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サンタンジェロ城(イタリア/ローマ) [ヨーロッパの城郭]

IMG_6497.JPG←内郭の城壁
 サンタンジェロ城[Castel S. Angelo (Ita.)]は、ローマ教皇により築かれた城砦。その名は、直訳すれば「聖天使の城」である。1534年に教皇に選出されたパオロ3世は、長らく廃墟と化していたローマ市の再建に着手し、その一環としてA.D.123年に築かれて残っていたハドリアヌス廟を城砦兼貴族の邸宅として改修した。内郭は高い城壁で囲まれた要塞で、その周囲に稜堡式の星型外郭と空堀を有している。
外郭の空堀と城壁→IMG_6492.JPG
 場所:https://goo.gl/maps/fMrfMKBDSZD2


A10 地球の歩き方 ローマ 2018~2019 (地球の歩き方 A 10)

A10 地球の歩き方 ローマ 2018~2019 (地球の歩き方 A 10)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド・ビッグ社
  • 発売日: 2018/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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アウレリアヌス城壁(イタリア/ローマ) [ヨーロッパの城郭]

IMG_6308.JPG←北東部の城壁
 アウレリアヌス城壁[Mura Aureliane (Ita.)]は、古代ローマ帝国の城壁である。AD3世紀にローマ皇帝アウレリアヌスが建造した。ローマ帝国の勢力拡大に伴ってローマ市街が膨張を続けた結果、セルウィウス城壁に全く納まりきらなくなった街を外敵から防衛するため、全長19km、高さ6.5mの城壁が築かれた。100ローマン・フィート(約30m)毎に方形の塔が建てられている。中華帝国で言う「馬面」に相当する。城壁の多くがローマ中心地を取り巻くように残っている。全部見て回るのは、短時日では困難。また城門も多く残っていて、それが街と同化して残っているのが絶妙である。日本の近世城郭の石垣が街中に残っているのとは、また趣を異にしている。城壁はレンガ(現地解説板には”brick-faced concrete”とあるが)積みで構築されているが、よく見ると同じ位置でも積み方が異なっていたり、レンガの大きさが途中で変わっており、近代に至るまでの1800年の間に何度も繰り返し補修され、使い続けられてきたことがわかる。謂わばツギハギだらけの城壁である。また城壁の一部は、水道橋を兼用している。それにしても、これほどの大規模な遺構がこれだけ広範囲に残っているとは、驚くばかりである。日本ではあまり認識されていないが、ローマは世界有数の城郭都市であった。


トラムとマッジョーレ門[Porta Maggiore]↓
IMG_8064.JPG
 場所:https://goo.gl/maps/YTWTFPKt12F2

IMG_8108.JPG←東端部の城壁内側


アジナリア門[Porta Asinaria]とサン・ジョヴァンニ門[Porta S. Giovanni]↓
IMG_8121.JPG
 場所:【アジナリア門】https://goo.gl/maps/47D7qMLoDiM2
    【サン・ジョヴァンニ門】https://goo.gl/maps/oJgNNc4NwT92


IMG_8166.JPG←南東部の城壁


サン・セバスティアーノ門[Porta S. Sebastiano]↓
IMG_8200.JPG
 場所:https://goo.gl/maps/RvCaVsTHkvj


一冊でまるごとわかるローマ帝国 (だいわ文庫)

一冊でまるごとわかるローマ帝国 (だいわ文庫)

  • 作者: 本村 凌二
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2016/07/09
  • メディア: 文庫


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セルウィウス城壁(イタリア/ローマ) [ヨーロッパの城郭]

IMG_6290.JPG←テルミニ駅前に残る城壁
 セルウィウス城壁[Mura Serviane (Ita.)]は、王政ローマの第6代の王、セルウィウス・トゥッリウスによって築かれた、ローマ市街を守る城壁である。全長11kmに及び、紀元前4世紀より建造が進められた。城壁は背後に土盛りで補強し、城壁の前面には幅30m以上の堀が穿たれていたらしい。最も大きな遺構はローマ中心のテルミニ駅前にある。またテルミニ駅地下街にも発掘された城壁の一部が展示されている。
駅地下の城壁展示→IMG_7676.JPG
 場所:https://goo.gl/maps/L2M3zRTZ5Pz

IMG_6691.JPG←ガッリエヌスのアーチ
 またセルウィウス城壁の城門の一つ、エスクイリーナ門[Porta Esquilina (Ita.)]は、現在はガッリエヌスのアーチ[Arco di Gallieno (Ita.)]と呼ばれ、帝政ローマの時代に改修されて残っている。尚、ガッリエヌスのアーチのある付近は、ちょっと街が荒れてスラム化している雰囲気があるので、治安には注意が必要。一人で歩き回るのは避けた方が無難。

 場所:https://goo.gl/maps/NJcnkdKbXkH2


古代ローマ旅行ガイド (ちくま学芸文庫)

古代ローマ旅行ガイド (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フィリップ マティザック
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/06/08
  • メディア: 文庫


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安産稲荷神社(栃木県宇都宮市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_6258.JPG←社殿
 安産稲荷神社は、宇都宮氏所縁の神社である。社伝によれば1053年に創建されたと伝えられる古社で、兵庫塚街道沿いに位置している。1237年、宇都宮氏5代頼綱の次男越中守頼業が横田城を築いた時、当社を再建して子孫長久の為安産を祈ったと、幕田町に建立されている安産稲荷神社道標に刻まれていると言う。正安年中(1299~1301年)には宇都宮氏8代貞綱の妾梅の方が難産の時、当社に祈願して男児を無事出産したので、京都へ安産の号を願い出て、正一位安産稲荷大明神の号を賜った。この男児が、後に『太平記』で勇名を馳せる宇都宮公綱である。1590年には、宇都宮氏22代国綱の奥方が当社に祈り、夫婦円満の神託を得たと言われる。(平成29年度歴史展『姿川の石碑・野仏』より)

