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矢筒城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5787.JPG←稜堡式のような三角形状の出桝形
 矢筒城は、北国脇街道と各街道が合流する要衝に築かれた、北信濃の拠点城郭である。1513年の越後守護代長尾為景の福王寺彦八郎宛の書状に記載された福王寺要害が矢筒城のことだと推測されている。この頃は福王寺氏が城主であったが、永禄~天正年間(1558~92年)にはこの付近は島津泰忠の本領であったとされ、島津氏が城主であったとも伝えられるが、天正年間(1573~92年)に福王寺氏の存在も確認されており、この間の状況は不明である。1582年、織田信長の武田征伐が始まり織田軍が信濃に侵攻すると、海津長沼両城に拠っていた武田勢は上杉景勝に援軍を要請し、景勝は上条宜順を主将とする援軍を直ちに派遣した。この時上杉軍は矢筒城で合流し、長沼城に入城している。また景勝は福王寺氏らに対し城を堅固にするよう指示しており、信濃に入った上杉軍を動員して城の修築がされたと考えられている。その後、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、北信濃4郡は上杉氏の支配下に入り、矢筒城もその持城となって整備拡張された。その後の歴史は不明である。

 矢筒城は、標高566.6mの矢筒山というなだらかな山容の独立丘陵全体を城砦化した城である。町立飯綱病院の裏山がそれで、城内は公園化されているので比較的遺構が見やすい。なだらかな丘陵上に幾重にも曲輪を築いた多段式の城で、曲輪間は段差で区切られているだけで、堀切は見られない。切岸の一部に物見台のような土壇や内桝形の様な形状が見られる程度である。土塁も少ない。一部の段差部に石垣が見られるがわずかである。但し、大手虎口と思われる登り道脇や搦手道にははっきりとした石垣があり、虎口は石垣造りだったらしい。しかしいずれも低い石垣で、雑草が生えてくる時期には見辛くなってしまう程度である。一番はっきりしているのは主郭の南側腰曲輪にある石塁である。また主郭東側の腰曲輪から二ノ郭に通じる虎口には三角形状の小型の出桝形があり、まるで稜堡式の様である。幕末に何か使われることでもあったのだろうか?戦国~安土桃山時代の遺構だとすれば、かなり珍しいものである。この他、東側の山腹には横堀が延々と穿たれ、北西端でニノ郭先端から落ちる竪堀と繋がっている。尚、往時は飯綱病院の所に居館があり、その外周には外堀があったとされる。現在は車道になっているが地形は名残を留めている。城の南の車道脇には舟繋石の標柱が立っているが、他の方が撮った写真の様な石はなく、どこかに持ち去られてしまった様だ。以上の様に矢筒城は、縄張としては単に無数の曲輪を連ねているだけであまり面白味はないが、織田信長の武田征伐とも関係した歴史的には重要な城である。その様な点も含めて出羽長谷堂城とよく似た印象の城である。
二ノ郭から落ちる竪堀→IMG_5724.JPG
IMG_5806.JPG←南腰曲輪の石塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749459/138.233414/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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