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中山城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0120.JPG←主郭の土塁
 中山城は、小田原北条氏が真田氏攻撃の為に新造した城である。1582年前後の書状等から、1582年12月~83年初頭頃の築城と推測されている。既に北条氏に服属していた白井長尾氏の軍勢が中山の地を攻略すると、沼田顕泰の孫に当たる赤見山城守昌泰を中山に置いて守らせた。北条氏は直ちに新城(中山城)を築き、山城守の調略により、川田・須川・沼田の地侍で北条氏に服属する者が相次いだ。しかし1586年、真田昌幸によって中山が奪還されると、中山城には真田方の林弾左衛門らが入ったと言う。その後の中山城の歴史は不明であるが、豊臣秀吉による沼田領帰属問題の裁定が下るまで、北条・真田両氏の間では強い軍事的緊張状態が続いたので、城は存続していたと考えられ、1590年の小田原の役の際に廃城になったと思われる。

 中山城は、比高わずか15m程の舌状台地に築かれている。台地中央の東端に方形の主郭を置き、周囲に大きな空堀をコの字に穿ち、更に外側に二ノ郭を巡らしている。主郭内は東辺以外の3辺に土塁が築かれて防御を固めている。二ノ郭は、主郭の西から南にかけてL字状に配置され、主郭北側の北二ノ郭とは空堀で分断されている。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、周りに三ノ郭が配置されている。北二ノ郭・三ノ郭の北側にも空堀が穿たれ、帯曲輪と北郭が築かれている。三ノ郭は耕地化で改変されており、ニノ郭外周の空堀は一部はかなり埋められてしまっている。また三ノ郭の南側には舌状の四ノ郭があり、間に堀切を穿って分断している。『日本城郭大系』では四ノ郭を「捨郭」としている。四ノ郭はただだだっ広いだけで、外周に腰曲輪があるものの、あまり防御構造を築いていない。こうした面を考えると、兵坦拠点としての機能を重視した城だった様に思える。
 さすがは戦国末期に築城巧者の北条氏が築いただけあって、空堀は大規模で防備に余念がないが、横矢掛かりは思いの外少ない。但し二ノ郭周囲の堀は、やや複雑な堀のネットワークを形成しており、まるで迷路の様である。また北ニノ郭から主郭の堀底へは横矢が掛けられ、攻撃のポイントを絞った普請がされている。中山城は、村の史跡に指定され、主郭は整備されているが、残念ながらそれ以外はけっこう薮がひどい。ニノ郭など、もう少しきれいに整備されていると期待して行ったのだが、残念な状況だった。
主郭外周の空堀→IMG_0138.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627376/138.951623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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