So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

山本城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0045.JPG←主郭北東角の櫓台の張り出し
 山本城は、山本古屋城とも言い、大永年間(1521~28年)に笠間氏の家臣高塩伊勢守政平が築いた城である。その後、1583年に猛将水谷蟠龍斎正村率いる結城氏の加勢を得た益子家宗に攻められ、落城したと言う(『水谷蟠龍記』に記載される高塩合戦)。この頃益子氏は、隣接する笠間氏と激しい抗争を繰り返しており、高塩合戦もその一環で生起したものであろう。

 山本城は、光明寺北東に広がる緩やかな丘陵地に築かれている。あまり要害性が高いとは言えない、城を築くには珍しい選地である。主郭は現在民家となっているが、その周囲に土塁と空堀が残っている。民家のご主人に許可を頂いて遺構を拝見させていただいたが、主郭の北面と東面に残る土塁は高さ4~5mもある高土塁で、東側に凸状の横矢張り出しを設け、北東角にも横矢の張出し櫓台、南東隅部も内側にL字状に塁線を屈曲させており、かなり横矢掛かりによる防御を重視している。主郭の周囲も城域であるが、北郭は牧場になっていて牛が飼われており、かなり改変を受けていると思われる。御城と呼ばれる東郭も牧草地などになっている。しかしその北東の山林内に外郭らしい平場や腰曲輪があり、外周に薮でわかりにくいものの横堀が確認できる。また主郭の南西の畑の南辺に土塁と横堀が10m程残存している。西側の上城・中城と呼ばれる区域は宅地化されて改変を受けているが、切岸跡らしい段差や土塁らしい土盛りなどが散見される。いずれにしてもかなり遺構は失われているが、主郭部分だけは往時の姿をよく留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.435086/140.107591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

  • 作者: 市村 高男
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2013/11/07
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 

山居台城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9949.JPG←主郭前面の堀切
 山居台城は、歴史不詳の城である。標高165mの丘陵上に築かれている。縄張りから考えると、大手は城址北西麓にある貯水池脇の登り口からであるようだが、貯水池から南に谷戸の中へと登っていく道の方がわかりやすい。この道を進むと鞍部の切り通し状の部分(脇に給水施設がある)に出るので、ここから北に登っていくと城址に着く。ほぼ単郭の城であるが、主郭は広いが削平が甘く、内部は2段に分かれている。特に西側ははっきりした切岸で区画されている。これは、主郭の西下に武者走りが通っており、それに対する防御を意識していたのだろう。また、主郭中央付近にはやや盛り上がった土壇も見られる。主郭の南側にはかなり浅い横堀、北側には堀切が穿たれている。北の堀切は西側で竪堀状通路となって大手道につながっており、城内通路を兼ねていることがわかる。主郭の北側にはほとんど自然地形の北郭があり、更に北にやや離れて堀切・腰曲輪がある。この堀切は、西端部の大手道脇だけ堀切(横堀)状になっており、東側は腰曲輪になっているので、大手防御を意識した構造になっていることがわかる。大手道を北へと降っていくと、城からだいぶ離れた所に切岸遺構があり、これもかなりはっきりした城郭関連遺構である。この他、大手の登り口近くに小祠があるが、その背後に土塁状の土盛りがあり、北麓に向かって一直線に伸びている。ただ民家に近いので、流石にこれは遺構かどうかはわからない。
 山居台城は、遺構を見る限り、主郭などかなりざっくりした構造で、秩父などでよく見られる村の城(村人の戦時の逃げ込み城)ではなかったかとも考えられる。一方、北方1.5kmには山本城があるので、山本城の詰め城だった可能性も考えられる。
北にやや離れて穿たれた堀切→IMG_9958.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.421602/140.104222/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


改訂増補 近世栃木の城と陣屋

改訂増補 近世栃木の城と陣屋

  • 作者: 杉浦昭博
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2011/10/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(0) 

