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佐野堀之内館(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_0916.JPG←館跡に残る宝塔など
 佐野堀之内館は、普通には小島氏佐野館と呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏の一族の居館と考えられている。小島氏は南北朝期より須毛郷の地頭となり、宗家は須毛上郷の「菅の館」を本拠とし、文明年間(1469~87年)頃に景頼の弟景貞を下之郷(佐野)に分封した。1513年に須毛上郷の小島高盛は高梨氏へ反乱を企て、鎮圧されて滅亡した。しかし下之郷の分家は残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。その後、上杉氏の会津移封に伴いこの地を去った。
 尚、『信濃の山城と館8』では、小島氏がこの地に居していた確証がないことから「佐野堀之内館」の呼称を採用しており、当ブログでもそれに従った。

 佐野堀之内館は、現在果樹園となり、周囲より一段高くはなっているが、明確な遺構は残っていない。館跡とされる果樹園の中程に宝塔・五輪塔等が残っているだけである。果樹園への立ち入りの許可を頂いた際に伺った話では、ここから南東の土蔵のある家が佐野小島氏の本家で、かつては近くの興隆寺に行く時には駕籠に乗っていたという程の名家であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.736391/138.409292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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志久見館(内池館)(長野県栄村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0904.JPG←内池八幡社の祠と館跡の石碑
 志久見館は、内池館とも言い、この地を本拠とした市河氏の館であったと推測されている。市河氏は、元は甲斐国市川郷を本貫とする土豪で、鎌倉中期以降に中野氏から志久見郷を手に入れた。1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には、志久見郷地頭の市河助房の代官として市河助泰が参陣したことが、義貞の証判を得た着到状によって知られている。その後、南北朝期から室町期にかけて勢力を拡大した。戦国期には当主市川藤若(市河房幸)が武田氏に仕えた。市河氏は、武田氏が滅亡すると上杉氏に服属し、上杉氏が会津に移封となると、それに従ってこの地を離れた。

 志久見館は、平坦な台地上の中程に位置している。台地上は現在一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。僅かに内池八幡社の祠と館跡の石碑と解説板が立っているだけである。かつては土塁と堀で囲まれた2つの曲輪で構成されていたらしいが、往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.979089/138.581661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:居館
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平林館(長野県野沢温泉村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0891.JPG←北西辺の土塁
 平林館は、市河弥六経高及びその子孫の平林氏の居館である。元々は市河盛房・助房などの総領家が相伝していたが、南北朝期の1343年に平林村は総領家から一族の経高に譲られた。その後経高は南朝に属したため、1356年に北朝方の攻撃を受けた。その後時代は下って天正年間(1573~92年)には、平林蔵人がこの地に拠り、上杉景勝に服属していた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏もこの地を離れ、廃館となった。

 平林館は、千曲川南東の段丘上の小丘の上に築かれ、現在国中平神社の境内となっている。方形単郭居館で、現在も神社の周囲に土塁が残っている。野沢温泉村ではこれを「館城土塁」と称している。この土塁は、北西辺では二重土塁の様になっている。主郭の外周には一段低い平場が取り巻いており、腰曲輪となっていた様である。ささやかな遺構に過ぎないが、小丘頂部にあり城砦の雰囲気は残っている。尚、以前は境内に解説板があったらしいが、現在はなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.942363/138.432938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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柏尾館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0860.JPG←北東角の土塁・空堀跡
 柏尾館は、現地解説板では柏尾南館と表記され、高梨氏に関わる豪族の居館と考えられている。1392年の高梨朝高の史料に「柏尾郷」が高梨領と見え、高梨氏の支配領域となっていたことがわかる。また戦国期の記録には「柏尾ノ備中守殿」との記述があることから、この頃には高梨氏に関わる備中守と呼ばれた武士が居住していたと推測されている。戦国後期に甲斐武田氏の勢力がこの地域まで伸びてくると、高梨氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、高梨氏退転後は武田氏に服属した市河氏がこの地を支配した。武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、柏尾郷を含む北信4郡は上杉景勝が支配した。この武田氏支配時代から上杉氏支配時代にかけて柏尾館が存続していたかは不明である。いずれにしても1598年の上杉氏の会津移封後は廃館になっていたと考えられている。

 柏尾館は、千曲川東岸の緩斜面中腹に築かれた単郭方形居館である。現在郭内は農地となっているが、周囲には切岸・土塁が明瞭に残り、その外周の空堀はわずかに低い農地となって名残を留めている。農地化による改変があるものの、旧状をよく残しており、南西角には解説板も立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.909017/138.405837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名と国衆 (角川選書)