 安産稲荷神社は、宇都宮市中心部からはかなり南に離れた位置にあるので(JR宇都宮駅から直線距離で7.3km程)、宇都宮氏所縁の史跡としては近隣の人以外にはほとんど知られていないであろう。かく言う私も宇都宮市在住でありながら、つい数年前までその存在を知らなかった。何ということもない、ごくありふれた神社の類で、特に特色のあるものではない。しかし住宅地の真ん中とは思えない、静かな社叢に包まれており、その歴史と共に雰囲気が素晴らしい。
安産稲荷道の道標→IMG_6169.JPG

 場所:【安産稲荷神社】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.504341/139.854026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【安産稲荷道の道標】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.504393/139.837976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


うつのみやの地名と歴史散歩

うつのみやの地名と歴史散歩

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/09/18
  • メディア: 単行本


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福島城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6243.JPG←城址標柱と解説の石碑
 福島城は、北信を巡る甲越両軍の抗争期に築かれた城である。弘治年間(1555~58年)から1585年までのわずか30年間だけ存在した城であった。大岩城主須田満親の弟須田左衛門尉によって築かれたとされる。戦国時代に武田信玄が川中島に進出すると、帰趨を巡って須田氏は二家に分裂し、武田氏に属して高井郡に留まった須田信頼の系統と、上杉氏に付いて越後に去った須田満親の系統に分かれたが、左衛門尉は武田氏に降って兄満親の所領を給わり、福島城を築いて移ったと言う。1582年、武田氏・織田信長が相次いで滅亡し、上杉景勝が北信濃四郡を支配すると、左衛門尉は上杉氏に降って本領を安堵されたが、1584年の麻績城での抜け駆けを咎められて所領を削られたため、反逆を企て、福島城を増築した。長沼城代島津淡路守忠直は、指揮下の夜交・寺尾・保科・大室らの諸氏と長沼城在番の諸将を率いて福島城を攻撃した。左衛門尉は島津氏の足軽大将武藤団兵衛と戦って討死にし、福島城は廃城となった。

 福島城は、存続期間が短かったため、早くにその遺構は失われたらしく、戦後間もなくの航空写真を見ても、既に城の輪郭は認められない。現在、福島宿東側の果樹園の中に標柱と解説の石碑が立っているだけである。この地は、古くは北国街道と大笹街道が分岐する所で、千曲川の布野渡しを押さえる交通の要衝であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.641806/138.267210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高梨氏発祥地(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6237.JPG←関山国師生誕地の石碑
 高梨氏発祥地は、関山国師伝承地ともされ、高梨氏の初期の居館があったとされている。平安時代末期に初代盛光以来、信濃高井源氏高梨氏の発祥地とされ、この地で14代続いた高梨氏は後に松川北の都住(つすみ)、更に中野小館に本拠を移した。一方、高梨氏の出身である関山国師は、南北朝の初め頃に花園上皇に召されて美濃伊深の陰棲地を出て京都に妙心寺を開創したと言う。
 高梨氏発祥地は、『信濃の山城と館8』では高梨氏館として記載されている。千曲川の東岸、現在の国道406号線のすぐ南に、「関山国師生誕地」という大きな石碑が建っている。遺構は全く無いので、石碑と解説板以外は望むべくもない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657041/138.280385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


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山田氏居館(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_6227.JPG←真法寺の門
 山田氏は、仁科氏の庶流で、応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が山田城(桝形城)を築いたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、この地に移り住んだと言う。3代原兵庫守は1578年3月に山城が焼却したので奥州に降ったとされるが、戦国期には山田城は高梨氏の支配下にあったはずで、時代的に矛盾する。結局正確なところは不明である。
 山田氏居館は、現在は真法寺となっている。特に遺構は見られないが、門前に山田氏居館の標柱と解説板が建っている。寺のすぐ北西には山田城がそびえている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.689810/138.366151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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山田高梨居館(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_6226.JPG←居館跡の果樹園と標柱
 山田高梨居館は、山田城(桝形城)主であった山田高梨氏の居館である。高梨氏は中野小館を本拠とした北信屈指の豪族で、山田高梨氏はその有力な分家である。鎌倉時代から1484年まで駒場に住し、室町後期の館主高梨日向守高朝は、山田城を詰城として大熊・江部を領有していた。1484年、惣領家の高梨政盛は、高野山参詣で高朝不在の山田城を奪取し、高朝は小県郡高梨村に落ち延びたとされる。
 山田高梨居館は、駒場堀之内と呼ばれる地にあったと考えられている。現在は果樹園になっており、明確な遺構は確認できない。南東隅に城趾標柱が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.688416/138.353555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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草間城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6202.JPG←曲輪周囲の切岸と堀跡
 草間城は、高梨氏に属した草間氏の居城である。草間氏の出自には諸説あり、高梨氏の一族であるとも、佐久方面から入部した土豪とも言われる。草間氏は当初は大久保館に居住していたが、後に応永年間(1394~1427年)頃に草間城を築いて移ったのではないかと考えられている。1513年には、山ノ内の土豪小島氏・夜交氏らが中野氏の残党と組んで反抗を企てた時には、草間大炊助がこれを鎮圧した。また1551年に武田信玄に逐われた信濃守護小笠原長時は、草間城にしばらく滞在して兵力を整えたとも言われている。その後、草間氏は川中島の戦いで敗れ、越後に逃れたと言う。尚、草間城の西方約900mの位置にある立ヶ花城は、草間氏が築いた出城との説もある。