田野城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9864.JPG←主郭の土塁と空堀
 田野城は、笠間氏の庶流羽石内蔵介時政が1560年に築いたとされる城である。時政は、笠間時朝から15代目に当たる。しかし『羽石家文書』では、羽石氏初代宗時(笠間氏5代時高の次男)から末代正秀までの約300年間に渡って、田野城主として一帯を支配したとも伝えられる。いずれにしても笠間方の勢力であった。しかしこの地は益子氏の本拠地に近く、戦国後期に益子氏と激しく争った笠間氏勢力の城がこの地にあるというのは、敵の喉元に刃を突きつけた様なもので、軍事的緊張は一気に高まったであろう。『水谷蟠龍記』によると、1585年に久下田城主で結城氏麾下の勇将として名高い水谷蟠龍斎正村に攻撃され、城主は討死し、田野城は落城した。ちなみに『水谷蟠龍記』では城主の名を羽石内蔵允盛長としている様だ。その後、江戸時代に入るとこの地は旗本松平氏4500石の領地となり、1676年、田野城主郭跡に陣屋(田野陣屋)が置かれ、幕末まで存続した。

 田野城は、小貝川東方の台地上に築かれた平城である。『日本城郭大系』によれば、周囲には、東郭・西郭・南郭・新屋敷などの地名が残り、かなりの規模を持った城だった様である。現在は「中城」と呼ばれる主郭とその周囲の二ノ郭の遺構が残っているだけである。しかしこれが結構素晴らしく、主郭はほぼ完存しており、主郭周囲の土塁は高さ2.5m程でほぼ全周を囲んでいる。南側中央に虎口が築かれ、土橋が架かっている。その外周は空堀が廻っており、更にその周りに二ノ郭が築かれている。二ノ郭北辺には土塁と横矢掛かりの凸形の張り出しがあり、空堀を監視している。しかし二ノ郭では空堀は北側のみ残っており、それ以外は段差が残っているに過ぎない。ちなみに現在の堀は空堀であるが、往時は3重の水堀であったらしい。城の鬼門には普門寺があり、古い五輪塔が残っているが、城との関係は不明である(羽石氏の墓は、東方の長谷寺にある)。尚、地主の方の話では、土塁が崩れないよう除草剤を撒くのを控えているとのことで、遺構保存の努力には感謝する他はない。いずれにしても、残っている遺構だけでも見応えは十分で、末永く保存していってもらいたい。主郭の南西に隣接する民家が地主さんの家なので、許可をもらってから訪城してほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.430908/140.079803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
nice!(7)  コメント(0) 

峰城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9652.JPG←主郭中央の仕切り土塁
 峰城は、国峰城主小幡氏の初期の居城と言われている。応永年間(1394~1427年)頃に築かれ、国峰城に居城を移した後も、「詰城」として機能していたと推測されている。甘楽地方では最も古く、且つ最も高所に位置し、小幡氏の隆盛の礎となった城とされている。尚、城址南西には峰峠を通る道が残っており、峠道を押さえる機能も併せ持った城であったと思われる。

