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76年前 [雑感]

76年前の今日、戦争が始まった。
最近では、このことを大きく取り上げないマスコミも多い。

国と国民を奈落の底に突き落とす戦争になぜ日本が突き進んだのか?
なぜ開戦を、多くの日本人が支持し、賞賛したのか?
その総括はいまだ十分にされないまま、時だけが過ぎ去り、
この国民は過去への反省を忘れようとしている。

この国民の暴走で、どれほどの災厄をアジア・太平洋地域に撒き散らしたのか。
日本人は、もう一度そのことをよく思い直した方が良い。
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赤穂城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6937.JPG←二ノ丸東側外周の石垣
 赤穂城は、忠臣蔵で名高い赤穂浅野家(浅野内匠頭)の居城として知られている。基本は純然たる近世城郭であるが、その前身は関ヶ原合戦の後にこの地を領有した姫路城主池田輝政が、末弟の長政を22,000石で赤穂に配し、後の赤穂城地に掻上城を築いたのが最初とされる。その後、池田輝政の家臣垂水半左衛門勝重が赤穂郡代となって役所を構え、更に池田政綱・輝興が赤穂を領した。しかし1645年3月、輝興は突如狂乱して内室と侍女2人を斬り殺して改易となった。その後には、浅野長政の孫に当たる浅野内匠頭長直が、常陸国笠間城から赤穂に53,500石で移封となった。長直は、1648年に赤穂城築城願を幕府に提出し、紆余曲折を経て、1661年に赤穂城が完成した。築城に当たっては、甲州流軍学者近藤正純が設計を行い、更に招聘された軍学者山鹿素行が途中から参画して縄張りに修正を加えた。赤穂浅野家は3代続いたが、1701年、内匠頭長矩の時に江戸城中で吉良上野介義央と刃傷事件を起こし、5代将軍徳川綱吉の命で即日切腹となり、赤穂浅野家は断絶した。同年4月に赤穂城開城となり、一旦は幕府領となったが、翌年、下野国烏山城主永井伊賀守直敬が赤穂に33,000石で入封して暫定的に統治した。1706年、森長直が赤穂に20,000石で入封し、以後森氏11代の居城として幕末まで存続した。尚、元々5万余石の浅野家時代でも分不相応に広壮な城であったが、浅野家改易以降は禄高が次第に減少した為、幕末には城下町は衰微し、城の維持修復にも事欠く有様であったと言う。

 赤穂城は、海に面した低丘陵に築かれている。本丸の周囲に二ノ丸を環郭式に廻らし、北側に三ノ丸を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は水堀で囲繞され、西国の近世城郭らしく総石垣の城となっている。観念論を主軸にした江戸期軍学者の設計らしく、本丸を始めとする各所の塁線は複雑な折れを持ち、隅櫓台は張り出され、各所で横矢掛かりを強く意識した縄張りとなっている。特に本丸は稜堡式城郭の原型とも言えるもので、しつこいくらい屈曲している塁線がいかにも理念先行の軍学者の設計らしい。本丸内には天守台もあり、築城時に天守を建てる計画もあったようだが、結局財政難で建てられずに終わっている。同様に、本丸の4つの隅櫓台も、実際に櫓が上げられたのは北東隅櫓だけで、他の3つは横矢枡形と称して石垣の基台のみであった。
 城内には近代に入ってから一時期学校が置かれるなどして城の遺構は改変されたが、現在は国指定史跡となって復元作業が進められている。本丸は大手門が復元され、御殿跡の配置がコンクリート板で地面にマーキングされている。二ノ丸は国名勝の庭園が復元途上である。三ノ丸には大石神社があり、47士が祀られて観光名所となっている。護岸工事に二ノ丸石垣が持ち出されるなど、一時期改変されたせいと思われるが、石垣は真新しいものが多く、かなり積み直しされてる感じである。大手門の枡形石垣は、明治期に破壊されたものを復元しており、一部の角部が円弧状の石垣も往時の形であるらしい。三ノ丸の石垣もほぼ全周に渡って残っている。訪城が夏場だったこともあり、石垣にかなり雑草が生えていて、石垣の損壊が危惧される状況であった。私は個人的に、純然たる戦闘用に造られた、実戦本位の中世城郭の方が好きなので、権勢誇示志向の強い近世城郭、特に机上理論のみの江戸期軍学者の手になる赤穂城は、ちょっと好みから外れていた。
天守台から見た本丸御殿跡→IMG_6866.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746047/134.388735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世水城
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