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池田館(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1247.JPG←主郭前面の堀切
 池田館は、奥州に移住した武州目黒氏の居館である。目黒氏は武蔵七党横山党の一流で、武蔵国荏原に本拠を構えていた。その事績は目黒氏館の項に記載する。室町時代の1444年から、目黒国平がこの地に移って居住したと言われている。1467年には、その子資平が父の菩提を弔う為に国平山称念寺を建立している。奥州目黒氏のその後の事績ははっきりしないが、館跡付近には江戸期の目黒氏の墓所が残っており、近世を通してこの地で命脈を保っていた様である。

 池田館は、緩やかな丘陵上に築かれている。入口には「目黒区ゆかりの廟所」という標柱が建っているので、近くまで行ってしまえば場所はわかりやすい。その奥には江戸期の目黒氏の墓所があり、多数の墓石が解説板と共に建っている。墓所のすぐ東には主郭前面の堀切・土塁が築かれている。この堀切の北端には、土橋が架かって郭内に通じている。館跡は、現地解説板によれば東西約300m、南北約100mの東西に長い長方形をしており、「中央部西寄りに空堀が存在する」と記載されているので、東西2郭から成る副郭の城館で、墓所があるのが二ノ郭であるらしい。一方、東の主郭は藪化しているただの平場で、堀切沿いの前面以外に土塁などは見られない。北側には腰曲輪を伴っている。主郭後部は段差で区切られた後、畑地になっているので、どこまで城域となっていたかは不明である。墓があるという情報以外の事前情報は皆無だったので、全く期待していなかったが、墓所のすぐ隣にはっきりした空堀・土塁があって遺構が明確だったのは嬉しい誤算だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.932487/140.839813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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冥護山楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1069.JPG←屈曲する大手道
 冥護山楯(冥護山館)は、明子山城とも記載され、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で伊達政宗が陣取りしたとされる陣城である。天文の乱で子の晴宗に敗れて丸森城に隠居していた伊達稙宗が、1565年に亡くなるとその女婿で稙宗の世話をしていた相馬氏が稙宗の隠居料であった丸森他5ヶ村(伊具郡)を占領したことが発端となり、伊達・相馬両氏はその後各3代20年に及ぶ長い抗争を行うこととなった。当初伊具郡を占拠した相馬氏は、伊具三城(小斎城金山城・丸森城)を押さえて伊具支配を固めていた。この時、冥護山楯は金山城と小斎城との中間に位置する重要な戦略陣地として相馬氏が築いたと推測されている。しかし1576年になると、伊達輝宗は矢ノ目に本陣を置いて伊具郡奪還に乗り出した。1581年には小斎城主佐藤為信が伊達氏の誘降に乗って相馬氏から離反し、続いて冥護山楯も金山城と共に伊達氏の掌中に帰した。その後、伊達成実が布陣した隣の西山楯と共に、政宗がこの冥護山楯に本陣を置いたと言われている。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達氏の優勢下で伊達・相馬両家の和睦が成立し、伊達氏による伊具郡奪還が果たされた。この和睦によって冥護山楯・西山楯はその戦略的意義を失い、その後使用されることなく廃城となった。

 冥護山楯は、標高80m程の丘陵上に築かれた城である。多重横堀と多重枡形を多用しており、伊達氏系山城の典型的な形態を示す。南の墓地裏に最初の虎口があり、そこから先の城内通路は全て堀底道となっている。この虎口も2つの堀状通路が並んでおり、前川本城の搦手虎口(外周部南西の入口)と似ている。2つの通路の内、向かって右側は途中で分岐しており、分岐の左は大手道だが、右は南東外周の横堀に繋がってしまっている。また左側通路は横堀外周の腰曲輪に繋がっており、囮虎口を兼ねていたと思われる。大手道を進んでいくと、目の前に櫓台がそびえ、堀状通路が屈曲しながらいくつにも分岐している。二ノ郭(現地解説板では「本陣」と表記)に至る大手は、屈曲した堀底道を通過し、右に登って小溜りと呼ばれる腰曲輪を経由し、左に曲がって小さな出枡形に登り、更に右に曲がって扇枡形と言う大きな出枡形の曲輪を通り、ようやく二ノ郭前面の枡形虎口に至るという徹底した多重枡形構造で、一体何回曲がるのかと言う程手が込んだ造りとなっている。但し、この多重枡形の部分は全体に薮が多く、見栄えしないのは残念である。大手道の左側に当たる南西斜面には、3本の横堀が穿たれて厳重な防御線を築いており、最上段の横堀は主郭の西側まで続いている。横堀の途中に、竪堀状の虎口も見られる。一方、前述の大手を登った先にある二ノ郭は、南北に細長く大手虎口付近のみ土塁が築かれている。二ノ郭の北には鞍部を経由して主郭(現地解説板では「人溜り」と表記)がある。なぜ主郭を人溜りと呼ぶのかはわからないが、二ノ郭より位置的に高く、土塁も多く築かれて防御が固められていることから、これが主郭であることは間違いないだろう。ちなみに現地標柱には本丸とある。主郭も南北に細長く、外周を低土塁で囲んでいる。主郭北側に搦手虎口があり、北に2段の腰曲輪が築かれ、小堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭の東側には帯曲輪が廻らされ、2ヶ所の東の支尾根尾根に堀切兼用の木戸口が設けられ、櫓台がそびえている。この他、小溜りと呼ばれる腰曲輪や、その下の大阪と呼ばれる腰曲輪には横堀が穿たれ、外周の横堀と合わせて南東斜面も3本の横堀が構築されている。城内は主郭と横堀の一部が薮が刈られて整備されているが、その他は薮となっている。

