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竜王城(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0291.JPG←外周の帯曲輪
 竜王城は、本能寺の変後の北信の武田遺領をめぐる上杉景勝・小笠原貞慶の抗争の際に上杉方の城であったと伝えられる。猿が馬場峠を押さえる要害で、清野清寿軒(清重)がこの地に居たとされる。清野氏は猿が馬場留守役で、小笠原勢に備えてこの地に置かれ、猿が馬場衆の同心が詰めていたらしい。猿が馬場衆は、小坂城、佐野山城、竜王城に配備された者達と考えられている。旧領を回復し筑北を従えた貞慶は、1583年9月、猿が馬場峠より進出してきた。竜王城留守居の城将清野氏は、景勝と共に新発田に出陣中の子息左衛門尉信昌に急を報ずると共に、僅か40騎の守兵で奇策を用いて小笠原勢の先鋒を撃破し、更に援軍に見せかけた多数の擬兵により貞慶の野望を挫いたとされる。左衛門尉の後、清野助次郎長範が相続し、猿が馬場留守役を命ぜられたと言う。

 竜王城は、標高760m程の丘陵中腹に築かれている。城のすぐ後ろまで車道が伸びているので、訪城は容易である。解説板が立つ他は山林の中に主郭と思われる平場が広がっているだけだが、その外周には切岸で区画された帯曲輪がはっきりと構築されており、また北側にも一段低い曲輪があり、城郭遺構であることは間違いない。しかし堀切などは見られず、普請が中途半端である印象は否めない。俄作りの陣場のようにも思えるが、果たしてどうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.525157/138.068243/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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八幡松田館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0265.JPG←館周囲の土塁
 八幡松田館は、武水別神社神主の松田氏の居館である。松田氏は元々安曇野を本拠とした仁科氏の一族であったらしい。その名が現れるのは、本能寺の変後の北信の武田遺領をめぐる上杉景勝と小笠原貞慶の争いの中である。仁科(松田)盛直は、府中を押さえて安曇野に勢力を伸ばした貞慶に従属することを嫌って日岐城を退去し、上杉氏に服属した。そして更級筑摩群境を守っていたが、1584年正月、海津城将上条宜順の指揮下において八幡方面で働く様に命じられた。その後の同年5月、麻績城の攻防が続く中、松田民部助や保科豊後守が稲荷山城在番を命じられ、松田氏には八幡神領が与えられている。1598年に上杉氏が会津に移封となった後も松田氏は八幡に残って神領一円を支配し、神職となって古くからの宮川神主・宮原神主もその支配下に入ったと思われる。

 八幡松田館は、武水別神社の西側にある。単郭方形居館であったらしく、西側半分の土塁と堀跡が残っている。また東側の表門の脇に水堀跡が残っている。また神社の西辺にも土塁らしい土盛りが確認できる。尚この館では、主屋や斎館など江戸時代の建物が多数残っており、県宝に指定されていて修復工事が行われたが、修復完了から間もなくの2017年9月に蜂の巣駆除の際の不用意な失火で焼失してしまっている。そのニュースは全国ニュースでも取り上げられたため、私も記憶している。健在な時の建物を見ることができなかったのは、今更ながら残念で仕方ない。
東側の水堀跡→IMG_0262.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.519018/138.101803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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明徳寺館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0238.JPG←寺の周囲の土塁
 明徳寺館は、歴史不詳の城館である。明徳寺は、北信の雄で葛尾城主村上義清の家臣林能登守が羽尾の寺屋敷から移したと伝えられていることから、林氏との関連が推測されている。またすぐ北の山上には堂城山砦があり、物見として居館と一体となって機能していたと考えられている。

