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明石城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7377.JPG←堀切兼用の東大手道
 明石城は、2代将軍徳川秀忠の命により、西国諸藩への備えとして新造された城である。1617年、大坂の役の戦功によって信濃松本城主小笠原忠真は明石10万石を賜り、船上城に入部して明石藩が成立した。それ以前の明石は姫路城主池田輝政の領国で、甥の池田出羽守由之を船上城に置いて守らせていた。輝政の死後、嫡男利隆が若死にして幼い光政が当主になると、江戸幕府は光政を鳥取城に移し、播磨を二分して姫路城には本多忠政を、明石には小笠原忠真を配した。そして翌18年、将軍秀忠は、忠真に忠政(忠真の舅)の指導を受けて新城を築くよう命じた。忠真は領内から3ヶ所の築城候補地を選定し、秀忠の決裁で現在の地が選ばれた。同年10月、幕府は3名の普請奉行を派遣すると共に普請費用として銀一千貫を支出した。その4ヶ月前には戸田氏鉄に尼崎築城を命じており、幕府は大坂防衛のために姫路・明石・尼崎の3段構えの防御線を構築しようとしていたと言う。明石城の築城は1619年正月に始められ、櫓・御殿・城門などには一国一城令で廃城になった伏見城・三木城高砂城・船上城・枝吉城などの資材が解体使用された。1620年に城は完成し、本丸の四隅には三重櫓が建てられていたが、天守は天守台のみで建てられなかった。こうして小笠原氏の居城となったが、忠真は1632年に豊前小倉城に加増転封となった。その後6ヶ月間、姫路城主本多氏に預けられた後、戸田松平氏・大久保氏・藤井松平氏・本多氏・越前松平氏(直良流)と変遷して幕末まで存続した。

 明石城は、明石駅前にそびえる比高20m程の段丘先端部を利用して築かれた城である。現在は公園となっており、本丸南側の2つの隅櫓が現存している。幕府の特命で築かれた城だけあって、豪壮な総石垣の城となっている。段丘上には西から順に本丸・二ノ丸・東ノ丸を並べ、本丸の西側には腰曲輪である稲荷曲輪を築き、これらの南側に広い水堀で囲まれた三ノ丸を置いている。本丸~東ノ丸の北側には天然の谷戸を利用したと思われる桜堀があり、その北側の丘陵部にも捨曲輪として北ノ丸が設けられている。本丸は前述の通り天守台を備え、東の二ノ丸との間に大堀切を穿ち、土橋で連結した大手虎口を設けている。本丸北側には搦手虎口がある。本丸内には柿本人麻呂を祀ったという人丸塚があるが、塚が本丸にあるのは近世城郭では珍しい。二ノ丸と東ノ丸は高低差がない地続き地形で、食い違い虎口を有した仕切り石垣で分割しているだけである。東ノ丸の東前面には堀切兼用の東大手虎口が築かれている。各城門は厳重な枡形虎口となっており、三ノ丸南東のものは二重枡形を形成している。南西には枡形虎口がそのまま駐車場入口として利用されている。北ノ丸は、自転車競技場や文化施設が建てられて破壊されているが、遊歩道脇の林の中に石垣と土塁で形成された枡形が残っている。明石城は、段丘辺縁部の急崖を効果的に利用しており、高い石垣群と相まって見事な姿を残している。ただ残念なのは、城址に関する看板・標柱が全くと言ってよいほど無く、全然地元から愛されていない城という印象を受ける。また夏場の訪城でもあったため、石垣に雑草がかなり生えており、破損の心配もある。せめて除草剤を定期的に散布して雑草の侵食を防ぐとともに、各所に解説板を建てるだけの愛着は持ってほしいと感じた。
天守台→IMG_7474.JPG
IMG_7487.JPG←坤櫓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.652636/134.991717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平山城
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