 峰城は、標高662.4mの山上に築かれている。国峰城よりも谷一つ奥にあり、周囲を山岳地帯で囲まれている。しかし南麓に車道が延びており、城近くまで車で登ることができる。その先も城跡まで遊歩道が整備されているので、訪城は比較的容易である。ただ城の南中腹の峯集落というのが、急坂を登攀した先の山腹にある高地性集落で、ものすごい場所にある。車道もかなり急峻で、相方が途中でべそをかくほど急で狭い道である。
 城は大きく3つの曲輪で構成されており、中央が主郭、西の曲輪が二ノ郭、東の曲輪が三ノ郭である。それぞれの曲輪は堀切で分断されている。前述の遊歩道を登ると、主郭~三ノ郭間の堀切に至る。この堀切は鋭さはないが幅が広く、深さは3m程ある。三ノ郭は北西端に隅櫓台があるほかはほとんど自然地形の平場である。主郭は前述の堀切から入ると、虎口の内側に小さな蔀土塁が築かれており、一種の枡形虎口を形成している。主郭内は中央を東西に仕切り土塁が築かれ、南北2段の平場に区画されており、北側の平場の方がやや低い。この仕切り土塁は、虎口の蔀土塁と主郭西端の土塁とつながっており、縦長のエの字状となっている。主郭と二ノ郭の間の堀切は非常に浅くささやかである。二ノ郭は堀切沿いと北面・西面に低土塁が築かれている。この他、二ノ郭の南側から西側にかけて腰曲輪、南西尾根に3段程の小さな段曲輪群、北西尾根にも3段程の段曲輪が築かれている。北西尾根の城域端部は堀切で分断されている。また城への遊歩道入口脇にも横堀状の腰曲輪が見られ、その下方にもいくつかの平場が見られる。峰城の遺構は以上で、よく残っているが堀切に鋭さが無いなど、比較的素朴な形態を残しており、国峰城に移転した後はあまり積極的な利用はされていなかった様である。
主郭~二ノ郭間の堀切→IMG_9665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.205386/138.879676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

  • 作者: 山下 孝司
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/07
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 

一郷山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9597.JPG←東の段曲輪群
 一郷山城は、関東管領山内上杉氏の支城である。山内上杉氏の居城平井城の別城で、また北の多比良城(新堀城)に対する要害城(詰城)として機能し、これらで別城一郭の構えを成していたとされる。1563年、一郷山城は西上州に侵攻した武田信玄の攻撃を受け、城将安部之友以下悉く討死して、多比良城と共に落城した。
 一郷山城は、牛伏山の山稜東端の、標高440m程のピークに築かれている。現在、山頂は公園化されて、主郭跡には史実に基づかない模擬天守(博物館)が建ち、車道建設などで遺構の大半が失われてしまっている。しかし東の段曲輪群はかろうじて残存しており、辺縁部には土塁も見られる。しかし『日本城郭大系』の縄張図に見られる堀切・竪堀は湮滅して確認できない。この他、主郭から西に降った先の道路脇に土盛が見られるが、これは土塁の遺構であろうか?いずれにしても城郭遺構としては残念な状態である。しかし山上の天守の威容は周囲からよく見え、それはそれで壮観である。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.220067/138.989410/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 

国峰城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9410.JPG←主郭背後の大竪堀
 国峰城は、西上州有数の豪族小幡氏の歴代の居城である。小幡氏は、武蔵七党児玉党の一流で、鎌倉時代にこの地に入部したらしい。現地の石碑の刻文によれば、児玉氏行の子崇行が上野国甘楽郡小幡郷に入部して小幡氏を称したとされる。南北朝時代には白旗一揆に属して、武蔵野合戦などに北朝方として参陣して活躍し、後に鎌倉府の支配体制が確立すると関東管領山内上杉氏に属するようになった。小幡氏は、西上州に一族を広く分封して勢力を拡張し、上州八家の一つにも数えられるほど発展した。戦国時代になると、関東管領山内上杉氏の四宿老として長尾氏・大石氏・白倉氏と共にその名が挙げられている(『関八州古戦禄』)。その後、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、小幡憲重・信貞父子は1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信実は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信貞は国峰城主に復帰した。その後、武田氏が箕輪城を攻略して長野氏を滅ぼし、西上州を制圧すると、武田氏重臣の内藤昌豊が箕輪城主となって西上州を統括した。小幡氏もその麾下で、西牧・南牧の産馬によって編成された小幡伝統の赤備500騎の騎馬隊を率い、武田軍団の一翼を担って各地を転戦、武田二十四将にも数えられた。しかし1575年、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、小幡氏の軍団も大損害を受けた。1582年、武田氏が滅亡して上野が織田氏の支配下に入ると、織田氏に服属し、上野に派遣された滝川一益の指揮下に入った。わずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、神流川の戦いで滝川氏を破った北条氏直が上野を手中に収めると、信貞は北条氏に従った。信貞は、沼田城攻撃などで活躍し、1590年の小田原の役では小田原城に籠城した。一方、城主不在の国峰城は子の信秀が守ったが、北国勢の藤田信吉に攻略された。戦後、信貞は信濃に閉居したが、小幡氏の赤武者を継承した井伊直政の尽力によって、徳川家康は信貞の養子直之を取り立てて安中野殿に1100石の知行を与え、小幡氏は徳川旗本に列して家名を保った。