 草間城は、篠井川の北岸の微高地に位置している。城跡は現在宅地となっており、曲輪内に入ることはできない。東西に長い長方形の高台で、周囲に切岸が見られる。周囲は堀跡と考えられるが、埋められていて明確にはわからない。現況を見る限り、城とは名ばかりで単郭方形居館であった様である。尚、宅地入口の切岸上に城址標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.724507/138.321519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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割ヶ嶽城(長野県信濃町) [古城めぐり(長野)]

IMG_6154.JPG←三重堀切
 割ヶ嶽城は、北信濃に侵攻した武田軍が攻め落としたとされる城である。元は、平安末期にこの地の土豪柴津為信と言う武士の城とも伝えられるが、確証はない。戦国時代には信越国境の前線にあって、重要な軍事拠点となっていたと考えられている。1561年5月に武田軍が鰐ヶ嶽城を攻め落としており、これが割ヶ嶽城のことと推測されている。すぐ後の9月には激戦となった第4次川中島合戦が行われており、また1564年には野尻城の取り合いがあった。即ちこの地は、甲越両軍の激しい抗争の場となっていたことがわかる。

 割ヶ嶽城は、標高770m,比高125m程の城山に築かれている。連郭式を基本とした縄張りで、南東麓から登道が整備されている。南東斜面をジグザグに登っていく道で、かつての大手道と考えられている。この道は、一部が林道で破壊されている。この道の脇には竪堀の様な溝が降っているが、遺構かどうかは不明。山林搬出の溝であった可能性も考えられる。登道を登りきると、主尾根の南東下方の5郭に至る(以下、曲輪の呼称は『信濃の山城と館8』による)。ここには天水溜と思われる窪みがある。5郭の上に城の主要部がある。真ん中に主郭があり、北辺と西辺に低土塁が築かれている。主郭の西に堀切を挟んで二ノ郭があるが、主郭とニノ郭は堀切の両端に架けられた二重土橋で連結されている。更に西尾根の先に小郭7と、南斜面に6郭が築かれている。一方、主郭の北東には三重堀切が穿たれ、その先に4郭(実質的には三ノ郭)が置かれている。4郭の北斜面には竪堀が見られる。更に北の急峻な尾根には小郭2つと堀切2本が穿たれて、城域が終わっている。この他、南側の斜面に竪堀数本が穿たれているとされるが、現状を見る限りよくわからなかった。割ヶ嶽城は、要地にあって甲越両軍の攻防が繰り広げられた城ではあるが、全体的に規模は小さく、堀切も比較的小規模で、普請のレベルは大きくはない。期待して行ったが、少々肩透かしを食らった印象だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.809371/138.242061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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若宮城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_6030.JPG←三重堀切の一部
 若宮城は、奥信濃に大きな勢力を持っていた土豪芋川氏の居城と言われている。芋川氏の事績については芋川氏館の項に記載する。当初は鼻見城を詰城としていたが、後に若宮城を築いて居城を移したと考えられている。甲越合戦の頃、1561年に割が嶽城、1564年に野尻湖城が武田氏によって攻略されているので、その前方に当たる若宮城もそれ以前に武田方の手に落ちていたと推測されている。一方、別説もあり、芋川氏の要害城は鼻見城のままで、若宮城は1582年に上杉景勝が北信濃4郡を押さえた後に、上杉氏によって築かれたのではないかとの説もある。しかし鼻見城の遺構を見る限り、戦国後期の甲越両軍の厳しい対峙の時期に拠るにはいかにも城が小さ過ぎ、やはり若宮城を本城としていたものと個人的には考えている。

 若宮城は、標高680m、比高80m程の山上に築かれている。町史跡に指定されており、南東麓から主郭まで登山道が伸びている。これがかつての大手道であったらしい。大手道を登り始めるとすぐに右手に横堀があり、西園寺堀と呼ばれている。大きな堀ではないが、山腹の長い塹壕線でまっすぐ北側に伸び、北端は直角に曲がって竪堀に変化して落ちている。またその西側には帯曲輪があり、竪堀が穿たれている。西園寺堀を越えて尾根を登っていくと、数個の腰曲輪を経由して西園寺屋敷と呼ばれる四ノ郭に至る。四ノ郭は段差で区画された上下2段で構成され、背後の尾根に小郭と堀切が築かれている。更に登ると三ノ郭に至る。三ノ郭は全体が傾斜したやや削平の甘い曲輪で、後部に櫓台を築いている。櫓台の前面側方に竪堀が落ち、背後に堀切が穿たれている。その上がニノ郭で、その背後にも堀切が穿たれている。その上に主郭がそびえているが、主郭は内部が2段に分かれた方形の小さな曲輪である。主郭から四方に伸びる尾根は急峻で、これらの尾根上には曲輪群が築かれているが、主郭とは距離があり連絡できなくなっており、主郭は周囲からそびえ立った独立郭となっている。主郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれているが、深さは3m程でそれほど大きなものではない。この他、二ノ郭の南南西の尾根や主郭の南西の尾根に段曲輪群が築かれ、小堀切も穿たれている。また主郭の東尾根には堀切のほかに、尾根筋に平行に降る長い横堀が穿たれている。途中で竪堀の様に降りながら続いており、東端は折れ曲がって竪堀となって落ちている。以上の様に若宮城は、山全体に多数の曲輪を配置し、長い横堀線で防御した山城である。ただ曲輪はそれほど大きくないので、あくまで詰城として機能していたと考えられる。
主郭→IMG_5994.JPG
IMG_6075.JPG←東尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.792842/138.259120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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芋川氏館(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5903.JPG←北側の堀跡と土塁
 芋川氏は、平安時代以来の近衛家領芋川荘の荘官から発したとされ、この地に勢力を張った武士である。室町・戦国期には高梨氏に属し、越後上杉氏の勢力下にあった。1404年に高梨左馬助が室町幕府に背くと、細川兵庫助が鎮定に向かい、下芋川の要害(若宮城か?)が攻め落とされて城主の芋川長知は自害したとされる。戦国時代に入り、武田信玄が北信濃に侵攻すると永禄年間(1558~69年)の頃には芋川氏は武田氏に従属し、信越国境を守って上杉謙信に対抗する最前線にあった。要害城として若宮城・鼻見城などを築いていた。1582年、織田信長が武田氏を滅ぼすと、川中島4郡はその家臣森長可に与えられたが、北信の武田家旧臣は上杉景勝の支援を受けてこれに抵抗した。芋川親正は、武田氏滅亡後、直ちに上杉景勝への従属を求め、その後間もなく一向一揆を率いて蜂起した。武田旧臣の籠もる飯山城を包囲していた織田方の稲葉彦六の軍勢を更に包囲した後、大倉古城を取り立てて籠城する一方、長沼城を目指して進撃した。しかし森長可の軍勢に大敗し、そのまま大倉古城も落城して立て籠もっていた女・子供1000人余が虐殺され、一揆は鎮圧された。敗れた親正は上杉氏を頼って越後に逃れ、本能寺の変後に川中島4郡が上杉氏の支配下に入ると牧之島城在番を命じられる等、上杉氏の家臣として活動した。また1590年の豊臣秀吉の奥州仕置の際には、上杉勢の一翼として陸奥九戸や出羽庄内藤島に転戦した。1598年、上杉氏が会津に移封となるとこれに従ってこの地を離れた。

