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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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