 国峰城は、標高434mの城山に築かれている。山頂に築かれた山城部、中腹の御殿平と呼ばれる丘城部、麓の平城部という、大きく3つのブロックから構成された大型の複合城郭である。この構成は、現地解説板では「他に類例を見ない特異な構造」としているが、近場では高山城が類似した構造となっているし、中世5大山城に数えられる様な大城郭では、往々にして見られる構造なので、全く特異な構造というわけではない。どちらかと言うと、これほどの城にもかかわらず山上の曲輪群があまりに小規模で居住性のないことの方が特異である。
 平城部は、中ツ沢・国峰の谷と恩田地区の平野部から成り、谷部と平野の間に長さ200mの堀を穿ち、更に北方に外堀を穿って防御線を構成していた。現在は耕地化でほとんどの遺構が失われているが、わずかに外堀の一部が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、長く一直線の堀が明確に見られる。外堀の東西には南から北に向かって張り出した丘陵地があり(東のものは紅葉山と呼ばれる)、丘陵上に砦を築いて、外堀と共に最外郭の防衛戦を構成していたと推測される。
 丘城部は、城山から東北東に伸びる広い緩斜面に段々の広い平場群を築いている。最上段が御殿平で、その名の通り城主居館が置かれていたのだろう。現在は公園となっており、立派な石碑が建っている。その周囲の腰曲輪群や下方の平場はほとんど藪に埋もれてしまっている。最下段の曲輪は最も広い面積を有するようだが、民家の裏にあるので見ることはできなかった。丘城部は要害性を備えた上に、曲輪群も居住性があり、国峰城の中心的なブロックであったと考えられる。
 山上の山城部は、尾根上の狭小な曲輪群と南斜面の多くの腰曲輪群で構成されており、丘城部に対する詰城となっている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根上に曲輪群を配置し、要所を堀切で分断している。大手は東尾根にあった様で、東斜面に動線制約の竪堀が穿たれ、南腰曲輪群の南東部にも竪堀が落ちている。主郭西側の堀切は、南斜面に長い竪堀となって落ちているが、その両側に腰曲輪群が配置されている。これは信濃旭山城の構造によく似ている。西尾根の曲輪群は、尾根に沿って延々と伸び、途中、南の支尾根にも堀切と曲輪を築いている他、最西端のピークには西出丸を置いている。更にここから北尾根と南西尾根にも曲輪群が伸び、特に北尾根では最下方に横堀状の腰曲輪を設けている。この付近の遺構については、『図説 中世城郭事典』の縄張図が正確である。支尾根はいずれも傾斜がきつく、南西尾根は細尾根となっている。山城部は、比較的大きな竪堀がいくつも穿たれて、堀切もゴツいものが多いが、一方で主郭は小さすぎ、詰城以外の機能を持っていない。

 国峰城は、大きな城であるし、西上州の拠点的城郭で、北条氏の最大版図を示した地図に主要城郭として必ず記載されている程であるが、遺構面ではやや見劣りする。北条氏の主要城郭では最後まで未訪城となっていた城であったので期待していたが、少々残念である。
 尚、この城山では三角点が山頂ではなく、何故か北尾根をやや降った曲輪にあることを付記しておく。
東尾根の堀切と土橋→IMG_9374.JPG
IMG_9483.JPG←西出丸北尾根の横堀状腰曲輪
丘城部の御殿平→IMG_9294.JPG
IMG_9275.JPG←平城部の外堀跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.214588/138.896949/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


実録 戦国北条記   戦史ドキュメント

実録 戦国北条記 戦史ドキュメント

  • 作者: 伊東潤
  • 出版社/メーカー: エイチアンドアイ
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(6)  コメント(0) 

天引城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9196.JPG←北東尾根の横堀
 天引城は、関東管領山内上杉氏に属した甘尾若狭守の居城と伝えられている。山内上杉氏が没落し、西上州が武田氏の勢力下に入ると甘尾氏も武田氏に服属した。その後の甘尾氏の事績は不明であるが、多くの上州諸豪と同じく武田氏滅亡後は滝川一益に、滝川氏没落後は小田原北条氏に従ったのだろう。尚、この城にも八束城と同じく羊太夫(小幡宗勝とも言われる)の居城伝説があるようだ。

 天引城は、標高448.2mの朝日岳山頂に築かれている。登山道はいくつかある様だが、北麓の北登山口から北西尾根に登っていくルートがわかりやすいと思う。登り口から高さ100m程登ると、北西尾根中腹の腰曲輪に至る。ある程度の広さを持っているので、小屋掛けや倉庫などが置かれていたのだろう。そこから更に尾根を登っていくと、尾根中程の円弧状横堀に到達する。塹壕状の横堀で尾根を完全に遮断しており、尾根筋を登ってくる敵を迎え撃つ構造となっている。横堀からは1本だけ竪堀が落ちている。登り道はこの横堀に進入する形で屈曲しており、一種の枡形虎口となっている。その先の尾根はほぼ自然地形に近いが、平場状の地形も散見され、尾根上の曲輪として機能していたと考えられる。主城部は、主郭を中心に3~4段の腰曲輪で囲んでおり、単純な形態ではあるが普請はしっかりされていて、腰曲輪群も想像していたより広い。背後の南尾根には、小郭の先に岩盤を削りぬいたゴツい形の堀切で分断されて、城域が終わっている。また北東尾根を降った先にも遺構があり、最初に見えてくるのが塹壕線の円弧状横堀で、北東尾根のものより規模が大きい。この横堀から尾根に平行に大手道のような通路が降っている。その先を降っていくと小郭が見られる。ちなみにこの北東尾根では昭和期まで石切り場となっていたらしく、削岩機用の圧縮空気配管などが残っており、尾根の形状も改変されている。天引城は、比較的こじんまりした城ではあるが、尾根筋に横堀の防御線を構築するなど、特徴的な縄張りである。
南尾根の堀切→IMG_9248.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.221210/138.956602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


羊太夫伝承と多胡碑のなぞ 藤原不比等は討伐されたか

羊太夫伝承と多胡碑のなぞ 藤原不比等は討伐されたか

  • 作者: 関口 昌春
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2003/07/01
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 

多比良城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9083.JPG←主郭北側の堀切跡
 多比良城は、新堀城とも呼ばれ、関東管領山内上杉氏の支城である。山内上杉氏の居城平井城の別城で、また南の一郷山城を要害城(詰城)とし、これらで別城一郭の構えを成していたとされる。1563年、多比良城は西上州に侵攻した武田信玄の攻撃を受け、城主多比良氏は城に収蔵されていた上杉家の宝物を焼き捨て、子女を自害させ自らも自刃したと伝えられている。その後は西上州の支配者の変遷に伴い、周囲の諸豪と同様に主君を変え、最後は小田原北条氏に属した。1590年の小田原の役では、多比良豊後守友定は上杉景勝の先鋒藤田能登守信吉に降ったと言う。

 多比良城は、土合川とその支流に挟まれた比高40m程の段丘先端部に築かれている。城内はほとんど畑となって改変されているが、概ね往時の形状を追うことができる。中心に方形に近い形状の広い主郭を置き、その周囲に空堀を巡らし、その外側に北郭・東郭・南郭の各曲輪を配置している。主郭南の堀跡にはソーラーパネルが並んでしまっており、景観を損ねている。主郭西側は土塁を伴った腰曲輪になっているが、藪化している。北郭も藪だが、主郭との間の堀切は良くその形状を残している。東郭は畑となり、東下方に一段低く腰曲輪を築いている。南郭は畑とソーラーパネルが置かれている。南郭南東の車道は鉤形に折れているので、虎口の跡かもしれない。以上の様に、城址がだいぶ改変されてしまっているのが少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.236399/139.009087/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 

