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桝形城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4466.JPG←二ノ郭、奥が主郭
 桝形城は、山田城とも言い、当初は仁科氏の庶流山田氏の居城、後に高梨氏の持ち城となった城である。里俗伝によれば応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が築いて居城としたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、桝形城を居城としたと言う。その後、高梨氏の持ち城となり、文明年間(1469~86年)には高梨氏の一族日向守高朝(山田高梨氏)が城主であったが、1484年、高野仏詣で留守中に本家の高梨刑部大輔政盛に城を奪われた。戦国後期になると、武田信玄の北信濃侵攻によって、高梨氏は敗れて越後の上杉謙信の元に逃れた。1557年には、川中島に出兵した上杉勢によって桝形城は一時的に奪還されたが、後にはまた武田氏の有に帰したと思われる。その後の城の歴史は不明である。

 桝形城は、標高711m、比高170m程の山上に築かれている。山頂に主郭を置き、その南側に広いニノ郭を築いている。主郭には後部に土塁を築き、主郭の切岸全周におびただしい数の崩落した石垣跡が見られる。この石垣は残存部がほとんど無いので、おそらく破却の跡だろう。かなり徹底して破壊されている様である。また主城部周辺はかなり傾斜がきつく、4方向の尾根にそれぞれ曲輪群が築かれているのだが、城の後部に当たる北東・北西尾根の曲輪群は、主郭からきつい傾斜をかなり下った所にあり、主城部との連絡路が完全に途絶している。体力温存のため北東尾根の踏査は諦めたが、北西尾根を降り、3本の小堀切を確認した。主郭からこの堀切まで40m以上の高低差がある。また主郭背後の斜面には放射状竪堀群が穿たれているとされるが、見た限り竪堀群はほとんどわからない。ちなみに放射状竪堀は武田氏の山城によく見られるので、武田氏による改修の可能性もあるだろう。この他、登り口となっている東尾根・南尾根にも多数の曲輪群が築かれており、東尾根は馬蹄段で構成され、南尾根は横長の帯曲輪群で構成されている。これらの尾根途中にも石が散乱しており、石垣があった可能性がある。尚、東尾根曲輪群は、ニノ郭まであと少しというところで生い茂った薮と岩塊に阻まれ、迂回しながらの強行突破が必要なので、登る人は注意してほしい。
 桝形城は、主郭・二ノ郭には建物を建てられるだけの広さがあるが、それ以外は小郭群だけで構成されている。山容が峻険であるためか、堀切も規模が小さく、縄張り的にはやや物足りなさを感じる。
主郭切岸の石垣跡→IMG_4487.JPG
IMG_4456.JPG←東尾根の段曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.692924/138.361580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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