 明徳寺館は、明徳寺の境内となっている。というより、寺に城館機能を持たせた寺院城郭であったのだろう。構造は簡素で、単に寺の周りに土塁を廻らしただけである。寺自体が傾斜地にあり、東側は切岸だけで区画され、境内西半分に土塁を築いて防御している。堀跡は確認できないが、寺のすぐ北西側を雄沢川が流れており、自然の川をそのまま外堀としていたのだろう。この様な簡素な城砦が往時はどの様な使われ方をしたのか、興味深い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.495579/138.109807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鶴ノ丸館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0148.JPG←主郭跡
 鶴ノ丸館は、藩政時代に仙台藩の家臣茂庭氏・西大條氏の居館であった。元々は、葛西氏の家臣で日良館主沼田氏の別館であったと言われる。沼田氏は、1190年に葛西清重から日良館を拝領し、以後17代にわたって日良館に住し、1590年、沼田四郎宗綱の代で葛西氏の没落に伴って断絶したと伝えられる。その後の1618年、仙台藩召出・茂庭定元が名取郡茂庭村(仙台市生出)から八樟村に所替になり、550石余を賜わり鶴ノ丸館に5代にわたって居住した。1703年に茂庭氏は再び茂庭村に所替となり、その後に西大條定賀が知行高600石余で鶴ノ丸館に入部し、9代賀知の時に明治維新を迎えたと言う。尚、昭和53年に東北道建設に伴う発掘調査の結果、鎌倉時代以降の館跡であることが確認されている。

 鶴ノ丸館は、低地帯に突き出た比高4m程の微高地先端に築かれた城館である。前述の通り東北道が館跡を貫通し、大きく破壊を受けている。しかし主郭は東側1/3程が残り、東側については概ねその形状を追うことができる。発掘調査結果によれば、合計3段の曲輪で構成され、上段郭(主郭)・腰郭・下段郭と命名されている。主郭の東側に堀跡のような低地の水田があったが、これは削平されてしまった下段郭だったとのことである。この他、主郭南側の堀跡が車道として痕跡を残し、高速道路の西側には下段郭の北西部が微高地として残っている。わずかとはいえ遺構が残っているのは貴重である。尚、東側の車道脇に解説板が建っているが、ペンキが剥げて字がほとんど読めなくなってしまっているのは残念。
南側の堀跡の道路→IMG_0152.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.755338/141.048607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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今年は我が家の防災元年 [日記]

東日本大震災以後、
各地で地震や水害の大きな被害が毎年のように発生している。

私の住んでいる栃木県内でも、
2015年9月に線状降水帯による「平成27年9月関東・東北豪雨」が発生し、
大きな浸水被害が出た。

また昨年は、北海道や岡山など全国各地で地震や水害が発生して、
今まで以上に自然災害がクローズアップされた年でもあった。

そして年明けを迎えた早々、
我が家でもちょっとしたトラブルが発生したのを機に、
有事の際の備えについて真剣に考えざるを得なくなった。

数年前から水や食料の備蓄など、
妻と相談してちょこちょこと対策を進めてきてはいたが、
この機会に本格的な防災対策を家族で考えることにした。

ちょうど石油ファンヒーターが壊れたので、電気不要な石油ストーブに買い替えたり、
有事の際の給水タンクを準備したり、防災用品のチェックリストを整備したりと、
現在いろいろな整備を進めている。

でも一番大事なのは、日頃からの訓練と、有事に備えた心構えかな。
どうやって宅内訓練しようか、思案中。
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鬼切部城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0072.JPG←城址の広大な高原
 鬼切部城は、前九年の役の勃発地である。奥六郡の蝦夷を統率して強大な勢力を誇った俘囚の長、安倍頼良が1050年に築いたと言われる。頼良は、その勢威を背景に貢納を怠るなどした為(朝廷側の記録)、1051年、陸奥国司藤原登任は軍勢を率いて安倍氏を討伐した。一方の頼良は、子の貞任、宗任以下の一族郎党を率いて鬼切部城に立て籠もり国府軍を迎え撃った。前九年合戦の始まりである。登任は敗れて都に逃げ帰り、代わって軍事貴族であった源頼義が陸奥守となって多賀城に赴任した。折しも朝廷で大赦があり、頼良も朝廷に逆らった罪を赦された。頼良は、自ら辞を低くして新国司の頼義と友好関係を保ち、頼義と同音であることを憚って名を頼時と改めた。この後、しばらく奥州には平和が訪れたが、頼義の陸奥守の任期が終わる間近の1056年2月に、突然阿久利川事件が出来した。ここに前九年合戦の後半戦が始まり、奥州の地は戦乱で覆われることとなった。