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  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
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タグ:居館
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大倉崎館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0840.JPG←外周の空堀
 大倉崎館は、上野の館跡とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。伝承では竹内源内の居館とも言うが、詳細は不明。昭和63年に常磐大橋建設の為に行われた発掘調査の結果、多数の貴重な陶磁器が見つかったことから、14~5世紀頃に有力な豪族の居館であったと推測されている。またその多くが火を受けて溶変し、焼土や炭も多量に見つかっていることから、戦火に遭った城館であるらしい。戦国後期の甲越両軍の抗争期に水運を扼する要害であった可能性もあるだろう。

 大倉崎館は、千曲川西岸に面した段丘端に築かれている。現在は南北に細長い長方形の城館となっているが、これは幾度もの氾濫で川岸が削られた為であろう。往時はもっと方形に近い形状であったと思われる。川に面した東側以外の三方を土塁と空堀で囲んだ構造で、中央部を東西に国道117号線が貫通して破壊を受けている。そのせいもあって、虎口は残っていない。北側半分だけは一応公園化されていて、辛うじて夏でも訪城は可能である。土塁と空堀は明瞭に残っているが、それ以外には目立った特徴のない、よくある単郭方形居館の一部である。それにしても貴重な遺構なのだから、全壊は免れたにしてもわざわざ遺構の中心に道路を建設しなくても良さそうなものだが、土建関係の役所の文化財に対する意識の低さはどうしようもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.902377/138.398026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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尾崎城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0820.JPG←水田地帯の中に建つ城址碑
 尾崎城は、1183年に泉小次郎親衡が築いたと伝承される城である。親衡の伝承は飯山城にも残っている。親衡は、1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れ、その子孫が尾崎氏を称したと言われている。泉重治の時、9人の子を分封して上倉氏・今清水氏・上境氏・大滝氏・中曽根氏・岩井氏・奈良沢氏の庶家とし、嫡流の尾崎氏と合わせて尾崎八家(或いは泉八家とも)と称された。永禄年間(1558~70年)には、武田氏の圧迫によって各家は上杉氏に服属し、外様十人衆となったとされる。その後、1598年に上杉氏が会津に移封となると、尾崎八家もこの地を離れたと言う。但し以上の歴史には不明点も多く、『信濃の山城と館 8』では尾崎城を泉氏の居城とすることに疑問を呈している。

 尾崎城は、広井川沿いの平地にあったらしいが、現在は一面の水田となっており、遺構は完全に湮滅している。川沿いにぽつんと城址碑と解説文を刻んだ石碑があるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.903440/138.371247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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タグ:中世平城
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中条館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0817.JPG←館跡の水田
 中条館は、中条城主今清水氏の居館である。今清水氏は、南北朝期頃にこの地に土着したと推測されている。戦国後期には上杉氏に属し、飯山城の守りに就くこともあったが、富倉峠・北峠・平丸峠の守備のために中条城を守り、「たての内(中条館)」に居住していたと推測されている。1598年に上杉氏が会津に移封となると、今清水氏も会津に移ったと言う。
 中条館は、中条城の南麓に広がる傾斜地中腹に位置している。館跡とされる場所は、三方を切岸で囲まれた方形の高台となっているが、内部は水田に変貌しており、残念ながら地勢以外に見るべきものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.892321/138.352901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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タグ:居館
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飯山城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0731.JPG←本丸の石垣と枡形虎口
 飯山城は、上杉謙信が築いた北信と春日山城防衛の拠点である。元々は常岩牧一帯を所領とした小土豪の泉氏の居城であった。泉氏の祖は、鎌倉前期の1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れた泉小次郎親衡とも言われる。戦国中期に武田信玄が北信に侵攻すると、北信の土豪達は武田氏に降る者と抵抗して越後の上杉謙信を頼る者とに二分され、泉氏は上杉氏に属し、更に中野に勢力を誇った高梨政頼も武田氏の圧迫により飯山城に退去した。1561年の第4次川中島合戦の後、戦略に長けた信玄は奥信濃に深く侵入し、上杉方の防衛線は飯山付近を残すだけとなった。そこで1564年頃、謙信は武田氏の侵攻に備える重要拠点として飯山城を大改修し、また上杉氏の信濃出陣の拠点ともなった。その後、信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、上杉方は飯山城を死守した。その後、謙信が急死し、その後継を巡って御館の乱が起きると、武田勝頼は上杉景勝と同盟し、見返りとして飯山地方を割譲され、武田氏の属城となった。1582年に武田氏が滅亡すると北信4郡は織田信長の部将森長可に与えられ、飯山城も森氏の手勢が占拠したが、間もなく本能寺の変が起きて織田勢が信濃から撤退すると北信4郡は上杉景勝が占拠し、山口城主であった家臣岩井備中守信能を城代に任じて本格的な整備を行った。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封になると、岩井氏も会津に移った。その後は、江戸時代を通して関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多と多くの大名が相次いで城主となり、幕末まで存続した。

