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鹿島城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0453.JPG←主郭切岸と空堀
 鹿島城は、大掾氏の庶流鹿島氏の歴代の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が鹿島郷に土着して、鹿島三郎と称して鹿島氏の祖となった。成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住んでいたが、後に鹿島神宮西方の吉岡に鹿島城を築いて本拠を移した。以後、鹿島氏歴代の居城となった。政幹は源頼朝から鹿島神宮の神領中の非違を検断する鹿島神宮総追捕使に任じられ、大掾氏の有力支族として勢力を拡大した。また鹿島氏からは、成幹の次兄忠幹に始まる行方氏と共に、鹿行地域に広く一族を分封して徳宿・烟田らの諸族を輩出し、後に「南方三十三館」と称される国人衆の多くは鹿島氏・行方氏の庶家であった。南北朝時代になると、鹿島幹寛・幹重父子は、宗家の大掾氏と共に北朝方に付き、佐竹義篤に従って北畠親房が拠る神宮寺城の攻撃に参加するなど常陸各地に転戦し、1352年には足利尊氏に従って、幹重は武蔵野合戦に参陣した。1368年、幹重は鹿島惣大行事職に補任され、以後鹿島氏当主が惣大行事職を世襲した。戦国時代に入ると、鹿島氏は家中において内訌が生じるようになった。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、暴政を行った為重臣達は義幹を追放し、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏を頼って逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、義幹は討死にした。その後、義幹の孫治時は佐竹氏に従い、鹿島城を回復した。治時の没後、鹿島氏は兄弟相争う内訌を3度にわたって繰り広げ、更に江戸氏や千葉氏など周辺勢力の介入を許し、鹿島氏の勢力は衰退した。1590年の小田原の役では、鹿島氏は大掾氏一族と同様に豊臣秀吉の元へ参陣しなかった為、役後その所領は佐竹氏に委ねられた。佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した鹿島清秀ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。鹿島城も、清秀の妻や重臣達が城に立て籠もり半月ほど徹底抗戦したが、佐竹勢に大砲を撃ち込まれて落城し、以後廃城となった。その後、清秀の遺児伊勢寿丸(後の幹連)は落ち延びて生き残り、徳川家康によって再興を許されて古の惣大行事職を継いだ。こうして鹿島氏は武家としてではなく、神宮に奉仕する家門として存続した。

 鹿島城は、北浦東方の比高30m程の台地辺縁部に築かれている。主郭は現在城山公園となっている。改変を受けているが、外周に土塁らしき跡が残り、主郭周囲の空堀もはっきりと残っている。主郭周囲の腰曲輪と思われる平場も確認できる。主郭の周りに広がる台地が二ノ郭に当たるが、市街化が激しく、遺構はほとんど湮滅している。僅かに外堀跡が車道などとなっているだけである。しかし主郭の広さを見るだけでも、かなり規模の大きな城であったことが推測でき、往時の鹿島氏の勢威の強さを窺うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.968264/140.622296/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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