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芋川氏館(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5903.JPG←北側の堀跡と土塁
 芋川氏は、平安時代以来の近衛家領芋川荘の荘官から発したとされ、この地に勢力を張った武士である。室町・戦国期には高梨氏に属し、越後上杉氏の勢力下にあった。1404年に高梨左馬助が室町幕府に背くと、細川兵庫助が鎮定に向かい、下芋川の要害(若宮城か?)が攻め落とされて城主の芋川長知は自害したとされる。戦国時代に入り、武田信玄が北信濃に侵攻すると永禄年間(1558~69年)の頃には芋川氏は武田氏に従属し、信越国境を守って上杉謙信に対抗する最前線にあった。要害城として若宮城・鼻見城などを築いていた。1582年、織田信長が武田氏を滅ぼすと、川中島4郡はその家臣森長可に与えられたが、北信の武田家旧臣は上杉景勝の支援を受けてこれに抵抗した。芋川親正は、武田氏滅亡後、直ちに上杉景勝への従属を求め、その後間もなく一向一揆を率いて蜂起した。武田旧臣の籠もる飯山城を包囲していた織田方の稲葉彦六の軍勢を更に包囲した後、大倉古城を取り立てて籠城する一方、長沼城を目指して進撃した。しかし森長可の軍勢に大敗し、そのまま大倉古城も落城して立て籠もっていた女・子供1000人余が虐殺され、一揆は鎮圧された。敗れた親正は上杉氏を頼って越後に逃れ、本能寺の変後に川中島4郡が上杉氏の支配下に入ると牧之島城在番を命じられる等、上杉氏の家臣として活動した。また1590年の豊臣秀吉の奥州仕置の際には、上杉勢の一翼として陸奥九戸や出羽庄内藤島に転戦した。1598年、上杉氏が会津に移封となるとこれに従ってこの地を離れた。

 芋川氏館は、現在民家となっているが、一部に遺構が残っている。基本的には単郭方形居館で、西と北の堀跡が一段低い畑地として残り、北西角の土塁も残存している。何より民家であるのに、こんな小さな居館跡にも解説板が設置されており、びっくりした。それによれば、過去の発掘調査で掘っ立て建物や柵列のほか、長野県下では類例のない障子堀が検出されたとのことである。障子堀の技術がどのように波及していったのかを考える上でも重要な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771772/138.257983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


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