 芋川氏館は、現在民家となっているが、一部に遺構が残っている。基本的には単郭方形居館で、西と北の堀跡が一段低い畑地として残り、北西角の土塁も残存している。何より民家であるのに、こんな小さな居館跡にも解説板が設置されており、びっくりした。それによれば、過去の発掘調査で掘っ立て建物や柵列のほか、長野県下では類例のない障子堀が検出されたとのことである。障子堀の技術がどのように波及していったのかを考える上でも重要な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771772/138.257983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


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鼻見城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5852.JPG←三ノ郭と主郭切岸
 鼻見城は、奥信濃で大きな勢力を持っていた土豪芋川氏の初期の詰城と言われている。芋川氏の事績は芋川氏館の項に記載する。後に若宮城が築かれると、その支城となったと推測されている(別説もある)。「鼻見」とはおそらく「端見」のことであろうから、芋川氏の所領の南端を監視する物見を兼ねた要害であったと思われる。

 鼻見城は、標高722.6m、比高180m程のその名もずばり鼻見城山に築かれている。城までは北西の尾根筋に小道が延びており、軽トラやSUVなら城近くまで車で行けるが、私は途中で車を降りて、延々と歩いて訪城した。城跡は非常に綺麗に整備されており遺構が見やすい上、城自体の普請も丁寧にされているので、なかなか見応えがある。堀切で分断された主郭と二ノ郭を東西に伸びる尾根上に築き、主郭北側に三ノ郭、主郭と二ノ郭の南斜面に腰曲輪や帯曲輪を数個築いただけの簡素な構造である。しかし主郭切岸が非常に綺麗に普請され、その北側下方の三ノ郭には復元された井戸もある。決して大きな城ではなく、縄張りも素朴な形態の古い城であるが、綺麗な城であるので一見の価値がある。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_5854.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.776000/138.249035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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矢筒城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5787.JPG←稜堡式のような三角形状の出桝形
 矢筒城は、北国脇街道と各街道が合流する要衝に築かれた、北信濃の拠点城郭である。1513年の越後守護代長尾為景の福王寺彦八郎宛の書状に記載された福王寺要害が矢筒城のことだと推測されている。この頃は福王寺氏が城主であったが、永禄~天正年間(1558~92年)にはこの付近は島津泰忠の本領であったとされ、島津氏が城主であったとも伝えられるが、天正年間(1573~92年)に福王寺氏の存在も確認されており、この間の状況は不明である。1582年、織田信長の武田征伐が始まり織田軍が信濃に侵攻すると、海津長沼両城に拠っていた武田勢は上杉景勝に援軍を要請し、景勝は上条宜順を主将とする援軍を直ちに派遣した。この時上杉軍は矢筒城で合流し、長沼城に入城している。また景勝は福王寺氏らに対し城を堅固にするよう指示しており、信濃に入った上杉軍を動員して城の修築がされたと考えられている。その後、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、北信濃4郡は上杉氏の支配下に入り、矢筒城もその持城となって整備拡張された。その後の歴史は不明である。

