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権田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9445.JPG←主郭背後の空堀
 権田城は、大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守の居城である。伝承によれば、当初は権田淡路守の居城であったとされる。その後、大戸氏の支配となり大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守が城主となった。1564年頃、武田氏の家臣真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、大戸城主大戸真楽斎と権田城主大戸但馬守は幸隆に降伏し、人質を出して武田氏に降った。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となり、権田城もその支配下となったと考えられる。

 権田城は、烏川の北岸、鉄火集落背後の標高556mの丘陵上に築かれている。最高所に方形の主郭を置き、その前後を空堀で分断し、南に伸びる斜面に沿って段々に曲輪を築いている。城内はほとんど畑となっているため、遺構の細部が失われているので、城域は明確ではない。『境目の山城と館 上野編』によれば概ね5つの曲輪で構成され、主郭から先端の5郭までの東側に大きな空堀が穿たれて、鉄火集落側との分断を図っている。南端付近の曲輪は耕作放棄地となっていて、深い薮に埋もれている。権田城は、緩斜地を利用した城で、要害性よりも居住性・当地拠点としての機能を優先した城だった様である。縄張りとしては少々面白みに欠ける。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447989/138.776615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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