 以上の様に冥護山楯は、陣城にしてはかなり普請がしっかりしており、伊達家当主がこの地を拠点に本腰を入れて伊具郡奪還に望んでいたことが窺われる。
横堀と連絡・分岐する堀状通路→IMG_1229.JPG
IMG_1215.JPG←横堀
東支尾根の堀切・櫓台→IMG_1163.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.901280/140.822453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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木之下城(愛知県犬山市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_0851.JPG←神社裏の堀跡らしい地形
 木之下城は、尾張守護斯波氏の家臣織田広近が築いた城である。広近は、守護代織田氏の一族岩倉織田氏(伊勢守家)の当主であった織田敏広の弟で、美濃守護代の斉藤妙椿の侵攻に備える為、1469年に兄敏広の命で木之下城を築いて居城としたと言う。以後約70年間に渡って織田氏の歴代の居城となったが、1537年、織田信康(織田信長の叔父)は新たに犬山城を築いて居城を移し、木ノ下城は廃城となった。

 木之下城は、犬山城の南方約1kmの位置にあった平城で、現在の愛宕神社の位置に本丸があったとされる。神社本殿が建つ高台はかつての主殿跡とされ、すぐ脇に金明水という城内の井戸であったと推測される井戸が残っている。神社背後は低い窪地状の地形となっており、堀跡であった様である。周辺は市街化が進んでいるため、城の縄張りはわからなくなっているが、城址碑と解説板が城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.378982/136.942778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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前館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9813.JPG←館跡の段差
 前館は、室町末期の屋敷跡とされる。館主は月輪六郎七郎兄弟の妹おだまき姫と称された女人と言われている。
 前館は、旧北上川西岸の平地に築かれている。すぐ西には、月輪氏の菩提寺であり、月輪館の東門が移築されている香林寺がある。 周囲も館内も一面の水田に変貌している。館跡は周囲よりわずかに高くなった微高地となっており、現状は六角形の形をしているが、古い航空写真と見比べると形状が異なっているので、耕地整理で形状が改変されたものらしい。また『日本城郭大系』によれば、河川改修で削られてもいるらしい。主郭とされる部分の周りも周囲の水田より高くなっており、腰曲輪が取り巻いていた可能性もある。結局後世の改変が多いらしいので、どの様な構造の館だったのか、現状からではよくわからない。いずれにしても、微高地という以外に遺構と呼べるものは残っていないのが実情である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.600514/141.262014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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寺池城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9675.JPG←本丸前面の土塁らしき土盛
 寺池城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、登米要害と呼ばれ、登米伊達氏(白石氏)の居城である。しかしその創築は不明で、葛西氏時代に築かれていたとも言われるが、寺池葛西氏の本拠は南の保呂羽楯であったとする説が有力で、寺池城が実際いつ築かれたのかはよくわかっていない。葛西大崎一揆の後、その旧領が伊達氏の支配下に入ると、1604年に白石宗直が水沢から寺池城に移封となり、その居城となった。元和の一国一城令の後は城の名を去り、登米要害と称された。白石氏は後に伊達姓を賜り、以後伊達一門・登米伊達氏となった。4代宗倫の時、隣接する涌谷伊達氏との間で新田開発による境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 寺池城は、北上川西岸の南北に長い丘陵上に築かれている。その地勢と縄張りは、伊達騒動で対立した涌谷伊達氏の涌谷城と、奇妙なほど似ている。丘陵上は数段の曲輪に分かれ、北の最上段に本丸を置き、その南に二ノ丸を配置していた。本丸は現在畑と民家となっており、二ノ丸との間は切岸だけで区画されている。背後に当たる北側には谷戸を転用した堀切があり、前面には土塁跡と思われる土盛が見られる。二ノ丸は3段ほどの曲輪に分かれ、最上段には裁判所、中段に民家、下段に懐古館が建てられている。二ノ丸の南から西側にかけても平場が広がっており、現在は公園となっている。各段を分ける切岸は明瞭であるが、近代の改変が多く往時の遺構はかなり失われている。二ノ丸周囲の平場(公園)には石組みの井戸跡が残っているが、この井戸に限らず城内に何らの標柱も解説もないので、キャッスラー以外の人にはどこが城なのだか何が遺構なのだか、さっぱりわからないだろう。城のある登米町は「みやぎの明治村」として観光地になっているが、もう少し寺池城にも愛情を注いでほしいと思う。
本丸北側の堀切跡→IMG_9710.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657105/141.282399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯塚館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9622.JPG←水堀跡
 飯塚館は、加賀野城とも言い、葛西氏の家臣飯塚氏の居館である。飯塚氏は米谷城主亀卦川千葉氏の庶流で、米谷城主6代亀卦川盛胤の弟長明の3男重明が加賀野に分封されて飯塚氏を称した。天正年間(1573~92年)には飯塚山城持親(真満)の子飯塚修理が城主であった。1591年の葛西大崎一揆の際、父山城は佐沼城の一揆勢に加わって立て籠もったが、7月4日に伊達軍の攻撃を受けて討死し、加賀野城外竹林の中に葬られたと言う。修理はこの時疾病により参陣出来ず、父の没後14日後に没した。
 飯塚館は、現在の加賀野八幡神社の地にあった。境内には特に明確な遺構は見られない。境内の周囲は民家となっている。わずかに境内の裏手に水堀跡があり、北の民家との間に堀状の窪地が見られるに過ぎない。社殿の脇に城址立看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696220/141.217382/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石森古館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9609.JPG←全景
 石森古館は、葛西氏入部以前の奥州藤原氏時代の館と推測されている。城主等は伝わっておらず、古館の名は飯塚館に対してのものとされる。
 石森古館は、現在民家となっている。四周を水田に囲まれた単郭方形居館で、周囲より一段高くなっているのが明瞭にわかる。土塁などは残っていないようである。こんなところにも登米市は丁寧に城址の立看板を立てており、 歴史を後世に伝えようと言う姿勢が感じられ、素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.703170/141.218197/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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新井田城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9591.JPG←主郭腰曲輪~二ノ郭間の水堀
 新井田城は、新井田新館とも言い、千葉掃部助、後に新井田新右衛門の居城であったと言われる。城主の変遷は諸伝あって俄に判じ難いが、1223年に新田(にいだ)氏がこの地を領し、1283年以前には新田重綱が領有していた様である。これは下野小野寺城を本貫とした小野寺通綱の後裔で、重綱の父重房が、通綱が拝領した陸奥国登米郡上新田を譲られて新田太郎と称し、新田小野寺氏の祖となったとされる。その後、1289年に千葉掃部が入部して新井田城主となり、新井田村を開創し、城の鎮護のために赤城神社を建立したと言う。時代は下って天正年間(1573~92年)の頃には千葉掃部助が城主で落城の憂き目にあったと伝えられる。この千葉掃部助は、千葉信胤の孫と言われ、信胤は主家葛西晴信の偏諱を受けており、新井田氏を称した。掃部助は、新井田新左衛門(新右衛門?)とも称したらしく、奥州千葉氏の出自であるが葛西氏の一門でもあった様である。この辺は系譜が錯綜していてわかりにくいのが実情である。いずれにしても戦国末期に落城し、廃城となったことは間違いあるまい。