 矢筒城は、標高566.6mの矢筒山というなだらかな山容の独立丘陵全体を城砦化した城である。町立飯綱病院の裏山がそれで、城内は公園化されているので比較的遺構が見やすい。なだらかな丘陵上に幾重にも曲輪を築いた多段式の城で、曲輪間は段差で区切られているだけで、堀切は見られない。切岸の一部に物見台のような土壇や内桝形の様な形状が見られる程度である。土塁も少ない。一部の段差部に石垣が見られるがわずかである。但し、大手虎口と思われる登り道脇や搦手道にははっきりとした石垣があり、虎口は石垣造りだったらしい。しかしいずれも低い石垣で、雑草が生えてくる時期には見辛くなってしまう程度である。一番はっきりしているのは主郭の南側腰曲輪にある石塁である。また主郭東側の腰曲輪から二ノ郭に通じる虎口には三角形状の小型の出桝形があり、まるで稜堡式の様である。幕末に何か使われることでもあったのだろうか?戦国~安土桃山時代の遺構だとすれば、かなり珍しいものである。この他、東側の山腹には横堀が延々と穿たれ、北西端でニノ郭先端から落ちる竪堀と繋がっている。尚、往時は飯綱病院の所に居館があり、その外周には外堀があったとされる。現在は車道になっているが地形は名残を留めている。城の南の車道脇には舟繋石の標柱が立っているが、他の方が撮った写真の様な石はなく、どこかに持ち去られてしまった様だ。以上の様に矢筒城は、縄張としては単に無数の曲輪を連ねているだけであまり面白味はないが、織田信長の武田征伐とも関係した歴史的には重要な城である。その様な点も含めて出羽長谷堂城とよく似た印象の城である。
二ノ郭から落ちる竪堀→IMG_5724.JPG
IMG_5806.JPG←南腰曲輪の石塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749459/138.233414/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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替佐城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5575.JPG←堀切から落ちる大竪堀
 替佐城は、1564年頃に武田氏によって築かれたと推測される城である。川中島をめぐる甲越両軍の抗争の中で、上杉方の拠点飯山城に対して、壁田城と共に武田方の最前線の拠点として築かれたと考えられている。城主は壁田城と共に小幡上総介であったと言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。尚、千曲川対岸にそびえる壁田城との連絡は、びわ島地籍からの渡し船であったと考えられている。

 替佐城は、標高460m、比高110m程の丘陵上に築かれた城である。城内は公園化されているので、主要な部分の遺構は見やすいが、城の背後の北西尾根の搦手筋や斜面は未整備となっている。また今年の春は雑草が伸びるのが早かったので、5月初旬の長野なのに、もう薮で遺構が見辛くなり始めていた。大きく3つの曲輪群から成り、北西から順に主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群が連なっている。それぞれ数段の腰曲輪が付随し、曲輪群の間は堀切で分断されている。北西の搦手には合計3本の比較的大きな堀切が穿たれその間に櫓台を備えた小郭を置いている。主郭から北西尾根にかけての北斜面には、畝状竪堀や横堀が穿たれ、また竪堀と横堀が交錯するなど、厳重に防御を固めている。また搦手最後の堀切には土橋が架かり、いざという時の退路確保にも余念がない。また三ノ郭群の南斜面には、やはり竪堀と横堀がクロスして構築され、ここの横堀では山上にもかかわらず水堀となっている。この他、ニノ郭群から北東に張り出した尾根にも堀切を挟んで小郭があり、その東側下方にも腰曲輪群が築かれている。かなり手の混んだ造りの城で、全体的にちょっと薮っていて残念だったが、もっと薮の少ない時期に行けば、もっとその技巧的な構造を堪能できるだろう。
北斜面の畝状竪堀→IMG_5568.JPG
IMG_5677.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭群
南斜面の水堀→IMG_5639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771171/138.314888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


[新装版]戦国武田の城

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  • 作者: 中田 正光
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2010/05/07
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西山館が破壊されました [城郭よもやま話]

IMG_4230.JPG
↑禿山になった西山館

伊達政宗が本陣を敷いたと伝えられる冥護山館の隣にある、
伊達成実の陣城と伝えられる西山館。
昨日行ったところ、山林伐採で破壊を受けていた。

昨秋、冥護山館を訪城した時、隣の西山館にも行こうとしたところ、
館の南の車道の北側で大々的に重機を入れて材木伐採していたので、
西山館まで破壊を受けるのではないかと危惧していたが、
1年後にリベンジで再訪したところ、
案の定、城内まで重機が入って破壊を受けていた。

雑木や薮が根こそぎ伐採されたので、見晴らしは良くなったが、
主郭まで重機が入り、曲輪内は蹂躙されていた。
主郭は、南の土塁・堀切は原型を留めているが、
北の堀切は跡形もなく破壊されていた。
枡形虎口もあったらしいが、既に失われていた。
ただ、辛うじて主郭の腰曲輪は残っていた。

南のニノ郭は幸い伐採だけで済んでおり(かなり荒いやり方だが)、
曲輪の破壊は免れていたが、南の横堀などは重機に荒らされた後だった。
しかし土塁が僅かに残っていて、横堀の名残を残していた。

間伐など、山林を維持しながら材木伐採するのはいいが、
この様に地山を破壊し、樹木を根こそぎ切って禿山の様してしまうやり方は、
林業として正しいやり方なのだろうか?
金儲けのために、自然を乱雑に破壊しているだけに見えてならない。

山を守る林がなくなってしまったので、
豪雨などで土砂が流出し、辛うじて残った遺構も数年で失われてしまうだろう。
残念でならない。

丸森町にメールを入れようかとも思ったが、
宮城県の遺跡地図を見たら、西山館は埋蔵文化財と認識されておらず、
これでは破壊されるのも仕方ないと、諦めざるを得なかった。
重機で破壊された主郭↓
IMG_4258.JPG

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三日城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5455.JPG←主郭から見た前面の堀切
 三日城は、北信濃をめぐる武田信玄との抗争の際に、上杉謙信が築かせた城と伝えられる。弘治・永禄年間(1555~69年)に川中島をめぐって甲越両軍は5度に渡って戦いを繰り広げたが、その中で謙信は元取山(髻山)に在陣し、家臣甘粕近江守数直に命じてこの砦を築かせ、わずか3日で落成したことから、三日城と呼ばれる様になったと言う。髻山城の普請が完成するまでの仮の砦であったとされる。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、上杉軍は髻山城・三日城・手子塚城大倉城のラインを大事な防衛線としていたと推測している。

