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玉造城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0225.JPG←主郭の堀切
 玉造城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、玉造氏の居城である。平安末期の治承年間(1177~80年)に、行方氏の祖、行方宗幹の4男幹政がこの地に分封されて玉造氏を称した。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していた。中でも玉造氏は行方郡の西端に位置した為、行方氏一族の西方の守りを担い、手賀氏・鳥名木氏らの庶家を輩出した。しかし時代が下ると一族相争うようになり、応永年間(1394~1427年)の上杉禅秀の乱の際には、玉造氏8代幹綱は鎌倉公方足利持氏方に付いて、禅秀方の島崎長朝に討たれた。玉造城は、室町中期の寛正年間(1460~65年)で、戦国後期の永禄年間(1558~69年)から天正年間(1573~92年)に再構築されたと考えられている。この頃には、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、玉造氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した玉造重幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。玉造城も佐竹氏家臣大窪兵蔵久元に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。

 玉造城は、梶無川東岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。丘陵の上に、3つの曲輪が高台となって築かれた連郭式で、外周に広く腰曲輪を巡らしている。腰曲輪は民家などが並んでいるが、北側斜面に横堀ラインが車道の東西に残っている。主郭は民家裏の高台で、虎口や土塁・櫓台が残るが、内部は冬でもガサ薮がひどく、確認できない。車道となった堀切を介して二ノ郭が続いているが、二ノ郭は梅林となっており、折しも梅が満開であった。更に堀切を介して三ノ郭に至るが、ここの堀切は浅く、埋められているのかもしれない。三ノ郭は畑などで、2段の平場に分かれており、北斜面に横堀、東側に外堀が確認できる。一応、城の形態は概ね残っていて往時の縄張りを追うことはできるが、民家が立ち並んでいたりしてあまりパッとしない印象の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.109640/140.416517/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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