 新井田城は、舘集落に築かれている。北西から南東にかけて城域が広がっており、北西から主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、主郭の周囲には空堀を挟んで腰曲輪がぐるりと廻らされている。現地解説板の表記では、主郭を本丸、その腰曲輪を一の構とし、以下二の構・三の構と称している。主郭と腰曲輪は大半が水田となり、二ノ郭・三ノ郭は宅地となっているが、全体に遺構は良く残っている。城の全周と各曲輪の間は、水路のような水堀で区画されており、水堀はほぼ全て残存している。大手道は城内を貫通する車道として残っており、三ノ郭の大手門と二ノ郭虎口の部分は食い違い虎口の跡が道の曲がりとなって残り、主郭腰曲輪の大手虎口も枡形跡と思われる道のクランクが確認できる。主郭は周囲を囲繞する腰曲輪まで入れるとかなりの広さがある。主郭周囲の空堀はほとんど埋まっているが、一段低い畑となってその後を明瞭に残している。この他、主郭腰曲輪から二ノ郭の北側には馬場とされる帯曲輪が水堀に挟まれて残っている。民家が林立しているのに、これ程水堀をよく残している平城も珍しい。
城の外周の水堀→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.691598/141.243281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9498.JPG←辺縁部の土塁らしき土盛
 御館は、伊達氏の重臣大内氏の江戸中期以後の居館である。大内氏は小浜城を居城とした戦国大名で、戦国末期の当主大内定綱は、当初は伊達政宗に抗したが後に臣従し、摺上原の戦い等で軍功を挙げて重臣の列に連なった。豊臣秀吉の命で政宗が岩出山に移封となると、定綱は前沢城主に封じられた。その子重綱は、1644年に西郡(現在の錦織)に移封となり、西郡古館に居住して城下町を整備した。以後幕末まで大内氏は西郡の領主であったが、1740年に新たに御館を築いて居所を移した。そのまま幕末まで存続した。

 御館は、錦織集落の東に張り出した比高20m程の舌状台地先端部に築かれている。現在は錦織小学校の校地となっており、改変されている。しかしよく見ると、校庭の辺縁部に土塁状の土盛が見られ、その外側には腰曲輪状の平場も確認できるので、おそらく遺構ではないかと思われる。また校庭の南西端部は一段低くなっており、小道が通っており、城門跡か何からしい。また南西麓から登る車道はおそらく往時の大手道で、この坂道を人々は御表坂と呼び、館を御館館山と呼んだと言う。御館は、あまり遺構がはっきりしないが、往時の雰囲気は感じられる。尚、御館の南の丘陵中腹に大内家代々の御霊屋がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729489/141.273794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小鶴城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9435.JPG←主郭北西の堀切跡
 小鶴城は、岩切城主留守氏の重臣逸見丹波守の居城と伝えられている。逸見氏は、留守氏16代景宗(伊達尚宗の次男で稙宗の弟に当たる)が伊達氏から入嗣した際に従ってきた家臣で、留守氏の宿老的な地位にあった。また景宗の代に作られた『留守分限帳』には逸見遠江守の名が見える。伊達晴宗の3男政景の留守氏入嗣の際、二派に割れる家中にあって、逸見遠江守は政景入嗣を支持した様である。逸見氏のその後の事績はよくわからない。

 小鶴城は、低地帯に突き出た比高10m程の小丘上に築かれている。現在は城址全域が宅地化されているが、地勢は健在である。戦後の航空写真を見ると、小丘上の東西2郭から成っていた様で、西側の方が高い位置にあることから主郭で、東側が二ノ郭であったと考えられる。主郭の北西には堀切と外側の土塁が残っている。主郭・二ノ郭の周囲は現在も急斜面で囲まれており、多くの部分はコンクリート製の擁壁で覆われているが、一部は往時の切岸をそのまま残していると思われる。城の周囲には幅5m程の水堀があったと言われ、北側の堀跡は前述の古写真でも明瞭で、現在は公園となっている。小規模な城であるが、往時は低湿地帯に浮かぶ孤島の様な要害であったと思われる。これほど市街化が進んでいるのに、地勢や堀切など城の痕跡が明瞭なのは素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.279755/140.930064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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伊達政宗灰塚(宮城県仙台市) [その他の史跡巡り]