 飯山城は、千曲川西岸の標高340m、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。城内は公園化されているので、夏でも訪城可能である。丘陵全体を城塞化した城で、この地域では矢筒城の縄張りに類似している。南東端の丘陵頂部に本丸を置き、その北側に切岸だけで区画された二ノ丸・三ノ丸を連ね、西側には帯曲輪と2段に分かれた西曲輪を置き、三ノ丸の北側にも外郭を築いている。城内に堀切はないが、北中門から三ノ丸に至る城内通路は横堀を兼ねており、通路外側には大きな土塁が築かれている。また城全体を囲んで水堀が廻らされていたらしい。この堀跡は湮滅が進んでいるが、東側と南側は低地となって名残を留めている。本丸の北辺にはしっかりした石垣が残り、大型の出枡形の虎口が構築され、この城の大きな特徴となっている。これらは近世初頭の構築と考えられている。二ノ丸の北辺には土塁が築かれ、三ノ丸からの動線はこの土塁を迂回してつけられている。三ノ丸と外郭との間にはL字型の水堀が穿たれていたが、現在はグラウンドに変貌して湮滅している。現地解説板には「三日月堀」とあり、江戸時代からの呼称と思われるが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは、「甲州流軍学」という架空の兵学に捕われた悪しき風習である。技巧性のある縄張りではなく、現在の姿からはそれほど要害性が高い城とも思われないが、往時は全周を水堀で囲まれ、多数の兵で防衛した屈指の要塞だったのだろう。甲越両軍の抗争を語る上で、避けては通れない城である。
三ノ丸西側の横堀兼用の通路→IMG_0688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856051/138.366483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
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中御所守護館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0609.JPG←館跡に建つ御所天満宮
 中御所守護館は、漆田館とも呼ばれる。1198年に源頼朝が善光寺に参詣した際の宿跡と言われ、またこの地の土豪漆田氏の居館であったと推測されている。また「中御所」と言う地名から、信濃守護小笠原氏の守護所かそれに関連した城館とする説もある。1400年の大塔合戦で守護小笠原長秀が敗退した後、その弟の政康は上杉禅秀の乱の討伐で軍功を挙げたことで再び信濃守護に補任され、中御所に守護所を置き、信濃国内を統一して権勢を誇った。1442年に政康が亡くなると、子の宗康と従兄弟の持長との間で家督争いになり、1446年、漆田原で両軍は激突した。この漆田合戦も守護館付近で行われたとされる。この戦いで、持長は守護館を攻め、宗康を滅ぼした。宗康滅亡後に守護館は廃され、持長は府中(現在の松本市)に移ったと言う。応仁・文明年間(1467~87年)には、この地を支配した漆田氏が砦を構えたとされる。漆田氏は秀興・秀豊・貞秀の3代が確認されており、往時は漆田城と呼ばれて栗田氏など周辺土豪層と抗争を繰り返す中で防備を固めていた様である。しかし3代の後の漆田氏の動向は不明であり、またこの漆田氏が鎌倉時代の漆田氏と同じ一族かどうかも不明である。

 中御所守護館は、JR長野駅から南に500m程の位置にある。この地域は近年区画整理されて大きく改変されており、元々市街化の波に飲まれて遺構は湮滅していたが、新興住宅街となっていて往時の雰囲気は微塵もない。館跡の北辺部に御所天満宮が鎮座し、その名にわずかに名残を留めているに過ぎない。尚、区画整理事業に伴う発掘調査で、堀や土塁が検出されている他、輸入陶磁器の破片などが見つかっていると、現地解説板に記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.639016/138.186775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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平林城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0604.JPG←城址の石碑と堀跡?の水路
 平林城は、歴史不詳の城である。永禄年間(1558~69年)に武田氏の重臣原美濃守の居城であったと言われるが、詳細は不明。近くの宝樹院には城主奥方の位牌が安置されているらしい。
 平林城は、現在城跡の大半がJR東日本長野総合車両センターの敷地となり、残りの部分も市街化で遺構は完全に湮滅している。わずかに堀跡の名残と思われる水路が、南辺に流れているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、周囲を堀で囲まれ、東西に長方形の2郭を並べた縄張りだったらしい。現在は城址南東角に石碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654872/138.211817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/26
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タグ:中世平城
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尾張城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0599.JPG←城址碑と城址公園
 尾張城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、天正年間(1573年~1592年)に尾張備中の居城であったとも、或いは尾張部三郎の居城であったが永禄年間(1558年~1570年)初頭に武田氏に降って城館を引き払ったとも伝えられるが、確証はない。
 尾張城は、現在は宅地化され、遺構は完全に湮滅している。僅かに城跡中心付近に城址公園があり、入口脇に城址碑が建っているだけである。かつては二重の濠で囲まれた城であったらしく、馬出しも備えていたらしい。発掘調査では、多くの建物跡や多量の陶磁器類が見つかったと言う。昭和20年代前半の航空写真では水田地帯にはっきりと堀跡が確認できるが、今では残念ながら失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.647229/138.230034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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清野氏居館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0326.JPG←古峰神社の建つ平場
 清野氏居館は、清野屋敷とも呼ばれ、この地の土豪清野氏の屋敷があったと伝えられる。清野氏は北信の雄、村上氏の一族で、数代この地に居したが、後に海津館(海津城の前身)を築いて移り、この地には蔵を置いたらしい。以後、禽敖屋敷と呼ばれるようになった。戦国中期に武田信玄がこの地に侵攻すると、1553年8月、武田氏に敗れた清野山城守清重(清寿軒)は村上義清と共に越後上杉氏を頼って落ち延びた。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、武田遺領をめぐって周辺諸勢力が争奪戦を繰り広げ、北信四郡は上杉景勝の支配下となり、その家臣清野左衛門尉はこの地に居住したとも、或いは猿が馬場峠の隣地、竜王城に入ったとも伝えられる。江戸時代になると真田氏の所領となり、寛永年間に焼亡したと言う。