八束城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9011.JPG←長く落ちる二ノ郭堀切の竪堀
 八束城は、歴史不詳の城である。上野三碑の一、多胡碑に関係する羊太夫が住んでいたという伝説もあるが、現在残る遺構からは戦国期の城と推測されている。

 八束城は、標高453m、比高270m程の城山山頂に築かれている。まともに登ると稜線も長く大変なので、城巡りの先達、余湖さん推奨の南中腹の林道から東尾根にアクセスするルートでアタックした。そこからでも山頂までは150m程の比高差がある上、東尾根は砂礫で滑りやすい細尾根で少々危険である。東尾根から途中で派生する北尾根に2本の小堀切と小郭が見られる。この尾根の分岐から城の方に登るとやはり小堀切があり、ここの南斜面に落ちる竪堀が、中間土塁がコブ状に盛り上がった二重竪堀となっている。東尾根を登り切ると山頂の曲輪群に至る。主郭を中心に、東西に伸びる尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、主郭東のものを東1郭・東2郭・東3郭と仮に呼称すると、東尾根を登り切って到達するのが東3郭で、中間に土塁状の土盛りが見られる。東3郭と段差で仕切られた上に東2郭があり、背後に土塁と片堀切を穿っている。堀切の南側には土橋が架かり、東3郭に通じている。東3郭の後ろには主郭背後の堀切が穿たれている。この堀切は、一部に石積み跡が見られ、堀切から落ちる竪堀は主郭の北と南に築かれた腰曲輪と接続している。主郭は前後に堀切を穿った平場で、土塁は見られない。堀切を挟んで西にニノ郭があり、北側には広い緩斜面の腰曲輪が広がっている。この腰曲輪から見ると、二ノ郭は切岸で囲まれた独立丘の様に見える。二ノ郭の西側には堀切を挟んで、広い三ノ郭が広がっている。この堀切からは北に竪堀が長く伸びている。三ノ郭の先端には段曲輪があって城域が終わっている。この他、前述の通り主郭の北と南には腰曲輪が築かれているが、特に北のものは広く、北尾根からの登り口には土塁を伴った食違い虎口が築かれ、その下方には小郭も置かれている。
 八束城は、堀切は小~中規模で、技巧性もあまり見られないが、普請はしっかりしており、二重竪堀など武田氏系城郭に見られる特徴が垣間見られることは注意してよい。
食違い虎口と主郭の北腰曲輪→IMG_9021.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219998/138.970463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上野三碑を読む

上野三碑を読む

  • 作者: 熊倉浩靖
  • 出版社/メーカー: 雄山閣
  • 発売日: 2017/05/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 

高山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8876.JPG←天屋城の二重堀切
 高山城は、この地の豪族高山氏の居城である。高山氏は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で、秩父重綱の3男重遠が上野国高山邑に分封されて高山氏を称したことに始まる。1180年に木曾義仲が挙兵すると、高山重久は信濃横田河原の戦いに参加し、以後『吾妻鑑』の各所にその名が見える。南北朝時代の『太平記』にも高山遠江守・越前守の名が記されている。山内上杉氏が上野守護となると、高山氏は上杉氏に従い、その重臣となった。1552年に山内上杉氏の居城平井城が落城して小田原北条氏の勢威がこの地に及ぶと北条氏に服属し、1560年に越後の上杉政虎(謙信)が越山すると、再び上杉氏に従った。甲斐の武田信玄が西上州の攻撃を開始すると、1563年に高山氏は武田氏に服属した。しかし1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が上野に入るとこれに従った。わずか3ヶ月後、信長が本能寺で横死すると、北条氏直は神流川の戦いで滝川氏を破り、滝川氏は本領の伊勢へと落ち延び、西上州は北条氏の支配下に入った。高山遠江守定重は、神流川合戦で滝川方として奮戦したが、戦後は北条氏に服属した。1585年、北条氏が由良国繁の金山城を接収すると、定重は金山城の西城に在城した。1590年の小田原の役の際には、高山氏は小田原城に立て籠もり、北条氏滅亡と共に没落した。