 三日城は、髻山城の南東1.6kmの位置にある、標高450m、比高70m程の丘陵上に築かれている。山の東側の谷戸に畑の中を登っていく道があり、その奥左手に小学生が作った案内板があり、登山道が南西へと伸びている。傍から見るとただの山林だが、一応城跡は「三念沢自然公園」という公園になっている様で、展望台も建てられている。非常に小規模な城で、低土塁で囲まれた方形の主郭と、その南東側にコの字型の土塁が付随し、主郭前面(北東側)と左方(北西側)を堀切・横堀で防御した縄張りとなっている。コの字の土塁は、南側で土橋状に主郭に連結しているが、土橋の西側に竪堀が穿たれている。よく見ると、この土橋から主郭土塁の脇を武者走りがすり抜けて、主郭の虎口らしい土塁の切れ目につながっているので、一見しただけではわかりにくいが枡形虎口になっていたことがわかる。そうすると、前述の土橋脇の竪堀は動線制約の竪堀であったことも判明する。その他では、主郭の北東の丘陵地は自然地形のままで、明確な普請の跡は見られない。一方、主郭の南東には小ピークがあり、物見台になっていたらしく、東側に竪堀が穿たれている。しかし主郭以外はほとんど自然地形に近い。結局、臨時の陣城であり、たしかにこの程度の砦なら3日で完成したであろう。だが主郭の普請はしっかりしており、主将が主郭に陣取ったほかは、なだらかな丘陵全体に軍団を駐屯させていたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.711624/138.257554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

川中島合戦:戦略で分析する古戦史

  • 作者: 海上 知明
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: 単行本


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安源寺城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5352.JPG←主郭南の堀切
 安源寺城は、高梨氏が築いたとされる城である。創築にはいくつかの伝承があるが、武田氏の侵攻によってこの地を逐われた高梨政頼の子頼親が、1582年の武田氏滅亡・織田信長の横死による織田領国の崩壊後に上杉景勝の命でこの地に戻り、安源寺城を築城したとされる。しかし、築城開始後間もなく、元の本拠地であった中野小館に戻ることができたため、築城途中で放棄されたと言う。或いは武田氏侵攻以前から高梨氏の一族がこの城にいたともされ、いずれが正しいかは不明である。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、遺構を見る限り築城途中で放棄されたと言うのも案外当たっているかもしれないと書いている。

 安源寺城は、標高410m、比高50m程の丘陵上に築かれている。ここは中野市街地と千曲川の間に横たわる丘陵地の南端部に位置している。北西から南東に延びる長い丘陵上に、曲輪を直線状に連ねた連郭式の縄張りとなっている。南端の曲輪は墓地となっていて改変されているが、その他の曲輪は概ね良く残っている。しかし耕作放棄地らしく雑草の繁茂や倒木で曲輪内の踏査は困難である。この城に行ったのは5月の初めであったが、今年は暖かくなるのが早かったので雑草の伸びが早かったせいもあって、もう進入が困難になっていた。南の二ノ郭はただの方形の平場で、主郭との間に堀切が穿たれている。主郭は土塁で囲繞されたほぼ方形の曲輪で、主殿が置ける様な広さを有している。やはり雑草と倒木が凄いが、ここでは立派なカモシカを見かけた。また主郭の西側塁線はわずかに曲がり、横矢掛かりが見られる。主郭の北にも堀切が穿たれ、主郭の土塁は北辺と南辺の堀切沿いは高く盛られている。主郭の北は三ノ郭で、ただの広い平場が長く伸びている。主郭と三ノ郭との間の堀切東端・西端にはそれぞれ土橋が架かっているが、東のものは薮で全くわからない。三ノ郭は薮が少なく進入可能である。三ノ郭の北端に土塁と堀切が築かれ、その北にも平場が広がっている。所々に土塁が見られるが、途中で切れている部分が多く断片的であるが、一部はL字状となっている。しかし全体の形状ははっきりしない。この他、各曲輪の西側には帯曲輪が延々伸び、一部は横堀状となっている。東側にも帯曲輪がある様だが、三ノ郭の東以外は薮が多くて確認できない。
 安源寺城は、広大な城で居住性を持たせており、確かに伝承の通り居館的な性格の城だった様である。一方でしっかり土塁が築かれた主郭以外は防御が不十分で普請途中で放棄されたと言うのも首肯できる状態である。
主郭北辺の土塁→IMG_5378.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743011/138.334951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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壁田城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5191.JPG←中間阻塞型の二重堀切
 壁田城は、北信濃に侵攻した武田氏が、替佐城と共に北方の上杉氏の拠点飯山城に対峙する最前線の拠点として築いた城である。替佐城と共に、小幡上総介が城将となったとも言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。1566年に武田信玄が山田飛騨守・同左衛門尉にこの地を宛行なっていることから、山田氏が壁田城の守備に付いていたものと推測されている。

 壁田城は、千曲川の曲流部に突き出た独立峰である、標高480m、比高145mの城山に築かれている。城内は公園として整備されており、城域のすぐ北の尾根まで車道が付いているので、訪城はたやすい。公園化されている分、やや遺構が破壊を受けているが、概ねの遺構は残っている。南北に伸びる尾根上に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断した連郭式の縄張りを基本としている。山頂の主郭を中心に、北尾根に3つ、南尾根にも3つの曲輪を築いている。ほとんどの曲輪間は堀切で分断されており、特に北の3郭と4郭の間は中央に低い畝状の土塁が築かれた中間阻塞型の二重堀切になっており、青森や山形で見られるものと同形である。また主郭等には腰曲輪も築かれ、北の3郭の東斜面には畝状竪堀があるとされるが、熊笹藪でよくわからない。主郭の西尾根にも細尾根の曲輪と堀切が築かれているが、薮が多くて形状が分かりにくい。この他、南の尾根の先に腰曲輪群が築かれ、南東中腹には籠池と呼ばれる池があり、水の手曲輪になっていたらしい。この周辺にも櫓台状の土壇や堀切が見られる。壁田城は、縄張り的には少々面白味に欠け、技巧性も他の武田氏系城郭と比べると見劣りするが、堀切はいずれもそこそこの規模があり、見て損はない遺構である。
水の手曲輪の籠池→IMG_5312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/138.343492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