 清野屋敷は、古峯神社の建っている尾根先端部にあったと伝えられている。神社がある平場は比較的小規模で、屋敷を建てるには少々狭い。その一段上に畑になっている平場があり、そこならばもう少し大きな屋敷が建てられそうである。その上にも小さい平場があり、観音堂が建っている。そこは高源寺跡とされ(現在は廃絶)、かつての境内にあった真田信之と真田大学(松代藩2代藩主真田信政の3男)の供養塔がある。いずれにしても土豪の居館にしても小さすぎ、蔵か何かしかなかったものが屋敷地として伝承されてしまったのではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554982/138.180639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

川中島合戦:戦略で分析する古戦史

  • 作者: 海上 知明
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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生仁館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0311.JPG←堀跡を思わせる水路
 生仁館は、唐崎城に対する平時の居館と考えられている。応永年間(1394~1427年)の館主は生仁(身)大和守とされ、雨宮摂津守の弟であったとも言われている。事績については唐崎城の項に記載する。
 生仁館は、唐崎城西麓の平地にある。沢山川に五十里堰(生仁川)が合流する地点の南に当たる。往時は方形の堀で囲まれていたと言うが、宅地化で遺構は完全に湮滅している。しかし屋敷地は周囲よりわずかに高くなっており、また東側には堀跡の名残を思わせる水路が流れている。いずれにしても、今となっては失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.544829/138.149096/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


和本影印,大塔物語・大塔軍記 (長野電波技術研究所)

和本影印,大塔物語・大塔軍記 (長野電波技術研究所)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2018/11/16
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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大塔城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0305.JPG←大当集落の遠望
 大塔城は、古書『大塔物語』に「大塔の古要害」と記載され、室町中期に信濃で生起した大塔合戦の主戦場である。大塔合戦は、信濃守護に復帰した小笠原長秀に対して有力国人衆が大文字一揆を結んで挙兵したもので、その経緯については二ツ柳城の項に記載する。『大塔物語』によれば、大塔合戦以前から古い要害があったが、当時は廃されていたと伝えられる。四宮河原で敗れた長秀は、深手を負って塩崎城に辛うじて逃げこんだが、逃げ遅れた坂西長国ら300騎は大塔の古要害(大塔城)に逃げ込んだ。大塔城に拠る劣勢の小笠原勢は、国人一揆の重囲の中で20日間にわたって籠城して抗戦したが、最後は食糧が尽きて全滅したと言う。その後、長秀は一族の大井光矩の仲介で和睦し、京都に逃げ帰った。従来は大当の地が大塔城と考えられてきたが、近年では二ツ柳城であったという説が有力視されているものの、未だに定説を見ない。

 大塔城は、岡田川東岸の大当集落にあったと言われている。『日本城郭大系』によれば、戦前まで一部に堀が残っていたらしい。現在は明確な遺構は全く見られない。川沿いの低湿地に築かれた平城なので、20日間の籠城戦を行った城址とするには不適と言うのが二ツ柳城説の根拠であるが、近代以前より集落があるということは、逆に低湿地帯に囲まれた要害であったとも推測される。現に結城城なども、現在の地勢からすれば大した要害性を持たない様に見えるが、実際には幕府の大軍を前にして1年近くにわたる籠城戦を展開している(結城合戦)。従って往時は、現在考えられるよりも全く異なる様相を呈していた可能性も考えられる。いずれにしても、今後の考究が待たれる。尚、岡田川対岸の大当公民館脇に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.567546/138.131887/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

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  • 発売日: 2015/12/16
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