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平山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6810.JPG←妙見社裏の大土塁
 平山城は、長谷部城とも呼ばれ、一時期千葉氏の居城となったと言われている。15世紀の後半、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠の対立から、享徳の大乱が勃発した。その余波で千葉氏内部に内訌が生じて千葉宗家が滅ぼされ、その後は庶流の馬加康胤の系統が千葉氏を称した(後期千葉氏)。この馬加系の千葉宗家を継いだ輔胤(康胤の庶長子とされる)が平山城を取り立てて居城とし、その子孝胤の時に平山城から本佐倉城に居城を移したらしい。しかしこの辺りの歴史は、当時の大乱による混乱もあってか、諸説あっていずれが正しいか明確ではない。ちなみに平山城周辺には家臣の屋敷伝承地が散在していることから、一時期とは言え千葉宗家の居城として整備されていた様だ。本佐倉城移城後の平山城の歴史は不明である。

 平山城は、都川支流の北岸にそびえる標高43m,比高23m程の長方形をした台地突出部に築かれている。城の主要部は民家奥の畑地であり、入口の家の方に断って入る必要がある。そこのお婆さんに城跡探訪ということで話をしたが、どこでもそうなのだが、しっかり遺構がある所に限って「何もない」と力説されるのは何故なのだろう?平山城もそうで、妙見社の背後や台地辺縁部など、立派な大土塁が各所に確認できる。かなり広大な城で、畑の周りによくこれだけ土塁が残っていたものだと感心する。ただ城郭遺構が断片的なので、往時の縄張りがどうなっていたのか、想像するのが難しい。台地中央には周囲を土塁や切岸で囲んだ方形の広い空間があり、周囲より高くなっていることから、ここが主郭と想定される。その南西に広がる畑地を、ここでは仮に二ノ郭とする。二ノ郭には前述の妙見社があるが、その背後の大土塁は何の役目を果たしていたのか、わかりにくい。一方、二ノ郭の南西端には南と西の二辺を土塁で囲んだ一段低い曲輪があり、その脇に二ノ郭隅櫓台の土塁が繋がっている。そのには腰曲輪があり、前述の櫓台下に竪堀状の城道があり、途中に木戸口らしい遺構も見られる。しかしこの城道から上の二ノ郭への動線が切れてしまっている。また二ノ郭の南東角には小堀切と土壇を有した小郭が築かれている。二ノ郭の東辺にも土塁が散見される。主郭は南東側に大土塁を築き、虎口が残っている。この他、周囲には腰曲輪らしい平場が広範囲に残っているが、民家や畑への改変がされていて、どこまでが遺構なのかは微妙である。平山城は、居館的色彩の強い城で、本佐倉城と比べると戦国期以前の素朴な縄張りの城であったことが窺える。
主郭周囲の大土塁→IMG_6839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.571602/140.192714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

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