 鬼切部城は、比高140m程の広大な高原をそのまま要害としている。堀や土塁など城郭とされる様な普請は全くなく、ただの高原をそのまま利用した天険の要害である。但し絶好の物見で、眼下を通る街道監視には好適である。尚、眼下に流れる川は軍沢川と言い、古戦場であったことを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.838237/140.631341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 鈴木 拓也
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/12/01
  • メディア: 単行本


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葉山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0030.JPG←三条平南端の空き地
 葉山城は、南北朝期に奥州総大将として奥羽に派遣された石塔義房が本拠を置いたとされる城である。石塔氏は足利一門で、義房・頼房父子は足利直義に近く、室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際には、終始ガチガチの直義党として尊氏に敵対して、薩埵山合戦武蔵野合戦で戦ったことが知られている。それ以前の1337年、奥州総大将であった斯波家長が鎌倉の杉本城で北畠顕家率いる奥州勢に攻め滅ぼされると、足利幕府はその後任の奥州総大将として義房を奥州に下向させた。この後、1345年まで義房は奥州経営を推し進め、奥州南朝勢力の鎮定を進めた。この時、本拠としたのが葉山城だと言うのである。しかし義房が下向した時、既に顕家を失っていた奥州南朝勢力は各地で頽勢覆い難く、そんな時期に攻勢に出るべき奥州総大将が、最初から山深い山間の奥地を本拠としたとは考えにくいと思う。周辺には、石塔氏の家臣が城主だったという城も点在しているが、それも甚だ疑問である。

 葉山城は、三条山の南中腹に広大に広がる三条平と呼ばれる高原にあったと言う。現在は一部が空き地になっていたりアンテナが建てられていたりする以外は、森林が広がっているだけである。奥まで車道が伸びているようだが、未舗装の車道の両側は深い林で覆われており、しかもアブ・ハチがブンブンとたかってきて車から出ることもできなかった。詰城として三条山に三条館が築かれていたようだが、いずれにしても奥州総大将石塔義房がこの地を本拠としたとは考えにくい。一体この謎の伝承は何に基づくのだろうか?安永風土記辺りに記載されているらしいが史実とは考えにくく、葉山城の存在も謎である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.756309/140.726463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)

足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2009/05/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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米泉館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9958.JPG←主郭北側の大堀切
 米泉館は、大崎左衛門の家臣米泉(笠原)伊勢守直行とその子権右衛門長行の居城と伝えられる。笠原氏は宮崎城を本拠とした大崎氏の重臣で、氏家氏と並ぶ双璧であった。加美郡一帯に一族を分封して一大勢力を築き、笠原一族の戦場における精強ぶりは、大崎家中笠原党として武名を轟かせた。笠原氏7代仲沖の4男が直行で、米泉館を築いて独立し、米泉氏を称した。大崎氏の内乱に伊達政宗が軍事介入した大崎合戦では、長行は他の笠原氏一族と共に中新田城に立て籠もり、伊達軍の大将泉田重光の攻撃に頑強に抵抗した。その後、豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易されて没落し、その後に生起した葛西大崎一揆では、宮崎民部少輔率いる笠原党3000余が宮崎城に立て籠もったが、伊達政宗の激しい討伐を受けて宮崎城は落城し、米泉父子もこの戦いで討死した。