[新装版]戦国武田の城

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  • 作者: 中田 正光
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2010/05/07
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更科峠旗塚(長野県山ノ内町) [その他の史跡巡り]

IMG_5169.JPG←旗塚
 宮坂武男氏の大著『信濃の山城と館』を見ていると、「旗塚」というものがところどころに掲載されている。その役割としてはいくつか考えられており、①領域を相手に知らせる、②旗をたくさん立てることによって敵を威嚇する、③味方の守備範囲を明確にする、④敵に備えの堅いことを悟らせる、⑤領民にも領主が誰であるかを知らしめる、⑥守備兵が大勢いるように見せかける、という様な推測が宮坂氏によってなされている。

 更科峠にも旗塚があり、菅の山城からすぐのところにあるので、菅の山城に訪城した帰りに寄り道して、どの様な遺構か確認してみた。小道沿いに確かに数個の小さな塚が確認できる。しかし塚が小さい上、薮のせいもあって明確には分かり辛い。風化しているせいもあるのか、あまりパッとしない遺構だった。しかし他県ではあまり例のない遺構なので、これはこれできちんと保護の手立てを講じて欲しいものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.732178/138.394732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
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菅の山城(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5151.JPG←二ノ郭の櫓台
 菅の山城は、菅城とも呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏が拠った城と伝えられている。しかし別説もあり、高梨某が築いてその家臣時田甲斐守の居城となり、後に時田氏の家臣竹腰次郎の居城となったとも言われている。小島氏は、南北朝期頃に須毛郷に入部したらしいが、その後1513年に小島高盛は本家の高梨氏へ反乱を企てたが鎮圧され、滅亡した。しかしその分家が下之郷に居て残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。

 菅の山城は、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城の南の尾根続きの、標高700m、比高100m程の山上に築かれている。すぐ南には更科峠を通る古道がある。更科峠からも小道があるし、南東尾根の麓からも鴨ヶ嶽林内歩道という登山道が整備されているので、訪城は容易である。南東麓から高さ70m程登ると平坦な尾根となり、周囲に腰曲輪が築かれているので、既に城域に入ったことがわかる。更に登ると、数段の段曲輪を経て電波塔やテレビアンテナが建てられた曲輪に至る。かなり長さがある曲輪で、小屋掛けぐらいはあったと思われる。ここも周囲に帯曲輪が確認できる。そこから段曲輪を3段ほど経て、城の中心部に至る。中心部は堀切で分断された3つの曲輪で構成されている。中央が主郭で、その背後に二ノ郭、主郭の前面に三ノ郭が築かれている。まず前面の三ノ郭は小さな方形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らし、北東側に小郭を築き、その両側に竪堀を落としている。三ノ郭から堀切を挟んで縦長の主郭がある。主郭には祠が祀られ、後部に土塁が築かれている。主郭の両側には腰曲輪が築かれ、主郭前後の堀切と連絡している。主郭背後は城内でも最も大きな堀切が穿たれ、その西側に二ノ郭が築かれている。ニノ郭は後部に大きな櫓台を築き、曲輪の外周に土塁を廻らしている。二ノ郭の西側にも堀切が穿たれて城域が終わっている。それぞれの堀切は、両側に竪堀となって落ち、その側方には竪土塁も築かれている。
 菅の山城は、それほど大きな城ではないが、普請はかなりしっかりしており、堀切も最大のもので深さ3~4m程もあって、このサイズの城としては規模が大きく、なかなか見応えがある。
主郭背後の堀切→IMG_5132.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733553/138.395913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世山城
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箱山城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5006.JPG←山頂の主郭
 箱山城は、歴史不詳の城である。南の箱山峠を挟んで鴨ヶ嶽城と隣接していることから、高梨氏が永正年間に中野に進出して中野小館を築き、鴨が嶽城を本城にしていく中で、本拠地防衛のために支城として築かれたものと推測されている。

