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寺池城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9675.JPG←本丸前面の土塁らしき土盛
 寺池城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、登米要害と呼ばれ、登米伊達氏(白石氏)の居城である。しかしその創築は不明で、葛西氏時代に築かれていたとも言われるが、寺池葛西氏の本拠は南の保呂羽楯であったとする説が有力で、寺池城が実際いつ築かれたのかはよくわかっていない。葛西大崎一揆の後、その旧領が伊達氏の支配下に入ると、1604年に白石宗直が水沢から寺池城に移封となり、その居城となった。元和の一国一城令の後は城の名を去り、登米要害と称された。白石氏は後に伊達姓を賜り、以後伊達一門・登米伊達氏となった。4代宗倫の時、隣接する涌谷伊達氏との間で新田開発による境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 寺池城は、北上川西岸の南北に長い丘陵上に築かれている。その地勢と縄張りは、伊達騒動で対立した涌谷伊達氏の涌谷城と、奇妙なほど似ている。丘陵上は数段の曲輪に分かれ、北の最上段に本丸を置き、その南に二ノ丸を配置していた。本丸は現在畑と民家となっており、二ノ丸との間は切岸だけで区画されている。背後に当たる北側には谷戸を転用した堀切があり、前面には土塁跡と思われる土盛が見られる。二ノ丸は3段ほどの曲輪に分かれ、最上段には裁判所、中段に民家、下段に懐古館が建てられている。二ノ丸の南から西側にかけても平場が広がっており、現在は公園となっている。各段を分ける切岸は明瞭であるが、近代の改変が多く往時の遺構はかなり失われている。二ノ丸周囲の平場(公園)には石組みの井戸跡が残っているが、この井戸に限らず城内に何らの標柱も解説もないので、キャッスラー以外の人にはどこが城なのだか何が遺構なのだか、さっぱりわからないだろう。城のある登米町は「みやぎの明治村」として観光地になっているが、もう少し寺池城にも愛情を注いでほしいと思う。
本丸北側の堀切跡→IMG_9710.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657105/141.282399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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