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岩櫃城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2863.JPG←二ノ郭から落ちる長大な竪堀
 岩櫃城は、戦国後期に上州に進出した真田氏の重要な支城であり、岩殿城・久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々は、鎌倉時代から南北朝時代にかけてこの地を領した吾妻氏が築城したとも言われ、南北朝期に吾妻太郎行盛が城主であったとも伝えられるが明確ではない。伝承では、1349年に行盛は南朝方の里見義時に攻められて討死し、その子千王丸(後の斎藤越前守憲行)は逃れて、安中地方の斎藤梢基の養子となり、斎藤氏を称したと伝えられる。1357年、上杉憲顕は里見義時らを追討し、憲行は上杉氏に従って岩櫃城を奪還し、以後山内上杉氏の幕下となったという。(しかし時代的にはこの説は史実と合わない。1357年といえば、将軍足利尊氏が存命中で、観応の擾乱の余波で尊氏と足利直義の養子直冬の対立が燻っており、直義党であった上杉憲顕は信濃に落ち延びていたまま復権していなかったはずである。もし里見氏討伐が事実であれば、それは上杉氏復権後の1362年以降であろう。)以後、斎藤氏は吾妻地方東部を支配し、岩櫃城は6代越前守憲広まで斎藤氏歴代の居城となった。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。憲広は堅城に拠って抵抗したが、ついに落城し、憲広は上杉謙信を頼って越後に逃れ、子の城虎丸を嵩山城に立て籠もらせて抵抗を続けた。しかし1565年、嵩山城も落城し、斎藤氏は滅亡した。信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は一族の海野幸光・輝幸兄弟を岩櫃城代とした。1574年に幸隆が没すると、その嫡男信綱が真田氏の家督を継いだが、翌75年の長篠の戦いで信綱・昌輝兄弟が討死し、3男の昌幸が真田氏の家督を継いだ。1580年に昌幸は沼田城を攻略し、沼田城代として叔父の矢沢頼綱を置き、岩櫃城はその支城となった。翌81年、昌幸は海野兄弟を謀叛の罪で誅殺した。82年、織田信長の武田征伐が始まると、既に高天神城を見殺しにしたことで信望を失っていた武田勝頼から離反する信濃の国人衆が相次いだ。築城途中の新府城では支えきれないと判断した勝頼に対して、昌幸は岩櫃城への籠城を献策して一旦は容れられ、勝頼を迎え入れる為に仮御殿の造営を行ったが、勝頼は途中で小山田信茂の岩殿城へ行き先を変更し、その途中の笹子峠で信茂に裏切られて天目山で自刃し、武田氏はあっけなく滅亡した。武田氏滅亡後、上野には信長の重臣滝川一益が入り、真田氏も滝川氏に従ったが、わずか3ヶ月後に信長は本能寺で横死し、一益は北条氏直によって上野から逐われ、本領の伊勢に逃げ帰った。天正壬午の乱を経て、徳川・北条両氏の和睦が成り、その条件として上野の真田領は北条氏に割譲されることとなったが、昌幸はこれに抵抗し、半独立勢力として上田城・岩櫃城の二拠点を中心に上杉・北条・徳川の諸将と集合離反を繰り返した。1589年、豊臣秀吉の裁定によって、沼田領は北条氏に引き渡され、矢沢頼綱を岩櫃城代とした。1590年に北条氏が滅亡すると、真田氏は秀吉に服属し、昌幸の嫡男信幸が沼田城主となり、重臣の出浦対馬守が岩櫃城代となった。1600年の関ヶ原合戦では、岩櫃城は東軍に付いた信幸の支配下となり、戦後も信幸の属城として続いたが、元和の一国一城令で岩櫃城は破却された。

 岩櫃城は、峻険な岩櫃山の東の尾根途中に築かれた城で、標高594m、東麓の国道145号線からの比高210m程の位置にある。さすがは昌幸が武田勝頼を迎えようとした城だけあって、広大かつ大規模な普請を加えられた山城である。北東中腹に駐車場と観光案内所が整備され、城内もハイキングコースが整備されているので、訪城に困ることはない。東尾根上に西から順に主郭・二ノ郭を置き、東下方の緩斜面に中城と呼ばれる三ノ郭を配置している。主郭は「いだて(居館)」と呼ばれ、東西に長い広い曲輪で、北辺に土塁を築き、北東部に櫓台を備えている。主郭の北西部と南西部に枡形虎口が設けられているが、破却のせいか形状がやや不明瞭である。主郭の南側から東側にかけて横堀が廻らされ、そのまま二ノ郭との間を掘り切っている。二ノ郭周辺を中心に、規模の大きな竪堀・横堀のネットワークが形成され、城内通路・登城道は基本的に堀底道となっている。中でも二ノ郭直下から東尾根に平行して落ちる竪堀は長大で、上部で腰曲輪の横堀とY字状に合流し、延々と中城まで落ちて、先端は直角に折れ曲がって北斜面に落としている。またその他の横堀や南東斜面の腰曲輪からも何本も竪堀を落としている。一方、主郭西側の岩櫃山山頂に続く尾根にも物見らしい小郭群を置いており、北斜面にやはり竪堀を穿っている。また主郭北西の桝形虎口の下にも土壇や堀が構築されており、搦手・尾根上の物見付近まで一切手を抜かない縄張りとしている。おそらくは戦国末期の北条氏との緊張状態を如実に示しているのであろう。このほか、北東斜面にも水曲輪と言う曲輪群が段々に配置され、その側方に横堀が穿たれ、搦手への登城道となっている。その名に違わぬ屈指の堅城で、横堀・竪堀の巧妙なネットワークは素晴らしい。この他、南斜面下方や東斜面下方にも何段もの広い曲輪群があり、「殿屋敷(海野長門守屋敷)」「出浦対馬守屋敷」と称されている。
 岩櫃城は、関八州で私が訪城していなかった最後の大規模城郭であったが、期待通りの素晴らしい遺構だった。ちなみに登ったのは4月上旬で、春の早かった今年は既に桜が咲いており、青空も出ていたが、駐車場に車を駐めたところで突然雪が降り出したのには、驚かされた。雪が出迎えてくれたように思えた。
主郭南側の横堀→IMG_3018.JPG
IMG_3049.JPG←背後の尾根の竪堀
主郭の櫓台→IMG_2994.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.559136/138.804359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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