So-net無料ブログ作成

丸山館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3709.JPG←大館南側の空堀
 丸山館は、大崎天文の内乱の際に、大崎義直と伊達稙宗が岩手澤城(後の岩出山城)攻撃の本陣を置いた城である。一名を照井城とも言い、元々は平安末期の承安年間(1171~75年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が築いて居城としたと言われている。そして1189年の源頼朝の奥州合戦の際には、高直は鎌倉勢の先発軍である仁田四郎忠常と照井城に立て籠もって戦い、城は攻め落とされ、高直は討死した。その後この城が歴史に現れるのは、前述の通り大崎天文の内乱の時である。内乱の経緯については、泉沢城の項に記載する。1536年、独力での内乱鎮定ができなくなった大崎義直は、伊達稙宗に援軍を要請し、これに応じた伊達勢と共に叛乱勢力の拠点となっていた古川城を攻め落とした。反乱軍の中心であった新田安芸頼遠は岩手澤城に逃れて立て籠もった。大崎・伊達連合軍は岩手澤城攻撃の為、丸山館に2ヶ月に渡って本陣を置き、出羽の最上義守の調停でようやく岩手澤城を開城させて反乱を鎮定した。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易され、葛西大崎一揆を経てその旧領が伊達政宗に与えられると、秀吉の命により岩出山城に居城を移した。この時、丸山館を改築して東御所と称し、政宗の母の居館とした。関ヶ原合戦後に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、丸山館は廃城となった。

 丸山館は、蛭沢川西岸の標高77m、比高30m程の独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、小館・中館・菱館・大館・空館から成っていたとされる。以前は南西麓に登り道があったようだが、現在は深い薮に埋もれており、南西からの登城は不可能である。その為、少々斜度がきついが薮の少ない北東斜面から直登した。主郭に当たるのが大館で、五角形の曲輪で周囲を土塁で防御しているが、郭内は藪で進入困難である。大館は、北東辺は山の急な斜面に面しているが、それ以外の周囲には空堀が穿たれ、その周りに曲輪が配置されている。どれが小館等の曲輪に相当するのかは情報がなく明らかではないので、ここでは大館北西の曲輪を西郭、大館南東の曲輪を南1郭、その南の曲輪を南2郭、大館東の曲輪を東1郭、その南の曲輪を東2郭と呼称する。大館と南1郭の間には土橋が架かり、また南1郭から東2郭へも土橋が架かっており、城内で確認できた土橋は合計2ヶ所である。東1郭は大館側だけに土塁を築いた三角形の曲輪となり、北端は隅櫓台となっている。大館の南東は空堀の十字路となっており、堀底を東に下っていくと東麓の民家に通じているようなので、堀底道として機能していたことがわかる。東2郭は南西角部に大きな櫓台がある。大館の南西側は比較的薮が少なく、空堀も見易い。空堀外側には土塁と腰曲輪が築かれ、中央部には竪堀状の虎口が見られる。この腰曲輪は、大館南北の空堀をそのまま掘り切った竪堀で南北を区画されている。大館の西には空堀を挟んで西郭があるが、ここも藪で進入困難である。大館と西郭の間の空堀が北斜面まで掘り切った先には、細尾根状の物見台が突き出しており、その脇には竪堀が落ちている。大館北東側の急斜面には帯曲輪が築かれ、大館に向かって竪土塁状の城道が登り、虎口が築かれている。帯曲輪の南東端部には虎口が築かれ、竪堀状の城道となって斜面を下っている。以上、主郭である大館の周囲を中心に遺構を探索したが、遺構はよく残っているもののかなりの部分が深いヤブに覆われていて、踏査が容易ではない。震災復興が続いている宮城県では仕方のないことであるが、この未整備の状況は残念というほかはない。
南1郭の東側切岸→IMG_3698.JPG
IMG_3735.JPG←北端に突き出した物見台
1975年の航空写真と曲輪名→航空写真1975.jpg
(画像クリックで拡大)
〔写真出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス〕

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪が酷いので☆1つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.630349/140.879166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント