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小野御所(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2589.JPG←北郭の低土塁
 小野御所は、小野館とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の初代斯波家兼が築いた大崎五御所の一つと言われている。しかし大崎氏は奥州仕置で改易されてしまった為、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の本拠がどこであったのか、必ずしも明確ではない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、小野御所の他にも師山城中新田城名生城などが居城であったと言われ、これらをまとめて大崎五御所などと言い伝えられているが、諸説あってはっきりしない。戦国期には名生城が本拠であったとの説が有力である。但し、戦国前期の天文年間(1532~55年)に大崎氏の内乱鎮圧に力を貸した伊達稙宗が、次男小僧丸(後の大崎義宣)を大崎高兼の養嗣子として送り込んだ時には、小僧丸と結婚した高兼の娘梅香姫は絶世の美女と言われ、母と共に小野御所に住んだと言われる。これが正しいとすれば、戦国期にも大崎氏の重要拠点の一つとして機能していたのだろう。

 小野御所は、低地帯に張り出した比高10m程の台地上に築かれている。現地標柱によれば、往時は周囲を「千枝の湖」と言う水を湛えた池沼で囲まれた屈指の要害であったらしい。梅香院の東の台地が「内館」と呼ばれる城館の中心部で、南北に曲輪があり、更に南に高台となった外郭がそびえている。仮に北から順に北郭・中央郭・外郭と呼称すると、北郭には低土塁が築かれ、更に北西側下方を腰曲輪で防御している。堀切を挟んで中央郭があるが、真ん中を道路が切り通し状に貫通している。おそらく道路南の部分まで曲輪が繋がっていたと推測される。中央郭は西側に大土塁が築かれ、中央郭の背後は台地を削り残した高さ8mもの垂直に近い切岸となっている。その上に外郭がそびえている。外郭は東西に長く伸び、内館を囲むように置かれている。外郭の外周にも低土塁が築かれ、西端には櫓台が張り出している。南面にも腰曲輪があり、現在民家がある部分も曲輪であったと思われる。民家入口には竪土塁状の土盛が見られる。即ち内館は、南は高台の外郭に囲まれ、北側は池沼で防御された要害であったと推測される。尚、内館の東西には東舘・西舘の地名が残り、外郭土塁の東端部は道路を塞ぐ様に突出しており、木戸口となっていたのかもしれない。宮城県遺跡地図を見ると西にやや離れて普月館という城館があるが、小野御所の西方を防衛する外郭として、大崎氏の家臣が居住したものであろう。
中央郭西側の大土塁→IMG_2619.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.623308/140.995166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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