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宇田城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6377.JPG←三ノ郭背後の堀切
 宇田城は、国峰城主小幡氏の庶流小幡図書介景純(景定)の居城と伝えられている。戦国時代、小幡憲重・信貞父子は関東管領山内上杉氏の宿老であったが、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信貞は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信貞は国峰城主に復帰したと言う。また一説には、甘楽大夫友政が宇田城主であったともされる。

 宇田城は、標高250m、比高65m程の山上に築かれている。東西に並ぶ2つの峰から南東にそれぞれ伸びる尾根上に曲輪群を展開しており、比較的規模の大きな山城である。城の主部は西側の峰から伸びる尾根上にある。居館跡(宇田西城)とされる神守寺方面から登道が付いており、登り始めてすぐに大手の多段曲輪群が現れる。結構規模の大きな曲輪も多く、兵舎や倉庫群が並んでいたと想像される。大手曲輪群の最高所が三ノ郭で、後部に櫓台を築き、背後を堀切で分断している。その北側がニノ郭で、更に堀切を挟んで最高所の主郭群がある。ニノ郭から主郭群の東斜面には整然と腰曲輪が築かれている。三ノ郭背後の堀切は竪堀となって腰曲輪を貫通・分断しているが、ニノ郭背後のものは腰曲輪に連結しており、東西の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの主郭~二ノ郭の東側腰曲輪群は構造がやや複雑で、段差でいくつもの曲輪に区画され、竪堀状の通路で下部の腰曲輪と繋がっている。主郭は南側に虎口小郭を張り出し、外周に腰曲輪を廻らしている。北西尾根に段曲輪を設け、堀切とされる尾根鞍部の先に物見台の峰がある。一方、主郭群から北東の尾根には比較的規模の大きな二重堀切が穿たれ、その先に北城がある。北城は、最高所に、南東の尾根に段々に曲輪群を連ねている。一部に堀切も見られるが、北城は全般的に薮が酷く、遺構の確認が難しい。以上が宇田城の構造で、それほど技巧的な縄張りではないが、全体的に整然とした縄張りで構築されており、特に主城の方は薮も少なく、遺構を堪能できる。
大手曲輪群→IMG_6334.JPG
IMG_6436.JPG←二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.261594/138.847575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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