IMG_9425.JPG
 仙台城の北方2.9kmの位置にある大願寺には、伊達政宗の灰塚がある。戦国末期から江戸初期にかけての時代を独特の才覚で乗り切った政宗は、1636年5月に江戸桜田の仙台藩邸で波乱の生涯を終えた。遺骸はすぐに仙台に運ばれ、遺命により経ヶ峰(瑞鳳殿付近)に埋められた。伊達家には藩主や夫人の遺骸を死後すぐに埋葬し、49日の間に原野で空棺による葬礼を行うという独特の風習があり、政宗の葬礼は当時原野であったこの地で行われた。棺を焼いた灰を埋納して塚を築き、周囲に土塁と周濠を廻らせた。これが灰塚である。灰塚を護るため大願寺が建立された。5代藩主吉村の時、戦国時代の遺風であり無益であるとして廃されたと言う。尚、2代藩主忠宗、3代藩主綱宗の灰塚も北山にあったが、現存していないそうだ。

 大名の灰塚としては、以前に加賀前田家3代利常の灰塚にお参りしたことがあるが、これは実際に遺骸を火葬した際に出た灰を塚に埋めたものであった。大名の灰塚自体が残っている例が少なく珍しいが、伊達家の様に空棺を焼いた灰塚というのは、確かに他に例がないだろう。希少な史跡である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.278188/140.852988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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鞭楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9334.JPG←榴ヶ岡公園の中段の平場
 鞭楯(鞭館)は、源頼朝の奥州合戦の際、奥州藤原氏4代泰衡が本陣を置いた陣城である。1189年、源頼朝は、自分と対立した源義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏の討伐を開始した。泰衡は鎌倉勢を迎え撃つ為、阿津賀志山に長大な防御陣地を構築して異母兄藤原国衡を大将とする2万の軍勢を配し、刈田郡に城を築き、名取・広瀬両河に大縄を張り、自身は国分原鞭楯に本陣を置いて指揮を執った。しかし激戦の末に国衡らの諸将は討死して奥州勢は敗れ、泰衡は鞭楯から本拠地平泉へ撤退した。

 鞭楯は、現在の榴ヶ岡公園がその擬定地とされている。現在は市街化が進み、公園化で大きく改変されてしまっている。公園の南斜面には中段に平場が見られるが、腰曲輪の遺構であろうか?遺構は望むべくもないが、現在でも丘陵端部の公園となっており、南への眺望に優れた地勢であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.260634/140.896912/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=std&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:陣城
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長喜城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9282.JPG←「屋敷」北の堀跡らしい水路
 長喜城は、歴史不詳の城である。伝承では、中世の豪族である沖野氏らがこの地に館を築き、「喜びに満ちた不朽の城であるように」との願いを込めて命名したとされる。しかし沖野氏の事績についても不明であり、はっきりしたことはよくわからない。
 長喜城は、仙台市街地東端に近い沖積台地に築かれている。「いぐね」と呼ばれる屋敷林が残る景観が、古い農村の風景を残していることで知られているらしい。屋敷、御蔵堀などの地名が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、「屋敷」の部分に方形の主郭があり、その東西に2つの曲輪が、また主郭の南にも2~3つ程度の曲輪があった様である。現在は遺構の湮滅が進んでいるが、「屋敷」の西郭北側に水路の様な堀状地形が垣間見れる。また「御蔵堀」も囲郭であったらしく、堀跡らしい水路が残っている。いずれにしてもあまり遺構は明確ではなく、どのような縄張りの城館だったのかも闇の中である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.239908/140.938582/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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沖野城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9272.JPG←現存する土塁
 沖野城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。粟野氏の事績は、茂ヶ崎城の項に記載する。戦国末期の当主粟野大膳重国は、1591年に伊達政宗に抗したらしく、北目城に立て籠もって抗戦し、重国の弟も沖野城に立て籠もったという。しかし衆寡敵せず両城とも落城した。沖野城はそのまま廃城になったと思われる。
 沖野城は、陸上自衛隊霞目飛行場のすぐ南に隣接する地域に築かれていた。二重の土塁と水堀で囲まれた城だった様だが、現在は宅地化が進んで、ほとんど遺構は湮滅している。明確な遺構としては、北西部の土塁がわずかに残るだけである。その土塁も、周りを生け垣で厳重に囲まれ立入禁止と書かれた畑地の中にあるので、道端から遠望することしかできない。また南西部には円弧状の堀跡と思われる地形が水路と空き地となって残っている。遺構はその程度であるが、北門、中柵、舘など地名として残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.228784/140.919635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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四郎丸館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9268.JPG←館跡の善徳寺
 四郎丸館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣名取四郎の居館であったと言われている。源頼朝の奥州合戦の際に、主家藤原氏と共に滅亡した。後に曾我氏の居館となり、室町時代末期には伊達氏家臣菅井和泉守実国がこの館に入ったと言われる。
 四郎丸館は、名取川南岸の沖積地に築かれていた。現在の善徳寺境内付近にあったとされ、周囲に水濠と土塁を幾重にも取り巻いた要害であったと言う。現在は宅地化などで遺構は完全に湮滅しており、何らの痕跡も見出すことはできない。城址標柱も何もないので、ここが館跡だとは近所の人は誰も知らないのではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.189060/140.916266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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下野郷館(宮城県岩沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9249.JPG←堀跡の水路と土塁
 下野郷館は、矢野目足軽城とも呼ばれ、当初は奥山民部という武士の居館であったが、伊達氏に滅ぼされたとされる。その後、矢野目足軽と呼ばれる軍団の居住地となった。矢野目足軽は伊達家62万石直属の足軽で、藩祖伊達政宗が豊臣秀吉の命によって米沢から岩出山城に移封となった際に、政宗の従者として米沢の矢野目より移住し、更に1603年に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、この地に居を構えた鉄砲足軽であった。その後、この地は仙台藩家臣奥山与市左衛門の知行地となり、矢野目足軽はその配下に組み込まれた。しかし矢野目足軽は伊達家直参として政宗の信頼が厚く、それゆえ水運を扼し、かつ海防の任に当たるこの要衝に置かれたのだと言う。

 下野郷館は、五間堀川北岸の平地に築かれていた。前述の通り近世には足軽軍団の居住地となった為、中世の遺構は表層には残っていないと思われる。現在残っているのは近世の矢野目足軽城としての遺構で、中央集会所周囲に居住地外周を取り巻く土塁や水堀の一部が水路となって残っている。ここは矢野目足軽城の北西隅の部分に相当するらしい。以前は、下野郷駐在所の真向かいに石碑と標柱が建っていたが、現在は中央集会所敷地の西端に場所が移動されていた。それにしても足軽軍団を集住させた城というのも珍しい。野望を抱き続けた政宗らしい用心深さである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127037/140.902705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (地図中央は石碑の位置を示す)
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吉野城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9201.JPG←微高地となった主郭跡
 吉野城は、吉野五良という者の城と言われている。現地解説板によれば、吉野五良とは後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)のことで、1336年に伊久(伊具?)の国官府として吉野城を築いたとされる。そして、吉野五良の姫が病没後、その霊を祀るために阿弥陀堂を建立したと言う。阿弥陀堂は吉野城址の北西に現存し、前述の解説板はその堂宇の脇に立っている。しかしこれは随分おかしな伝承で、義良親王は後に吉野で父帝の後を継いで後村上天皇となっているし、陸奥国司・鎮守府将軍北畠顕家に奉じられて奥州に下向した先は多賀城であり、その時はまだ7~8歳の幼少であり、もしここに居たことがあったとしても姫など出生できる年齢ではない。おそらく「吉野」と言う名から連想した、随分無理のある仮託であろう。

 吉野城は、阿武隈川西岸の平地に築かれている。現在確認できるのは主郭跡の方形の区画で、民家と畑になっているので旧状をかなり失っていると思われるが、周囲よりこの区画だけわずかな微高地となっているのがわかる。また東側には堀跡らしい溝状地形が確認できる。解説板によれば、往時は内濠・外濠があり、東を搦手・西を西木戸・南を朱雀の木戸・北を松枝屋敷と言っていたらしい。外郭は回字状に主郭の周りを取り巻いていたと推測されているが、改変が激しく、ごく一部に土塁跡らしき土盛を残すほかは、既に塁線を追うことすら困難である。吉野城は、既に往時の姿は見る影もないが、南東角に建つ城址碑と前述の阿弥陀堂だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.995089/140.802777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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助川海防城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9125.JPG←物見番所跡
 助川海防城は、水戸徳川藩が江戸時代後期に築いた海防を目的とする城である。徳川幕府は長らく鎖国政策を採ってきたが、1790年代よりロシア船を始めとする外国船が度々日本近海に現れ、その一部は日本に通商を求めるようになっていた。強硬な攘夷論者であった水戸藩9代藩主徳川斉昭は、天下に率先して海防の重要性を強調し、1836年、家老山野辺義観(出羽の驍将最上義光の4男山野辺義忠の裔孫)を海防惣司という新設の役職に任じて、太平洋を一望できる助川村の高台に海防を目的とする城を築いて居住させ、異国船の侵入に備えさせた。築城に当たっては、新規築城は幕府から禁止されていたため、佐竹氏時代に新城七郎という武士(小野崎氏の庶流介川氏の一族か?)が築いていた蓼沼館を修築して海防惣司の屋敷にするという名目で、許可を受けたと言われる。以後、山野辺氏が歴代の城主を務めた。1864年9月、水戸藩で発生した天狗党の乱の時、城主山野辺義芸は天狗党側と見做されて幕府軍に攻撃され、助川海防城は落城・焼失した。

 助川海防城は、日立の海岸線から約2.2km離れた、標高110m程の丘陵上に築かれている。海防、即ち沿海警備を目的とする城である為、普通に思い浮かぶ城郭とは大いに趣を異にしている。本丸から南東斜面に段々に曲輪群を連ねただけの構造で、一般の近世城郭とはおよそ程遠い。本丸や二ノ丸は現在城跡公園となっているが、曲輪群と切岸のほかは遺構はかなり少ない。本丸には土塁が散在している。本丸正面に内枡形状の空間があるが、公園化による改変の様に見受けられる。というのも、全然違う場所に正門礎石が残っているからである。これらの他、公園内各所に標柱などが建っている。この様に往時の面影を朧気ながら伝えるのは公園部分のみで、公園以外の部分は市街化が激しく、旧状を推し量りにくい。助川海防城は、遠見番所を備えたことからも物見による警備を主目的とした城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/140.639462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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茅根城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9070.JPG←南側の腰曲輪状の畑
 茅根城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城である。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して茅根氏の祖となり、茅根城を居城とした。後に茅根氏は大橋城に居城を移したらしいので、この頃に茅根城は廃城となったのだろう。

