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城の腰城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6719.JPG←大堀切
 城の腰城は、歴史不詳の城である。伝承では、板倉筑後守が築城したと言われているが、筑後守は1638年の島原の乱で戦死した板倉内膳重昌の次男重直と比定されており、1639年にこの地を知行している。そうなると元和の一国一城令の後に、わざわざ中世城郭的な城を築いたことになり、時代背景が合わない。中世城郭の色彩の濃い城の造りと、千葉氏の勢力圏の真っ只中の地域であることを考えれば、千葉氏かその家臣が戦国期に築いた城と考えるのが自然であり、一説には都川支流に点々と所在する城山城立堀城平山城と共に連携して機能した城ではなかったかとも推測されている。

 城の腰城は、都川支流の北岸に突き出した比高15m程の段丘上に築かれている堀切で分断した城で、単郭ではあるが曲輪の面積は大きい大規模な城である。北限の堀切も規模が大きく、長さ100m以上に渡って幅15m、深さ10m程の堀が穿たれている。残念ながら主郭部は千葉東金道路が貫通して、大きく破壊されてしまっているが、東金道路脇から主郭の南端部に登ると、道路の向こうに見える城域北限までかなりの距離があり、大きな曲輪を有した城であったことがわかる。また前述の堀切は藪化しているものの、ほぼ無傷で残っているので、遺構の規模をよく推し量ることができる。堀切は一直線ではなく、横矢掛かりの折れが見られ、塁線が中央部で内側に折れ込んでいる部分に虎口が辛うじて残存している。虎口から堀切に向かって、土橋状に土塁が伸びている様であるが藪でわかりにくい。また堀切北側には土塁の張り出しも見られる。堀切の主郭側には土塁がそびえ、東西両端部は物見台となっている。この他、残存する主郭南端部の東側には低土塁も確認できる。城の腰城は、その規模から考えて、軍団の中継基地か兵站拠点であったことが窺われ、千葉氏やその重臣の原氏、或いはそれらを傘下に収めた小田原北条氏などによって使われた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600413/140.157781/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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