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富谷城(茨城県桜川市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4227.JPG←主郭北東の入隅部
 富谷城は、宇都宮氏の家臣で紀清両党と謳われた軍団の一翼を担った益子氏の支城である。益子氏は、隣の笠間氏(宇都宮氏の庶流)と共に元々同じ宇都宮氏に属していたが、領域が隣接していた為、天正年間(1573~92年)に入ると関係が悪化して紛争が多発した。この頃に益子重綱が笠間氏との境目の城として築いたのが富谷城で、家臣の加藤大隅守を置いて守らせ、笠間氏の橋本城と対峙した。『関東古戦録』によれば、1581年以降、益子・笠間の百姓間の境界騒動に端を発し、益子方の富谷城主加藤大隅守と笠間方の橋本城主谷中玄蕃が鋭く対立した。1583年には、両者が交戦し、谷中玄蕃を討死させた。翌年の谷中玄蕃の一周忌に、玄蕃の嫡子孫八郎は弔い合戦に出陣し、富谷城を攻め落としたと言う。

 富谷城は、富谷山の南麓の裾野に築かれている。城の北西部は車道建設でやや破壊を受けているが、その他の部分は遺構が良く残っている。主郭はほぼ方形の曲輪で、北側に土塁を築き、北東隅部は横矢掛かりと鬼門除けを兼ねたと思われる入隅となっている。主郭の北面から西面に掛けては二ノ郭がL字状に取り巻き、主郭との間は空堀が穿たれている。主郭の南西端は南に張出しており、先端に物見台が築かれ、その側方に大手虎口と城道が残っている。主郭南側は段差だけで区画された腰曲輪となっている。主郭北東の入隅の外側には主郭・二ノ郭とそれぞれ空堀で分断された独立小郭があり、櫓台となって主郭東側を監視していた様である。主郭東側は自然地形の谷戸になっている様だが、ここだけ藪が多くわかりにくい。二ノ郭は北辺の一部に土塁が築かれ、北西端に土壇があり、西辺にも低土塁が築かれている。二ノ郭の北側は現在未舗装の車道が通っているが、空堀だった様である。富谷城は、守りの固い城というわけではないが、よく遺構が残っている。特に北東の櫓台(独立小郭)と空堀の配置は巧妙である。
北東の独立小郭→IMG_4225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.377932/140.103364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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