 米泉館は、田川北岸の比高15m程の丘陵南端に築かれている。現地標柱によると、上館・下館の2郭で構成されていたらしい。上館と思われる上段の平場(主郭)には現在、水道施設(館山配水場)が設置されており、改変を受けている。とは言っても、基本的には広大な平場が広がっていただけと思われ、往時の姿と大きくは異ならないと思われる。北辺に低土塁が築かれ、その北側には深さ5m以上の大堀切が穿たれて、台地基部を分断している。訪城時は盛夏であったので、主郭東側には雑草が繁茂し、それ以上の探索はしなかった。下館とされる平場は、水道施設への登り道の東側にある平場と思われるが、未整備の雑草に覆われ、平場であることしかわからない。米泉館は簡素な城砦であるが、大堀切は見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.589940/140.827464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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城生柵(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9924.JPG←築地塀跡
 城生柵は、奈良~平安時代にこの地に築かれた古代城柵である。昭和52年から発掘調査が行われた結果、奈良時代中期頃には既に造営され、平安時代まで続いた城柵であることが判明している。東北の城柵としては最も小さく、東西350m、南北370mの築地塀で囲まれた方形の城柵で、築地塀の外側7~8mの位置には幅3~4mの大溝(外濠)が穿たれていたことが確認されている。また、北辺中央部には八脚門が作られ、築地塀の内部は溝で区画され、掘立柱建物・倉庫・竪穴住居跡などが発見されている。構造的・時代的に多賀城等と関連する城柵とされ、737年(天平9年)に現れる多賀城関連の5柵の内の玉造柵や色麻柵ではないかとする説、賀美郡衙とする説などが提示されているが、未だに定説は見られていない。

 城生柵は、加美町中心街の北方にあり、低丘陵の南端部に築かれている。耕地化でかなり遺構は失われているが、現在でも北東角に築地塀の遺構が残っている。この遺構は墓地裏にあり、L字状に土盛りが残っている。城柵の南東の交差点脇に立派な石碑と解説板が立っているが、ここは城柵の外で、唯一遺構の残っている北東角からも遠く離れ、しかも遺構の地図も掲出されていないので、甚だわかりにくい。また築地塀遺構も誘導標識など全く無く、事前に位置を探し出しておかないと、現地で辿り着くことは困難である。せっかくの国指定史跡なのに、加美町の扱いは甚だ残念というほかはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【築地塀跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/38.584690/140.853685/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/11/27
  • メディア: 単行本


タグ:古代城柵
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四竃館(宮城県色麻町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9909.JPG←主郭南西隅の櫓台?跡
 四竃館は、大崎氏の家臣四竃尾張の居城である。後に同じ大崎氏家臣の内ヶ崎中務が居城したとも言われている。その他の詳細は不明である。

 四竃館は、現在の色麻町中心部に築かれていた。標柱も解説板も一切ないので、古い航空写真などから推測するしかないが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭は町役場から道路を挟んで西にある民家のところにあったらしい。方形をした主郭の周りだけ堀跡の水路と切岸地形が残存し、南西隅の櫓台と思われる場所には土壇の上に神社が祀られている。神社の土壇の西と南は低くなっており、堀跡の雰囲気を残している。『伊達諸城の研究』では、100~150m四方の居館と推測しているが、前述の航空写真を見ると、主郭の外周から200m程離れた所まで堀跡が幾重にも見られ、大型で多郭の複雑な縄張りを有した平城であった様である。市街化で遺構はほとんど湮滅しているが、各所に堀跡の水路や窪地が散在している。中心市街地の東を南北に貫通する国道457号線沿いに宿場町があり、その西側に接するように城域が広がっていたらしい。色麻町も、町の中心にあった城館なのだから、もっと史跡として認識されるように努力してほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.548493/140.848922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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平柳城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9870.JPG←南辺の堀跡らしい畑
 平柳城は、大崎氏7代教兼の9男・平柳七郎の居城である。教兼は9男4女と多くの子女に恵まれ、河内諸郡の要地に9人の子息を配して、領国支配を固めていたと言う。平柳氏の事績については不明である。
 平柳城は、多田川東岸の平地に築かれている。現在は城野集落となっており、遺構はほとんど湮滅している。周りに宿場町もなく、水田地帯の只中にぽつんと城跡の集落だけがあることから、平柳氏の居館と家臣団の居住区がコンパクトにまとまった平城だったと推測される。付近を見て歩くと、集落の北辺と西辺に堀跡と思われる水路が流れ、また南辺にも一段低い畑があって、これも堀跡だと考えられる。城地中心から東に少し離れて方形の宅地があり、東の別郭だったのではないだろうか。いずれにしてもかなり改変が進んでおり、縄張りはわずかな手掛りを元に想像する他はない。南の集落入口に標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.570591/140.889734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


