崎氏の墓地が屋敷地内の土塁上にあることから、往時は尾崎氏が館を構えており、尾崎氏が衰退移転の後に弥勒寺が建立されたのではないかとの説もある。

 弥勒屋敷は、貫前神社のある独立丘陵の西端部に築かれている。現在屋敷地は一部が宅地に、大半が畑に変貌している。畑地となった平場の中には、3つの堀切跡と思われる窪地が見られる。また東側の堀切の前には、土塁があり、その上には前述の通り尾崎氏の墓地がある。一番東側が弥勒跡とされ、方形の高台となっている。わずかな遺構であるが、貫前神社の歴史を語る上では重要な地であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.253877/138.854946/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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一の宮氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0971.JPG←神社境内と分断する堀切
 一の宮氏館は、貫前神社の社人一の宮氏の居館である。初めは正神主の尾崎氏の居館であったらしいが、戦国初期に一の宮氏に替わったらしい。戦国後期に武田信玄が西上州を支配下に置くと、一の宮氏も武田氏に従い、武田氏滅亡後に北条氏が上州の大半を支配すると北条氏に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康に社領を安堵された。

 一の宮氏館は、貫前神社の東に続く独立丘陵の東端部に築かれている。神社境内とは堀切で分断され、更に堀切で区画された2~3の曲輪に分かれている様で、主要部には現在、市の社会教育館が建てられている。これは戦前の昭和11年、ちょうど日本全体が急速に右傾化していた時代に、「東国敬神道場」という愛国教育のために作られた施設で、陸軍特別大演習の巡察のために群馬県に昭和天皇(陸軍大元帥でもある)が行幸されたことを記念して作られた。現在は神道色・愛国色は薄められているものの、昭和の国家神道教育の名残を残している。もっと批判的側面を主張した歴史遺産として扱われるべきだが、そうした批判色が極めて薄いことには少々疑問を持たざるを得ない。ただ純粋に昭和初期の和式建築の遺構として見れば、細部の装飾等に見るべきものはある。一方、肝心の城館遺構は、教育館の渡り廊下部分に堀切が残り、北側には土塁も残る。その北側に横堀が穿たれているようだが、盛夏の訪館だったので薮で確認できなかった。東の一段低い山林内にも平場が続き、鎮塚という土壇が先端近くに残っている。その東側にも一段低い平場が見られる。近代の改変もあることから、城館遺構としてはあまり評価できないが、何より隣接する貫前神社の社殿が素晴らしい。この神社はちょっと変わっていて、鳥居の先の参門をくぐると、ずっと降った所に社殿が建っている。普通は門の先を登った所に社殿があるものだが、降った所にあるという神社形態としても貴重だろう。本殿も単層2階建の「貫前造」という独特の社殿形式と、雷神小窓と称する小窓が設置されており、これも貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.255071/138.859323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK)

一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2018/07/12
  • メディア: ムック


タグ:居館
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