 箱山城は、標高695.1mの箱山山頂に築かれている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。この城へは三方の尾根に登山道が伸びている様だが、最も近いルートは箱山峠からアクセスする南尾根のルートである。現在箱山峠には車道が通っているが、箱山トンネルの西端の脇から南に登る古道が残っており、それを登っていくと切り通しの峠に至る。大きな切り通しだが、これは江戸時代に切り開かれたものらしい。この切り通し脇から北側の尾根に登る道があり、尾根上で堀切状になっている。どうもこれが元からの中世の峠道だったようである。ここから尾根を北へ進んでいくと、途中に小ピークと細尾根に曲輪があり、更に北東に尾根を登っていくと2郭群に至る(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』による)。2郭群は、尾根上の曲輪とその西側の数段の小郭群から成っている。更に尾根を登ると、2つの小郭と堀切があり、山頂の主郭に到達する。主郭は、祠などが祀られ、北辺に低土塁が築かれている。西側の切岸には石積み跡らしいものも見られる。主郭の北には腰曲輪が一段あり、尾根の先に浅間社が祀られた5郭がある。その北側に数段の小郭が築かれている。また主郭の東側には堀切を挟んで2段の舌状曲輪があり、東尾根に通じている。この舌状曲輪も東尾根も岩場が多く、居住性は殆ど無い。また尾根上の岩には矢穴の跡が散見され、石切り場になっていたらしい。その先に竪堀があり、東の物見台らしき8郭に至る。8郭の東にも腰曲輪が一段築かれている。遺構としては以上で、大堀切で防御された鴨ヶ嶽城と比べると、随分と古色蒼然とした城で、堀切も規模が小さい。傾斜のきつい急峻な尾根で囲まれているので、大きな堀切を必要としなかったのかもしれない。峠を押さえる城かと思ったが、鴨ヶ嶽城から独立した物見の出城として築かれていた様である。
東尾根の矢穴のある岩→IMG_5035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.750559/138.390634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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タグ:中世山城
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鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_4945.JPG←鎌ヶ嶽城の石垣
 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、この地に勢力を振るった高梨氏の詰城である。高梨氏は、平時は西麓の居館(中野小館)に居たが、戦時の要害としてこの城を取り立て本城とした。元々この地は鎌倉幕府の重臣中野氏が支配しており、鴨ヶ嶽城も中野氏によって創築されたのではないかと推測されている。戦国前期の1507年、越後で守護上杉氏と守護代長尾氏との間に争いが起こり、高梨政盛は長尾氏を支援して越後に攻め入り、1510年7月長者森で前関東管領上杉顕定を討ち取った(永正の乱)。この乱の頃に高梨氏は中野に入部して、中野小館を築いて居館としたと考えられている。そしてこの時、鴨ヶ嶽城も現在残る大規模なものに改修されたと思われる。しかし弘治年間(1555~58年)に武田信玄がこの地に侵攻すると、高梨政頼は中野の地にわずかの守備兵を置いて、自身は飯山城まで退き、泉氏と共に飯山城を守った。その後、武田氏支配時代は武田氏に降った一族の小島氏が中野小館に入った様である。高梨氏は旧領を離れたまま上杉氏に仕えたが、1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、高梨氏は信濃の旧領に復帰した。しかし1598年に上杉氏が豊臣秀吉の命で会津に移封となると、高梨氏もこの地を離れた。

 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、標高688.3m、比高308mの鴨ヶ嶽の稜線に築かれている。2つの城は一つの稜線上に連続して築かれているので、あえて城名を分ける必要もない様に思うが、現地表記や城郭文献に従って、2つの城として記載する。尚、以下の曲輪等の表記は『信濃の山城と館8』に従った。
 まず鴨ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽の山頂に主郭を置いている。南北に延びる稜線上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、要所を堀切で分断している。それらの堀切の中では、主郭背後のものと4郭背後のものが規模が大きく、深さ8~10mにも達する大堀切である。その他の堀切は、形状は明瞭であるが、それほど大きなものではない。主郭の前面には堀切が穿たれ、主郭の手前に3郭、更に小堀切を挟んで北尾根に段曲輪群が築かれ、先の方は細尾根上の細長い曲輪群が連なり、先端が物見の曲輪となって終わっている。一方、主郭の後部に櫓台が築かれ、背後は大堀切を挟んで二ノ郭が築かれている。二ノ郭には井戸があったらしい。二ノ郭の南には段曲輪が数段築かれ、鞍部に堀切を穿った後、4郭に至る。4郭は主郭の次に大きな曲輪で、東側と南側に土塁が築かれている。その南には二重堀切が穿たれているが、内堀は前述の通り大堀切となっている。4郭から大堀切に通じる城道上に虎口郭が置かれている。二重堀切の南にも段曲輪群が築かれ、堀切を挟んで鎌ヶ嶽城に至る。
 鎌ヶ嶽城は単郭の城で、内部が僅かな段差で10段程に分かれた広大な曲輪(主郭)となっている。南と南西部に土塁が築かれ、この土塁の外側には石垣が残っている。土塁上にも石が散乱しているので、ここだけしっかりした石垣が築かれていたらしい。鎌ヶ嶽城の主郭の南にも大堀切が穿たれ、幅広の尾根を長く貫通し、東西両端でやや湾曲して竪堀となって落ちている。大堀切の外側にもしっかりした土塁が築かれている。この南は自然地形となるが、小堀切が1本穿たれて城域が終わっている。また主郭の南西下方に腰曲輪と横堀が穿たれ、横堀両端は折れ曲げて竪堀にして落としている。
 以上の2つの城の他に、西から登る登山道の脇に七面山砦という出城が築かれている。段曲輪群だけで構成された小規模な城砦で、『信濃の山城と館8』の縄張図では5つの小郭が記載されているが、実際には更に3つの曲輪が西側に確認できた。また七面山砦から登山道を登った先にも細尾根上の平場(7郭)が見られ、登山道からやや北に突出した場所に物見台があり、眼下の高梨氏館がよく見える。

 城の遺構は以上で、鴨ヶ嶽城の方は主郭・4郭だけが多少広いが、その他の曲輪はいずれも大した広さがなく、あくまで詰城の位置付けだったことがわかる。一方で4郭と鎌ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽城の主要部と比べると普請の規模と質が異なり、より新しい時代の構築であった可能性が考えられ、武田氏支配時代に増強された可能性も考えられる。鎌ヶ嶽城に至っては、主郭が広く居住性があるので、高梨氏一族の避難所として築かれたものかもしれない。城に関する案内は少ないが、登山道が整備され、城内も比較的整備されているので、訪城しやすいのが助かる。
4郭南の大堀切→IMG_4888.JPG
IMG_4850.JPG←主郭と後部の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【鴨ヶ嶽城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743372/138.388510/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【鎌ヶ嶽城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.740243/138.388875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【七面山砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.744318/138.383553/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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