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国峰城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9410.JPG←主郭背後の大竪堀
 国峰城は、西上州有数の豪族小幡氏の歴代の居城である。小幡氏は、武蔵七党児玉党の一流で、鎌倉時代にこの地に入部したらしい。現地の石碑の刻文によれば、児玉氏行の子崇行が上野国甘楽郡小幡郷に入部して小幡氏を称したとされる。南北朝時代には白旗一揆に属して、武蔵野合戦などに北朝方として参陣して活躍し、後に鎌倉府の支配体制が確立すると関東管領山内上杉氏に属するようになった。小幡氏は、西上州に一族を広く分封して勢力を拡張し、上州八家の一つにも数えられるほど発展した。戦国時代になると、関東管領山内上杉氏の四宿老として長尾氏・大石氏・白倉氏と共にその名が挙げられている(『関八州古戦禄』)。その後、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、小幡憲重・信貞父子は1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信貞は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信貞は国峰城主に復帰した。その後、武田氏が箕輪城を攻略して長野氏を滅ぼし、西上州を制圧すると、武田氏重臣の内藤昌豊が箕輪城主となって西上州を統括した。小幡氏もその麾下で、西牧・南牧の産馬によって編成された小幡伝統の赤備500騎の騎馬隊を率い、武田軍団の一翼を担って各地を転戦、武田二十四将にも数えられた。しかし1575年、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、小幡氏の軍団も大損害を受けた。1582年、武田氏が滅亡して上野が織田氏の支配下に入ると、織田氏に服属し、上野に派遣された滝川一益の指揮下に入った。わずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、神流川の戦いで滝川氏を破った北条氏直が上野を手中に収めると、信貞は北条氏に従った。信貞は、沼田城攻撃などで活躍し、1590年の小田原の役では小田原城に籠城した。一方、城主不在の国峰城は子の信秀が守ったが、北国勢の藤田信吉に攻略された。戦後、信貞は信濃に閉居したが、小幡氏の赤武者を継承した井伊直政の尽力によって、徳川家康は信貞の養子直之を取り立てて安中野殿に1100石の知行を与え、小幡氏は徳川旗本に列して家名を保った。

 国峰城は、標高434mの城山に築かれている。山頂に築かれた山城部、中腹の御殿平と呼ばれる丘城部、麓の平城部という、大きく3つのブロックから構成された大型の複合城郭である。この構成は、現地解説板では「他に類例を見ない特異な構造」としているが、近場では高山城が類似した構造となっているし、中世5大山城に数えられる様な大城郭では、往々にして見られる構造なので、全く特異な構造というわけではない。どちらかと言うと、これほどの城にもかかわらず山上の曲輪群があまりに小規模で居住性のないことの方が特異である。
 平城部は、中ツ沢・国峰の谷と恩田地区の平野部から成り、谷部と平野の間に長さ200mの堀を穿ち、更に北方に外堀を穿って防御線を構成していた。現在は耕地化でほとんどの遺構が失われているが、わずかに外堀の一部が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、長く一直線の堀が明確に見られる。外堀の東西には南から北に向かって張り出した丘陵地があり(東のものは紅葉山と呼ばれる)、丘陵上に砦を築いて、外堀と共に最外郭の防衛戦を構成していたと推測される。
 丘城部は、城山から東北東に伸びる広い緩斜面に段々の広い平場群を築いている。最上段が御殿平で、その名の通り城主居館が置かれていたのだろう。現在は公園となっており、立派な石碑が建っている。その周囲の腰曲輪群や下方の平場はほとんど藪に埋もれてしまっている。最下段の曲輪は最も広い面積を有するようだが、民家の裏にあるので見ることはできなかった。丘城部は要害性を備えた上に、曲輪群も居住性があり、国峰城の中心的なブロックであったと考えられる。
 山上の山城部は、尾根上の狭小な曲輪群と南斜面の多くの腰曲輪群で構成されており、丘城部に対する詰城となっている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根上に曲輪群を配置し、要所を堀切で分断している。大手は東尾根にあった様で、東斜面に動線制約の竪堀が穿たれ、南腰曲輪群の南東部にも竪堀が落ちている。主郭西側の堀切は、南斜面に長い竪堀となって落ちているが、その両側に腰曲輪群が配置されている。これは信濃旭山城の構造によく似ている。西尾根の曲輪群は、尾根に沿って延々と伸び、途中、南の支尾根にも堀切と曲輪を築いている他、最西端のピークには西出丸を置いている。更にここから北尾根と南西尾根にも曲輪群が伸び、特に北尾根では最下方に横堀状の腰曲輪を設けている。この付近の遺構については、『図説 中世城郭事典』の縄張図が正確である。支尾根はいずれも傾斜がきつく、南西尾根は細尾根となっている。山城部は、比較的大きな竪堀がいくつも穿たれて、堀切もゴツいものが多いが、一方で主郭は小さすぎ、詰城以外の機能を持っていない。

 国峰城は、大きな城であるし、西上州の拠点的城郭で、北条氏の最大版図を示した地図に主要城郭として必ず記載されている程であるが、遺構面ではやや見劣りする。北条氏の主要城郭では最後まで未訪城となっていた城であったので期待していたが、少々残念である。
 尚、この城山では三角点が山頂ではなく、何故か北尾根をやや降った曲輪にあることを付記しておく。
東尾根の堀切と土橋→IMG_9374.JPG
IMG_9483.JPG←西出丸北尾根の横堀状腰曲輪
丘城部の御殿平→IMG_9294.JPG
IMG_9275.JPG←平城部の外堀跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.214588/138.896949/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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