 茅根城は、里川東岸の河岸段丘に築かれた城である。段丘上は大きく2つの区域に分かれ、旧佐都小学校があった根古屋部とその上の高台の主城部である。いずれもほとんど耕地化しており(一部は耕作放棄地)、遺構はほとんど残っていない。主城部は、よく城巡りの参考にさせてもらっているHP「北緯36度付近の中世城郭」では現在畑中に残るクランクした畑道を空堀跡とし、それを境に東西に2つの曲輪を並べた城であったと推測しているが、現状からでは実際にどのような城だったのかはなんとも言えない。既に戦後の航空写真でも一面の畑となっており、空堀の痕跡は見出だせない。ただ台地南側に何段かの腰曲輪跡らしい畑があり、南と南西に虎口跡らしい地形が残っている。また北側にはわずかであるが土塁の残欠が見られ、その脇に古道が通っていることから虎口跡であったと想定されている様だ。おそらく鎌倉時代に築かれた居館機能を主とした素朴な構造の城館が、茅根氏の移住に伴ってそのまま打ち捨てられたと考えられ、元々あまり城郭らしい遺構を残していなかったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.578635/140.543375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小堤館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8971.JPG←鱗勝院に残る土塁
 小堤館は、額田城の出城と考えられている。現在鱗勝院と言う寺が建っているが、鎌倉前期に額田城を築いた額田蔵人大夫義直がこの鱗勝院を中興開基しており、その際に有事の際の出城として機能するよう構築したものと推測される。一説には、額田氏が額田城を築く前に一時期居館を置いていたとも言われるが、定かではない。
 小堤館は、額田城の南西に位置し、三角形状に張り出した台地上に築かれている。現在は前述の通り鱗勝院の境内となっている。構造としては非常に簡素で、寺の西側に一直線状に土塁を築き、現在は道路となって湮滅しているが土塁の外側に空堀を穿って防御していた様である。土塁は特に南側でよく残っている。この他、南西の段丘辺縁部などにも土塁や堀、虎口らしい地形が見られるが、実際にそこまで城域が広がっていたかは不明である。尚、鱗勝院の境内墓地には額田佐竹氏の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.485478/140.516253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平戸館(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8958.JPG←吉田神社西側の堀・土塁跡
 平戸館は、大掾氏の一族、平戸氏の居館である。応永年間(1394~1427年)に、平戸甚五郎久幹が居城したと伝えられている。1426年、大掾満幹が府中に赴いて留守の間に、河和田城主江戸通房は大掾氏の居城である水戸城を奪取した頃には大掾氏一族の勢力は漸減し、平戸館もこの頃に廃城になったものと推測されている。
 平戸館は、涸沼川西岸の平地に築かれた平城である。南北2郭から成る小規模な城館で、南が主郭、北が二ノ郭と推測される。主郭は全周を掘で囲まれた正方形の曲輪であったが、民家と畑に変貌しており、堀は西側に僅かな溝状地形となって残っているのみである。二ノ郭には吉田神社が鎮座し、西側に僅かに堀跡と土塁跡が残っている。いずれにしても非常に小規模な城館で、その規模から考えると、平戸甚五郎が居住した応永年間の頃には大掾氏の勢力はかなり衰退していたことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.324435/140.559211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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沖宿堀ノ内館(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8918.JPG←堀跡の蓮根畑
 沖宿堀ノ内館は、歴史不詳の城館である。一説には、小田治朝の居館であったとも言うが定かではない。しかし近くの海蔵寺は治朝が開基で治朝の墓も残っていることから、治朝に所縁深い城館であったことは想像に難くなく、或いは治朝の隠棲地であったかもしれない(治朝は、小山義政の乱で敗死した小山義政の子若犬丸を庇護したことから、鎌倉公方足利氏満の討伐を受けている)。
 沖宿堀ノ内館は、霞ヶ浦北岸の平地に築かれている。南北に長い縦長の単郭方形居館であったと考えられる。館跡は現在畑となり、周囲の堀跡は東側以外の3面は残っているが、蓮根畑に変貌しており、夏だと蓮の葉が生い茂っていて蓮の葉のベルトにしか見えない。主郭は周囲よりわずかに高い微高地となっているが、土塁は確認できない。いずれにしても小規模な居館であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.070981/140.255692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8889.JPG←八坂神社北側の丘陵斜面
 高井城は、歴史不詳の城である。時代は不明であるが、『日本城郭大系』では諸岡盛綱の居城であったと記載されている。また1341年に鎌倉府の執事高師冬が北畠親房を擁した小田治久の小田城を攻撃した際、高井城も攻撃を受けたとされる。その他については不明である。

 高井城は、桜川南岸の独立丘陵上に築かれた城である。元々は三角形に近い形状で、東側にやや張り出しを有した丘陵であったが、現在は中央部を南北に国道6号バイパス(土浦バイパス)が貫通し、八坂神社が建っている部分以外は丘陵が全面削平されてしまっており、往時の姿はわずかしか残っていない。戦後の航空写真を見ると、神社南のアクティオや茨城トヨペット、国道を挟んで東側のスーパー敷地が丘陵となっていた。現在は綺麗に平地になってしまっている。従って、唯一残っているのが前述の通り八坂神社の境内部分だけである。ここは主郭北西側の腰曲輪の一部のようである。八坂神社北側の斜面が、唯一往時の形状を残していると思われる。戦後の航空写真だと、神社の南東に一段高く方形に近い形の主郭があった様だが、現在は消滅している。位置的にはちょうどアクティオから国道までの部分に相当する。また東の張出し部分に舌状曲輪を何段か築いていたようにも見受けられる。結局、丘陵の大半が消滅している為、残っている遺構が断片的すぎるので、何とも評価し難いのが実情である。一応神社の裏に土塁の様なものは残るが・・・。尚、境内には宝篋印塔があるが、南北朝時代のものと推測されており、高井城陥落時の供養塔と考えられているようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076653/140.177200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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小田城 その2(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4756.JPG←前山城から見た現在の小田城
(写真クリックで拡大)