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新井田城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9851.JPG←主郭西側の土塁と堀跡
 新井田城は、大崎合戦の導火線となった大崎氏家中の内乱を起こした、新井田刑部少輔隆景の居城である。隆景は大崎氏の重臣狼塚城主里見紀伊隆成の子で、天性の美少年であったと言われ、主君大崎義隆に小姓として近侍し、その寵愛を恣にした。1586年、隆景が寵を失って失脚し、代わって伊場野惣八郎が大崎義隆の寵を受けた。座を奪われた隆景は、主君義隆を自身の居城新井田城に強制的に軟禁して名目を固め、伊場野惣八郎を保護した岩手澤城主氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請したことで、伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した大崎合戦が生起することとなった。伊達勢は大軍であったが、折からの降雪と厳寒で大敗を喫した。しかし大崎方も伊達勢の攻勢に抗し続けるだけの力はなく、結局伊達氏との間で和睦が結ばれた。大崎氏の内乱の傷は深く、結果的に伊達氏に服属し、政宗は大崎地方に覇権を確立することとなった。

 新井田城は、江合川南岸の平地に築かれている。城址は現在宅地となっているが、その北辺と西辺に土塁と堀跡の溝が残っている。改変が進んでいるので、往時の縄張りははっきりしないが、方形の主郭であったと思われ、現在の宅地の形状として明瞭に残っていると推察される。東側の道路も堀跡であったと思われる。またこの地には「南構」の地名が残っているが、北側に新田(新井田)宿があることから、宿に対して南方に構えられた城ということなのだろう。遺構はわずかだが、大崎氏の歴史では重要な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.594921/140.925997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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青塚城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9839.JPG←城址標柱の立つ諏訪公園
 青塚城は、奥州探題大崎氏6代持詮の弟直兼が居城したことに始まる。その後、天正年間(1573~92年)頃には古川城主古川弾正の弟青塚左衛門佐、または青塚左衛門尉吉春の居城であったと伝えられる。
 青塚城は、古川黎明高校から諏訪公園にかけての地にあったとされる。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、どの様な縄張りだったのかも皆目わからなくなってしまっている。わずかに城址標柱が諏訪公園入口脇に立っているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.581771/140.949043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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桜ノ目館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9834.JPG←堀跡っぽい道路
 桜ノ目館は、石母田館とも言い、仙台伊達藩の家臣石母田家の居館である。高清水要害を領した石母田家の分家で、石母田宗頼の次男頼章がこの地に1000石で分封されて屋敷を構えた。8代石母田但馬頼至は幕末に於ける勤王家で、ペリー来航の際に藩主に攘夷を建白し、戊辰戦争の時には収拾役を命じられて官軍との和平交渉全権を務めた。石母田家は桜ノ目地区の歴史に深く関わる名家であったと言う。
 桜ノ目館は、江合川北岸の平地に築かれている。現在は宅地化が進み、明確な遺構は確認できない。周囲の道路や水路は堀跡っぽく見えるが、どうであろうか。また民家に土塁跡のような土盛りも見られるが、遺構かどうかは不明である。県道脇に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604865/140.947520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


幕末雄藩列伝 (角川新書)

幕末雄藩列伝 (角川新書)

  • 作者: 伊東 潤
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/11/10
  • メディア: 新書


