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白山城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7133.JPG←平場周囲に残る土塁
 白山城は、名刹として名高い書写山圓教寺の境内に、1578年、羽柴秀吉が播磨平定戦の最中に一時期本陣を置いた陣城である。その前年の77年、秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。御着城主小寺政職の家老の姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田方に付くことを政職に進言し、更に播磨に入った秀吉に姫路城を明け渡し、播磨の諸豪族にも織田方に付くことを説いて回っていた。その甲斐あって、短時日の内に播磨をほぼ平定し終えた秀吉であったが、翌78年2月、突如三木城主別所長治が織田方から離反し、これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。周囲を敵性勢力に囲まれる形となった秀吉は、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、山上の十地坊に白山城を築いて本陣とした。これは、陣を構えるに好適な要害であり、また多数の兵の収容が可能で兵糧の確保が容易な大寺院であった為とされる。その後、戦況の推移に従って平井山に本陣を移すまで、白山城が秀吉の本陣となった。
 尚、圓教寺側ではこれを「秀吉の乱入」と称している。それは、秀吉が守護使不入の圓教寺の荘園27,000石を全て没収し(後に500石のみ施入された)、摩尼殿の本尊・如意輪観音像など多数の仏像・寺宝を奪い取り、自身の本拠近江長浜城に持ち去ってしまったからである。また兵たちによって僧坊は壊され、寺域は大いに荒らされた。寺からすれば、いわれのない暴挙であったろう。この様に、織田軍の各地での暴虐は、戦国乱世の常識からしても常軌を逸した破壊的なものであった。

 白山城は、圓教寺の大講堂裏の書写山山頂部に築かれている。ここは白山権現が祀られていることから白山とも呼ばれている。前述の通り、往時は十地坊と言う僧坊があった。平坦な平場となっており、現在は給水施設が建っているので改変を受けているが、平場の周囲には土塁の跡が明瞭に残っている。また土塁の外側周辺にも、幾つかの平場群が確認でき、虎口状の地形も見られる。しかし秀吉が率いていた兵数は万単位であり、とても山頂の平場群だけで収容することはできなかったであろう。実際、書写山ロープウェイの山上駅から圓教寺まで登る途中、土塁で囲まれた平場や段曲輪状の平場が散見され、山内全域に兵が駐屯していたと考えられる。山頂からは再興赤松氏の居城置塩城が望め、播磨中世史の転機となった歴史的な場所である。
圓教寺への途上に見える土塁囲郭→IMG_6982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.893209/134.655390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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