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金山城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2566.JPG←二ノ丸にそびえる高石垣
 金山城は、藩政時代には金山要害と呼ばれ、伊達氏の支城である。元々は、永禄年間(1558~69年)にこの地を押さえた相馬氏の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したと言われている。その後、1576年以降に伊達輝宗が伊具郡奪還に乗り出し、伊達・相馬両家の間で激しい攻防が繰り返された。1581年には伊達政宗がこの地を巡る戦いの中で初陣を飾った。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城(小斎城・金山城・丸森城)を相馬氏から奪還することに成功した。輝宗は、おそらくこの和睦成立を見届けて、若い政宗に家督を譲った。政宗は、この戦いに最も手柄のあった家臣の中島宗求を金山城主とした。1588年には、相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に新たな石塁・土塁・堀切などの防御施設を設けて、一段と強固な構えに改修した。奥州仕置や江戸時代以降も中島氏が歴代の城主を務めた。藩政時代には一国一城令により城の名を去り、江戸幕府に備えて伊達領内に取り立てた二十一要害の一、金山要害と呼ばれたが、そのまま存続して幕末まで至った。

 金山城は、標高117m、飛行96mの独立丘陵の北峰に築かれている。城は公園化されて整備されているため、遺構がよく確認できる。山頂に本丸を置き、その外周に腰曲輪状のニノ丸を配し、周囲の支尾根に馬蹄状曲輪を築いた縄張りとなっている。馬蹄状曲輪は、いずれもニノ丸との間に堀切が穿たれているが、城内通路も兼用した堀切は比較的浅く、それほどの防御性を持っていない様に思われる。ニノ丸には、高石垣がそびえていて異彩を放っており、この城のシンボルともなっている。この石垣は、長方形の比較的小さな石を一直線の勾配で積み上げたもので、独特な石垣となっている。この他にも、三ノ丸の大手埋門跡や北出丸の埋門跡などに石垣の残欠が散在しており、近世の改修の跡を窺わせている。また、「家中」という南の出丸との間には、枡形虎口らしい跡が見られるが、それ以外の虎口は平易な造りである。あまり技巧性は感じない城であるが、中世山城の雰囲気を色濃く残した近世城郭で、高石垣など見所が多い。尚、背後に続く丘陵には黒森山砦が築かれている。
二ノ丸と堀切先の兵具蔵曲輪→IMG_2540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.897157,140.802691&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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