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沢田館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9816.JPG←堀跡っぽい水路
 沢田館は、南北朝時代に生起した観応の擾乱の際に、畠山氏が拠った要害である。足利幕府は、1346年に奥州管領として吉良貞家・畠山国氏の2人を派遣したが、足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起きると、その余波で直義党の吉良氏と尊氏党の畠山氏が対立した。この時、畠山勢が長岡郡沢田要害まで進出したと伝えられており、沢田要害がこの沢田館に比定されている。その後、四管領並立時代を経て、最終的に大崎氏が奥州探題として権威を確立した。大崎氏支配時代には、沢田館主は始め大崎氏の被官留守長門弾正、天文年間(1532~55年)頃には古川城主古川持慧の被官米谷兵部照正であったとも言われている。

 沢田館は、江合川北岸の平地に築かれている。館跡は宅地となっていて、遺構は湮滅している。遍照院付近が主郭跡と考えられており、付近には大手屋敷・中門屋敷・搦手屋敷・馬場屋敷等の地名が残っている。付近を見て回ると、寺の北側に堀や切岸らしい地形が見られ、西隣の民家との間の水路も堀跡っぽく感じられる。また民家に土塁跡のような土盛りもあるが、いずれも遺構かどうかははっきりしない。寺の入口に標柱が立っているだけマシとすべきか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.601780/140.970200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


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大林城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9810.JPG←城址付近の現況
 大林城は、二階堂治部少輔の居城と伝えられている。沢辺館も二階堂氏の居城であり、沢辺館の伝承によれば鎌倉の二階堂氏を本宗とし、和田義盛の遺領を継いで栗原郡三迫を知行したとされ、葛西氏の家臣であったとされる。
 大林城は、迫川北岸に築かれた平城である。『日本城郭大系』によれば、かつては高さ2mの土塁がめぐっていたらしいが、現在は水田に変貌している。城址とされる付近を探索したところ、堀跡らしい水路や低地の水田、民家の裏に土塁跡らしいものが見られたが、実際に遺構かどうかは不明である。一応、市の史跡に指定されているが、残念ながら解説板はおろか標柱すらなく、甚だ残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.786782/141.099354/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 作者: 葛飾区郷土と天文の博物館
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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塩森兵庫邸(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9791.JPG←不老の松と解説板
 塩森兵庫邸は、伊達氏の家臣塩森家の屋敷である。その祖は伊達氏の庶流小梁川親宗の次男塩森兵庫宗朝で、出羽国置賜郡塩森郷に分封されて塩森氏を称した。しかし別説もあり、塩森氏は初め長井氏に仕えていた塩森郷の土豪であったが、1380年に伊達氏が置賜に侵攻するとその家臣となったとも言われる。いずれにしても天文年間(1532~55年)には塩森兵庫の名が見え、伊達晴宗によって「一家」の家格に列せられた。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、塩森氏もそれに従って出羽を去った。後に宗朝の曾孫宗直の時、1640年に栗原郡若柳に屋敷を構えて居住するようになったと言う。

 塩森兵庫邸は市の指定史跡となっているが、残念ながら市街地に飲み込まれて遺構は湮滅している。わずかに庭園の名残を留めるとされる推定樹齢300年以上の老松「不老の松」が残っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.769736/141.127828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


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西門館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9787.JPG←主郭南の堀跡らしい窪地
 西門館は、葛西大崎一揆の最終局面、佐沼合戦で伊達軍と戦って討死した千葉越前道胤の居城である。道胤は、奥州千葉氏の一流下油田千葉氏の出で、葛西氏の重臣であった。1579年の寺崎良次と富沢直綱との抗争の際、千葉良胤・道胤父子が寺崎氏に加わって活躍し、道胤は戦功により加増を受けた。その後、父と共に栗原郡石越村に西門館を築いて居城を移したと言う。1591年の葛西大崎一揆の際、道胤は旧臣達を糾合して挙兵し、佐沼城に立て籠もった。しかし伊達軍の攻撃を受け、佐沼城から迫川を渡った地で討死したと言う。

