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藤岡城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8917.JPG←北側の大土塁
 藤岡城は、芦田城とも言い、徳川家康の部将芦田康寛(依田康勝)が築いた居城である。康寛は、甲斐武田氏の家臣であった佐久郡の有力国衆依田信蕃の次男である。織田信長の武田征伐の際、父信蕃は田中城を守って徳川氏の重囲にも屈せず、崩壊する武田勢の中で唯一抵抗を続け、開城したのは武田勝頼滅亡後であった。その後、信長の武田遺臣狩りから逃れるため、信蕃は家康に匿われた。信長横死後の武田領国を巡る天正壬午の乱の際には、信蕃は家康の司令を受けて佐久方面で北条氏の攻撃にも耐え抜き、逆に北条勢の補給路を断つなど、徳川方の勝利に大きく貢献した。信蕃の死後、康寛の兄康国が家督を継いだが、1590年の小田原の役の際、石倉城攻めで討死すると、弟の康寛が家督を継いだ。徳川家康が関東に入部すると、康寛は3万石で藤岡に封じられ、家臣清水久三郎の縄張りで藤岡城を新規築城して居城とした。1600年春、康寛は囲碁の争いから小栗三助というものを刺殺して改易となり、城は廃された。

 藤岡城は、平地に築かれた方形単郭の城で、周囲を土塁と堀で囲んでいたらしい。現在は藤岡第一小学校の校地となって破壊が進んでいる。しかし北側には高さ5m程もある大土塁が残っており、かつての威容を偲ばせる。この大土塁の東西両端には櫓台があったとされ、西の櫓台跡には石碑などが建っている。東の高台上に神社が建っているが、これは東の櫓台跡に立っているらしい。この他、城址北東にある工務店の北門には「乾門通用口」と書かれており、城址の名残を思わせる。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南に角馬出を備えた追手虎口、北に搦手虎口を構えていたと言う。遺構は北側の土塁だけだが、これほど市街化された中にあって、奇跡的にもよくこれだけ立派に残っていると感心させられる。しかも校地に入らないで済むように散策路が整備されているのもありがたい。これで解説板があれば言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.241920/139.075091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国三代の記―真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃とその一族

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  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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