 私が小田城を最初に訪れてから、ちょうど10年になる。この間、つくば市によって毎年毎年、継続的に発掘調査が続けられ(10年前の訪城時もあちこち発掘中でブルーシートが掛かっていた)、ここ数年はこれらの調査結果に基づいた復元整備が進められてきた。そしてようやく2016年のGWに歴史広場として開園されたので、2017年8月に近くに来たついでに再訪した。ここでは復元整備された内容を抜粋して紹介する。

<本丸の堀と大手土橋>
IMG_8733.JPG
 埋められていた堀はやや掘り下げられ、大手虎口に繋がる土橋が復元された。土橋の北半分の土台には、発掘調査結果に基づいて石積みも復元された。

<本丸外周の土塁>
IMG_8746.JPG
 本丸外周には、往時は全周に土塁が築かれていたが、廃城後に崩されて堀を埋めるのに使われてしまっていた。発掘調査の結果、平安時代以後6層の変遷が確認され、15世紀中葉以降に徐々に土塁が大型化していった様子が判明した(ちょうど関東が戦国時代に突入する画期となった享徳の乱の勃発によるものでしょうか?)。この結果に基づいて、推定される高さまで全周の土塁が復元された。

<東池跡・建物跡>
IMG_8786.JPG
 本丸内には、池を眺める庭園が築かれていることが、発掘の結果判明した。岸辺には庵のような小型建物跡も検出されており、その跡も表示されている。同様な庭園は、武蔵鉢形城・出羽舘山城・遠江鳥羽山城などにも検出されており、戦国の殺伐とした時代でも庭園を眺めて和歌を詠む様な風流は、武将必須の教養であったことが窺われる。特に小田氏は関東八屋形に列せられた名門大名であり、家臣たちとしばしば連歌の会を催したことが伝わっているので、庭園が築かれていても何ら不思議はない。尚、小石を散りばめた「州浜」まで復元されている。

<南西虎口>
IMG_8810.JPG
 以前は形が残っていなかった南西の搦手虎口が復元された。戦国末期の最終段階の普請で築かれたらしい。虎口部分には石垣が築かれていたことが判明しており、その型を取った樹脂製の石垣が、本来の石垣の上に盛土をして保護した上に設置された。

<南西馬出>
IMG_8814.JPG
 南西虎口の前面には角馬出が構築されていた。以前もその形は、なんとなく残っていたが、周囲の土塁も含めて綺麗に復元され、東隣りの曲輪に繋がる土橋も復元された。尚、南西虎口とは木橋で連結されていたことが判明しており、その通りに木橋を架けて復元されている。


 これらの他に、本丸内には建物跡が地面に表示され、通路の石敷き、大溝跡や水路跡なども復元されている。また現時点では本丸以外にも、二ノ丸の一部に当たる本丸東側の曲輪が復元されている(その一部に民家が残ったままというのがすごいが)。とりあえずここまでの整備で一区切りとして歴史公園をオープンしたが、その他の外周の曲輪についても、まだ発掘調査と整備が続けられている様である。

 また近くには案内所が解説されており、パンフレットの他、無料で詳細な情報を得ることができる。ボランティアの解説員までいらっしゃった。その方の話では、なんでも日本のX線天文学の大家であった故・小田稔氏(X線源の位置を精度良く特定できるようにした「すだれコリメーター」の発明者)は、小田氏一族の末裔であるらしい。小田稔氏の娘さんがここに来て、そう仰っていたそうだ。ビックリつながりである。

 ところで角馬出で思い出したが、小田城では障子堀も各所で検出されている。角馬出、障子堀と言えば、小田原北条氏の築城法の代名詞のような技術である。小田氏が築いたのか、それとも小田氏治が城を追われた後に入城した梶原政景が築いたのかは不明だが、小田城に北条氏の築城技術が導入されていることは注意すべきである。これについては他の城(例えば大増城)の例もあるので、機会を改めて考証してみたい。
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田土部城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8695.JPG←外郭西端部の土塁
 田土部城は、小田城主小田氏の支城である。元々は、室町初期の頃に田土辺左衛門尉忠貞と言う武士が築いたと伝えられる。戦国期には小田氏14代政治の次男信濃守政秀が田土部城に拠り、田戸部氏を称した。その後、小田氏が佐竹氏の攻勢によって衰退すると、田土部城は廃城になったと言う。

 田土部城は、桜川東岸の田土部集落に築かれていた。集落全体がほぼ城域に一致すると言うことであるが、宅地化で遺構はほとんど湮滅している。集落中心の東将寺付近に主郭があり、その北側に堀跡の様な溝状地形が見られる。またそこから小道を挟んで西側にも堀跡らしい溝が残っているが、夏場だったので草木が生い茂っていて形状を把握することはできなかった。これは大手虎口脇の堀であったらしい。その脇のブロック塀の中に土塁が残っていた様だが、ガサ藪で訪城時は気付かなかった。集落外周部には外堀の名残の水路が廻っており、郭内は周りよりもわずかな微高地となっているのがわかる。そして外郭西端部にも僅かであるが土塁が残っている。しかし城址標柱も解説板もなく、城の歴史は完全に埋もれてしまっている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.127277/140.131302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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笠松城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8640.JPG←城址碑と主郭
 笠松城は、元は佐谷城と呼ばれ、大掾氏の庶流佐谷氏の居城である。鎌倉中期の正元年間(1259~60年)に大掾(馬場)資幹の孫左衛門尉実幹が佐谷郷の地頭となり、佐谷城を築いて居城としたと伝えられる。しかし佐谷氏はわずか2代で断絶し、その後は廃城となっていたらしい。時代は下って1602年、佐竹氏が秋田に移封となり、代わって秋田の本堂茂親が志筑藩の領主となると、佐谷城の故地に居城を築き、笠松城と称した。以後約40年間この地に居住したが、1645年に志筑城址に新たに陣屋を構えて移り、笠松城は廃城となった。