 西門館は、JR石越駅のすぐ東側に広がる比高15m程の丘陵上に築かれている。地形を見ると熊野神社の西側が丘陵の頂部で、主郭があったと思われるが、現在は民家が建っている。おまけに『日本城郭大系』によれば、頂部の平場(主郭)は土取で削られたらしい。熊野神社の境内も城跡のはずだが、近くにいたお婆さんに聞いたところ神社付近は城跡ではないとは言っていた。どこかで伝承が誤ってしまったのだろう。主郭付近の南側には堀跡らしい窪地も見られる。この他、丘陵西端にも神社があり、そこは小さな平場になっており、物見台だったと思われる。西門館は、遺構がかなり失われており、標柱もないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.768757/141.162386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


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西郡古館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9757.JPG←主郭周囲の切岸地形
 西郡古館は、伊達氏の重臣大内氏の江戸前期の居館である。その事績は御館の項に記載する。大内左兵衛備前守重綱は、1644年に登米郡西郡村(現在の錦織)など1264石を拝領し、前の西郡村の領主小梁川氏と入れ替わりにこの地に入部し、西郡古館を居館とした。以後幕末まで大内氏は西郡の領主であったが、1740年に新たに御館を築いて居所を移した。

 西郡古館は、北上川東岸の比高10数mの丘陵先端の台地上に築かれている。現在は畑地となっている他、先端に当たる西端部は国道が貫通して削られてしまっていて、全体に改変を受けているが地勢は往時の面影を残している。主郭であろう畑の登り口には標柱が建っているが、明確な遺構はなく、平場になったただの台地だけが見られるだけである。大阪の陣が終わってから30年近く経っての築館なので、もはや厳重な防備など必要ない時代になっていたのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.725045/141.271777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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黒沢氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9742.JPG←標柱の建つ居館跡付近
 黒沢氏居館は、御館・紅梅館とも呼ばれ、1723年に黒沢俊栄が中津山三千石の領主となって以降、その歴代の子孫の居館であった。黒沢氏の事績についてはよくわからないが、伊達家の家臣だったのだろう。黒沢氏7代150年の居館で明治維新まで存続した。尚、館の近くに矢の目という集落があり、名取郡矢の目足軽20人が黒沢家の御予け足軽として置かれた所と伝えられる。矢の目足軽については、下野郷館の項に記載する。
 黒沢氏居館は、室町時代に中津山氏が居城した中津山城(大館城)の一郭に相当する場所に築かれたらしい。細長い丘陵の上に位置し、屋敷は方1丁あったと伝えられる。往時は豪華な館や追手門が建っていたが、明治初年に焼失してから畑地と化したと言う。河北地区の『ふるさとの文化財』(昭和47年)という文献によれば、「紅梅の老木と物見櫓のあった高台がわずかに昔の面影を留めている」と記載されているが、現状ではよくわからない。おそらく既に湮滅してしまっているのだろう。標柱だけは民家の庭先にあり、居住者の了解を取って写真だけ撮らせてもらった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.560650/141.253774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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葛西氏・大立目氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9733.JPG←居館跡の小学校
 葛西氏・大立目氏居館は、藩政時代に伊達家の家臣葛西氏、後に大立目氏の居館である。伊達家の藩制で言う「飯野川所」(「所」は「要害」の下のランク)である。葛西氏は奥州の名門の流れであるが、葛西大崎一揆が鎮圧された後、その一族は伊達氏・南部氏などに出仕して家名を存続しており、飯野川所の葛西氏は「仙台藩葛西家」と呼ばれる。葛西氏20代重常の時に山崎館からこの地に居館を築いて移住した。1769年、24代葛西清興が失脚して知行地を没収されると、1775年に大立目盛行が相野谷村を拝領して領主となり、元葛西氏居館に居住した。大立目氏は、伊達家御一族格に列し、禄高千石、家中25人を抱えたと言う。93年に渡る治世の後、明治維新を迎えて領主を辞した。