 高山城は、山内上杉氏の居城平井城の南方1.2kmに位置している。高山氏と山内上杉氏との密接な関係が窺われる位置関係である。高山城は、山上の天屋城、山腹の要害山城、鮎川に突き出して築かれた山麓の百間築地の砦など、大きく3つのブロックから構成された大型の複合城郭である。
 まず百間築地の砦は、「鮎川温泉 金井の湯」と言う施設の南の段丘上にある。畑や耕作放棄地、空き地などになっているが、その一角に石垣が残っている。「残っている」とは言うもののほとんどは復元なのだろう。段丘の北辺部に20m程の復元石垣があり、その他に2ヶ所、櫓台状の方形の石垣が見られるが、往時はどのような構造となっていたのかは、現状からでは皆目見当がつかない。東側に大手があったとされ、大手口の近くに両側を谷状の空堀を穿った馬出しとされる平場も確認できる。
 次の要害山城は、百間築地からの比高40m程の北西に突き出た山陵上に築かれている。独立性の高い砦で、山稜北端のピークに石祠のある主郭を置き、北側に2段の腰曲輪を築き、その下方に円弧状の横堀を穿って防御している。横堀には土橋が架かり、東側では尾根に並行して長く堀と土塁が伸びている。この先で、尾根上に登る城道と虎口が残っている。この尾根上の虎口と要害山城主郭との間は、なだらかな自然地形の尾根が伸びているだけである。虎口から南東に登ると広い平場が広がっており、城主居館か何かが置かれていた様に想像される。切岸に一部石垣が見られるが、往時の遺構なのか、近世の耕地化によるものなのかは不明である。
 最後の天屋城は、標高297.3mの山上にそびえている。城への道は途絶しているので、結構な斜面を直登するしかない。三角点のある北端のピークに主郭を置き、周囲に2段程の腰曲輪を巡らしている。更に北西尾根に堀切と2段の段曲輪を置き、南東尾根にも3段程の段曲輪を築いている。一方、主郭の南西に伸びる主尾根に、3本の堀切と曲輪を連ね、その先に大きな岩の尾根が続いた後、二重堀切が穿たれている。その先の尾根南端は物見台状のピークとなっている。この主尾根の堀切はいずれも中規模のものだが、岩盤削り出しのごつい形状のものである。また主尾根の東側には二重竪堀が1ヶ所、西中腹には大きく湾曲した大竪堀が穿たれている。この他、天屋城の東と西に伸びる稜線上に堡塁群があった様だが、周辺がゴルフ場となった為、東のものは湮滅し、西のものはゴルフ場を突っ切らないと辿り着けないので、未見である。
 高山城は、なかなか見応えのある遺構が残っており、一見の価値がある。天屋城の堀切の感じは長野の山城に似ており、武田氏支配時代に改修されたものかもしれない。
要害山城の横堀→IMG_8681.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【百間築地の砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210736/139.027004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【要害山城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.209040/139.027627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【天屋城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.207983/139.030223/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 

平井金山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8645.JPG←東尾根の曲輪群
 平井金山城は、関東管領を世襲した山内上杉氏の居城平井城の詰城と言われている。山内上杉氏の事績については、平井城の項に記載する。

