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小田城 その2(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4756.JPG←前山城から見た現在の小田城
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 私が小田城を最初に訪れてから、ちょうど10年になる。この間、つくば市によって毎年毎年、継続的に発掘調査が続けられ(10年前の訪城時もあちこち発掘中でブルーシートが掛かっていた)、ここ数年はこれらの調査結果に基づいた復元整備が進められてきた。そしてようやく2016年のGWに歴史広場として開園されたので、2017年8月に近くに来たついでに再訪した。ここでは復元整備された内容を抜粋して紹介する。

<本丸の堀と大手土橋>
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 埋められていた堀はやや掘り下げられ、大手虎口に繋がる土橋が復元された。土橋の北半分の土台には、発掘調査結果に基づいて石積みも復元された。

<本丸外周の土塁>
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 本丸外周には、往時は全周に土塁が築かれていたが、廃城後に崩されて堀を埋めるのに使われてしまっていた。発掘調査の結果、平安時代以後6層の変遷が確認され、15世紀中葉以降に徐々に土塁が大型化していった様子が判明した(ちょうど関東が戦国時代に突入する画期となった享徳の乱の勃発によるものでしょうか?)。この結果に基づいて、推定される高さまで全周の土塁が復元された。

<東池跡・建物跡>
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 本丸内には、池を眺める庭園が築かれていることが、発掘の結果判明した。岸辺には庵のような小型建物跡も検出されており、その跡も表示されている。同様な庭園は、武蔵鉢形城・出羽舘山城・遠江鳥羽山城などにも検出されており、戦国の殺伐とした時代でも庭園を眺めて和歌を詠む様な風流は、武将必須の教養であったことが窺われる。特に小田氏は関東八屋形に列せられた名門大名であり、家臣たちとしばしば連歌の会を催したことが伝わっているので、庭園が築かれていても何ら不思議はない。尚、小石を散りばめた「州浜」まで復元されている。

<南西虎口>
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 以前は形が残っていなかった南西の搦手虎口が復元された。戦国末期の最終段階の普請で築かれたらしい。虎口部分には石垣が築かれていたことが判明しており、その型を取った樹脂製の石垣が、本来の石垣の上に盛土をして保護した上に設置された。

<南西馬出>
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 南西虎口の前面には角馬出が構築されていた。以前もその形は、なんとなく残っていたが、周囲の土塁も含めて綺麗に復元され、東隣りの曲輪に繋がる土橋も復元された。尚、南西虎口とは木橋で連結されていたことが判明しており、その通りに木橋を架けて復元されている。


 これらの他に、本丸内には建物跡が地面に表示され、通路の石敷き、大溝跡や水路跡なども復元されている。また現時点では本丸以外にも、二ノ丸の一部に当たる本丸東側の曲輪が復元されている(その一部に民家が残ったままというのがすごいが)。とりあえずここまでの整備で一区切りとして歴史公園をオープンしたが、その他の外周の曲輪についても、まだ発掘調査と整備が続けられている様である。

 また近くには案内所が解説されており、パンフレットの他、無料で詳細な情報を得ることができる。ボランティアの解説員までいらっしゃった。その方の話では、なんでも日本のX線天文学の大家であった故・小田稔氏(X線源の位置を精度良く特定できるようにした「すだれコリメーター」の発明者)は、小田氏一族の末裔であるらしい。小田稔氏の娘さんがここに来て、そう仰っていたそうだ。ビックリつながりである。

 ところで角馬出で思い出したが、小田城では障子堀も各所で検出されている。角馬出、障子堀と言えば、小田原北条氏の築城法の代名詞のような技術である。小田氏が築いたのか、それとも小田氏治が城を追われた後に入城した梶原政景が築いたのかは不明だが、小田城に北条氏の築城技術が導入されていることは注意すべきである。これについては他の城(例えば大増城)の例もあるので、機会を改めて考証してみたい。
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