 葛西氏・大立目氏居館は、現在の飯野川小学校の地にあった。遺構は全くなく、校門の脇に標柱が立っているだけである(今時分、当然校地には無断では入れない)。その標柱も植栽に埋もれている上、ペンキが剥げて字がほとんど読めなくなってしまっている。なんとも残念な状況である。
 尚、居館地のすぐ西の丘陵(亀ヶ森公園)中腹に、大立目氏の廟所が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.517247/141.317418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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大島下城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9671.JPG←主郭西側の土塁跡
 大島下城は、西平城に対して下城と呼ばれ、即ち西平城の里城とされる。城主は国峰城主小幡氏の家臣小間氏と伝えられるが、小間氏の事績は不明である。
 大島下城は、鏑川とその支流の野上川に挟まれた台地上に築かれている。城跡は宅地や畑に変貌しており、遺構の残りは悪い。わずかに主郭と思われる民家の西側に土塁らしき跡が見られ、その南西に堀跡の様な谷筋が残っているだけである。主郭の周囲は堀で囲まれていたと思われるが、堀跡は農道に変貌している。その他は明確な遺構がなく、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.241314/138.862488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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七日市陣屋(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9643.JPG←宝塔が建つ南西の土塁跡
 七日市陣屋は、加賀前田家の支藩七日市藩の陣屋である。1616年に前田利家の5男前田利孝が、大坂の陣の戦功によって上野国甘楽郡内に一万石を賜わり、七日市藩を立藩した。以後、外様でありながら11代250余年の間、移封されることなく明治維新を迎えた。この間歴代藩主は、概ね老中配下の大坂加番・駿府加番(大坂城・駿府城の警備役)を勤めたと言う。

 七日市陣屋は、現在その跡地の大半が県立富岡高校の校地となっている。高校内に御殿が残る他、東側の中門も残存している。また北東角の土塁が残っていて御殿山と呼ばれている。南西にも民家裏に土塁が塚状に残っており、その上には前田家が建てた宝塔が残っている。この南西の土塁は古墳を利用したものらしく、宝塔の標柱には「七日市七号古墳」と書かれている。この他、南東の蛇宮神社境内にも残存土塁と思われる土盛りが散見される。陣屋の南側は鏑川に臨む急崖に面しており、要害の地に築かれたことが現在でもよくわかる。湮滅が進んでいるものの、いろいろと見所がある陣屋である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.256075/138.874462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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山田氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9559.JPG←館跡付近の現況と大杉
 山田氏館は、白倉城主白倉右近道佐の第3子、山田道政の館と伝えられる。屋敷の鬼門に当たる北東隅に諏訪神社、裏鬼門に当たる南西に若宮八幡神社を祀っていたと伝えられる。現在は県道193号線の南脇に若宮八幡神社とその両脇の大杉だけが残っている。その脇の墓地には山田家一族の墓があり、その中の墓誌に白倉道佐(入道自徳斎)を祖とすることが刻まれている。若宮八幡神社以外に明確な遺構は見られないが、西側に細流が流れており、沢筋に面した段丘上の居館だったらしい。すぐ北には内匠城がそびえているが、山田氏館とどの様な関係にあったのか、興味深いところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.235499/138.900511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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上野城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9553.JPG←土塁と堀跡
 上野城は、鎌倉時代に築かれた居館と推測されている。中世の歴史は不明であるが、江戸時代になると幕府の直轄地となって代官屋敷が置かれた。その後、旗本の知行所となって明治に至ったと言う。
 上野城は、現在民間となっているが、西側の高さ3m程の立派な土塁が残り、その周囲には堀跡の畑が見られる。西側に土塁の切れ目があり、往時の虎口であったものだろう。よくある単郭方形居館で、小河川に挟まれた細長い台地の中央部に築かれていた様である。見事な土塁が住宅地の中に残っており、中々見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.233699/138.926969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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明けましておめでとうございます [雑感]

明けましておめでとうございます。

自分の備忘録として始めた拙いブログですが、
皆様の励ましもあって、何とか今日まで続けてこれています。

今年も歴史の闇の中に埋もれかけた城に
わずかながらの光を当てていきたいと思いますので、
ご愛顧の程よろしくお願い致します。

ちなみに、今年の干支は「亥」(いのしし)ですが、
山城歩きでは猪は敵性動物なので、かなりビミョーな感じです・・・。
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