 平井金山城は、標高326mの山上に築かれている。山頂に主郭を置き、主郭の東西の尾根上と北尾根に曲輪群を配置している。北尾根は更に途中で北西尾根と北東尾根に分かれている。南東麓に駐車場があり、登山道も整備されているので迷わず登ることができる。基本的には多数の平場群だけで構成された城で、城域は広いものの技巧的部分は少ない。各尾根筋に穿たれた堀切も、いずれも小規模である。しかし、東端の物見台付近や、北東尾根の櫓門跡の虎口には、小規模ではあるが石垣や石段が残存している。また北西尾根には岩盤を四角く削った井戸跡も残っている。この他、主郭の北側下方の北尾根曲輪群からの入口は桝形虎口となっている。北東尾根の先端には大手門跡の表札が立つが、埋もれていて形状がよくわからない。遺構は以上の通りで、平井金山城はどちらかと言うと古風な縄張りの形態をそのまま残しており、上杉憲政が北条氏康に逐われて越後に落ち延びた後は、ほとんど顧みられなかったものと推測される。
主郭虎口の土橋→IMG_8436.JPG
IMG_8622.JPG←北東尾根の櫓門付近の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.214078/139.017713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 

手葉井山城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8069.JPG←主郭背後の第1堀切
 手葉井山城は、茨城県の遺跡地図では長峰砦、或いは手葉井山砦と記載され、歴史不詳の城である。一説には、小田氏治が佐竹・太田・真壁連合軍と戦って敗れた、手這坂合戦に関わる城砦ではなかったかと推測されている。
 手這坂の戦いとは、1569年(1573年説もある)に小田城主小田氏治が、佐竹氏に奪われてその客将太田三楽斎資正・梶原政景父子が守っていた片野柿岡両城を攻撃するため、筑波山東麓の手這坂に出陣したことから生起した。資正は、常陸太田城主佐竹義重・真壁城主真壁氏幹に援軍を要請し、両軍は手這坂で激突した。激戦の末に小田勢は敗れ、更に太田・真壁両氏の別働隊によって小田城を奪われた為、敗れた氏治は居城に戻ることができず、土浦城へと敗走したと言う。

 手葉井山城は、筑波山の南東に広がる山地の中の、標高232mの支尾根に築かれた城である。南東の尾根筋にある山道が城跡まで通じているので、場所がわかればほとんど迷わずに訪城できる。多数の曲輪群で構成された、中々城域の広い城で、前述の山道を登っていくと最初に出くわすのが南東尾根の前衛郭群である。横堀が穿たれ、その前面に堡塁を築き、堡塁の周囲もV字状の横堀で防御し、V字横堀の北西端部には土橋が架かって城外に通じている。この前衛郭群の先に進むと、山道が切り通し状に尾根を貫通し、山腹を南方向に伸びる城道となっている。この城道の上の尾根上には、何段もの曲輪が連なっている。段差があるのはわかるが藪がかなり多く、全容が掴めない。前述の城道に対して、曲輪の南端部では横矢掛かりの櫓台が築かれている。この主尾根の曲輪群の最上段が主郭と思われ、背後にU字型に土塁を築いている。主郭の西尾根には、断続的に5つの堀切が穿たれ、いずれも土橋が架かっている。それぞれの堀切の間には小郭があり、特に第2堀切と第3堀切の間は大きな土壇を持ったやや広い曲輪となっている。5つの堀切の更に後部(西側)には詰丸の様な遺構があり、小ピークの周囲に横堀や竪堀を複雑に絡めている。一方、主郭群の北支尾根・南東支尾根・東尾根にもそれぞれ腰曲輪群が連なり、北支尾根は先端に小堀切、南東支尾根では先端部に横堀、東尾根では2つの横堀が穿たれて尾根筋を防御している。またこれらの支尾根の遺構には竪堀状の城道も散見される。手葉井山城は、どちらかと言うと曲輪群を連ねただけの素朴な縄張りであるが、それにしては規模が大きく、横堀など全体に遮断系構造を重視している。手這坂合戦との関係は何とも言えないが、片野・柿岡両城を落とされて領国防衛に迫られた小田氏が、敵勢監視と間道防衛の為に築いた城ではなかったかと想像される。
第2堀切の土橋→IMG_8058.JPG
IMG_8233.JPG←南東支尾根曲輪群の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210979/140.133898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0)