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烟田城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_10033.JPG←主郭の空堀と土塁
 烟田城は、徳宿氏の庶流烟田氏の居城である。徳宿城の項に記載した通り、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族の更に分流に当たり、鎌倉時代に徳宿氏2代秀幹の次男朝秀は烟田村他3ヶ村に分封されて烟田氏の祖となった。以後、鹿島郡北部の有力豪族となった。南北朝時代には、烟田時幹は佐竹一族の小瀬義春に従って南朝方諸城の攻撃に参加するなど、終始北朝方として活動した。また室町時代には、鹿島氏を惣領家とする一門として一貫して鹿島氏に従って活躍した。1486年には、徳宿氏が水戸城主江戸通雅に攻められ、徳宿城は落城して徳宿氏は滅び、援軍として参戦した烟田入道父子も討死した。戦国後期になると、惣領の鹿島氏家中で内訌が起こり、烟田氏も巻き込まれた。またこの頃には江戸氏の南下に対する備えもあって、烟田城を整備拡張した。また烟田城の周辺に、塙氏や井川氏ら家臣団に「烟田八館」と呼ばれる城館群を築かせ、防衛力の強化を図った。一方、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、烟田氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した烟田通幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。烟田城も徹底抗戦したものの落城し、以後廃城となった。

 烟田城は、比高20m程の台地先端部に築かれている。城内はかなり改変を受けているため、はっきりしない部分もあるが、大きく4つの曲輪で構成されていたらしい。主郭は新宮小学校に変貌しており、先端には氷川神社が建っている。神社裏手に土塁と空堀が残っている。二ノ郭は主郭の西側先端部にあり、民家と畑になり、一部に土塁らしい土盛が残る。三ノ郭は主郭の北に位置し、畑や山林となっており、2段程の平場に分かれ、空堀や土塁が一部に残存している。遺構の状態は、この三ノ郭が最も良好である。その東側に西光院郭と呼ばれる四ノ郭があり、墓地の北側や寺の東側に土塁・空堀が残る。この他、台地北側や南側の斜面に腰曲輪が残っている。遺構は部分的にしか残っていないが、想像していたよりも遺構が良好であった。
三ノ郭に残る空堀と切岸→IMG_10061.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.147440/140.525136/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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