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二条城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2939.JPG←本丸周辺の水堀と石垣
 二条城は、上洛の際の将軍の宿所に当てるため、徳川家康が京に築いた城である。関ヶ原合戦後、実質的に天下を手中に収めた家康は、1601年に西国の諸大名に造営費用と普請役を課し、所司代板倉勝重を造営総奉行として翌1602年に二条城の築城を開始した。同年、家康は征夷大将軍の宣下を伏見城で受け、1603年、できて間もない二条城に入って御所に参内して「拝賀の礼」を行った。続いて、二条城で重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。1611年、家康は本来主筋に当たる豊臣秀頼を二条城に招き会見を行った。この時、秀頼の側にはその身を守るため加藤清正が付き従った。豊臣家を滅ぼした両度の大阪の陣では、大御所家康と2代将軍秀忠は、二条城に駐在して幕府方の本営となった。1619年、徳川和子(秀忠の娘)の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修が行われた。1624年、後水尾天皇の行幸に備えて、大改修が行われた。それまでの本丸は現・二ノ丸の位置にあったが、城域を西に大幅に拡張し、現在の縄張りとなった。現在残る二ノ丸御殿も基本的にはこの時のものである。1626年、3代将軍家光は、改修成った二条城に後水尾天皇を迎え、5日間に渡って各種の宴が催された。この時が二条城の最盛期で、その後、後水尾天皇が上皇となると行幸御殿は後水尾院の御所に移築され、また多くの建物が解体撤去された。1634年の家光の上洛以降、230年間将軍が二条城に入ることはなく、その間、落雷で天守は焼失し、また大火で本丸御殿や隅櫓などが焼失した。幕末の動乱期になると、14代将軍家茂の上洛の為、1862年に荒れていた城の整備・修復が行われ、63年に家茂が上洛して二条城に入った。1866年、徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けた。翌67年10月、15代将軍慶喜は二条城の二ノ丸御殿大広間に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還を行った。慶喜が大坂城に撤収すると、二条城は朝廷に接収され、幕府の城としての役目を終えた。

 二条城は、世界遺産にもなっている有数の観光地でもあり、ここで多くを語る必要はないだろう。環郭式の総石垣の平城で、国宝・重文建築が多数残っている。二ノ丸は幕府の権威を示す豪壮華麗な様式で、特に唐門は近年修復されて素晴らしい姿を現している。一方で、二ノ丸御殿内の障壁画や天井画などは劣化が進んでおり、今後の修復が望まれる。本丸は、幕末の財政難の影響で、出枡形門からして質素である。二条城は現存遺構が多すぎて、2時間掛けても外周までは回りきれなかった。また、隅櫓・天守台・西門枡形など、周辺の絶好の撮影スポット付近が立入禁止で近づけない所が多く、植栽に邪魔されて綺麗に撮影できず、消化不良気味になってしまったのは残念だった。何年先になるかわからないが、再訪必須だなぁ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.014032/135.747671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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