 笠松城は、天の川とその支流の雪入川に挟まれた比高15m程の舌状台地先端部に築かれている。南から民家に登る道を登るとと、民家手前の右手に解説板が建っている。その脇から東の主郭に登ることができ、入口に城址碑もあるが、明らかに民有地であるのでこの先への進入は遠慮し、遠目に眺めるだけにした。主郭は、一部が畑のほかは現在ソーラー発電所になっている。主郭北辺には高さ1mに満たない低土塁が残るようであるが、現況からするとあまり期待できなそうな感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.146738/140.221102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中根長者屋敷(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8607.JPG←横堀と土塁
 中根長者屋敷は、中根長者という富豪の屋敷跡と伝えられている。伝承では、天正年間(1573~92年)に中根与衛門という富豪がいて、佐竹氏から軍用金の徴用を受けた時、元々小田氏の庇護を受けてきたことから、敵である佐竹氏の要請を拒絶した為、亡ぼされたと言う。
 中根長者屋敷は、現在の往西寺にあったとされる。中根川と飯田川に挟まれた台地上にあり、境内南側は急峻な斜面で囲まれている。境内の西面から南面にかけて、小規模ではあるが横堀と土塁が残存している。また南側には竪堀状地形と腰曲輪の様な畑地もある。中世の小豪族は半農半武士の開発領主であるので、そうした小豪族の城館として機能したのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167892/140.244834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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若宮館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8456.JPG←主郭切岸と腰曲輪らしい畑
 若宮館は、若宮某という者の居館であったと伝えられている。それ以外の詳細は全く不明であるが、茂木城の東方1.6kmの位置にあり、茂木城下への東の入口を押さえる要地にあることから、もし中世の城館であれば茂木氏の重臣の城館であったと推測するのが妥当であろう。
 若宮館は、国道123号線西側の丘陵上に築かれている。最上部に主郭を置き、周辺に腰曲輪を幾重にも築いていた様である。丘陵は一部が宅地となっている他は主郭も腰曲輪もほとんど畑となっている。改変されている可能性があるので確実ではないが、主郭は切岸で綺麗に区画された広い平場で、北東に鬼門除けの入隅が設けられている。主郭の周辺には畑が段々に多数連なっており、切岸で区画された腰曲輪群であろうか。街道を押さえるにはもってこいの適地であることが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.534976/140.203335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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北古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8424.JPG←城址の現況
 北古屋城は、歴史不詳の城である。佐竹氏の出城との伝承もあるが確証はない。位置的には茂木氏領の最東方で下野・常陸の国境に近く、佐竹氏一族の長倉氏の居城であった長倉城に程近いので、佐竹氏が出城を築いたことは十分に有り得る話である。
 北古屋城は、那珂川支流の逆川西岸の台地上に築かれている。城内は現在、一部が宅地のほかは一面の畑となっており、明確な遺構はほとんど確認できない。段々になっている畑がもしかしたら往時の腰曲輪かも、と言う程度である。城の中心と思われる部分は宅地となっている為、現況の確認もほとんどできない。段丘上にあるという地形のみが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.556473/140.237496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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手賀城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8376.JPG←外郭に残る土塁跡
 手賀城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、手賀原氏の居城である。手賀原氏は、戦国中期の頃に臼井城主原胤貞が千葉勝胤より手賀郷600貫を与えられ、胤貞の2男筑前守胤親が手賀城に入って手賀原氏初代となったと伝えられるが、時代的に合わないなど信憑性に乏しく、詳細な系譜は不明である。胤親の子久胤の時に小田原の役となり、手賀城も上方勢の攻撃を受けて落城した。その後、手賀原氏は当地に隠棲していたが、久胤死後にその後を継いだ弟胤次の時に徳川家の重臣板倉勝重に召し出され、1617年、勝重の推挙によって江戸北町奉行所の与力に抜擢されたと言う。その後、幕末まで代々江戸町奉行の与力として続いた。

 手賀城は、手賀沼南東の比高15m程の段丘上に築かれている。広い台地の広範囲を城域としていたらしいが、宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。主郭は段丘北端の中央部にあり、現在は畑となっている。畑の中に小さな神社が建ち、神社への入口に城址碑が建っている。主郭の東側などに僅かに土塁が残存し、その脇を通る車道は往時の堀底道であろう。この他にも宅地の脇や外郭南東部の市道脇に、部分的に土塁が残存している。明確な遺構はその程度であるが、城の地勢はよく残っている。


【2018年1月再訪】
前回手賀城を訪れたのは真夏で、見逃していた遺構もあった為、近くまで来たついでに再訪した。主郭の東側斜面に腰曲輪があり、先端には木戸口と思われる地形が確認できる。腰曲輪から谷戸を挟んで、東側に土塁を伴った段曲輪がある。一方、主郭の南西には斜面に沿って円弧状に横堀と土塁を築いた曲輪跡がある。この他、前回は気付かなかったが、主郭南西の民家の中に土塁が見られ、ちょうど道路の屈曲部に当たり、土塁はL字型をしているようである。どうも枡形虎口の跡の様である。そうすると、道路の左手の民家の敷地境界に見られるわずかな土盛も、もしかしたら虎口土塁の遺構なのかも知れない。
主郭の東側腰曲輪の木戸口→IMG_9518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.845761/140.072100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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